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日本には深い人間哲学が [2014年07月25日(Fri)]

日本には深い人間哲学が
 =それが究極のマインドフルネスの 方向を示唆

 NHKの「こころの時代」で、華厳経の紹介がありました。20日と26日でした。  善財童子が仏道の高い境地をめざして旅に出て、50人あまりの師「善知識」に出会い、自 らを見つめ学んでいきます。迷いながらも歩みを止めることのなかった善財が最後に行きつ いた境地に、待っていたものとは、仏教でも最高の境地と言われており、「一即一切・一切 即一」で表されています。 西田幾多郎がいう「一即多・多即一」と同じではないでしょうか。

 自分が見ている、これが本当の自分だと意識するかぎり、それは真の自己ではない。 そのように意識しているものがさらに奥にあるから。 自己のもっとも深いところは絶対無で、自己、自我がなく対象的に見られるのでなく、すべてのも のがそこから生まれる。自我もそこから生まれる。絶対の一者がそのまますべてのもの、自己も生み出す。すべてが絶対的一者の表現。日本の多くの芸術家が同じようなことを表現しているの ではないかと思われる作品があります。
 金子みすゞの境地も大変似ています。  「世界は神さまのなかに」は、世界という現象は、このみすゞの自己の根底の絶対的一者 の中にある、と読めます。「神さまは、 小ちゃな蜂のなかに」。自己の根底の絶対的一者が 、蜂になって現れている。
 金子みすゞは、大漁だと浜で喜ぶ人間と海の中で葬式する魚という広く深い世界を見る ことのできる人でした。

 専門家が自分の価値観で自己満足するのではなくて、それではすまないで苦しむ人が いる、自分の組織の外を見よ、苦しむ人を救え、それができないならば最高の仏教ではない、といって、 初期仏教を批判した大乗仏教でした。その最高の哲学が華厳経にあると仏教学者が指摘 しています。日本の多くの芸術家、西田幾多郎に似ているのです。

 すべての人の根源(絶対無、人格底、平常底、仏性・・・)は、自己がなく、生死なく、神仏なく、善悪がなく、差別なく、過去未来なく、責めるものなく、事実そのままだというのですから、深刻な苦で悲しむ人が救済さ れる可能性があるようです。虐待、DV、性犯罪の被害にあって人格が否定された人、自己評価が 極めて低い人、自己の死が近いと苦しむ人、大切な人に罪を犯したと苦しむ人、・・・。こうした自己存在そのものの苦悩、思考の対象にならない自己存在というものの苦悩。

 日本こそ、深いマインドフルネスを研究できそうな環境にあります。まだ、 宗教的目標(組織共通の悟り=僧侶、学者によってまちまち)ではなく、現実の社会の個性的な苦悩(痛みの克服、うつ病、パーソナリティ障害など)の解決を目的、目標とするもので、 <実践方法を言語で説明するマインドフルネス>(宗教的方法でなく現代の科学として認められるために) として、取りくんだ前例がなく、手法が定型化されておらず容易な再現性がないためエビデンスがありません。海図(華厳経、西田哲学など)はあるが、最終目的地は示され ているが、途中の航路の方向、障害、安全な航路が抜けているような感じです。
 宗教はすでにあるのだから、宗教の手法や目的を再現する必要はありません。 現代人の苦悩、問題を解決するための方法はどうあるべきか、科学的なエビデンスを求めたいのです。くりかえしますが、宗教と同じものならば、マインドフルネスは必要がありません。宗教組織に行けばいいはずですから。彼等が専門家です。医師、心理士の出番はないでしょう。宗教からはいり、宗教に学び、宗教から離れて、科学、すなわち精神医学、予防医学、心理学、看護学、教育などにならなければなりません。そう思います。
金子みすゞのことは他にも記事があり、ここに目次があります。
Posted by MF総研/大田 at 18:46 | 新しい心理療法 | この記事のURL