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マインドフルネスの展開(2)垂直展開 [2013年09月22日(Sun)]
『 不安、ストレスが消える心の鍛え方――マインドフルネス入門』(清流 出版)が叡智的自己レベルの自己洞察瞑想療法(SIMT)の入門です。マインドフル ネス心理療法の「理論」とその先のもっと深い叡智的自己レベルのマインドフルネスをご紹介してい ます。

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「人格」とは何か(12)
 さまざまな段階の自己

マインドフルネスの展開

 マインドフルネスは自己と世界はいかなるものであるかを どこまでも深く洞察していくものです。
 西田哲学によれば、判断的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己、人格的自己があります。我々は、真の自己と言われる人格的自己までを視野に入れていきます。  現在(2013年9月)のところ、意志的自己レベルのマインドフルネスの文書化ができました。自己洞察瞑想療法(SIMT:Self Insight Meditation Therapy)のセッション1から10までとして段階的なトレーニングによって、意志作用を習熟します。これは、うつ病、不安障害、過食症などに適用したところ、効果が見られました。 (⇒改善効果)
    『うつ・不安障害を治すマインドフルネス
       ひとりでできる「自己洞察瞑想療法」』佼成出版社

今後の垂直展開

 マインドフルネスは、欧米のものと日本のものとがあります。 西田哲学は、自己や世界に見方には浅い二元観、深い二元観があるといっています。 浅い段階のマインドフルネスは、欧米のものも日本のものも、二元観です。当研究所のSIMTも二元観の意志的自己レベルです。
 しかし、このレベルでは解決しない苦悩や問題がありそうです。 専門家が犯すエゴイズム、専門家の燃え尽き、スランプ、人間の見方の限界、死の問題、自己評価の低い苦しみなどがあります。 たとえば、人間と神とを峻別する欧米の二元観は、人々の苦悩を解決するためには限界に達したと言われています。
 日本には、古来、一元観の哲学があったと言われています。  そうであれば、一元観に基づくマインドフルネスが考えられます。 西田哲学によれば、仏教は一元観ではあるものの、個人の心境の深化 にばかり重点がおかれていて、僧院外部の現実社会への実際適用が弱かった、出離的であった、それが現在(昭和)までも続いているといいます。昭和の頃の仏教と現代(平成)とでは、この事情は、今も変わっていないでしょう。それは、中国襌も日本の鎌倉時代の仏教、江戸時代の襌も、封建社会に成立しました。僧院の外は、身分制度が厳しく、人権が為政者によってしいたげられていました。宗教の自由もありませんでした。だから、寺院外部の庶民の現実世界の問題を解決するための仏教の試みは行うことはありませんでした。一部の仏教研究者や哲学者が批評しています。

宗教とは区別すべき

 ところで、私どもは宗教者でなく、教団にも所属していません。宗教を持たず、 ボランティア活動をするNPOです。NPO法人は、法律により、特定宗教の宣伝を禁じられています。
 そこで、マインドフルネスは、宗教段階と宗教以前との区別を明確にして、解決策を構想していかねばなりません。
 深い宗教レベルのマインドフルネスを必要とする社会問題も多いはずです。死の問題などに苦悩する がん患者、ターミナルケア、自分の人間の価値・出生に苦しむ人(虐待された人、セクハラや性犯罪の被害者、両親がわからないで苦悩する)など、そうかもしれません。
 宗教レベルであることを知って、宗教レベルのマインドフルネスで、あえて、援助することも現実社会では必要でしょう。現実の宗教がそういう寺院外部の現実問題を扱かった経験がないからです。

叡智的自己レベルと人格的自己レベルのマインドフルネス

 西田哲学によれば、東洋哲学、古来の日本の精神は一元観、自他不二的であるといわれます。西田哲学によれば、 一元観にも2段階あると言います。 西田哲学によれば、さまざまな段階の自己があります。  叡智的自己は、宗教レベルではありません。人格的自己レベルになると、自己の無と絶対者との問題があり、宗教的であるとされます。 西田哲学や仏教の研究者によれば、過去の仏教には、人格的自己レベルの修行者の自分の心境を深めることはあったが、外部の現実社会への展開は弱かったと批評されています。
 そこで、叡智的自己と人格的自己の深い境地が、現代社会の問題の解決に貢献できるのかどうか、検討しなければなりません。なぜなら、 仏教でいう「仏性」や、西田哲学がいう「絶対無(絶対的一者)」は、現実の現象に顕現するというからです。現代でも現実の問題が、絶対無の顕現であるということになります。西田哲学でいう絶対無(何もないということではない、絶対に対象とならない自己の内奥の自己や世界の根源)が現代の社会現象となって現れているのであることになります。すべての人の内奥に自己や世界の創造のもとになる根源的なものがある、この自覚は、現代社会の問題、苦悩を 解決になる道があるかもしれません。
 こういうわけで、叡智的自己、人格的自己レベルのマインドフルネスは、現代社会の深い苦悩や問題の解決に貢献できるかもしれないのです。こういう意味で、意志的自己レベル、一元観のマインドフルネスよりも深い、東洋的、日本的な一元観のマインドフルネスの研究、開発が現代社会に大きな貢献をする可能性があります。私たちは、今後、そちらの研究、開発、実践に取り組みます。試験的に実践してくださる人々に実践していただいて、ある程度の有効なモデルを開発できた時には、公表したいと考えています。これまでにない最初の試みであり、5年くらいかけて、粗いスケッチを公表できればいいほうだと思います。その後は、若い人に託します。

そして、深いマインドフルネスの水平展開

 一、2の領域で、叡智的自己レベル、人格的自己レベルのマインドフルネスを開発することができれば、他の領域への垂直展開ができるはずです。人は、それぞれの専門領域しか知りませんので、具体的な救済、援助は、 それぞれの領域に関心を持つボランティアでないとできないのです。 叡智的自己レベルは、心の病気ではない、すべての人が「いかに生きるか」ということです。 繰り返しますが、 専門家は、既存の領域での既存のスキル、既存の技術の専門家です。新しいことに人生をかけることができるのは、既存のものに人生をすっかりかけていないボランティアなのです。自分が今、心の病気であったり、重い苦悩をかかえておられる若い人々やそのご家族などが、新しい解決方法に篤いまなざしをそそいでおられるでしょう。ボランティアの候補はそういう人々でしょう。

有用性基準

 さまざまなマインドフルネスがありますが、東洋哲学を基礎にするのが絶対正しいと主張しているわけではありません。社会にとって有用性があるかという「有用性基準」です。 さまざまなマインドフルネスがあります。自己のものに執着して、クライエントに押し付けて、自分の枠にとじこめないようにするというのがマインドフルネスの精神だと思います。 仏教で教えた「煩悩」のうちの、我見、我執を捨てるということは、マインドフルネスの専門家にもいえることです。叡智的自己の自己形成作用は、行為的直観であるといいますが、ここにも、エゴイズムが働きます。自分の好きな専門の眼で見て行為する傾向が人間には本質的であると西田哲学はいいます。自分の専門によって偏った眼で、ものごとを見てしまうことがあり(自己のものの執着)、クライエント、社会を害することがあると教えています。気がつきにくい自己のエゴイズムの探求は、自分にとっても社会にとっても「有用性」があるのだろうと思います。科学、学問も自己がない立場から行為していくべきと、西田哲学の教えです。マインドフルネスも、これからは、科学、学問です。自分の好きな浅い立場に執着すると、市民全体の問題解決への道を閉ざしてしまいます。そういうことは真に科学的、学問的ではないことになります。

日本的死生観

 無我、無心、自他不二という東洋哲学が日本人の死生観にあって、これが、深い苦悩の解決に援助できるかもしれないので、研究開発したいのです。たとえば、久松真一は「私は死なない」とよく言っていたといいます。盤珪禅師は「不生」と言いました。 無難禅師は「生きながら死人となりて」と言いました。 この人生において、対象的に考えられた「自分」はない、そういう自分は生まれていない、そういう自分はないから、自分は死なない、ということかもしれません。生きているうちから自分は死んでいるという、自己をなくした立場でしょう。これは東洋に多い死生観だといいます。考えられた自己に執着して、死を意識しすぎて苦しみすぎて、余生を意義あることでいきにくくなるよりも、楽な生き方があるかもしれません。 がん告知によって、自死さえ起きるのです。日本古来の死生観が有用性を発揮する領域があるかもしれないということです。深い問題は、浅い治療法では、効果がないからです。
 さまざまな領域、さまざまな問題に、できるだけ効果の高い、有用性のあるマインドフルネスを適用していくべきです。政治、経済、教育、等々他のすべての領域もそうです。 さまざまなマインドフルネスは、それぞれ有用性を発揮して、「みんな、ちがって、みんないい」(金子みすず)です。
「人格」とは何か 参考
Posted by MF総研/大田 at 19:13 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL