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専門家にも我執が本質的 [2012年05月15日(Tue)]

<連続記事>日本にあったマインドフル ネス(4)
 =鎌倉時代に自覚された
 =絶対的アクセプタンスと絶対的 マインドフルネス
 =その後長く日本文化の根底に流れた
 =明治以 後現代もなお芸術で表現する人が現れる

 マインドフルネス、アクセプタ ンス(M&A)は、東洋にあったものと欧米のマ インドフルネスを推進する人たち は言います。
 特に、日本のものが独自性があるのです。インド仏教、中 国仏教とは違うの です。鈴木大拙の言葉を見ていきます。 禅学の鈴木大拙は、 哲学者の西田幾多郎の友人であり、二人の「自己」についての解釈が似ていま す。

専門家にも我執が本質的

 日本的霊性は、日本独特の自他不二 があります。インド、中国にはないものだと言います。
 欧米のマインドフルネス、アクセプタンスでも無評価であれというのです。 しかし、価値実現的でなければなりません。 これがたいそう難しいのです。無評価とは、主観的、独断的、自己中心的な評価的判断を抑制 することです。専門家でさえも偏見、ハラスメント、批判者を排除する、とても難しい。 色々な場面で、エゴ、いじめがみられるはずです。無評価でないのです。誠実でないのも 無評価でありません。
 日本の仏教は、インド仏教、中国仏教も似たところがあるが、日本 のものは違うと いう。 道元は、我見我執を捨てよと厳しく言った。そうでないと、正しい実践方法に長く集中することができず、道元のいう悟りをえることができないからだろう。正法眼蔵随聞記を見ると指導者の話をきくことが必須のようである。浄土真宗の場合も妙好人と言われるひとは、途方もない回数の話を聞いて、我執を捨てていくようである(あとで鈴木大拙の記事を見る)。そうすることによって、 今のことに集中(マインドフルネス)できて、深刻な問題(飢饉、戦乱が多く、生活は厳しく死の恐怖が多かったようだ)を克服(アクセプタンス)できた。 これも日本的霊性の特徴で あろう。

 自分の知性で得た説に執着して、実践してなかなか、問題の解決に至らないことがある。道元は、地性により、わかったというものを厳しく批判している。その程度で、他者(正しいものを教えてもらって解決したという人)を指導しては、かえって、損失を与えることになるからである。

 西田哲学は、ある立場に執着した個人の、我執、エゴが集団の構成員と関係 者を傷つけることを言う。 これほど、ある立場から見る我執を批判した哲学は日本以外にあるのだろうか。 専門家集団も我執によって行動して、周囲の人の幸福を妨害する、学問の発展 を妨げることがある。

独断と我執を去る、己を尽くす
    「自己の独断を棄てて、真に物そのものとなって考え、物そのものとなって行 うことでなければならない。そこには己をつくすということが含まれて いなければならない。」(『経験科学』旧全集巻9,300頁)

    「実践的自己に対して与えられるものは、無限の課題でなければならない。我 々の真の自己に対して与えられるものは、我々の生死を問うものでなければな らない。我々はどこまでも自己の私を去って物そのものとなって考え、 物そのものとなって行う、どこまでも真実を求め、真実に従う、そこに科学が あり、道徳があるのである。」(『経験科学』巻9,300頁)
 何らかの恩恵を受けている者が、恩恵を与えるものに有利な意見(ある立場を取ること)を言うとか 、恩恵を与えるものに迎合して行動するとかいうことがしばしば起きている。 御用学者とか、日和見者である。反対意見を封じる。批判意見をアクセプタン スしない。これが、社会の発展を妨げる。国民が不幸になる。
 マインドフルネス、アクセプタンスが盛んになってきたので、 こうした弊害がなくなることが期待できる。日本のマインドフルネスは、主観的、独 断的、自己中心的な評価的判断を捨てよ、不愉快なものも 受け入れて、価値実現の行為を選択せよというのであるから。これは、感覚、症状だけを言うのではない、 対人関係、集団における意見対立の不愉快さも受け入れることを言う。

