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宮沢賢治の「自他不二」の世界 [2012年04月01日(Sun)]
◆非定型うつ病はこんな病気
◆非定型うつ病はマインドフルネス心理療法(SIMT)ではこうして治す
◆非定型うつ病はマインドフルネス心理療法(SIMT)で治るわけ

宮沢賢治

『マグノリアの木』

 金子みすずは、普通の人がみえないところを見る人ですが、宮沢賢治もそうです。宮沢賢治は、仏教の深い哲学を見ていたようです。マインドフルネス&アクセプタンスは、それに似た哲学にささえられています。 彼の童話のひとつが『マグノリアの木』です。

しのびをならふ道場

 諒安という人が、峰から谷へ、谷から峰へ歩いていく。次の記述があります。 仏教や東洋哲学の「自他不二」が理解できないと、この文は不可解でしょう。自他一如は、西田 哲学では、自己の中に世界があり、世界の中に自己があるという。自己を無にすれば、すべての 客観(他、世界、宇宙)が自己となる。この立場から、不可解な表現がされる。 「お前の中の景色」とはこれです。山が自己である。自己の中に山、世界、すべてがある。
    「つやつや光る竜の髯のいちめん生えた少しのなだらに来たとき諒安はからだを投げるやうにし てとろとろ眠ってしまひました。
    これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりももっとほんと うはこれがお前の中の景色なのだよ。
     誰かが、或いは諒安自身が、耳の近くで何べんもこう叫んでいました。
    (そうです、そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方 がないのです。)諒安はうとうととこう返事しました。
    これはこれ
    惑ふ木立の
    中ならず
    しのびをならふ
    春の道場

     どこからかこんな声がはっきり聞こえて来ました。諒安は眼をひらきました。霧がからだにつ めたく浸み込むのでした。」(1)
 「ここは、しのびを習う「道場」。『かしわばやしの夜』では画かきが清作に何度もしのばせ る。「しのびをならう春の道場」
 賢治は法華の行者を自負していました。その人が、「しのび」といえば、大乗仏教の「六波羅 蜜」の修行の一つ「忍辱」でしょう。忍辱などの行によって、「ここ」「自分」を追及する。自 分がいつもいるところ、「ここ」が仏教者の道場。
 「忍辱」とは、大智度論などに詳細に説かれているが、道元の正法眼蔵「一百八法明門」によ れば、次のとおりである。
    「忍度是れ法明門なり、一切の嗔恚、我慢、諂曲、調戲を捨し、是の如きの諸の惡衆生を教化す るが故に。」 (2)
 六波羅蜜は、六度ともいい、この文では、忍度となっているが、忍辱波羅蜜のことである。要 するに、忍辱とは、貪瞋痴などの煩悩、つまり、自他を苦しめる汚れた心を捨てていく生活実践 である。賢治の期待するものの真剣さがわかる。 なお、忍辱は、怒り・不満などをかかえながら爆発させないというような意味の「我慢」という ことではない。自分や他者を苦しめる元になる幅広い汚れた心作用が煩悩であるが、それを捨てていく。マインドフルネス、アクセプタンスで「無評価でみなさい」ということにあたる。 色眼鏡をかけてみない訓練をしていく。

 「これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。」
いま。どんな境遇であろうと、それが自分の世界。貪瞋痴などをすてて「忍辱」しながら、受け 入れていくべき、自分に当たり前の世界。
 「これがお前の中の景色」。山川草木は自分の世界、自分である、それを探求するのが宮沢賢 治の仏教であった。
それを自覚した時、世界が異なって見える。それは、この後に感動の言葉で語られる。
    「けれども何というこの立派さだろう。」
 すべてが、自分の世界、この自分が作るもの、と自覚した時、「何というりっぱさだろう」と 自己と自然がひとつ、自己と他人がひとつ、というそのような自己のすばらしさに感動する。だが、 諒安は、まだ、そこにはとどいていない。
 

(注)
  • (1)宮沢賢治全集6、137頁。
  • (2)「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1990年、444頁。
Posted by MF総研/大田 at 00:04 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL