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自己成長・自己実現を妨げる個人悪・社会悪 [2012年03月05日(Mon)]

西田哲学とマインドフルネス心理療法

世界に通用するはずの西田哲学が日本人からも無視される

 今、マインドフルネス、アクセプタンスが欧米から翻訳輸入され始めているが、西田哲学の実践 化が、ほぼ類似し、或いは、欧米のものよりもはるかに深いものを持っているかもしれない。なぜなら、欧米のマインドフルネスの人たちは、東洋哲学に学んだという人がいるからである。東洋哲学には、仏教や禅の哲学や西田哲学がある。一部の哲学者からは評価されている 西田哲学であるが、だが、ほとんどすべての日本人から真剣に扱われていないように見える。

自己成長・自己実現を妨げる個人悪・社会悪

 人は、誰でも自己肯定して、自己実現を望むに違いない。しかし、それを妨げるものがある。人 は社会・世界(家族、職場、趣味や仕事や社会活動に関連した無形の集団、個人は大小多くの集団に属す)の中で生きていく。自己肯定 ・自己実現が個人の幸福であると思われるが、それを妨げる社会悪(集団側からの悪)がある。逆 に、個人が社会を否定する個人の悪があるという。集団の悪によって人が苦しむわけ、また、個人が所属集団、環境、国民に対して悪、 不正を犯す構造である。西田幾多郎は、こう言っている(旧全集巻10の66頁)。
     「全体的一と個物的多と何処までも相反し相互否定的でありながら、矛盾的自己同一として世界 が自己自身を形成し行く所に、我々の実践的行為の目的があるのである。・・・・之に反し、全体 的一が、世界的個物的多として世界の形成要素たる個物的多を否定する時、全体的一の不正があり 、個物的多が世界的全体的一として世界主体の意義を有する全体的一を否定する時、個物的多の不 正があるのである。前者を社会悪と云い、後者を個人悪と云ふ」(10,66)。
    個物的多と全体的一とは、互いに内在化することができず、異他的であるがゆえに、個物的多が全 体的一を内在化しようとすることはまた、何らかの仕方で全体的一がそれを助長し呼び起こす限り においてであり、逆もまた真である。それは、「形作られたもの」からの一般的限定と「形作るも の」からの個物的限定との、そのどちらかに偏向することによって、両者が互いに<形作られて形 作ること>において成立する歴史的現実の世界が、その本来の「個性的」な創造性を失うことに他 ならない。」 (板橋勇仁「歴史的現実と西田哲学」法政大学出版局、242頁)
 多数の人から成る集団(全体的一)が、そこに属する個人(世界の形成要素たる個物的多)を否 定する時、集団(全体的一)の不正、悪があり、集団の悪により、個人が苦悩する。社会悪である 。集団が個人を苦しめる。
 逆に個人(個物的多)が集団・団体(家族とか会社とか患者グループとか=世界的全体的一とし て世界主体の意義を有する全体的一)を否定する時、個人(個物的多)の不正、悪がある。個人悪 である。個人が世界(家族、会社、環境など)を傷つけ、世界を後退、崩壊させる。個人の我執に よって、集団が崩壊する。
 社会(集団=家族、組織、グループ、環境)は個人に楽を与える善を行うが、社会が個人に悪や 苦を与えることがある。企業、団体ぐるみで個人を苦しめることがある。社会悪は、個人に苦を与 える。
 逆に、個人の悪は、他者や集団に苦を与える。そのことによって社会側からの働きによって個人 に苦がめぐってくるかもしれない。
 私たちは、今、必ずしも、国、自治体、企業、医療、福祉、文化などの集団(有形無形)が、所属する自分(個物的多)に幸福 を与えるだけではないことを感じ始めているかもしれない。集団は個人の集まりであり、個人個人が(特にトップが) 自己を絶対視して自己の利益を追求する我執を持つからである。こうして、人には、悪を犯す自由 がある。根源的に悪魔性がある。したがって、専門家も悪を犯す。私たちは、それぞれの分野の専 門家に従うが、その専門家は悪を犯す可能性がある。主観的、独断的、自己中心的な行為をする自 由を持っている。

 なぜ、このようなことを自覚すべきかというと、集団、グループが、よく知らないその中の構成員を苦しめることがしばしば起きるからである。発言、思想の自由がない。それをするのが、また、集団的個人なのである。ただし、個人の苦は、集団の主観的、独断的、自己中心的な行為だけで起きるのではなくて、本人の主観的、独断的、自己中心的な傾向にもよる。結局、個人のすべてが、主観的、独断的、自己中心的なところを捨てて、世界の立場になることについて、己をつくすことの方向に個人と集団の自己実現があるように思われる。
 現実の世界は現在から現在へと移りゆく、認識されたものは認識された時はすでに過去であり、無数の個人の結果によるもので必然であるから、自己が否定することも差配することはできない。受容(アクセプタンス)するしかない。創造的行為との一体で「創造的受容」といえる。しかし、その中で、自己は自由である、世界を新たに作ることができる。「創造的行為」であり、マインドフルネスである。それは、自己を没して己をつくして行為することが、現われる現実も自己の行為も世界(社会)のこととなることを通してであろう。個人は悪も犯す自由と、よりよくする創造的行為をする自由も持つ。
Posted by MF総研/大田 at 20:22 | 新しい心理療法 | この記事のURL