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究極のマインドフルネス [2014年05月31日(Sat)]

究極のマインドフルネス

 西田幾多郎は、私たちが自分の真相を知らないと言います。

 私たちには意識上に表現されるものしか見えていませんが、自分の奥底で知らない動 きがあるというのです。 時が消えて時が生まれています。時間は一直線に流れているだ けではなく、時が消えて過去もなく未来もない瞬間があります。そういうのです 〔6:315〕。(西田幾多郎全集、旧版、6巻315頁を表します)

  自己がなくなり、ということは自己が死に、自己が生まれるということが起きています。自 己が消えて自分の死という意識はありません。そして次の瞬間自己と世界が現れて、過去 現在未来の時が現れます。 〔6:313,11:379,〕

 自分は絶対に接し、絶対に包まれていて、自分の底で対象的に考えられた神もなく仏 もないので、神からも責められていません〔6:148〕。 自己が消えていて神もありません。し かし全くの空虚ではなく、あるものがあるがままにあります〔5:182〕。
 私たちの底では常に、真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もないのですから、究極の無評価、マインドフルネスと、究極の苦の消滅、アクセプタンスが起きています。
     「宗教的意識においては、我々は身心脱落して、絶対無の意識に合一するのである、 そこに真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。宗教的価値というのは価値否定 の価値である。価値否定の価値といえば、背理の如く思われるかも知れぬが、いわゆる 価値というのはノエマ的方向に考えられた対象的価値である。これに反し、ノエシス的方 向に無限の超越を考え得るならば、すなわち存在価値というものを考え得るならば、かか る方向にあるものは、いつも当為的価値の否定の立場に立つものでなければならない、 存在価値は当為的価値を否定するごとに高まるのである。 例えば、主語となって述語と ならない基体より、かかる主語的限定を否定する意識的自己は一層深い実在であり、そ の中でも知的自己より意志的自己は一層深い存在価値をもつと考え得るであろう。」 〔5:177〕
 私たちは、自分の価値実現のために一定の時間、直線的に行動しているように見えま す(直線的限定と言っています)が、実は根底で、上記のように時が消え、自己が消えて いるといいます。これを円環的 限定と言っています。
 西田哲学は私たちの深い真相を論理的に説明しようとしています。 今、世界中でマインドフルネスが盛んに研究されていますが、おそらく日本に、究極のマ インドフルネスがあるのではないかと思います。 欧米の人は論理的に考える傾向があるので、マインドフルネス心理療法者が西田哲学に着目すれば、ここまでのマインドフルネスを開発してくれるのではないでしょうか。深い自己はフランクルも言っています。一人類教になるべきであると。
Posted by MF総研/大田 at 21:10 | 今ここに生きる | この記事のURL