CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«宗教活動とマインドフルネス | Main | 究極のマインドフルネス»
2冊目の日本的マインドフルネスの本 [2014年05月30日(Fri)]

2冊目の日本的マインドフルネスの本

 実は、ここ2週間、7月に出版される2冊目の本の執筆に追われていました。 ようやくピークを過ぎました。でも、まだ来週もあります。
 佼成出版社からの本が意志的自己レベルの日本的なマインドフルネス精神療法でした 。これは、マインドフルネスのうちでもうつ病、不安障害などを治療する領域の本 です。
 2冊目の本は、叡智的自己のマインドフルネスの入門書です。 (出版社は別なところです)これも専門家向けではなく、一般向けにやさしく書かれています。西田哲学の原文の引用文も削除していますので、叡智的自己レベルの支援者になる人にはもっと詳しいテキストが必要になるでしょう。
 叡智的自己、自他不二的の自己は、西洋哲学にないものです から、まあ、世界で最初の(!!)の叡智的自己のマインドフルネスでしょう。もう病理レベル ではありません。襌のように深い自己を探求するのですが、まだ宗教レベルには達しません。 宗教者に限らず成人のすべてが実践していただいて良いような内容のマインドフルネスです。やさしく書いてありますので。
 さらに、この先の、人格的自己レベルのマインドフルネスが考えられます。自己を脱落するというレベルです。いつか、本にしたいと思いますが、かなり難しそうでできるかどうかわかりません。

 本の追い込みで<ブログ>もお休みしています。そこで、 最終章かあとがきに書こうかとしているところの一部をご紹介します。 次のようなことです。叡智的自己のマインドフルネスも究極ではないということです。まだ変更される可能性がありますが。

2冊目の本の最終章

 全世界がマインドフルネスを探求しており、いずれは、外国のマインドフルネス者によって宗教レベルの深いマインドフルネスに目が 向けられるに違いありません。日本には究極のマインドフルネス、アクセプタンスがあった のです。

 この究極のマインドフルネスについては、叡智的自己とは深い断絶があります。自己が残っ ている叡智的自己にはありません。その叡智的自己が行うことを 自己が全くないという自覚で行うことになります。自己を脱落し、自分の価値実現が自分の価 値実現でない、世界の価値実現のものになることだと思います。その方向の理論とその方法の提案は将来の マインドフルネス研究者の課題です。
 宗教が公的な場所で敬遠されて、多くのひとが宗教に警戒感を持つようになってしまい ました。そういうものにならないように、歴史的にマインドフルネスが必要な時代になったの だと思います。 公的な場所でも学校でも問題ないものとされ、警戒感をもたれないマインドフルネスが開 発されてほしいと思います。これから世界中のマインドフルネス研究者が数十年、百年か けて研究するかもしれません。
 残念ですが、今はこう言っておきます。叡智的自己は、自己の価値を実現するとして自 己を強固に持っていますので、叡智的自己レベルの自己洞察法(SIMT)は決して宗教で はありません。自分が(と、自分が自分がという自我が残っている)自分のいきがいを社会の現場で実現していくためのマインドフルネ スです。自分が残っている叡智的自己のマインドフルネスは、宗教ではありませんから、安心(?)してすべて の領域で活用研究をしていただきたいものです。そして、次の段階の、公的な場所でも行うことができ て警戒もされない人格的自己レベルのマインドフルネスを研究開発していきたいものです 。それは絶対に触れて自己の脱落ですから<宗教的>ではありますが、宗教とは言わないでいいのかもしれません。神秘的 でもなく、信じるしかないという手法を用いないからです。西田哲学で説明しているからです。人格の問題(傷ついた、死ぬ、など)で苦悩する人も多いのですから、できればあるほうがいいと思います。
 西田幾多郎は個人の成立を説明しえたと評価されます(*注)。 全人類に共通で最も根源的で何をなすかという当為価値によらず、ただ存在するだけで 価値がありながら、それでいて、しかも唯一の個性的なものとして現れるのが個人であり人 格と思われますが、そのありようを説明したのでしょう。そのようなありようを西田は人格的自 己と呼びます。人格的自己のマインドフルネスが可能なのか研究する価値があります。
(*)『西田幾多郎』永井均、NHK出版
Posted by MF総研/大田 at 19:22 | 今ここに生きる | この記事のURL