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日本は独特の哲学を持つ [2012年09月10日(Mon)]

日本は独特の哲学を持つ
 =そこから日本独特のマインドフルネスが可能

 日本には、西洋と違った一元観の哲学がある。  小坂氏は次のようにも言っています。
     「西洋的なものの考え方はどうしても主観主義や自己肯定主義を脱し得ない。自己 の側から見るという立場を脱することはできない。それは、自己中心的なものの考え 方を否定するのに、別の自己中心的なものの考え方をもってするのである。これに対 して東洋的なものの見方は、いわゆる自己というものがなくなったところから、した がってまた物や他己との間の区別や対立がなくなったところから世界を見ていこうと する。禅宗でいう「張公酒を喫して李公酔う」の精神である。」 (小坂国継 2011「西田哲学の基層」岩波書店、p123)
 すなわち、東洋哲学(西田哲学)は、西洋の哲学(自己とは何か、世界とは何か、 絶対者とは何かなど)とはかなり違っている。この違いはとても大きく、マインドフ ルネスが浅い部分で適用されている間はさして問題にならないだろう。しかし、東南アジア系の瞑想法でも、日本仏教の各種の宗派の坐禅でも、形式上は似ているが、哲学がまるで違っている。 そのように、マインドフルネスも形式的には似ていても、深いところになると、ちがっており、 西洋のマインドフルネス心理療法者のマインドフルネスは西洋哲学によるのであろう 。というのは、日本の仏教者、研究者、西田哲学の研究者でも、仏教や西田哲学の解釈(つまり哲学) がまちまちである。そのような、論争のある東西の哲学の差をマインドフルネス心理 療法者が埋めることは容易でないだろう。
 マインドフルネス、アクセプタンスが浅い問題に適用されるうちは問題とはならな いだろうが、深い問題(自己存在、自己評価、生きること、死ぬことなど)に適用しようとすれば、日本人にはしっくりいかないかもしれ ない。日本でのキリスト教の普及と似た問題があるかもしれない。 マインドフルネスは深くなるほど、宗教的意識に近づくからである。マインドフルネスは「無評価」「思考判断停止」をいうのであるが、自己(対象的にみられた自我)を残したままでその努力をするものと、自己が消失 (無我)した立場での「無評価」「思考判断停止」では、違う。 自己なし、とは、対象的自己の死、無我である。自我が「なくなれば、すべてが自己という新しい自己に生きる。日本人は古来「無我」をよく標榜してきた。生きているうちに「対象的自己が無くなる=自己が死ぬ」のであり、日本人の精神は、宗教的なのである
 ただし、この生き方は、宗教だけではない。 日本では、さまざまな芸術家、医学者、哲学者、小説家など(前の記事であげた人々)も類似の哲学を持つか、あるいは理解を示してきた。それが、日本人の特徴である。鈴木大拙は「日本的霊性」といった。 自我を残したままの二元観による西洋的マインドフルネスと、自我が消えたところで世界(および絶対者)が自己とひとつであるという一元観の東洋的マインドフルネスとがありつづけるのだろう。いかに生きるか、自己存在や「死」にか かわる問題についてのマインドフルネスは、日本では、これを避けることはできない。ジョン・カバト・ツィンさえも、全体性をいうが、そのレベルのマインドフルネスは書いていない。 日本のマインドフルネスは、日本の深い東洋的哲学を無視しては通れない。 生きていく上で、さまざまな不如意がある、苦脳がある。対象的なものは失われていくものがある。 マインドフルな生き方は、さまざまな苦痛、不快、不如意があっても、乗り越えていく生き方であるはずである。全体性としての自己は何も失わない。
 心の病気だけの問題ではない。自己、他己(自分と同じ根底の人格を持つ他者)、死生の問題は、心の病気の問題ではない。すべての人のマインドフルな生き方と関連している。日本の芸術もそれを教えているものが多い。
Posted by MF総研/大田 at 22:22 | 新しい心理療法 | この記事のURL