CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«6月は日程が変わります | Main | 「石巻かほく新聞」に掲載されました»
苦悩の現実の中で世界を創造して生きていく [2014年03月26日(Wed)]
★本で自習なさってお られる かたへ
★5月から、宮城県石巻 でグループセッション、カウンセラー育成講座
 大災害の後に、長年月、うつ病、PTSDが。マ インドフルネス心理療法で改善したい方、援助したい方。

★4月26日、蓮田での実習

苦悩の現実の中で世界を創造して生きていく(1)

 =3種の無意識・自己喪失と自己脱落

 ヴィクトール・E・フランクルは、人間は責任存在であるといいます。意味に対する責任で あるといいます。
 西田幾多郎は人間、自己存在は、この世界の中で生きる存在として課題を負っていると いいます。課題遂行の責任を持つというので、フランクルと西田は類似する哲学です。
  「我々が身体をもって生まれるということは、我々は無限の課題を負うて生まれることで ある。我々の行為的自己に対して真に直接に与えられたものというのは、厳粛なる課題と して客観的に我々に臨んで来るものでなければならない。」 (『絶対矛盾的自己同一』)
 時々刻々と世界が変動しています。無数の人の自由意志によって世界の一角が変動し ていきます。世界は人間、自分が動かしています。 世界を自己の願いのように創造しようとし、それに向かって行動し実現すると満足を得ます 。行動できないと苦しみます。すなわち瞬間瞬間、世界から「どうするのだ」と課題を突きつ けられています。 自分の目前に瞬間瞬間現れるものを活かすか、活かさずに消え去っていかせるか、自己 にかかっています。
 被災地の方々も復興に向かって行動しておられます。自己は世界の中に生きているので すから、世界の中に自分が創造的方向に行動できそうな意味を見つけて行動していくしか ありません。そのように、フランクルも西田も言っているようです。じっと静観しているままで世 界創造への行動をしないと、世界の動きにのみこまれます。つらい現実を自分の精神(西 田は「意志」)で抵抗して、自己の願う環境にしようと動くこともできます。 みな、そういう精神(「意志」)を持っています。
 衝動的反応、価値崩壊の反応では、うつ病、不安障害をもたらし回復が遅れますので、 それではなくて、意志的反応、価値実現の反応を呼吸法を中核として習得していくのがマインドフルネ スの一種、自己洞察瞑想療法(SIMT)です。
 これから半年、毎月1回宮城県石巻市でこの 新しい心理療法を習得していただくため、治すセッションと支援する講座を開催します。後者講座の内容は、SIMTの標準モ デルです。そのまま適用しなくても、現地の専門家の方々によって、現地のクライエントの 方々の問題によりそった形にアレンジして、心のケアに使っていただければ幸いです。治すほうのセッションも被災された方々には臨機応変、状況をみながらアレンジして行います。

衝動的無意識と精神的無意識

 フランクルのロゴセラピーとSIMTは似てきます。SIMTが西田哲学を理論的背景に持つか らです。一つ類似点を見ます。(ただし、哲学は類似するのですが、治療手法はかなり違う ようですが。フランクルのは「マインドフルネス心理療法」とはいわないでしょう)
 衝動的行為も価値実現の行為も真っ最中は自己が意識されないのです。 フランクルが無意識には、衝動的なものと精神的なものがあるといいます。西田哲学では「 無意識」とは言いません。意識が無ではなくて、西田哲学では自己が意識されないというこ とです。意識は衝動的内容としてありますから。
 ともかく、フランクルは、衝動的無意識と精神的無意識を言います。前者はSIMTでは衝 動的行動、価値崩壊行動中の「自己喪失」です。「衝動的自己喪失」です。自己を見失い 価値崩壊への行動にとらわれます。結果は不満、苦悩です。後者は、SIMTでは価値実現 行動中の「自己脱落」です。「行為的自己脱落」です。自己を忘れて価値実現の行為に専 心する。結果は満足です。

