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宇宙を見、聴き、感じ=アクセプタンス(受容) [2009年11月01日(Sun)]

宇宙を見、聴き、感じ=アクセプタンス(受容)

 明川哲也さん(創作家)の言葉をきっかけに、マインドフルネス心理療法の救われる 構造を西田幾多郎の言葉でもう少し見ておきます。西田幾多郎は自己を哲学的に記述し ました。実践して自覚しないと働きださないですが、マインドフルネス心理療法と似た ように、自己について記述しています。心理療法でもなく宗教でもありませんが、心理 療法としてのマインドフルネス心理療法を実行し指導していく上で参考になります。  マインドフルネス心理療法の中核の技法はマインドフルネス(自覚覚醒、価値実現へ の行動)やアクセプタンス(不快事象の受容)などである。
 哲学者、西田幾多郎は、<アクセプタンス>に関連することをどのように言及してい るか。『場所的論理と宗教的世界観』に、次の語があります。「自己自身を否定してこ れに従う」とあります。
    「我々の自己はどこまでも唯一的に、意志的自己として、逆対応的に、外にどこまでも 我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するとともに、内にもまた逆対応的 に、どこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するのである。前者 の方向においては、絶対者の自己表現として、我々の自己は絶対的命令に接する、我々 はどこまでも自己自身を否定してこれに従うのほかはない。これに従うものは生き 、これに背くものは永遠の火に投ぜられる。後者の方向においては、これに反し、 絶対者はどこまでも我々の自己を包むものであるのである、どこまでも背く我々の自己 を、逃げる我々の自己を、どこまでも追い、これを包むものであるのである、即ち無限 の慈悲であるのである。私はここでも、我々の自己が唯一的個的に、意志的自己として 絶対者に対するという。何となれば愛というものも、どこまでも相対する人格と人格と の矛盾的自己同一的関係でなければならない。どこまでも自己自身に反するものを包む のが絶対の愛である。どこまでも自己矛盾的存在たる意志的自己は、自己成立の根底に おいて、矛盾的自己同一的に自己を成立せしめるものに撞着(どうちゃく)するのであ る。そこに我々の自己は自己自身を包む絶対の愛に接せなければならない。」(『場所 的論理と宗教的世界観』)
 この言葉は宗教について言及したものであるが、心理的苦悩の解決はいわゆる宗教の 課題でもある。ただし、特定の宗教は、その宗教の規定する絶対者を信仰するのである 。医療として、心理療法としては、そのような絶対者は想定しない。とはいえ、心理的 な苦悩の解決には、何かを信じてそれに自己をゆだねるという行為が介在するであろう 。医療の場合、薬物療法では薬であり、心理療法ではその心理療法の仮説や理論である だろう。従来の自己自身の防衛手法を放棄して、自己とは他のものを信じゆだねて、そ れに従うことが苦悩から救済されると信じ行動するのである。

 マインドフルネス心理療法において、アクセプタンス(受容)を強調する。  「自己自身を否定してこれに従うのほかはない。これに従うものは生き、これに背く ものは永遠の火に投ぜられる。」
 自己自身を否定すべきものは何かを助言される。苦痛の感覚や感情(不安、怒り、不 満など)、不快事象(痛み、抑うつ症状など)などであると助言される。こういうもの が生じた時、自己自身の評価や細工や防衛反応を用いず(=自己自身の否定)、従うの である。これ、受容であろう。そうすると、 「これに従うものは生き、これに背くものは永遠の火に投ぜられる」。 助言のとおりに行動すると「生きる」、従わない(=背く)とその心理的苦悩が解決し ない、治らない(=永遠の火に投ぜられる)、ということができるだろう。

 自己を用いない(もちろん苦痛の領域である。芸術、仕事などの領域のことではない )ことがかえって、自己肯定となる。自己を棄ててかかる時に、苦痛から解放されるこ とが現実に生じる。そのようなこと、「自己自身を知るということ」を行為的に自覚す るのである。 次の言葉がある。
    「我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。絶対的一者の自己否定的に 、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。故に我々の自己は根底的には 自己矛盾的存在である。自己が自己自身を知る自覚という事が、自己矛盾であ る。故に我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものにおいて自己をもつ、 自己否定において自己自身を肯定するのである。 」(『場所的論理と宗教的世界観』)
 自己否定ということはうつ病者にある「自己嫌悪」ではない、否定の思考を含めて自 己のあがきを用いない態度である。
 こうした、自己自身の防衛反応を用いず(自己の否定)、何らか他の指針に従うこと が苦痛の解消の方向にあるということは、医療(心理療法)の場合、確認されていなけ ればならない。その方法に従った場合、解決した事例が多い(1件では偶然であるかも しれず)ことだろう。さらに、心理学的説明(仮説を含み)や脳神経生理学的説明が十 分に合理的と判断されることだろう。
 宗教の場合は、自己否定が徹底的であろう。心理療法としては、徹底的である必要は なく、精神症状や身体症状が軽快する程度、社会的行動が回復する程度でよいのである 。また、従うものは信仰の対象(神や開祖)ではなく、心理療法の仮説・理論が助言す るものである。それは、言葉、課題となる。マインドフルネス心理療法においては従来 自覚されなかった自己を超えた根底(*)などがある。

(*)マインドフルネス心理療法では、こういう新しい自己概念を提案しておりそれを 自覚することが難治性の精神疾患や難しい問題を改善するとする。新しい自己は、否定 、嫌悪すべき自己ではないので、うつ病などにみられる自己嫌悪、自己無価値観から解 放されるので症状の悪化が止められる。たとえば、ACTでは、「概念としての自己」で はなく「文脈としての自己」である。 西田幾多郎の言葉を参照しながら、次回に述べよう。
Posted by MF総研/大田 at 16:39 | 私たちの心理療法 | この記事のURL