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日本マインドフルライフ協会の拡大定例(7) [2014年01月21日(Tue)]

日本マインドフルライフ協会の拡大定例(7)

 私の発表は、「うつ病・不安障害を治すマインドフルネ ス 」という題でした。 内容は、3つの部分からなります。
    1)うつ病・不安障害を治すマインドフルネス 
    2)マインドフルネスとは
    3)私のマインドフルライフとは

3)私のマインドフルライフとは(4)

 もう、発表した内容ではありませんが、東洋的なマインドフルネスの可能性の全体像にか かわることを考察しています。
 次の記事とも関連があります。これらは、みな「マインドフルネス」があるのですが、階層が 違うようです。
 咳(せき)をする病気には、風邪、インフルエンザ、気管支炎、肺炎、間質性 肺炎などがあるとします。違うかもしれませんが、一応、後のものが重いものとします。 咳をする人が重い病気である場合、軽い風邪薬では効き目がないでしょう。 心理的な問題もそのようです。 マインドフルネスには、たとえでいうきとが多くて、「メタファー」といいます。
 V・E・フランクルは、心理問題、精神問題(内在)、超越(自己存在レベルの苦悩)のよ うに深いといいます。西田哲学では、意志的自己、叡智的自己、人格的自己の順で深くな ります。

アクセプタンス・コミットメント・セラピーの哲学

 アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)は、行動分析学という哲学に基づくといいます。 そして、「文脈としての自己」という場所を提案しています。
     「「文脈としての自己」を知識として理解しただけでは意味がない。知識だけ の理解はそ のまま教示として体験の回避を引き起こす機能を持つ可能性があるか らである。 ACTは 言語での理解を超えた、実体験に基づく活動の選択をクライエン トに迫る。 そこで「文脈と しての自己」でも体験エクササイズを導入し、クライ エントに肌でこの見解を理解してもらう 。
     「文脈としての自己」の体験エクササイズとして観察者エクササイズがある。 このエクサ サイズは 「文脈としての自己」を体験させ、 「概念としての自己」からの開放、デフュー ジ ョンのための文脈作りを図る。観察者エクササイズはまた数あるACT技法の中で 、特に重 要な臨床的技法の1つとして位置づけられている。」(「アクセプタンス&コミットメント・セラ ピーの文脈」ブレー ン出版、173頁)
 この「文脈としての自己」はどのような哲学から出てきているのでしょうか。
     「一方、関係フレーム理論では、「場としての自己」、「観察者としての自己」、「文脈として の自己」などと呼ばれる第三の自己を提唱しています。これはプロセスとしての自己や概 念としての自己が働く場を提供するもので、ヘイズによれば、それ自体に中身はなく、 したがって境界も定めることができないと説明されています。そして、この第三の自己 も、「私が、今、ここで」という視点を獲得することによって成立するのです。」(熊野宏昭「マ インドフルネスそしてACTへ」星和書店、61頁 )
 ACTでは、「生命の流れとしての自己」と「文脈としての自己」をいうが、「「関係フレーム理論」には、この「生命の流れ」に相当する自己は規定されていません」(同上、p60)というので、別の西洋哲学を加算しているようです。
 熊野氏によれば、文脈としての自己は、行動分析学とは別の西洋哲学から出てきているようです。中身のない自己であれば、カントの意識一般に似ています。 次が西田幾多郎の説明です。西田哲学では、深い叡智的自己は、自己自身の内容を持つが、自己の内容を持たない意識一般は浅い。西田(そして、鈴木大拙ほか多数の仏教研究者、西田哲学の研究者が)は、東洋ではもっと深い自己があると昔から(インド大乗仏教の時代から)言ってきたというのです。
     「私は知るという考えを根底的に変ずることによって、カントの認識主観のごときも一種の 叡智的自己として考え得ると思うのである。・・・ 我々の真の自己は、意識一般の底に、なお自覚の意味を深めることによって、考えられる 叡智的世界に住んでいるのである。しかして、かかる意味においては道徳的世界がその 最も深いものと考えることができるであろう。」 (『叡智的世界』西田幾多郎旧全集巻5,162 頁)

