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日本人に多かった死生観 [2012年04月25日(Wed)]

日本人に多かった死生観

 うつ病や不安障害などの改善は、意志的自己になればいいです。 見て、聞いて、考えるだけでは不足で、社会的な行動ができる自己であれば満足できます。 精神疾患を改善するマインドフルネス、アクセプタンス(M&A)は、意志的自己レベルの自己探求でいいという理由です。
 しかし、がんや他の病気で、死を覚悟する場合はこれではすみません。 前の記事でこう述べました。
     「ただし、末期になってから、死の恐怖の問題を持つ人は、1年もかけているこ とはできないので、特別のM&Aを開発すべきです。自然を自己と一体とする「日本的 霊性」による死生観によるものでしょう。魂が抜け出ていくという死生観ではなく 。どちらをとるか、その人の好みによるでしょう。本当は、60歳になったら誰で も、探求しておくべきことだと思います。告知されてからでも間に合うでしょう。 がんは5年10年の慢性疾患だそうですから。
 「死の準備教育」ということが提案されていますが、 そのうちの、死の覚悟の問題があります。死後も魂のようなものが身体を抜けて有 り続けるから、死を恐怖する必要はないという思想があります。これで死の苦痛を 免れることができれば、それはそれで尊い助言です。
 心と身体は別であって心(魂)は死後もあり続けるとして、死ぬ恐怖から救われ て、末期を安心して生きる道があります。 ところが、古来、日本人はそういうのとは違う死生観を持っている人もいたようで す。
 日本的なのは「私は死なない」のようです。日本には古来、無我、無心という ことがいわれます。無我ということは「意識された自己」がないということです。 盤珪は「不生ですむ」と言いました。自分はない、自分というものは生まれていな い、不生なものが死ぬはずがない。こうした、日本人の死生観があるようです。 西田幾多郎は後者のようです。こう言っています。
     「自己が物と合一するとか或いは自己がなくなるとかのみ考えるのであるが、 単に自己がなくなるのではなく、すべて有るものが自己に於てあるものとなるので ある。真に無にして見る自己というのはかかる過程的自覚を包んだ直覚面でなけれ ばならぬ。かくして我々は天光る月にも野になく虫にも自己の生命を感ずるといい 得るのである。」(旧全集5巻463頁))
 生きている今でさえも、自分がない、だから死ぬのは問題にな らない。これは、高度のマインドフルネス、アクセプタンスです。うつ病を改善する意志的自己(世界を対象的に見る)レベルのさらに、もっと先、外的世界ではなく自己存在そのものが問題となる苦脳、自己存在が消滅する苦脳のアクセプタンスが必要になります。その中で、最後までこの生を生きるマインドフルネスが必要になります。
 自分は創造的世界の創造的要素で、世界と自分は一つである。自分だけというものはない、世界は自己の命である。一方、世界と自分(魂)は別もので、肉体が死んでも魂はありつづける。
どちらも、死の苦脳の克服になります。わずか、余命数カ月という時、此の問題を探求するのか、それとも、60歳になったら、数年真剣に取り組んで決着 をつけておくか、自由にまかされています。しかし、そういう準備のなかった人を支援する 活動も、病院で死をむかえるので、今までは少なかったでしょう。がん患者は、数年にわたって苦脳があるのですが、メンタルケアというが、十分ではないといわれています。
<連続記事・目次>種々のマインドフルネス&アクセプタンス
Posted by MF総研/大田 at 21:51 | 人が怖い | この記事のURL