専門家集団というものも独断的・自己中心的
     「否定すべきは、我々の自己の独断と我執でなければならない。無論 、矛盾的自己同一的な世界は夢と偏見とに充満することが、それに本質的でな ければならない。・・・各人の独断、各人の我執というものが、この世界に本 質的でなければならない」(『経験科学』巻9,301頁)
 権力や財力をかさにきて、批判意見を封じれば、いずれその団体は衰退していく。 後に批判されるという、歴史が証明する結果になることが多い。これを引用して板橋はこういう。
     「我々の自己が自己である限り、自らが世界において必然的に決定された存 在であるということを見失う事態も生じよう。我々の自己においては、自らが 自立的に自らの内に存在根拠を持ち、行為しうるものとして自らを基体化・実 体化し、それに基づいて世界を差配・統御しようとする恣意的で我欲的な契 機が備わっており、この契機が無くなることはありえない。「各人の独断 、各人の我執というものが、この世界に本質的でなければならない」」 (板橋勇仁,2008「歴史的現実と西田哲学」法政大学出版局)
 西田はまた言う。
    「否定すべきは、抽象的に考えられた自己の独断、断ずべきは対象的に考えら れた自己への執着であるのである。」(旧全集11巻,424頁)
「技術者(専門家)の我執、個人の苦悩、世界の歪曲」
     「しかし我々の自己が、自らの行為を行為的直観において実現することは、 たとえば技術の熟達と共に惰性化・粗雑化が起こるように、行為の実現を媒介 する絶対的な否定性を見失わせ、行為が我々の自己から連続的に限定し差配し うる事態であるかのように錯誤させるものであり、むしろそこでは、かえって 自己基体化・実体化の危険が強まることになる。 たとえば、さらなる修練によって、ひとたび惰性化・粗雑化する傾向にあった 技術が再び生き生きとしたものに取り戻されるなら、今度は技術の創造性と弾 力性とが増しただけに、再び惰性化・粗雑化する際には、より強固なそれに至 るまで、そして場合によっては修復が効かないところに至るまで、かえって事 態が顕在化しないということも起こる。そしてその技術がその人(のプライド 、経歴、名誉、収入、欲望など=大田注)になくてはならないものであればあ るほど、必然的にその人は自らの在所までも見失うに至るであろう。 すなわち、「形作られたもの」として我々の自己に与えられるものは、単に我 々の行為の障害になったり、我々の行為を否定したりするものだけなのではな く、むしろさらなる差配への欲望を誘うものとして「悪魔的に迫り来るもの」 なのであり、それは「我々を生かしまがら我々を奴隷化するのである、我々の 魂を殺すのである」(9,201)。ここに自己は、「形作られたもの」において自己 を奪われ、見失うことで、世界の抑圧の「奴隷」となり、果てなき苦悩の連鎖 に閉じ込められる。 しかしそのことは、世界それ自身が自らの本来から転倒し、自らを歪曲化する ことをもまた意味しよう。」 」(板橋勇仁,2008,P243)
 主観的、独断的、自己中心的な意見、思想、基準は、団体、社会の発展を妨害し、長期的 には、人を苦しめる。対立、闘争を起こし、自分の意見と対立するものを排除 する。アクセプタンスしないのである。これを批判するのが、仏教や襌の煩悩 を捨てよ、我見我執を捨てよ、自己保身のために社会のよきものを排除するな というのである。アクセプタンスせよというのである。
 リネハンの弁証法的行動療法でもこれを採用している。治療者の間で意見の 対立があっても、受け入れるようにと。治療者間の対立をそのままにしておいて、排除せず、 クライエントにとってよいものを探索して適用していく。 精神科医の粟野氏も、低級なエゴ的専 門家集団を批判した。

 マインドフルネスにも、浅いものから深いものまである。欧米の人が明らか にしたように、手法によって効能が違っている。似ていても、ある問題には、効果がないマイ ンドフルネスもある。 もし、肺炎を起こした人がいる患者、風邪を治したことしか知らない医者がい つまでもかかわってはならない。死ぬかもしれない。そういうふうなことである。

 深い問題で苦悩する人を浅いスキルのマインドフルネスでいつまでもかかわ ってはならないだろう。もっとスキルのある人にまかせることがその人の成長を支援することになる。スキルのない人が支援すると、その人の成長を遅らせる。生命にもかかわる場合がある。マ インドフルネス、アクセプタンスには、さまざまなものがある。日本の道元は 、中国の多くの禅僧を批判した。日本独自の襌となっている。親鸞上人の念仏 も日本独自のものであったと鈴木は言う。自己のすべてを包み受け入れられて 、他者を受け入れている根底のものに 目覚めることが絶対的アクセプタンスとなり、自己がなくなったところで働く ことが絶対的マインドフルネスなのであろう。これをあきらかにすることが、 日本のマインドフルネスの研究者でなければならない。 目標があって、そちらの方向に一歩でも進むことが成長となるだろう。

 専門家集団にも、エゴがあることを、粟野氏の警告をみました。
 マインドフルネス、アクセプタンスは、東洋哲学から出るものです。煩悩= 我見我執を捨てよというのです。根底の無我に目覚めないと、我執が自己や他者を 苦しめることになる。
 日本人は幸福です。徹底的マインドフルネス、徹底的アクセプタンスの伝統 があるのです。 それを理解しておいて、そちらに一歩でも向かう努力(=マインドフルネス)をしたほうがいいのです。高い目標を持って行為する(マインドフルネス)と、そちらに近づく、向上する、自己成長、自己実現するのです。死の問題についても克服するといいます。がんの人で、先を思わず、今を強く明るく生きた人を知っています。
 実践しない人が、鈴木大拙や西田幾多郎を批判するのですね。学問的知識で批判する。彼らよりも、「私の方が高い、偉い」という我執、驕りです。実践、行動しなければ、そして、日本的霊性を直覚しなければ、 わからないことがあるのでしょう。鈴木大拙の言葉をもう少し見ます。
Posted by MF総研/大田 at 21:27 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL