種々の世界(2)=叡智的世界 [2010年03月02日(火)]
種々の世界(2)
=マインドフルネス心理療法と西田哲学
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| (*3)叡智的一般者(知的直観の一般者) |
自覚的自己をさらに深くノエシス的方向(外的対象的方向ではなくて、自己の内
奥の方向)に超越していくとき、自己自身を直観する叡智的自己に到達する。そし
て翻って、この叡智的自己から自覚的一般者と判断的一般者の内容を顧みるとき、
それらは叡智的自己自身の自己限定の内容という性格をもつという。 実際の自己の体験としては、自己が自己自身の内奥を見るということである。す なわち自己自身を直観することである。 叡智的一自己も深浅があり、 叡智的自己も知的叡智的自己から意的叡智的自己へと深まることによって、自己自 身の内容をもつようになり、真に自己自身を見るものとなる。 その最も深い、極限において「絶対無」に到達する。 「知的直観」の自己限定作用は「直観すること」、あるいは自己が自己の内に自 己自身を映すことである。(判断的一般者の場合における「判断」、自覚的一般者 における「自覚」にあたる。) 叡智的自己は単に作用的要素を持っているだけではなく、そのような作用を自己 の内に包むという場所的な要素を持っている。自己の作用をさらに自己自身の内に 映して見るという立場にたつ。 このような立場こそ真に自由な立場である。 自己が自己の底に超越するということが自己が自由になることである。 自由意志とは客観的なものを自己の内に包むということである。 | |
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知的叡智的自己 (行為的自己) |
知的叡智的自己は自己意識の底に自己を超越して自己の意識的作為をも見るもの
である。
自己意識の底に超越して自己の意識作用を見るものである。
「知的自己」は対象や自己を意識する作用であったが、「知的叡智的自己」
は意識作用を反省し、それを自己の内に映すものである。 この段階の自己は、自己自身を見るものとして真理のイデヤを見る。 ノエマの方向(対象)に意味や価値や規範が見られる。 (イデヤ=事物の本質、理想等。) 知的直観の一般者(叡智的自己)になると、 いままで自覚的一般者の「抽象的自己限定面」とそれに「於いてあるもの」として考えられていたものが、つまり、すべてのものが、その自己(知的直観の一般者、叡智的自己)の限定面と、それに「於いてあるもの」として位置づけられる。 意識作用は当為的で、価値実現の作用となる。すべが認識対象として価値の世界に入る。 知的直観の一般者はまだ真に自己自身を見るものではない。なお主観と客観の対立があり、 まだ形式的な自己であって、真に具体的な内容をもつものではない。 | |
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情的叡智的自己 (芸術的直観の自己) |
芸術的直観において美のイデアを見、自己を忘れて物そのものを自己とし
て愛する。物そのものが自己の内容として現われる。他愛が自愛となる。 芸術的直観においてノエマ(対象)とノエシス(主観)は一致する。ノエマとノ エシスが中和状態にある。見るものが見られるものであるという関係が見られる。 芸術的直観において意識的ノエマが叡智的ノエシスの中に解消されるといっても、 なおそこに叡智的ノエマ(対象的に美のイデヤ)が残っている。まだ真にノエマが ノエシスの内に包まれていない。 芸術的直観の自己は叡智的自己自身の内容すなわち美のイデアそのものを直観 するが、その内容は知識の対象となることはない。それは直観されるものでは あって、概念的に知られるものではない。 芸術的直観的自己は、実在するものの内に美のイデアを見る。 実在するものが美のイデアの現れであり表現であると考えられる。 芸術作品はイデアそのものの顕現であるが、そこで見られるのはまだ限定された 自己であって、自己そのものではない。そこに見られるのはなおノエマ的(対象 的)な自己である。 芸術的直観においては、限定せられた自己が見られるのであって、自由なる自己そ のものが見られるのではない。自由なる自己そのものを見る良心はさらに深い自己 である。 | |
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意的叡智的自己 (道徳的自己) |
ノエシス的(内在的)超越の極限と考えられる道徳的自己においてはじめてノエ
マ(対象)はノエシス(主観)の内に没し去って、道徳的自己は自己自身の内容
を見るものとなる。
道徳的自己は「悩める自己」である、自己を不完全として理想を追い求める。 自己を悪として痛感し、理想と現実の間で自己分裂し苦悩する。 意的叡智的すなわち道徳的自己は、価値的なもの、つまり善のイデアを見る 。他方では反価値的なものに向かう自由意志を持ったものであり、この価値 的なものと反価値的なものとの間で苦悩する「悩める魂」である。 自己自身の底に深く見るものほど、悩める自己となる。悩める魂こそ叡智的世界 における最も深い実在である。 自己を見ること深ければ深いほど、自由なれば自由なるほど、自己自身の矛盾に 苦しむ。そのような矛盾を脱して真に自己自身の根底を見るのが宗教的意識(絶対 無の自覚=次の記事)である。 深い罪の意識をもち、 深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて、反省そのものが消磨すると ともに、真の自己を見る。 | |
| (*4)無の一般者 |
叡智的世界の内奥の極限に「絶対無の場所」がある。 (次の記事) | |
マインドフルネス心理療法へ
叡智的世界として、3層があると見ている。自己自身の影として、真理のイデヤ、美のイデヤ、善のイ デヤを見る自己である。マインドフルネス心理療法においては、意識の内奥に超越 せんとして、苦も楽も不快な事象の(対象)も、すべてを包む、映すトレーニングをし ていく。自己自身の作用も翻って映して自覚するトレーニングをしていく。そのことによって新しい自己(内在的方向に)を発見する。嫌悪的なものは対象であって自己自身ではないことを自覚して、不快事象も映し包み受容できる真の自己を自覚して、嫌悪的に見える対象(それも自己として)があっても受け入れて自分の人生を生きていくようになる。そういう自己の行動が神経生理学的フュージョン(連合)を引き起こして、神経生理学的な変調による苦痛(身体症状、精神症状)も軽くなっていく。そういう意味では、マインドフルネス心理療法を受けるクライアントは、叡智的 自己を探求して、叡智的世界(自己自身)を見るものと言える。ただ、西田幾多郎のいう3つの 叡智的世界のどれにあたるのだろうか。西田幾多郎は、心の病気については記述し ていない。道徳的自己は、精神疾患ではなくて、道徳的倫理的苦悩であって、精神 疾患による苦悩ではない。叡智的自己を自覚したはずの自己がなお、道徳的に苦悩する場合である。
精神疾患で苦悩するクライアントがマインドフルネス心理療法の課題を実践 する時には、従来の自己とは異なる深い自己を見ることになり、苦悩や自己につい ての新しい知識を得るので部分的に「(自己や対象の苦痛について自己同一の)真理のイデヤ」を見ることがあるだろう。ま た、精神疾患には、苦や楽が関係しており、苦や楽の対象と作用を映し包み洞察するトレーニングをする ので、「真のイデヤ」のうち「苦楽の真理のイデヤ」ともいうべきものを見るとい ってよいのではないだろうか。あるいは、情的叡智的自己の見るのは「美のイデヤ」のほか「楽のイデヤ」を見るといってよいのかもしれない。西田は「楽のイデヤ」については詳細に論じていないようであるが、すべてが自己と同一という知的叡智的自己が深まると、日常のすべてが自己であるから、不快事象であろうとも自己自身であるから、苦楽を超えることとなり、つまり、苦楽の対立を超えて、楽になるのである。マインドフルネス心理療法によって、精神疾患や他の心理的ストレスを乗り越えた人は、このような世界に住む叡智的自己に目覚めるのではないか。西田の最後の論文は、もっと深い自己を論じていると思う。
心理療法のうち、行動療法、認知療法は、自覚的自己の段階であり、マインドフルネス心理療法は叡智的自己の段階であるといえる。自己を深く洞察する自己となるゆえに、 習得できるクライアントは他のどの心理療法よりも深く自己を知ることとなり、再発率が低くなるだろう。しかし、それだけに誰でもできるわけでもない。高度であるゆえに、効果は高いが、実践できるかどうかはクライアントの成熟度による。成熟度とは重症ではないという意味ではない。重症のクライアントであっても成熟した精神であった人は真剣に実践できるだろう。 精神疾患にかかる前から、成熟した精神でなかった人は、通常のセッション(グループ・セッション)での指導では実践が難しいかもしれない。青年期にこうした自己洞察の訓練をしておくことが社会に出た時にうつ病や不安障害を予防することになって、マインドフルネス心理療法は予防的に行うのも大切だと思う。
ひとたび習得された場合、深い自己洞察の眼を持つこととなり、再発することは少ないだろう。 成功したかに見えていた人たちが、うつ病にかかって自殺することがある。叡智的自己まで深まっていれば、そういうことはないだろう。事業の成功と自己洞察の深さとは別だろう。
(続)


