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マインドフルネスの根底にある東洋哲学 [2012年05月31日(Thu)]

種々のマインドフルネス&アクセプタンス

(23)ジョン・カバト・ツィン氏の哲学
 マインドフルネスの根底にある東洋哲学

 マインドフルネス&アクセプタンス(M&A)を世界的にしたジョン ・カバト ・ツィン氏のマインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)にあ る7つの態度(ツイン、1993a)は、東洋哲学にもある。静座瞑想、ヨ ーガ瞑想、ボディスキャンをする時に、この態度で行う。  MBSRは、上記の7つの態度で、静座瞑想、ヨーガ瞑想、ボディスキ ャンを忍耐強く続けるものである。その根底には、”全体性”があっ て、すべては、そこからであるというのがMBSRであると言えよう。
 前回までに、7つの一々について、道元禅や西田哲学との類似性を 概観した。 このような態度で、もし、言葉が理解しにくい場合、その根底にある 東洋哲学や襌の実践者を尋ねるといいのではないだろうか。欧米の本の中をさがしたり、 他のもっと 詳しい本がないか、さがしまわる必要がなくなるかもしれない。 推測できるように、その根底にあるものは、禅の著作や実践 、西田哲学にある可能性が高い。論理的にならば、西田哲学の論文の 中にある可能性が高い。
 ツインによって抽出された7つの態度や"全体性"は、襌の哲学や実 践に類似する。ツインは「道元の優れた思想にも大きな影響を受けま した」(ツイン,1993b)という。
 西田幾多郎は、道元を、最も深い自己、意識的な自己が消滅(自己を忘れる=身心脱落)して、 無となって、 すべてが自己に於いてあるものとなって、自己と他者、自己と世界が 一つとなった段階であるとみている。 人間の評価がまったくない、主観的、独断的、自己中心的、自己保身的な評価的判断のない、あるがままのところから見る。科学、学問もその立場であるべきだが、そうなっていない学問も多いようだ。
     「分別知を絶するということは、無分別となるということではない 。道元のいう如く、自己が真の無となることである。仏道をならうと うは自己をならうなり、自己をならうとは、自己をわするるなり、自 己をわするるとは、万法に証せらるるなりといっている。科学的真に 徹することも、これにほかならない。私はこれを物となって見、物と なって聞くという。否定すべきは、抽象的に考えられた自己の独断、 断ずべきは対象的に考えられた自己への執着であるのである。」 (西田幾多郎、1965a)
次が、西田が引用した、道元の「正法眼藏第一 現成公案」の一部で ある。
    「諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。
     萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし(A)。
     佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。
     しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。  自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。」(道元,1991)

     「佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは 、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるる なり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をし て脱落せしむるなり。」(B)(道元,1991)
(A)は、ツインが「自分という存在を信じる」という、存在かもし れない。脱落の身心、意識的な「我がない」時、苦悩もないという。 評価による苦脳になる前の事実そのものであろう。 (B)に、自己と他者の身心を脱落させるという。自己を脱落すると他の人も脱落 の身心であることがわかる。 すべての人の共通の根源、絶対平等の人格、 苦悩のない根底が自覚されるというようである。 道元と西田幾多郎がいう有様が、すべての人の「存在」、根底の真相か もしれない。修行の段階で、主観的、独断的、自己中心的な評価的判断を慎むのは、根底の存在が 評価を超越しているから、それにならうのであろう。
 次は、道元の言葉である。人の根底は、対象的な評価を超えている という。
     「仏道を信ずる者は、須らく自己本道中に在って、迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。」 (道元,1989)
 次は、西田幾多郎の言葉である。
     「宗教的意識においては、我々は身心脱落して、絶対無の意識に合 一するのである、そこに真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪 もない。宗教的価値というのは価値否定の価値である。価値否定の価 値といえば、背理の如く思われるかも知れぬが、いわゆる価値という のはノエマ的方向に考えられた対象的価値である。・・・かかる方向 にあるものは、いつも当為的価値の否定の立場に立つものでなければ ならない、存在価値は当為的価値を否定するごとに高まるのである。 」(西田幾多郎,1965b)

     「真に絶対無の意識に透徹した時、そこに我もなければ神もない。 しかも絶対無なるが故に、山は是(これ)山、水は是水、有るものは 有るがままにあるのである。」(西田幾多郎,1965c)
 すなわち、人はみな、存在の価値がある。人間の評価はすべて相対 的、対象的なものであって、存在そのものの真実ではない。 こうした自覚によって、 自己自身のすべての評価(罪の意識や差別観、無価観など)から解放される。
 こうした深い自己存在、すべての人の人格的自己を示唆している宗 教や哲学を、現代に、心理療法として、また、自己実現の生き方に、 さまざまな領域の人格がかかわる問題の解決のために用いていくのが 深い マインドフルネスであろう。マインドフルネス者が欧米の哲学よりも、日本的な哲学 を再評価してくれたといえる。しかし、ツインの「全体性」の説明を見てもわ かりにくいだろう。「全体性」は、体験的であるから言葉では説明しにくいのである。 西田哲学の場所の論理 ではある程度、論理的には理解できる。いずれにしても、禅(西田幾多郎や鈴木大拙は親鸞にも同様のものをみている)も西 田哲学も日本にあるものである。 西田哲学を評価する日本人が多くはないから前途はきびしいが、襌も西田哲学も日本のものであることと、目標や方法を哲学の言葉で語ることができること、日本は自己存在や人格にかかわる問題で苦脳する人が多いことから、日本がマインドフルネスを真剣に推進する時がくるだろうと思う。

  • ジョン・カバト・ツィン 1993a「生命力がよみがえる瞑想健康法 」春 木豊訳、 pp55-68
  • ジョン・カバト・ツィン 1993b 同上、「日本の読者の皆さんへ 」
  • 西田幾多郎,1965a 西田幾多郎旧全集、岩波書店、巻11,p424
  • 西田幾多郎,1965b 西田幾多郎旧全集、巻5,p177
  • 西田幾多郎,1965c 西田幾多郎旧全集、巻5,p182
  • 道元 1989 「道元禅師全集」春秋社、巻5,p37
  • 道元 1991 「道元禅師全集」春秋社、巻1,p2およびp3


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Posted by MF総研/大田 at 21:39 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL