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<目次>宗教レベルと宗教でないレベルのマインドフルネス心理療法 [2013年02月04日(Mon)]
4月に日本で開発されたマインドフルネス心理療法(SIMT)の本が発行になります。 欧米の輸入ではなく、理論も実践も日本人にわかりやすいものとなっています。 重症のうつ病、不安障害でも治る人がいます。
患者・家族会(2月23日、3月24日)(解決に向けて確かな方向を)
マインドフルネス哲学研究会(4月13日)
マインドフルネス自己洞察瞑想療法(SIMT)研究会(4月20日)
専門家の育成講座・マインドフルネス自己洞察瞑想療法(SIMT) (次回は、2月16日、3月16日)
心の健康クラブ(うつ病・認知症の予防、自己実現)(5箇所で毎月)

<目次>宗教レベルと宗教でないレベルのマインドフルネス心理療法

 マインドフルネス心理療法は、襌、仏教に似た実践を用いるが、臨床心理学、心理療 法であって、宗教ではない。宗教は、次のように、非常に深いものである。 健康な人が、自己自身を投げ出すこと、自己を棄てることである。とうてい2, 3年でできることではない。心理療法者が指導できることではない。専門の宗教 者の指導が必要だろう。西田幾多郎でさえも、10年以上、専門家としての僧侶についていた 。

 西田哲学は、宗教とそれ以前(道徳、良心)との違いを説明している。 自己そのものの存在を問題とするのが宗教であり、心理学であつかう範囲、道徳はそのままの自己がある。自己洞察瞑想療法(SIMT)は、 衝動的行為の批判、意志的自己の行動のすすめである。自己の存在の問題ではない。
     「道徳の立場からは、自己の存在ということは問題にならない。いかに鋭敏な る良心といえども、自己そのものの存在を問題となせない。何となれば、いかに 自己を罪悪深重と考えても、道徳は自己の存在からであるが故である。これを否 定することは、道徳そのものを否定することにほかならない。道徳と宗教との立 場が、かくも明らかに区別すべきであるにもかかわらず、多くの人に意識せられ ていないのである。」(『場所的論理と宗教的世界観』旧全集11巻393頁)、
 宗教においては、自己が絶対者に接して、自己が死にきることである。「自己 が絶対無となるということ」(旧全集11巻397頁)である。 「自己が投げだされる、棄てられる」(旧全集11巻407頁)。 「絶対否定に面することによって、我々は自己の永遠の死を知る」(旧全集11巻 395頁)。 そして、宗教的死は、新たな生、有をもつ。新しい真の自己によみがえる。
     「自己自身の死を知ることは、死を越えることである、しかも単に死を越えた ものは生あるものでもない。自己自身の死を知るということは、無にして有とい うことである。絶対の無にして有ということは、自己矛盾の極致でなければなら ない。しかも、そこに我々の真の自覚的自己があるのである。」(旧全集11巻408 頁)
 西田幾多郎は道元が絶対無、自己の死、この宗教的立場だという。 ただし、「仏教者自身もここに誤っている」というように、学者によって解釈がまちまちであったという。
     「道元は仏道をならうということは、自己をならうなり、自己をならうという は、自己をわするるなりという。それは対象論理的見方とは、全然逆の見方でな ければならない。元来、自力的宗教というものがあるべきでない。それこそ矛盾 概念である。仏教者自身もここに誤っている。自力他力というも、禅宗といい、 浄土真宗といい、大乗仏教として、もと、同じ立場に立っているものである。」 (旧全集11巻411頁)
 「自己」は、対象論理的見方とは、全然逆の見方である。対象、作用の内奥の 方向のことである。良心、道徳は、自己、自我、人間がなくなっていない。
     「道徳は人間の最高の価値である。しかし、宗教は必ずしも道徳を媒介とし、 道徳を通路とするというのではない。我々の自己が、我々の自己の生命の根源た る絶対者に対する宗教的関係においては、智者も愚者も、善人も悪人も同様であ る。」(旧全集11巻410頁)

     「理性はどこまでも内在的である、人間の立場である。それは絶対者との交渉 の途ではない。」(旧全集11巻442頁)
     「対象認識の知識的問題ではないことはいうまでもなく、我々の意志的自己の 当為の道徳的問題でもない。我々の自己とは何であるか、それは何処にあるので あるか、自己そのものの本体の問題、その在処(ありか)の問題である。・・・ 道徳的苦悩という。しかし、良心的苦悩には、なおどこまでも自己というものが ある。ただ自己自身の底からの苦悩である。」(旧全集11巻412頁)
 西田は、厳しいことを言っている。「苦を怖れ楽を願う欲求的自己」は、 宗教ではないことになる。
     「苦を怖れ楽を願う欲求的自己というものは、真の個人ではない、生物的であ る。」(旧全集11巻429頁)
 SIMTでは、このような態度を価値崩壊の反応パターンという。衝動的行動を繰返す衝動的自己、欲求的自己では、問題がながびく。ひきこもり、不登校、うつ病、不安障害、家庭内暴力、いじめ、専門家のエゴによる失敗、専門家による他者への危害など。 小さな苦をおそれて小さな楽、一時的な楽を願う生活を続けて、根底には暗い闇を感じる自己否定的な生活をするのではなく、 大小の苦をあるがままに見て受容して、大きな願いに向けての行動をする意志的自己となり、大きな楽、根底にゆらぎのない自己を自覚して自己実現をはかる生活をするのである。その先には、さらにゆるぎない叡智的自己、人格的自己がある。

 自己洞察瞑想療法(SIMT)は、全く、宗教とはほど遠い、浅い自己の立場の心理療法である。自己洞察瞑想療法(SIMT)は、西田哲学で、宗教的立場以前の意志的自己(やや叡智的自己にはいる)の論理的説明を、心理療法化したもの、臨床心理学にしたものである。

さらに深い苦脳

 しかし、人の苦脳にもっと深いものがある限り、臨床心理学での支援ができないのだろうか。 がん患者さん、虐待された人など「自己自身の存在」の消滅、自己自身の無価値観の苦脳、愛する家族を見捨てたという罪の苦脳がある。現存の宗教が深い苦脳を支援をしなくても、理屈上(哲学的に)西田幾多郎によれば、救済可能であることになる。 うつ病や不安障害の進行によって、自殺するのも、自己自身の存在の意図的消滅として深い苦脳である。これを次の記事で述べたい。
<目次>宗教レベルと宗教でないレベルのマインドフルネス心理療法
 =宗教と宗教でないことの区別
 =宗教レベルの臨床心理学も必要
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Posted by MF総研/大田 at 14:19 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL