「絶対無の場所」と「絶対無の自覚」 [2010年01月22日(金)]
「絶対無の場所」と「絶対無の自覚」=マインドフルネス心理療法と西田哲学マインドフルネス心理療法は禅の哲学(多分、人の心の真相の哲学)によって心の病気がマイン ドフルネス心理療法で救われる構造を西田哲学(西田幾多郎)の言葉で簡単に見ている。 「絶対無の場所」と「絶対無の自覚」自己の根底は自己なくして、すべてのものがある場所があり、絶対無の場所という。 (⇒ 「絶対無の場所」)。自己が絶対に無であるという自覚が絶対無の自覚である。(⇒自覚の訓練) 「自覚的限定というのは場所が場所自身を限定することである。見るものなくして見ることであ る、即ちそれは直覚するということである(巻6-94)。こういう直覚においては自己がなく、真の事 実があるのである。「我々の個人的自己の尖端に於いて自己が自己を失ったと考えられる所に、真 の事実というものが見られるのである(巻6-111)。主客未分ともいうが、実は自己がないのである。 自己は無なのである。主なく、自己なく、内と外が合一なのである。場所的に同一である、自己根底の場所に客観も内的事象も、すべてのものがある。自己なしがひるがえって、すべてが自己となる。自己の絶対無を自覚するのが「絶対無の自覚」であり、無にしてそこにおい てすべてのものが現われる場所が「絶対無の場所」である、自己の根底である。真の自己である。見るものなくしてみる、見る自己はない、自己は無であるから 、その場所に於いてあるものは、客観である。すべてが自己根底の「絶対無の場所」に於いてある もので、主観と客観がそのままで自己同一である、絶対矛盾的自己同一である。 マインドフルネス心理療法へ自己が無であることの自覚は難しい。すべてが、自己の根底の場所においてあるものであること の自覚は難しい。だが、なるべく自己の見解を用いない実践はかなりできる。自己の見解、評価を 抑制して、種々のことをあるがままに包み映して受け入れることが多くなるほど、葛藤を起さなく なり、苦悩が軽くなる。あるがままに映すということが、直覚において起きているのである。映す 努力をすること自体が自己を働かせているのだが、やむをえない、初期にはやむをえない努力であ る。 感情や症状、見える状況など「不快事象」がつらいと思うのは、「思惟」(思考)による、判断、 評価、比較、分析など自己の見解である。直覚においては、そういう自己見解はない、その時には 事実そのままであり、葛藤はない。心の病気を治すために、見るものも聞くものも、苦痛のすべて も「絶対無の場所」に映すかのようなトレーニングを繰り返す。見る、聞く、感じる、考えるなどの作用があることを無評価で観察し、直後にその実相を観察し て「名前」をつける訓練をカウンセリングの初期に行うが、これは、「自覚」のトレーニングを行 うのである。自己を知るのである。感覚、思考、感情とはいかなるものであるかを「反省」によっ て知る、自覚するのである。言葉での理解ではなく、自己の心の上(「絶対無の場所」)において 、直後に反省して自覚するのである。そういうトレーニングを行うのである(「機能分析法」とい う)。なるべく思考、判断に移らず(それは直覚から離れる、事実ではない)にいることが、自己 を立てないことである。自己なし、絶対無に近い働きである。自己と対象を認めていて自己の見解 を働かせないのでは、絶対無の自覚ではないのであるが、治療の初期段階ではやむをえない。それ でも、自己を働かせないことが苦痛が小さいことを実感するようになる。トレーニングがすすむと 、無意識的に自己の見を立てずに、行動するようになってくる。自己のない直覚、反省(自覚)が なめらかに進行するようになる。自己なく場所から事実を見るようになっていく。直覚(直観)の 最中は自覚がない、直観の直後に反省してその事実を知る、自己を知る、これが「知識」である。 直観によらない知識は真実ではない。「事実が事実自身を限定するという意味に於いて我々の知識 成立の根底となると考えるのである。(巻6-161)」 自己の根底は、嫌悪や罪悪、無価値など一切の人間の評価を超越したものである。うつ病に見ら れる自己無価値観、罪悪たる自分などは誤りである。自己無価値観、罪悪感は、自己の見解であり 、誤って概念化して思惟した自我像を嫌悪、否定、罪悪視していて誤っている。真の自己ではないものを自己であると錯覚して否定、罪悪とする意味で誤っているというのである。 絶対無の場所、絶対無を自覚するトレーニングを繰り返すことによって、そのような苦悩が誤って いることに気がつき、うつ病の症状が軽くなる。自我を立てる、自己の見解を捨てて、自己がなくなり行為が客観的になるほど、絶対無に近づくほど自由意志の人となり、苦悩から解放されることを「逆対応」といい、西田幾多郎の最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」で述べている。 (続)
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