     「意識一般の内容といえども、何人が考えると否とに関せずそれ自身に於いてあるという ことができる。ただ、意識一般は単に形式的なる叡智的自己として、それ自身の内容を有 せざるが故に、そのイデヤ的内容すなわち叡智的ノエマがただちに実在の内容であり、な おいわゆる実在界をもってただちにその顕現と見なすことができる。」(『叡智的世界』巻 5,164頁)

     「自己が自己の底に超越するということは、自己が自由となることである。自由意志となる ことである。自由意志とは客観的なるものを自己の中に包むことである。しかし、意識一般 の如く対象がなお自己自身の内容でない場合は、自由なる自己とはいわれない。真に自 由なる自己は自己自身の内容をもたねばならない(内容なき意志は意志ではない)、しか もこれを自己自身の内容として内に包むものでなければならない、すなわち自己自身の於 いてある場所となるものでなければならぬ。超越的自己が自己の中に自己の内容を直観 することが知的直観である、即ちイデヤを見ることである。」(『叡智的世界』旧全集巻5- 173)
 西田は中身のない意識一般を形式的な叡智的自己とみて、もっと深い叡智的自己があり、自由意志を持つ叡智的自己は、自己 の中に自己の内容を持つというのです。
 宮沢賢治も「直観」といいましたが、大乗仏教に造詣の深い人でしたから、この叡智的自己、あるいは、人格的自己を自覚していたはずです。東洋的な自己は、自己自身の内容を持つという哲学があります。その指針を持って、マインドフルネスの実践を行うのです。そうでないと、解決できない問題、苦悩も日本には多いのです。V・E・フランクルの内在と同じく深いものが叡智的自己と思われます。ロゴセラピーと叡智的自己のマインドフルネスとの違いは、前者が必ずしも、マインドフルネス、瞑想を用いない点ではないでしょうか。そして、ロゴセラピーでは扱わないという超越の扉の中までも入れる点でしょう。自己存在そのもので、そういう領域も必要になっている現代日本ではないでしょうか。

 ACTは、西洋哲学の自己を持ち、他のマインドフルネス(MBSR,MBCT,SIMTなど)は、東洋哲学の自己をいうようです。かといっても、ACTは「有用性」がないというのでは決してありません。大きな貢献をしています。ACTも種々の問題で活用されています。マインドフルネスには、さまざまなものがあり、 それぞれ社会で貢献できる領域が違うでしょう。「みんな違ってみんないい」のです。 適用してみようという時に、その問題、その病気にもっとも近いものを選択すればいいのでしょう。
 仏教も種々にわかれました。初期仏教は大乗仏教から批判されました。時代により、在家により、国により、扱えない社会問題が出てき たので、さらに深い哲学を持つ大乗仏教が現れました。 哲学は重要です。それは枠をはめる理論となるから、深く広くないと、人の行動を規制してしまいます。カルトの思想、哲学を持つ集団が、重大な反社会的な事件(集団自殺、女性の人権侵害、殺人事件など)を起すことがあることは広く知られています。大学にもカルト集団による誘いがあるといいます。だから、宗教が警戒もされるということもあるのです。
 マインドフルネスは、宗教団体でも行われます。フランクルや鈴木大拙などがいうように、精神衛生上(たとえば自己存在そのもの、がん患者や終末期の自己の死の不安)などに宗教も重要な役割を果すでしょう。
 絶対者が出てくる宗教と、そうでない論理的に説明できる範囲(意志的自己、叡智的自己=おそらくロゴセラピーの内在と同じ領域)のマインドフルネスとがあります。日本的な哲学に基づくマインドフルネスも可能性が無限にありそうですから、宗教レベル(人格的自己、超越)とそれ以前レベル(意志的自己、叡智的自己)の区別を知りつつ、有用な可能性のある日本的なマインドフルネスの研究開発にも多くの人が参加したほうがいいと思うのです。
  • (1)=写真
  • (2)=うつ病・不安障害を治すマインドフルネス
  • (3)=マインドフルネスとは
  • (4)=私のマインドフルライフとは(1)
  • (5)=私のマインドフルライフとは(2)
  • (6)=私のマインドフルライフとは(3)
  • (7)=私のマインドフルライフとは(4)
  • (8)=私のマインドフルライフとは(5)
  • (9)=私のマインドフルライフとは(6)
  • (10)=私のマインドフルライフとは(7)
  • Posted by MF総研/大田 at 21:17 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL