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究極のM&Aを求めて [2012年03月06日(Tue)]

西田哲学とマインドフルネス心理療法

 自己洞察瞑想療法(SIMT:Self Insight Meditation Therapy)の、セッション1から10まではやさしい。高校生くらいの人が理解できるように説明している。真剣に取り組むならば、実践も難しいものではない。多くの人が治っていった。
 有効な理由を論理的に説明したいと思っている。マインドフルネス、アクセプタンス(M&A)は、もともと日本にあったのだから、欧米の人に頼ることなく、日本的なマインドフルネス、アクセプタンスを構築したいと思っている。さもないと、M&Aを学ぶためには、欧米にいかなくてはならないような風潮になってしまいそうである。
 日本にあったM&Aを構築する時、西田哲学が究極のアクセプタンスと究極のマインドフルネスを論理的に説明できると思う のである。しかも、西田哲学は、実践的、求道的であり、そこに至る実践をも示唆していると思う のである。苦の解決も、自己実現も、浅いものから深いものまであるから、人の求めるレベルに応じて提供できる可能性がある。うつ病を治すためならば、高校生レベルの理解力で理解できる程度の説明(理論)と実践ですむ。今、執筆中の本はそのレベルである。

自覚的直観(創造的直観)

 西田は、行為的直観という概念を導入している。 見る局面と行為する局面がどちらが先ともいえないし、別ではない。 見て行為し、行為しつつ見る。 その行為的直観にも、種々のレベルがある。世界の自覚まで深まる直観がある。 行為的直観は広い概念であり、最も深い直観が、自覚的直観(創造的直観)である。このことは 、こちらで少 し見た。
     「科学と哲学との立場の相違及び関係を明にするため、行為的直観と自覚との関係について、 一言して置きたいと思ふ。私は我々の自己は行為的直観的に自覚するに至ると考へるが、行為的直 観が自覚と同一であると云ふのではない。但、抽象的思惟的に自覚するといふ如き考に反対するの である。私の行為的直観と云ふのは、我々の自己が、世界を映すことによって働き、働くことによ って映すと云ふことに外ならない。矛盾的自己同一的世界に於いての自己と世界との関係である。 自覚と云ふのは、矛盾的自己同一的世界が自己の内に自己を映すと云ふことである。世界が世界自 身に対する関係である。併し此の二つの事は、矛盾的自己同一的世界に於て一つの事である。 我々の自己が世界を映すと云ふことは、逆に世界の一観点となることである。世界の立場から云へ ば、世界は自己の内に自己を映すと云ふことは、自己矛盾的に無数の個物が世界を映すことでなけ ればならない。我々の自己の自覚と云ふのは、自己が何処までも世界を映す、自己が全世界を表現 する、自己が世界となるといふ立場に於て成立するのである。我々の自己が、一つの世界として、 自己の内に自己を映すと考へることである。科学と云ふのは、上に云つた如く、我々が現実に、歴 史的身体的に、即ち行為的直観的に、自己自身を形成する形を見ると云ふに基く。」 (『知識の客観性について』)(旧全集巻10-470頁)(初出:『思想』昭和18年1月-2月)
 最も深い直観は科学や学問の立場でもある。全く我見のない事実そのままというものである。 人間の営みのいかなる利益、立場に立たない、事実そのままである。だから、客観的事実、科学的 知識である。科学者としての個人はそうあるべきなのである。学問の立場は、個人的な見解であっ てはならずに、世界の見解なのである。そのように自覚できる科学者は世界の立場であり、我見が 全くない。(現実には、学問の形をしていて、自己か何らかの立場を擁護しているものがある。現実には学問の領域にも我執があるということである。西田哲学はそこを批判しているのである。)

     「創造的自己の自覚的直観と云うのは、即ち此の論文の立場であるのである。考えるものが考え られるものである。之が自覚的直観である。すべての知識は此の立場から基礎づけられるのである 。・・・
    ポイエシス的自覚とは歴史的身体的自己の自覚に外ならない。然るに我々の自己が技術的に物を作 ると云ふことは、創造的世界の創造的要素として可能なるのであり、それは世界の表現的自己形成 として、創造的直観の性質を有っていなければならない。世界自覚の過程として我々の個物的自己 の自覚的直観に基礎附けられて科学的知識となる。それは一者の自己表現として、論理的に基礎附 けられると云ふことに外ならない。」 (『自覚について』同562頁)
 ところで、私の関心は、マインドフルネス、アクセプタンスの実践である。 色々なマインドフルネス、アクセプタンスの流派があるが、日本的なものができないのかと模索し ているのである。日本には、自他不二の哲学があり、そこに究極のM&Aがあると予測している。実践 的求道的な西田哲学と、まさに実践される禅があるからである。
 直観が受容、行為がマインドフルネスととらえて、心理療法とする。心理療法を越えて、さまざまな産業領域、学問科学の領域の実践的倫理、すべての人の人格尊重、自己成長、自己実現の根拠としたい。
 最も深い意識が 自覚的直観(創造的直観)であるというが、それはまた、宗教的立場であるという。宗教といって も無数にあるが、最も深いものが、自覚的直観(創造的直観)によるものである。 そこでは、宗教的意識となり、自己が 絶対無に包まれ、悪なる自己がそのままに絶対に受容されているという自覚になるという。 ここに、究極のアクセプタンス(受容)と究極のマインドフルネス(創造的行為)があ ると思われる。
 現実の世界は、必然で自由なる世界ともいうが、必然であるために受容せざるをえない。究極の 受容である。しかし、自己は必然として与えられる現実の中で、自由意志を持ち行為できる。究極 のマインドフルネスである。ただし、人間は自由なるがゆえに、自己の利益、自己の立場に立つ悪性への自由を持つことが本質的である。不断に己をつくす、己を捨てる実践がなければならない。
 私は、マインドフルネスの論理を西田哲学のこちらの方向からさがそうとしている。
    自覚的直観(創造的直観)には、究極の受容(アクセプタンス)と究極の直観的行為(マインドフ ルネス)の側面がある。それを、私は創造的受容、創造的行為と呼ぶ。科学、学問の立場(我見を交えない態度)、そして深い宗 教の立場(受容されている)。人間の意見で、自分(の属する集団=世界でも)の立場で、ゆがめられていない事実。
     うつ病や不安障害、過食症は、意志的受容、意志的行為の実践によって、治癒する。それで解決しない問題は叡智的受容、叡智的行為で解決する。さらに深い問題は、創造的受容、創造的行為で解決する。
 欧米の、マインドフルネス、アクセプタンスとは、微妙に違うところがあるかもしれない。東西の哲学の違いがあるかもしれない。日本には、古くから、自他不二の哲学がある(無我、無私が近い)。そこに、日本独自の、日本人が受容しやすいマインドフルネス、アクセプタンス(心理療法に限らない) を構築できるかもしれない。
 M&Aにも様々なレベルがあり、うつ病を治すレベルは浅いもの(意志的レベル)でよいことがわかってきた(臨床のデータにより)。しかし、提供者(セラピスト、および他の領域のマインドフルネス提供者)としては、そのレベルは浅いものであることを認識しておきたい。科学的学問的(=西田がいう最も深い宗教的)立場からの位置を心得ておきたい。M&Aは、どこまでも深いものがあって、提供者にも、不断に実践が求められると思う。

(続く=まだまとまった論文になっておらず、思索ノートです。日本独自のM&Aの構築にみなさんも参画していただきたい )
Posted by MF総研/大田 at 18:40 | 新しい心理療法 | この記事のURL