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当為価値、存在価値 [2012年04月04日(Wed)]
◆非定型うつ病はこんな病気
◆非定型うつ病はマイン ドフルネス心理療法(SIMT)ではこうして治す
◆非定型うつ病はマイン ドフルネス心理療法(SIMT)で治るわけ

<連続記事>
種々のマインドフルネス&アクセプタンス

 (6)当為価値、存在価値(4)

 マインドフルネス&アクセプタンス(M&A)として、日米、多くのものがあります。 自己とはなにものという哲学を持つかによって、アクセプタンス、マインドフルネスするものが 違ってきます。
 「自分とはこういうのものだ」と思っている(この思う立場にも、ちがいがあると西田哲学では いいます。浅い主観的、独断的、自己中心的な自我の立場からの思考から、絶対無の立場からの 客観的思考まで)そのレベルによって、対象としてみるもの、考える内容が違ってきます。日本 の芸術家は、深いものを見る人が多いのはこのせいです。 西洋には見られない「自他一如」の世界を描く芸術家がいます。
 舶来ものはすばらしいものが多いのですが、M&Aだけは、東洋が日本が深くて汎用性のあるもの を含んでいます。まだ発掘は始まったばかりです。広がりと深さは無尽蔵のようです。 プロゴルファー(故人)のことをちらっと書きましたが、ゴルフの場だけではなくて、人格的に すばらしい人でした。最期の最期まで対象的に意識的自己を見ることなく、前夜も死など意識さ せず、眠っている中で逝かれました。 すべての領域の人たちが探求すべきです。どこにも、自己の技・芸術の深さ、死や自己存在、人 権、人生の意味、生きることの意味、などを真剣に考える人たちがおられるはずだからです。
 「当為価値、存在価値」の結論のところを見ておきます。西田幾多郎の言葉です。
     「いわゆる価値というのはノエマ的方向に考えられた対象的価値である。これに反し、ノエシ ス的方向に無限の超越を考え得るならば、すなわち存在価値というものを考え得るならば、かか る方向にあるものは、いつも当為的価値の否定の立場に立つものでなければならない、存在価値 は当為価値を否定するごとに高まるのである。」(旧全集5巻177頁)
 ノエシスは自己の心の奥の方向、作用の方向、内奥の自己自身の方向で、ノエマは対象的方向、外側の方向です。
 存在は「あること」「事実そのまま」です。当為は「あるべきこと」「あるはずのこと」です 。善悪、好き嫌い、などの評価です。主観的、独断的、自己中心的な評価です。 浅い自己から深い自己まで、その立場の「価値」を描く、そしてそれを実現しようと意志的行動 を起こす。日々、行動する。意志的自己は、自分の こうありたいという人生像(幸福な生活、職場、家庭など)を描く。それが実現していないと嘆 く、浅いレベルの「当為的価値」を持つ。一般のうつ病、不安障害はこのレベルの実践で軽くな る。精神疾患の領域である。
 しかし、このレベルでは、すまない領域がきわめて多い。例として、虐待された、犯罪被害に あった女性などの苦悩、救済できなかった後悔に苦悩する人、うつ病ではなくて、自己否定の意 識に苦しむ問題。もう一つは、高度の技を駆使するスポーツ、芸術家の苦しみ。 こういう段階は、意志的自己のM&Aでは、まにあわない。 そういう職業に関連する人の、叡知的M&A、人格的M&Aは適用してみると貢献できるところがありそ うです。「だめだ」「悪だ」というのは、対象的な評価です。これを、作用的方向、作用を起こす内奥のものの方向に越えていくほど、事実、存在に近 づく。再奥は、自己存在そのものであり、善悪、好嫌の当為価値がみられない。存在そのものに なる。「存在価値は当為価値を否定するごとに高まるのである」という。自分はだめだ、悪だ、価 値がない、と苦しむ(人生設計が実現しないという意志的自己レベル、うつ病ではない)が、み な、当為的価値と意識した自分のギャップに苦しむ。当為的価値を否定する心の訓練をしていく と、存在そのものの真相に迫っていき、存在価値が高まる。これによって、救済された意識にな り、自己を没した行動となってすべての場面での行為が違ってくる。
 自己は、人間は、存在する価値がある。善悪の当為的評価の対象ではない。うつ病ではない自己嫌悪、人格的否定に苦脳する人の救いであろう。
 こういう領域は、精神疾患の治療の領域ではない。東洋的M&Aはそういう領域まである。 SIMTはそこまで、含める。セッション10の先にある。
 アクセプタンスとは受容である、包むということ、それぞれのレベルの不快なこと、矛盾が在ることを許容できるという意味を持っている。西田哲学によれば、最も深い人格的自己は、すべてを包むという。だから、アクセプタンスのきわみである。元来、西田哲学は、マインドフルネス、アクセプタンスがブームになるはるか以前、昭和20年に死亡した西田幾多郎がまとめた東洋哲学、日本文化の底にある哲学である。行為、直観、自己などを論理的に説明している。東洋の仏教哲学の位置づけもしている。日本人は、アクセプタンス、マインドフルネスを脱落即現成とか、必然即自由、否定即肯定などと言語表現してきた。それには、アクセプタンス、マインドフルネスの意味もある。M&Aの枠組みに西田哲学をあてはめて、体得する実践を示すのが、自己洞察瞑想法/療法(SIMT:Self Insight Meditation Tecnology/Therapy)であるといえる。 すべての人間の営みのところに生きるものである。浅いレベルの技法は、深い問題には効果がない。薬も問題によってあうものを用いるのと同様である。
 東洋には、特に日本には、さまざまなM&Aがある。それを西田哲学は論理的に教えている。それを実 現するためには、実践しなければならない。浅いレベル(魂みたいな実体が自分であるとみて、 世界を外にみている自己)のM&Aから深いレベルのM&Aまで、必要に応じて。
 受容するものや集中するものの、意識レベルが違うので、全体像を知って行うのは、世界全体の海図を持って航海に乗り出すようなもので、知らずに乗り出すのは、近辺だけの海図を持って船出するようなものかもしれない。メタ認知心理学が始まったように、違うレベルの意識作用があって、西田哲学では「自己限定作用」と言っている。自己が違うと、深さの違う作用を使うという。 深さが違うので、意識的に訓練しないと、高次のレベルの作用はできない。たとえば、坐禅のように、意識的に訓練しないと、高次の作用は、自然に常に獲得される作用ではないから。うつ病は人生の目的が実現しないのだから、行動する意志作用のレベルであり、思考レベルではない。いかに、いいことを思考できても、行動できなければ、苦痛は継続する。 不安障害も考えればわかる。電車で、もう一度パニック発作が起きるかどうか確定しない、死ぬことはないと思考できても、行動できない。電車に乗れない。思考よりも深い意志作用の対象にマインドフルネスでなければならない。もっと、深いレベルの葛藤は、意志作用でも間に合わない。
 幸い、西田哲学の研究者は多いから、西田哲学は学習できる。しかし、読み理解することと、行動することは自己のレベルが違うと、西田哲学自身が教えている。意志的自己も、叡智的自己も、人格的自己も行動する自己であり、やってみないと真にわかったとは言えない。 西田哲学をやさしく教えてもらって、それに導かれて、当為的な価値評価を捨てる行動をしていけばいいいのです。
<連続記事・目次>種々のマインドフルネス&アクセプタンス
Posted by MF総研/大田 at 08:32 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL