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金子みすずの広い「こころ」 [2012年03月21日(Wed)]

金子みすずの広い「こころ」

 =芸術にも人格と人格との応答

  • 「団体の意向が個人に命令として迫る」
  • 「私と汝・君と僕」
  • 「私と汝の間には反響と応答」
  • 「芸術にも人格と人格との応答」の 続きです。

    金子みすずの広い「こころ」

       西田幾多郎によれば、芸術的創造作用の底にも、人格と人格の反響、応答があるのです。
       「芸術的創造作用の底にも、人格と人格との応答といふ如き意味がなければならない。我々が自己に於て他を見ると考える時、我に対するものは自己自身を表現するものといふ意味をもつと云ったが、同時にそれが我々の自己を自己として限定するという意味に於て、それが直覚的と考えられるものでなければならぬ。」(旧全集6巻394頁)
     金子みすずの詩に深い底があるように思えるのです。  私にひびく詩をさらに検討します。

    金子みすずの詩「こころ」

    金子みすずの詩「こころ」を読みます。

    →詩の全体はこちらのHPでご覧になれます。

    「こころ」の詩の中に・・・。
    「お母様の/おこころは小さい」
    「小さい私の/こころは大きい」
    とでてきます。

     この詩も面白いです。 母のこころに私があり、私のこころに母がある。この言葉は、西田幾多郎の「私と汝」(→こちらに)にそっくりなのです。
      「私の底に汝があり、汝 の底に私がある、・・・」(旧全集6巻381頁)
     そして、こころの大きさが違うといいます。私のこころのほうが大きいというのです。 西田幾多郎の次の言葉と比較すると面白いのです。
      「自己が自己の底に超越するということは、自己が自由となることである。自由意志となることである。自由意志とは客観的なるものを自己の中に包むことである。しかし、意識一般の如く対象がなお自己自身の内容でない場合は、自由なる自己とはいわれない。真に自由なる自己は自己自身の内容をもたねばならない(内容なき意志は意志ではない)、しかもこれを自己自身の内容として内に包むものでなければならない、すなわち自己自身の於いてある場所となるものでなければならぬ。」(『叡智的世界』旧全集巻5-173)
     私のこころの方が大きく、余裕がある、他のことも思う、これは「自由」のようです。 お母さんは、私のことだけであり、自由ではない。
     西田によれば、自己が深くなるほど、包むものが広くなっていく。 最も深い底(絶対無)は、すべてを包むという。 お母さんは小さいという、深くないという意味なのかもしれない。母さんは自覚していないから「君」、みすずは「私」。でも、母さんのこころも、私を容れるこころを認めている。
  • Posted by MF総研/大田 at 21:21 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL