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東西にかかわらず、人間の根源は深い [2014年01月04日(Sat)]

東西にかかわらず、人間の根源は深い

 ジョン・カバト・ツィンのMBSRの全体性、それを応用したうつ病の再発予防法であるマインドフルネ ス認知療法(MBCT)、そして弁証法的行動療法のリネハンの「賢明な心」など、深い人間の根源的な ものを現わしているようです。 V・E・フランクルが、一人類教といいましたように、東西の宗教にかかわりのない共通の人間観、すべての人の個性的人格の基礎、が あります。  西田幾多郎も、キリスト教、襌、親鸞の根底は共通と指摘しています。 これらすべてに、マインドフルネスの特徴があります。自我の評価にこだわらずに、絶対に包まれている、いつも根源的なものとあると、つらいことは必然と受け入れていく態度です。
 下記の記事で、遠藤周作のキリスト教は日本的なものであるといいました。教会のキリスト教とはちがうそうです。西田哲学のいう絶対に対象とならな い最奥の自己、日本的な自己観を基礎にしたもののようです。  このようなものは、いつも自分とともにあるわけです。

遠藤周作のキリスト教と仏教の類似性

 遠藤周作の神は「母なるもの」「永遠の同伴者」としての神、「教会の外におられる神」で、 「仏教に似ている」と言っています。『私にとって神とは』という対論集の中で遠藤は次のように言 っています。
    ◆「人間には仏教で言う仏性があるのだから、どんな人でも必ず救われると思います。」

    ◆「使徒行伝なんかを読みますと、ポーロがダマスカスへの途上で、彼を盲目にさすほどの光にあっ て、思わず倒れてしまい、キリストに出会ったと書いてありますが、いま言ったようなことを当時の人た ちは象徴的にそう書くより仕方がなかったからです。要するに戒律というか、意識的信仰というものを 全部捨ててしまって裸になった時に、キリストに出会ったということです。仏教では分別智識の世界を 捨てた時、悟りに入ると言いますね。あれに似ているのだと思うのです。だから、私の心の中にキリス トがいるんだということをポーロが言っているのですが、これは仏教で言う己事究明、己(おのれ)の ことを究明して、自我煩悩というものをどんどん捨てていったら、自我ではなく、最後に本当の自己と いうものにぶつかって、そこに仏様の御心が働いていると自覚するのと似ていると思います。精神の 基底となるところを仏教では阿頼耶識と言っていますが、心の活動の根源となるこの阿頼耶識は、因 果の法則とともに仏様の力も働くのです。これはキリスト教で言うと、ポーロが戒律のがんじがらめか ら脱出してキリストを見つけたというのと同じだと考えていいと思います。」
 ジョン・カバト・ツィンがいう「全体性」も、「生まれたときからもっていた」ものですから、いつもある根源的なもので、類似しています。 次がツィンの全体性です。  日本には、深いマインドフルネスがあります。 次の人たちが、心を深く探求した人で、私の知る人たち(必ずしも同じ深さではないが)ですが、もっと多数います。  西洋のマインドフルネスも、今後、このような深い方向が研究されていくでしょう。 自分とは別の神、死後の天国という キリスト教に満足できない人が多いそうですから。 すると、やはり、死の苦悩があるのではないでしょうか。 苦しみは救済手法を開発すべきです。欧米のマインドフルネス研究者も、 ツィンやリネハンが深いものを言っているので、あいまいなままにしておかないのではないでしょうか。

 マインドフルネスには、宗教レベルのマインドフルネスと宗教レベルでないマインドフルネスがあるわけです。しかし、アメリカの宗教以前のマインドフルネス(MBSR,MBCT,弁証法的行動療法など)も、宗教的なもの、全体性や賢明な心を基礎にしているわけです。
Posted by MF総研/大田 at 22:25 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL