行為的直観(2)・自己なし、自己を無にする [2009年12月19日(土)]
行為的直観(2)・自己なし、自己を無にする=マインドフルネス心理療法と西田哲学マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ている。 行為的直観直観が行為を生み、行為が直観を生む。そういう行為的直観は、 自己否定をとおして成立する。自分を否定して物自体となって 物を見るとき、行為にかりたてられる。主体がないのである。主観があって客観と合一というので はなく、自己、主観がないのである。自己がなくなることによって行為的直観があるのである。無 私、無我である。
「自覚というのは自己に於いて自己を見ると考えられ、しかも自己が見られない所に即ち自己が 無となった所に真の自己を見ると考えられるのである。対象的に見られるかぎり、それは自己でな い、・・・自己に於いて自己を見るというのはどこまでも対象的なるものを包むということを意味 するのである、場所が無となって行くということを意味するのである。」 (「無の自覚的限定」、巻6、89頁) 「真の自覚というのは無にして自己自身を見る、無が無自身を限定するということでなければあ らぬと思う。自己とは無にして有なるものである、それは単に過程として見られるのではない。自 覚的過程というのは無にして見るものの自己限定として見られるのである。」 (「無の自覚的限定」、巻6、101頁) マインドフルネス心理療法への方法我々は行為的直観的に見て、行為するものである。その時に、自我ありと執着して自己の小細工 を弄して、自己の判断評価に固執すると行為的直観を失う。客観をあるがままに見ることができず に苦悩の思考を起し、客観から遠く離れた行為を生み、持続すると、心を病むことになる。精神疾患を治癒させるマインドフルネス心理療法においては、自己を無にする、自己の評価判断 を停止して、症状や状況、感覚、感情などをあるがままに見る、聞く、感じるという訓練を続ける 。自己を無にする、自己なくして、客観を無評価で観察(直観)する。この直観の時、たとえ不快 な現象が現われていてもそのままに受け止める、映すので、それ以上の苦痛は生じない。 それ以上の苦痛とは、自己を無にせず、自己の判断、才覚で、現われた客観を嫌い、不快の思考 をすると、ネガティブな感情を誘発してこれが苦痛を加えるのである。さらに、意識しない身体内 部で神経生理学的フュージョン(連合)をひきこおこして症状が悪化するのである。 自己を無にして見るだけの受動的な観察のみでは、それ以上悪化させないという消極的な状態に とどまり、神経生理学的フュージョン(連合)によって生まれた症状(身体内部の病理)が回復す る保障はない。現状維持にとどまるかもしれない。そこで積極的な行為が必要となる、行為的直観 である。 自己を無にして行為的直観的に活動するのである。いっそくとびに、発病前と同様の行動はできな くても、類似する行為でやさしいことを行為するのである。行為的直観的にやさしい課題を実行す るのである。不快な事象があっても、課題が不快であっても、無評価で実行するのである。そうい う行為、課題は、治癒に改善効果があることが合理的で、確認されたものでなければならない。苦行のような課題で あってはならない。ありもしない絶対者を崇拝させるもののような直観から離れたものであっては ならない。 (続)
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