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私と汝の間には反響と応答 [2012年03月19日(Mon)]

私と汝・君と僕

 =人間関係の中の私と汝

  • 「団体の意向が個人に命令として迫る」
  • 「私と汝・君と僕」の 続きです。

    私と汝の間には反響と応答

     自分と他人とは絶対の他であるから、他人の意識を知ることはできない。 しかし、人格的自己に深まった個人同志は、行為の反響と応答によって、その人が、人格的自己 であることを知る。互いに知り合う。
     すなわち、相互に相手の底に絶対無(すべての根源)を認めるもの同志は、相手の行動や言葉が反響して、相手 を知るのである。家族でない他者の場合、「見抜く」というのがいいであろうか。そして、尊敬する のであろう。親子、夫婦の場合、互いの人格を尊重して愛するのであろう。君僕関係とは違う反 響、応答があるだろう。何を言っているのかわかりにくいかもしれないが、宗教のように、情的にたとえて言う と、相手(自分の親、子、配偶者)が単なる人間ではなくて「底に絶対(仏性、神性のような)を持つもの」「いわば観音、菩薩」であると認めて、敬う ようなものと言えば、わかりやすいだろうか。大乗仏教では、菩薩が、様々の職業を持つ人であるという。様々な姿になって現実社会の中にいるという。
     西田幾多郎の言葉を私はこれと類似するものと解釈している 。自分の家族や友人の根底に絶対無を認めて、敬うのである。 宗教によらずに、西田哲学の探求、実践によっても、こういう人間関係を知ることができる。
       「私と汝とは各自の底に絶対の他を認め、互いに絶対の他に移り行くが故に、私と汝とは絶対 の他なると共に内的に相移り行くと云ふことができる。・・・故に私は私の人格的行為の反響に よって汝を、汝は汝の人格的行為の反響によって私を知るのである。我々が各自の底に絶対の他 を認め互いに各自の内から他に移り行くといふことが、真に自覚的なる人格的行為と考えられる ものであり、かかる行為に於て私と汝とが相触れるのである、即ち行為と行為との応答によって 私と汝とが相知るのである。」(旧全集6巻391-2頁)

       「私が他人の思想感情を知ると云っても単に私と他人とが合一すると云ふことではない、私の 意識と他人の意識とは絶対に他なるものでなければならない。私の意識は他人の意識となること はできないという意味に於ては、私は絶対に他人の意識を知ることはできない。 絶対に対立するものの相互関係は互いに反響し合う、即ち応答するといふことでなければならな い。何処までも独立に自己自身を限定するものが、自己限定の尖端に於て合結合するのが応答と いふことである。」(旧全集6巻393頁)
     2人の人が会う時に、言葉を交わし、態度行動をみせる。それが相手の底を通って反響して、応答して 、互いを知る。もし、2人のうち、一方が「君僕関係」であれば、反響は起こらないで、応答も 浅く、くいちがう。
     芸術作品についてもそう言える。人格的自己や絶対無を表現しようとする作品であ る場合、それを鑑賞する人が「君僕関係」であれば、作品から人格的反響は起こらないで、作者との間 の応答もくいちがうのであろう。日本の芸術には、自他不二、絶対無を表現しようとしたものがあると思う。松尾芭蕉は「物我一智(一致)」(下記)と言ったし、宮沢賢治や金子みすずのほか多数あると思う。
      「ただ小道小枝に分別動きそうろうて、世上の是非やむ時なく、自智物をくらます処、日々より月々年々の修行ならでは物我一智の場所へ至るまじくぞんじそうろう。」(元禄 7年怒誰あて書簡)
  • Posted by MF総研/大田 at 19:14 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL