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霊性は精神の奥に潜在して居るはたらき [2012年05月13日(Sun)]

<連続記事>日本にあったマインドフルネス(2)
 =鎌倉時代に自覚された
 =絶対的アクセプタンスと絶対的マインドフルネス
 =その後長く日本文化の根底に流れた
 =明治以後現代もなお芸術で表現する人が現れる

 マインドフルネス、アクセプタンス(M&A)は、東洋にあったものを活用したと欧米のマ インドフルネスを推進する人たちは言います。
 特に、日本のものが独自性があるのです。インド仏教、中国仏教とは違うの です。鈴木大拙の言葉を見ていきます。

霊性は精神の奥に潜在して居るはたらき

 日本的霊性は、外にあるのではない。奥底にある。これに目覚めると 自他 不二となり、二元性を解消する。
     「霊性なるものを精神の外において、物質と精神との対峙の上に今一の対峙 を考える人があるかもしれぬ。そうすると頭上に頭を重ねるわけで、はなはだ 持って廻ったことになる。それ故、簡単に、霊性は精神の奥に潜在して居るは たらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、精神はその本体の上に おいて感覚し思惟し意志し行為し能うものといっておくのがよいかも知れん。 すなわち普通にいう精神は、精神の主体、自己の正体そのものに触れて居ない ものだといってよいのである。」(p33)

     「精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに 矛盾しながら、しかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的 直覚または自覚によりて可能となる。」(p30)
 これが、日本独特(インド仏教、中国仏教とは違うという=後述)であるの で、日本的霊性というが、鈴木は固い言葉でもいう。 普通の人が自分と意識しているもの(個己)の底にもう一つの自己があり、こ れを「超個己」という。意識される自己を内奥に超越した自己であるので「超 個己」という。この2つが一つであるのが真の自己とされる。
     「超個の人(これを超個己といっておく)が個己の一人一人であり、この一 人一人が超個の人に外ならぬという自覚は、日本的霊性でのみ経験せられたの である。インドで発展した浄土系思想は支那へ来て一宗建立の基礎概念となっ たが、千年以上の日月を経過しても、真宗浄土思想には転出しなかった。支那 民族の心理には超個己即個己、個己即超個己の端的をつかむものが十分に出現 し得なかった。もとよりこれは思想として、またはある種の直覚として説取せ られ見取せられたが、一人一人の往生ということは十分に意識せられなかった 。」(p110)
 もちろん、これから医療、福祉、教育、ビジネス、スポーツ、芸術などに貢 献すべきM&Aは、真宗や禅宗の「宗教」である必要はないし、宗教的な活動が禁 止されている場所では無理であろう。しかし、M&Aの研究者、支援者の育成者は 、なぜ、マインドフルネス、アクセプタンスであるのかの原点、根底の自己を 理解しておくのがいいだろうというだけである。類似していて、全く違う方向 に導くカルトが出現することもあるからである。カルトへの道でないM&Aの理論 を知っておいたほうがいい。特に、日本人の文化に流れる日本的霊性(西田哲学でいうと、絶対無に裏づけのある自他不二の自己=さまざまな苦脳を克服できる)は、イン ド仏教、中国襌とは違うというのである。外来のものであると、日本人には、 なかなか定着しないかもしれない。

宗教によらずに、日本的霊性を身につけるマインドフルネスができるか

 心理療法や自己実現の生活のためになるということをいうためには、心理学的ふうに、記述しなければならない。その際に、仏教の論理(大乗各派、日本仏教宗派によって違う)や用語を用いる とやはり宗教になるだろう。宗教の普及は困ると、問題視される場では、西田哲学の「場所の論理」で、効果があるわけを心理学的に記述できそうである。意志的自己レベルまでは、一応できた。 今後は、まさに、自他不二レベルの段階にはいる。広く深い領域に活かすためには、意志的自己レベルでは、不十分である。鎌倉時代の日本人から、広い深い領域の苦脳をみつめて、それぞれの人生を生き抜いた。それが、日本の文化、精神に受け継がれてきた。明治以後の芸術にも表現されるように、日本の精神の根底に流れつづけている。西洋には、みられない自己観、世界観であり、欧米の人たちも篤い関心をそそいでいる。
Posted by MF総研/大田 at 15:11 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL