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種々のマインドフルネス&アクセプタンス(2) [2012年03月29日(Thu)]
<連続記事>
種々のマインドフルネス&アクセプタンス

 (2)「自分とは何か」が子どもの見方と大人では違うように個人によって違う

 マインドフルネス&アクセプタンス(M&A)として、日米、多くのものがあります。仏教が種々 に分かれたのと類似します。マインドフルネスはだいたい「何かへの集中」または「自己実現の 何かの行為」で、アクセプタンスは大体「不快な何かの受容」です。だから、それが、何に向か うか、何を受容するかによって、種々のM&Aがあるのです。仏教も色々だったのです。
 何にマインドフルネスするか、何をアクセプタンスするか。広さと深さに違いがあります。 そのことによって、受容できる範囲と深さ、集中・行動できる範囲と深さが違ってきます。

 仏教では「真の自己」といいますが、宗派と研究者によってさまざまな解釈がありますので、 わかりにくくなっています。何か説明すると「それは実体を認めているから仏教ではない」と厳しく批判される。自己とは何かということの差異によって、行為も受容も違ってくる。反社会的宗教カルト)によっては、ある資質があると承認されたものが真の自己であり、死後に理想世界にいけるといい、特殊な行為(マインドフルネス)、受容(アクセプタンス)を指導する。だから、自己とは何かという哲学を鮮明にすることは、研究者、指導者にとって大変重要です。
 そういう「自己」「自分」とは何かを探求するM&Aもあれば、そういうことを探求しない形式的 M&Aもあります。多分、子ども向けは、形式的M&Aになると思います。まだ、自分とは何かの探求 は必要なく、授業、学習、先生の話など対象的なものに集中することや、対象的なものに不快なことや刺激があっても勉強を中断したり、不登校にならないM&Aが求められるでしょう。 注意欠陥の改善のトレーニングも期待されます。作用や自己自身を探求しなで、自己自身は探求せず、単に集中、受容する段階です。 自己洞察瞑想法/療法(SIMT:Self Insight Meditation Tecnology/Therapy)の技法の中にも、それに応用できる初歩的な手法があります。 形式的M&Aは、 西田哲学で、判断的自己、知的自己の行為だと思われます。大人になっても、「自分とは何か」をこのようにとらえている人も多いのです。もっと深い自己であったのに、世界の外に魂のようにある自己になってし まうことがあります。外部環境が自分と対立して、不安、恐怖の世界となり、受容も行為も阻害されることが多くなります。
 西田哲学では、「自分はなにものか」と考えているのに、色々あって、判断的自己、 知的自己、感情的自己、意志的自己(自覚的自己)、叡智的自己(これに3段階ある)、人格的 自己と深まるといいます。 そうすると、その人が、受容すること、集中・行為することが違ってきます。

判断的自己

 判断的自己は、山、川、他人、仕事、電車などを自分とは対立して外部にあるものとみます。 自然界や職場は自分の外部にある「あれは、山である、川である・・・」と判断する。外部にあ る自然界や職場などのものを「判断する(魂のような)のが自分」だと思う。 子どもはたいていそういうものを自分だとみなしているでしょう。大人でもそういう人がいる。 学校や職場が快適でない場と判断すると、避けて自分をその場所におかないようにして、自己と生きる場所が分裂します。対立します。

知的自己

 自分の見方が少し深くなると「知的自己」になる。自然界にあるもの、山、川、他人、仕事、 電車などは、自分の意識作用で見たもの、意識で知るものとなり作用的存在になる。「自分は意 識して知るもの」だと思う。外部のものが自分とは無関係ではないが、「自分は対象的に外界の ものを見て知るもの(やはり自己を対象とは別のものとみなしている)」だと思う。自分につい てよくわかっているわけではない。
 こうした程度のものを自己と思っている人の、マインドフルネス、アクセプタンスがあること になる。子どものアクセプタンスは限界がある。大人ならば受容できることが子どもにはできな いものがある。しかし、形式的M&Aでも、子どもとして健全な行為ができないとか、子どもとして 不快なものを受容できない子がいるので、形式的M&Aは習得したほうがいいことになる。成人になって、社会に出るころは、もっと深いM&Aが要求される。高校、大学で習得したほうがいい。さもないと、社会に出た途端に、受容できずうつ病になる。

意志的自己

 成熟した大人は、自分やもの、人についての見方が深くなる。大人になると、意志的自己(自 覚的自己)にまで深まった人が多い。自分の種々の心理作用を統合して、不快なことを受容して 、建設的な行為をしていく。このレベルのM&Aがあり、それが不十分な人は心の病気になったり、 家族を病気に追い込んだり、DVや犯罪を起こしたりする。受容できる範囲が限られていて、職業的な領域において、自分 の得意技能については、M&Aがすぐれているように見えるが、家族とのM&Aや、状況が大きく変化 した時のM&Aはできなくて、心の病気、家族のDV,犯罪などが起きる。 自分は、ちゃんとした意志的人間である、まじめに仕事をする、家族も大事にする、そういう人 間(自分)だと思っていた人が、50歳、60歳でうつ病になる、自殺するおそれもある。意志 的自己、叡智的自己を確立していなかったのだ。病気になってからは、知的自己レベルになってしまう。せめ て、ちゃんとした意志的M&Aを習得したほうがいいことになる。
 ところが、病気にはならないが、まだ苦しむ場合がある。

叡智的自己、人格的自己

 職業人のストレス、人間関係も心の病気のレベルではない。一人前の大人、意志的自己のつもりである。解決は、意志的自己よりも深いレベルになる。 別の、たとえば、相当の高い水準にある専 門家がスランプになり、満足できない事態になることがある。たとえば、スポーツ、芸術関係で 、かなりの高い業績をあげているのに、いつしか満足できない自己がある。力を十分に発揮でき ていない。意志的自己のレベルの苦悩ではない。もっと深いところの行為と受容ができていない 悩みである。むしろ、そういう人は、M&Aのカウンセラーよりも、意志的M&Aにすぐれているので ある。スポーツや芸術における 苦しい訓練、練習、師や聴衆、ファンの厳しい指導や評価を受容して、高いレベルの技術、作品を生み出 してきた。それなのに、スランプに陥る、満足できない。そういう人に、形式的得M&Aは通用しな い。
 仕事を持っていても、他のことは問題なくても、自己評価の低さに苦しむ人がいる。親に否定されて育って成人してもなお自己評価が低い人、虐待された人、暴力や犯罪の被害にあい人格を否定されて苦しむ人。こうしたことから自分を価値がないと思い込み、人を愛することもできず、死にたくなる人。こうした苦悩は、考えられた内容の自分を自分と思いこんでいる。真の自己の洞察探求で救済されるだろう。

 どのレベルの何にマインドフルネスするか、何をアクセプタンスするか、幅と深さが違ってく る。
 西田幾多郎は、意志的自己、叡智的自己よりもっと深い自己となり叡智的世界に住む人がいるという。 日本には、昔から、人間の深いところを探求して、人がみえないところを見ている人がいる。意 志的世界よりも深い、物我一致とか、自他一如とかいう人がいる。彼らは、深い世界を見て、深い世界に生きている。反響と応答によって、同じ世界に生きていることを了解しあう。 こkまでになると人格的自己である。
 西田幾多郎はこんなことを言う。住む世界が違う。
     「我々の真の自己は、意識一般の底に、なお自覚の意味を深めることによって、考えられる叡 知的世界に住んでいるのである。」(論文『叡智的世界』)
 この現実の世界が叡智的世界なのである。地獄世界である人、極楽世界である人、浄土の世界である人など「宗教的」 な言い方がある。生きている世界(と自分)が人によってさまざまなのである。 この世界がそのままで、個人によって種々の世界に見える。
 西田幾多郎は、叡智的自己の人は叡智的世界に住んでいるというのである。さらに深いのが人格的自己である。その 同じ世界の住人は、「我と汝」であるが、浅い意識世界に住む人は「僕と君」という論考もあっ た。 叡智的自己は、浅い自己が外部のものとみる客観(自然界も内的世界も)が自己と別ではないと 見る。不快なものも自分の中にあると見る。 そうなると、その人の見方が違うので、マインドフルネスもアクセプタンスも、いきかたも違っ てくる。M&Aには、さまざまなレベルのものがある。たいていの苦悩は受容し、自己実現の行為が できるようになっている。

大乗仏教の時代と違う社会

 欧米のマインドフルネス推進者は、東洋哲学を応用したという。だから、東洋哲学であり、西洋哲学を包んで世界の哲学となりうる可能性を持つ西田哲学を大切にしたいものです。西田哲学は、仏教の弱点さえも指摘しています。その仏教さえもが、研究者(学者)によって、まちまちな解釈がされていて、何が仏教なのかわかりにくい。
 時代が違っている、一般人は年貢をおさめるために働くものと定められて、仏教修行ができず、僧侶だけができた昔の時代(古代インド、王朝時代の中国、日本の鎌倉時代、江戸時代)に帰るのではなく、現代の環境と現代人にふさわしい、僧侶、学者だけのものではない、すべての人のM&Aが開発されたらと願っている。そうなると、子ども向けのM&Aから、自己存在のあやうさに直面した人向けのM&A、末期まで自己を探求したい人向けのM&Aまで必要となる。欧米に発信すべき日本独自のM&Aもある。まさに、仏教と類似するM&Aだから、すべきことは山積なのである。

現代社会への具体的現実的適用

 私の今の関心は、(1)医師以外の人もうつ病、不安障害などを治すスキル(これをもてばすべての領域に適用できる)を持つという活動領域、(2)被災地におけるうつ病、自殺の防止の領域、(3)欧米のM&Aと違って日本独自の西田哲学を実践化するM&Aを何とか文書化する領域、である。もう2,3年しか活動できそうもなくここに集中していきたい。
 (3)の領域は、今年、本で公開できる。いたるところに、西田哲学の論理が応用されている。 西田哲学の論理の実践化である。普通の人の意識で理解できる 自覚的自己のレベル (メタ認知の心理学に類似する。意識を意識する意志作用) ではあるが、叡智的自己の作用である直観の実践の初歩も含まれている。これを習得した人は、意志作用を越えた自己形成作用としての「直観」を使う叡智的自己へ、そして自己なくして見、行為する人格的自己への実践に入ることができる。 この段階の詳細は、まだ文書化がされていない。この段階を「マインドフルネス研究会」で実践していこうとしたが、参加者が少なくて、習得できるのかどうか詳細な手法を実験できていない。襌ならば、「公案」を使う実践であろうが、M&Aならば、西田哲学の叡智的自己、人格的自己の論理に導かれての論理的説明(智慧である)に導かれての実践(禅定である)になることと思う。 すべて客観を自己とする叡知的自己の実践と西田哲学探求、ついで、自己が全く消えて世界のみとなる人格的自己の実践と西田哲学探求になるだろう。単に、西田哲学研究は、哲学研究者にゆだねて、M&Aは、実践への方法の説明、実践、体得、そして、社会での活用である。活用が上田薫氏の願いのところではないかと思う。活用もマインドフルネスであろう。
<連続記事・目次>種々のマインドフルネス&アクセプタンス
  • (続く)
  • Posted by MF総研/大田 at 20:13 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL