種々の世界(4)=種々の世界の一覧
=マインドフルネス心理療法と西田哲学
西田幾多郎の論文「叡智的世界」で、種々の世界を見た。要約する。
「自分とは何か」ということが、個人によって異なる。幼い人は、「知的自己」
の段階にある。多くの人が意志的自己の段階で「自己」を考えているであろう。だ
が、西田幾多郎は、もっと深い「自己」があるという。
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世界
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別名
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包む一般者
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注
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於いてあるもの
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有の場所
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自然界、判断的世界
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判断的一般者
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(*1)
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「有るもの」「働くもの」、空間、物理現象、力の場、「意識的自己」
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意識の野
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意識界
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自覚的一般者
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(*2)
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自然界、知的自己、感情的自己、意志的自己
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叡智的世界
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叡智的一般者
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(*3)
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判断的一般者、自覚的一般者
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絶対無の場所
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無の一般者
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なし(「絶対無の場所」は究極の一般者)
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(*4)
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すべてのもの
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(*1)判断的一般者
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自然界を包む一般者。自然的世界は意識的世界によって根拠づけられている。
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(*2)自覚的一般者
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いわゆる意識的世界を包む一般者。
自覚的世界は叡智的世界によって根拠づけられている。
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知的自己 |
自然界を認識対象とするもの。対象を見る自己。
主観客観が分かれている。自己自身を見ない。自己が自己自身の内容を意識してい
ない。
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感情的自己
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自己自身の内を意識する自己。感情的自己においては、自己が自己自身を意識する
。
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意志的自己
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自己が意識作用的に自覚するようになって、自己が自己自身を対象とするようにな
り、意識界を対象とする。この段階の自己は心理的、内面的世界をその内容とする
。自覚的一般者は、一方では自然界を、他方では意識界を自己自身の内容とするが
、その内容はいずれも判断の包摂的関係によって表わされるだけであり、自己の作
用自体を反省するということはない。
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(*3)叡智的一般者(知的直観の一般者)
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自覚的自己をさらに深くノエシス的方向(外的対象的方向ではなくて、自己の内 奥
の方向)に超越していくとき、自己自身を直観する叡智的自己に到達する。そし て
翻って、この叡智的自己から自覚的一般者と判断的一般者の内容を顧みるとき、 そ
れらは叡智的自己自身の自己限定の内容という性格をもつ。
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知的叡智的自己
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「知的自己」は対象や自己を意識する作用であったが、「知的叡智的自己」は意識
作用を反省し、それを自己の内に映すものである。
それはまだ真に自己自身を見るものではない。なお主観と客観の対立があり、まだ
形式的な自己であって、真に具体的な内容をもつものではない。
この段階の自己は、自己自身を見るものとして真理のイデヤを見る。ノエマの方向
(対象)に意味や価値や規範が見られる。
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情的叡智的自己
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芸術的直観の自己は叡智的自己自身の内容すなわち美のイデアそのものを直観 する
。それは直観されるものでは あって、概念的に知られるものではない。
芸術的直観的自己は、実在するものの内に美のイデアを見る。実在するものが美
のイデアの現れであり表現であると考えられる。
芸術作品はイデアそのものの顕現であるが、そこで見られるのはまだ限定された 自
己であって、自己そのものではない。そこに見られるのはなおノエマ的(対象 的)
な自己である。芸術的直観においては、限定せられた自己が見られるのであって、
自由なる自己そ のものが見られるのではない。自由なる自己そのものを見る良心は
さらに深い自己 である。
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意的叡智的自己
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道徳的自己は「悩める自己」である、自己を不完全として理想を追い求める。 自己
を悪として痛感し、理想と現実の間で自己分裂し苦悩する。
意的叡智的すなわち道徳的自己は、価値的なもの、つまり善のイデアを見る 。他方
では反価値的なものに向かう自由意志を持ったものであり、この価値 的なものと反
価値的なものとの間で苦悩する「悩める魂」である。
自己を見ること深ければ深いほど、自由なれば自由なるほど、自己自身の矛盾に
苦しむ。そのような矛盾を脱して真に自己自身の根底を見るのが宗教的意識(絶対
無の自覚)である。深い罪の意識をもち、深く自己自身の中に反省し、反省の上に
反省を重ねて、反省そのものが消磨すると ともに、真の自己を見る。
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(*4)無の一般者
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叡智的世界の内奥の極限に「絶対無の場所」がある。
道徳的自己は「悩める魂」である。
自己を見ること深ければ深いほど、自由なれば自由なるほど、自己自身の矛盾に 苦
しむ。そのような矛盾を脱して真に自己自身の根底を見るのが宗教的意識(絶対 無
の自覚)である。深い罪の意識をもち、深く自己自身の中に反省し、反省の上に反
省を重ねて、反省そのものが消磨するとともに、回心が起こり、真の自己を見る。
最も内奥の真の自己には、真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もないこと
を直観するのである。当為的価値を超越して、存在価値が見られる。
身心脱落(自己を亡くす)して、見るものなくして見、聞くものなくして聞くもの
に至る。
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マインドフルネス心理療法へ
これまでの心理療法やカウンセリングは自覚的一般者の段階である。この段階で
の治療技法では治らないうつ病、不安障害、種々の心理的な苦悩、社会問題が増え
てきたので、効果のありそうな心理技法を模索しているうちに、アメリカの心理療
法者は、東洋の禅の哲学と実践をとりいれて、マインドフルネス心理療法を開発し
た。あるいは、行動分析学や他の心理療法を進化させているうちに、禅を参照した
のではないのに、禅に似た心理的実践をとりいれていたという。気がついてみれば
、効率のよい心理療法を研究していた多くの人たちが、同じようなところにきてい
るということだ。
従来の認知行動療法は、自覚的一般者の段階による技法を用いている。マインド
フルネス心理療法は叡智的一般者の段階の自己の見方と実践を用いていると言える
だろう。実践とは、包む、映す実践である。それをアメリカの心理療法者は、マイ
ンドフルネス、アクセプタンス、コミットメントなどという心理技法とした。
人間の見方、自己の見方についての深い洞察をしている西田哲学を実践化させた
ような形になっているマインドフルネス心理療法は、「自己を知る」「自己の作用」を体験的実践的に知り実際に使うということであるから、従来の心理療法やカウンセリ
ングでは改善が難しかった種々の領域、問題の改善に効果を発揮するにちがいない
。アメリカでは、次の領域に適用されている。うつ病、不安障害(パニック障害、PTSD、対人恐怖症、全般性不安障害など)、アルコールや違法薬物依存、摂食障害、慢性の痛み、境界性パーソナリティ障害、カップルにおける対立(暴力、否定)などである。
私は、時間やスタッフ、費用などの限界により、うつ病、不安障害、家族の不和
、自殺念慮などしかてがけられていない。
リネハンの弁証法的行動療法もマインドフルネス心理療法の一つであるが、パーソ
ナリティ障害の治療に成功している。
日本では、児童虐待やドメスティック・バイオレンス(パートナー間の暴力が主な
問題)、違法薬物依存、非行犯罪などの不満や怒りのコントロールができないこと
による
社会問題が続発している。そういう領域の貢献に、アメリカのマインドフルネスの
心理療法者たちはとりくんでいる。日本でも、そういう領域の関係者がマインドフ
ルネス心理療法の導入を研究してもいいのではないかと思う。
大人になってから多い、うつ病、不安障害、怒りや不満のコントロールの欠陥
による問題は、すでに青少年期に兆候がみられる。高校や大学の段階で、マインド
フルネス心理療法の予防的な実践の教育が行われるならば、
大人になってからの苦悩を予防できるかもしれない。学校の教育や私的な実践塾や
寺で訓練できるようになればいいのだが、地域住民の理解や要求によるだろう。こ
ういう心の問題は、いわゆる「相談」では対応できない。1−2年の長期間の「治
療」の提供が必要である。「相談」だけでは、全く、不充分である。
社会や地域が心理療法に理解を示してカウンセラーを支援するようにならないと、
マインドフルネス心理療法によるカウンセラーになろうという人が現われない。
(続)
(注)
- 上記は「叡智的世界」より。(数字)は、西田幾多郎全集、昭和40年、岩波
書店の巻5の頁。