直観と行為 [2009年12月01日(Tue)]
直観と行為=マインドフルネス心理療法と西田哲学マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ている。 西田幾多郎は<自己>を哲学的に記述した。哲学は心理療 法ではないが、マインドフルネス心理療法と似たように、自己や精神活動について記 述している。 マインドフルネス心理療法に応用できるようなところをみている。 直接経験としての見ることと行為我々の現実の世界は、物理的空間、「意識の野」「絶対無の場所」の3層の構造である。直接経 験は最も深い場所で起きる。意識の野で起きるのではない。 「絶対無の場所」は、知識が成立する場所であり、思惟、感情、意志、行為や感覚などの直接経験が成立し、あらゆるものが於いてある場である。 見ることも行為も直接経験である。普通に考えるのは、見ることは受動的で、行為は能動的であり 、対立するものだろう。西田は後に「行為的直観」というように、行為と直観が同一であるような 表現を多用する。絶対に対立するものが自己同一であるというのだが、行為的直観の説明は健康な状態における説明 が中心になっている。行為は目標を含んだものである。目標は未来である。見る時すでに未来の行 為をみすえて見るのである。見ることと行為することが自己同一である。そういう意味で考えると 、心の病気になると、不安や失敗、不満の行為を先取りして見るということになる。見てから回避 するのではなく、回避するべく見るのであると言える。否定的思考をするべく見るということにな る。「行為的直観」を見ると、心理療法の応用として読む時にはわかりにくい。「行為的直観」は 、別に見ることにして、まず、「見る」(直観)ことと行為とは何か。 そこで、「善の研究」において、別々に分析しているところから見ていきたい。 直観直観は 直接経験 である。 事実そのまま、全く自己の細工がない、思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいう。 自分(主観)が見ているという意識がなく、ものがある状態である。主観と客観が意識されないで 見ることである。物体がそのままに認識されている。 「赤い」とか「りんご」と言葉にする前である。
自己において自己を見る哲学的思索が深まっていくにつれて、直観の意味も変化していく。 直観は「自己のうちに自己を見る」こととなる。「自己は自己の内に他を見る」ともなる。 中期において、自覚とは「自己の内に自己を映す」ことであるが、 後期になると自覚とは「自己の内に他を映すこと」と言われる。自己は「創造的世界の創造的要素」ということもあり、結局、直観は、自己が世界であり、世界が自己であることとなる。直観は、自己(の心の内奥の場所)において他(他者、汝、世界)を自己と見ることになる。 行為無意識に起きる不随意運動や反射運動は「行為」といわない。「行為とは、その目的が明瞭に意 識せられている動作」(2)である。行為は「意志」と「動作」に区分できる。「行為を分析して意志 と動作の二としたのであるが、この二者の関係は原因と結果との関係ではなく、むしろ同一物の両 面である。動作は意志の表現である。外より動作と見らるる者が内より見て意志であるのである。 」(3)意志は欲求による。「いかなる者も自己運動の表象の系統に入り来らざる者は意志の目的とはな らぬのである。我々の欲求はすべて過去の経験の想起によりて成立することは明らかなる事実であ る。その特徴たる強き感情と緊張の感覚とは、前者は運動表象の体系が我々にとりて最も強き生活 本能に基づくのと、後者は運動に伴う筋覚に外ならぬのである。また単に運動を想起するのみでは まだ直ちにこれを意志するとまでいうことはできぬようであるが、そは未だ運動表象が全意識を占 領せぬゆえである、真にこれに純一となれば直に意志の決行となるのである。」(4) 直観と行為は相互に影響しているので、両者は自己において同一と考えられる。直観から行為へ、行為から直観へと動いていく。西田は、直観と行為は同一であるといい「行為的直観」という。行為的直観の連続の間に、自由意志による行為によって、自己や環境を作ることができる。治癒への方向である。非機能的行動のくり返しは、非機能的行動への強迫的意志や衝動的意志の選択なのである。 マインドフルネス心理療法への方法マインドフルネス心理療法は後に考察する「行為的直観」を見たあとで総合的に述べる。 とりあえず、上記の説明との関連で述べておこう。過去の経験によって、自分の行為をあらかじめ決めている。欲求となる。不安が起きた時は、回 避、ひきこもり、行動の停止がいいと経験で決めている。それによって、何かあると、そういう行 動を欲求する。予期不安から回避である。回避は行動の一種である。見る時にすでに、回避欲求を 起して見ている。その見たとおりに回避行動をする。 うつ病の場合には、不満である、思いどおりにならないことである。経験によって、不満の思考 やそれによって意志された行為が繰り返される。職場や人を見る時すでに行為への欲求、すなわち 意志を起して見ている。そのために、否定的、悲観的思考、言語、行為が起される。 うつ病や不安障害を治すマインドフルネス心理療法は、見ること、意志、行為、欲求などの 自己同一性を考慮した手法がとられる。見る、聞く、感じる時に、予期する不安や不満な どが起きても、嫌悪的思考に発展させずに、ただ見る、聞く、感じることにとどま るトレーニングを繰り返す。これを繰り返すと、見て、聞いて、感じてすぐに行動(回避行動、否 定的思考など)しないことが新しい経験となる。直観に近い(純粋の直接経験ではない)ところにとどまるという新しい行動が記憶される。その新しい行動(直観的な)をとっ た時に、以前の行動よりも満足できる結果(症状、苦痛が軽いなど)を感じると、その行動が欲求されるようになる。トレーニングの始めの頃は、新しい行動 を想起するだけ、意志するだけにとどまるが、やがて、決行できるようになる。新しい行動の想起 、意志、決行が繰り替えされると、新しい「行為的直観」が成立する。 すべてのことが、自分の心の場所にあるものとなる。 予期不安、予期不満も他を見た評価であるが、それも自己の心の場所にある(直観)となり、 ふりまわされずに、意志的行為を実行していく。 こうして、治癒に向かう。 見る時とか、感じる時、現在であるが、すでに過去、未来(結果)を含む欲求、不安 、依存、不満などの評価を動かしている。これを「本音」と呼ぶ。クライエントが気づいていないことも 多い(「隠れた本音」)が、気づいて(「自覚された本音」)スイッチを切るとか、発動を遅らせ るトレーニングを繰り返す。認知療法の「認知のゆがみ」に類似するが、違う。「本音」は、 現在進行形で発動して、行為や思考に影響している評価である。治療のトレーニングも絶対現在(現在進行形のここ自己)における反応のトレーニングとなる。事後分析ではない。 本音による失敗は、ゴルフ、スケートなどのスポーツにおいても起きる。舞台においての芸能、演奏において起きる。製造現場、医療現場(手術執刀、注射など)で起きる。「失敗するかな」(本音)と感じながら実行すると失敗する。小さな失敗をひきづって次の場面に臨むと失敗する。演奏者、実演者が行為になりきらないで、本音を動かすと純粋の行為が妨げられる。 微細な本音でも、行為に大きな影響をする。 対象、他人、仕事が自分の外に対立的にある とみないで、自己の内奥の心の場所にあるという西田哲学の「直観」を利用して、 苦悩、世界、対象を自己自身と見ることで、悩みの種が違って見えてくる。 マインドフルネス心理療法は、心の病気の人だけではなく、すべての人、すべての職業に活用できるものと信じる。 (続)
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