人生の価値を発見していきる(11)
[2014年02月20日(Thu)]
人生の価値を発見していきる(11)=自分の使命をみつける叡智的自己、しかしエゴイズムが観察する自己、文脈としての自己は、西田哲学によれば意 志的自己と同程度のようです。意志的自己がよく意志的行動をできるようになり、仕事のよ うな価値を発見できると叡智的自己となる。朝 目覚めた時、何をしようか、また眠るか、呼吸法をするか、などと迷うことはない。 仕事という価値実現をめざして即座に行動する。よどみなく行動していく。決まった価値への行動が習慣化されると、西田 哲学でいう叡智的自己に近づく。 しかし、すべての局面で価値実現の行動ができるわけで はない。多くの人が、何ごとかがあった時に、うつ病になったり、自殺したりすることが起きて いる。犯罪を犯す(最近では、臨床試験における不正、書道における不正が報道された)。 仕事ではうまくいっていても、家族を不幸にしているかもしれない。60歳まで立派に仕事をつとめあげた高齢者の自殺が多い。がんになった時にも、叡智的自己であるかどうかの試練となる。さまざまな局面で、生涯、真の意味の叡智的自己である人は少ない。まして、人格的自己は。 自己の悪を責める良心の苦悩、自己存在の消滅、すなわち死の苦悩は、死生観がかかわるので、人格的自己のマインドフルネスを必要とする人がいるであろう。 フランクルにおいては、価値実現の自己は、精神を持つ者である。身体、心理がつらくても、それに抵抗する精神(西田哲学では意志作用と直観である)によって、意味を発見して価値を実現していく。精神は、意味器官であるという。 そして、それを導くのは「良心」である。
しかし良心は、人間を誤らせないとも限りません。そればかりか、最後の瞬間まで、すなわ ち最後の息をひきとるまで、人間には、自分の人生の意味を本当に充たしたのかどうか、 むしろ錯覚を抱いていただけではなかったのか、ということも分かりません。」(『意味への意 志』p27) 「自分が真理を所有しているのが自分であるかどうか、誰か別の人ではないのかどうか 、ということは誰にも分かり得ないことなのです。」(『意味への意志』p28) ★生きがい、生きる意味、価値の種類、創造価値、体験価値、態度価値、さらに存在価値 |
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