  「衝動的無意識と並んで、精神的無意識も存在するということであります。この精神的 なものは、それが精神的行為の非反省的遂行に「没頭している」限り無意識なのです。そ れゆえに、精神的なものが--こう主張されたように--たんに「知る」(scit)だけではなく、それ と同時に「自分を知ることを知っている」(se scire scit)ということはけっして確かなことではあ りません。むしろ、明らかに思われることは、精神的行為が対象を志向するとき、その行為 自身を--つまり主観そのものを対象化しつつ--志向することはできず、したがって反省す ることもできないということです。それゆえ、われわれは、(第一次的な)知と(第二次的な) この知の意識とを区別しなければなりません。一般に意識と呼ばれているものは、この再帰 的な、自分自身を反省する意識のことであり、この自分の知の意識、この自分自身につい ての知、つまりこの自己意識のことなのであります。それゆえ、われわれは、このような意識 =自己意識に対して、直接的な現意識を立てねばなりません。この現意識は、「第一次的 志向」と呼ばれているものに対応し、また、この(第一次的)志向作用から「分岐してくる」 ( 第二次的)反省作用は、「第二次的志向」と呼ばれているものに相当します。」( フランクル 『制約されざる人間』 春秋社 、p190)

 次は西田幾多郎です。

  「行為的自己に至って、我々は始めて見るものなくして見る自己に至るのである。かかる 場合、単に自己がなくなると考えられるが、それはいわゆる自覚面に於てあるものとして、 対象的に見られた自己がなくなるというに過ぎない、かえって我々の自己は真に見る自己 となるのである。」 (『一般者の自覚的体系』のうちの『叡智的世界』巻5、436頁)

 意志的自己より深い叡智的自己、行為的自己は自己を見ない、自己脱落です。ただし、 行為中だけです。自己自身の存在の根底が自己なしという自覚はまだありません。

 対象として見られる自己がなくなります。
 「意識的自覚に於ては自覚は単に無限の過程に過ぎない、真に自己自身を見るものに 至るということは、かかる過程を越えることでなければならない。故に自己が自己を越えるこ とによって超越的自己に至るということは、真に自覚することである、意識的自己というのは どこまでも見られた自己に過ぎない。然らば真に自己自身を見るとはいかなることを意味す るか。それは見られる自己がなくなることである。自己が絶対に無なることを見ることである 。故に我々は真に自己自身を忘じた所に真の自己があると考えるのである。」 (『一般者の 自己限定』旧全集5巻374頁)
 この引用文では、「自己が絶対に無なることを見ることである」と言っていますから、 行為的自己脱落ではなく、自己根底の自己脱落です。「存在的自己脱落」です。(禅僧道 元は「身心脱落」という語で二つの意味をもって記述したようで読む人が混乱しやすいよう です。)
 フランクルも衝動的無意識、精神的無意識のほかに、存在論的な無意識を言っています 。それは宗教的レベルです。西田哲学でも、衝動的自己喪失、行為的自己脱落のほか、 絶対無すなわち、絶対に対象とならない根底の自己、宗教的だといいます。西洋のフラン クルと東洋の西田幾多郎が似たような自己存在の構造の哲学をいいます。
 マインドフルネス心理療法としての自己洞察瞑想療法(SIMT:Self Insight Meditation Therapy)は、宗教レベルを扱いません。宗教レベルでない、意志的レベルでの苦悩の解 決を扱います。フランクルの「精神」のうちの浅い部分になります。フランクルの「精神」は、 西田哲学の叡智的自己レベルに相当するようです。意志的自己の行動様式が習慣化さ れたもので人生価値をもって行動していく自己です。
(続く)



【シリーズ】苦悩の現実の中で世界を創造して生きていく

<第4章>深いマインドフルネスで生きる叡智的自己

<第3>心を平穏に保ち、病を予防する“マインドフルネス” <第2> 「イライラ・怒り・欲・迷い」を乗り越えるために
<第1>イライラ、ウツウツはどこからくるのか
Posted by MF総研/大田 at 07:42 | 今ここに生きる | この記事のURL