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自分の外に世界がある [2012年04月27日(Fri)]
◆非定型うつ病はこんな病気
◆非定型うつ病はマイン ドフルネス心理療法(SIMT)ではこうして治す
◆非定型うつ病はマイン ドフルネス心理療法(SIMT)で治るわけ
◆マインドフルネス心理療法(SIMT)の自習本を出版します

自分の外に世界がある

 自分をよく知らないからうつ病、不安障害になると言いました。    自分を意識するのが「自覚」です。自己を知らないと苦しみますから、さまざまな自己というものが意識される自覚ということ、深い自己の探求は大 切です。
     「我々の自覚というものは、単に知るものと知られるものとが一であるということを意 味するの ではない。単なる主客合一が自覚ではない。自己が自己に於いて自己を見ると 考えられる所に、 自覚の意味があるのである。場所が場所自身を限定すると考えられる 所に自覚の意味があるのであ る。」(巻7-88 「哲学の根本問題」)

     「自覚というのは自己が自己に於て自己自身の内容を見るということである。」 (「一般者の自覚的体系・総説」旧全集5巻4313頁)
 哲学的に正確にいうと、自覚とは「自己が自己に於て自己自身の内容を見るということ」 です。自己意識です。簡単にいうと、浅い「自覚」は、今の瞬間に、自分が見ている、考えているというまさにその時に、自分があるかのように感じます。自覚しているのです。 その自分とは何だろう。上記のように、意識されるのは自覚の一種ですが、本当の自分ではないのです。意識された自己であり、対象化されています。本当の自己は、その奥にあります。多くのひとが、自己を知らずに生き、死んでいくのです。あやういものです。
 小学校から大学までさまざまな知識を学習しますが、「自分とは何か」ということを学 習しません。そのことが問題です。全く順調ならば、自分を知らなくても生きていけます 。しかし、自分を知らないために、少しつらいことが起きた時に、自分の精神作用(自分のことなのに)をうま く使いこなせずに、社会的な場面を回避したり、激しく感情を起こして、うつ病になっ たりします。感情的になって非行犯罪を犯したり、家庭を崩壊したりします。
 自分を知らないといいます。西田哲学では、自己は、浅い順から、判断的自己、知的自 己、意志的自己、叡智的自己、人格的自己があるといいます。浅い自己ほど、苦痛に耐え る能力が低いのです。
 この図を見てください。
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 一つは、「いちご」であると判断します。 もう一つは「バナナ」であると判断します。2つとも「くだもの」であると判断します。 こういう時、自分は意識されていません。つまり自覚がないのです。 この時に自分をさがしてみると、いちご、ばなな、くだものと判断している<もの=主体>が「自分 」であることに気づきます。 (それは、判断作用では気づけません。判断は外界のもの、対象的方向のものをみます。自己自身をみません。) こういう自分は、イチゴ、バナナは、自分とは全然無関係に 存在するものである、自分の外にあるものであると見ています。自分もイチゴとは全然関 係なく存在しているものだとみなしています。イチゴやバナナは自分とは無関係に自分の 外にあると見る。このように見るのが「判断的自己」です。この記事を見ている多くの人 、あなたも、判断的自己である人が多いでしょう。ものが自分の外にあって、自分は、そ れと対立していると見る。自分は、「魂」のようなもので、物や世界は別にあると見てい ます。
 こういう自己の見方は浅い自己であるというのです。本当の自分ではない。 こういう自己観を持つ人は、もろい。多くの不愉快なことが自分が行動するはずの外 (学校、職場、あそこ)にあって怖い。そこへ行けなくなります。勇気を出して行っても、どこまでも 自分の外にあると見えるから、どうしようもないとつらい考えをめぐらし、激しい感情を起こしま す。
 しかし、そういうのは本当の自分ではないのです。「判断」は、自分の作用にすぎませ ん。判断的自己は、物や自然界を見るので、自分のことをよく知りません。イチゴであると判断している作用を起 こすものです。自分の中に作用があります。働き(作用)はその働きの対象(作用 によって作られるもの)とは同じ場所にあります。イチゴは、イチゴだと判断する働きの ところにあります。判断作用の中にイチゴが現れています。よく、検討してみると、 自分は、判断しているもので、判断作用と同じ場所にあります。意識されていないのです が、判断という意識作用を起こしているものが自己であり、判断作用が「イチゴ」と判断 しています。それが、実態なのですが、判断的自己は、イチゴのような「物」は自分の外 にあって、自分は、物と無関係の魂のような実体(独立して存在するもの)とみなしてい ます。判断の時に、自分自身を見ていません。 こういう見方でいると、外界、学校、職場、近所などに自分とは対立して不愉快なものが 外にあるとみなしてしまいます。うつ病や不安障害の人には、外的世界がこのように見えている でしょう。世界が自分と対立していると見ているでしょう。だから、自分ではどうしようもない と、社会から逃避したくなります。 薬物療法で軽くなっても、この対立的な見方は変化しません。ただ、症状が軽くなるだけ です。外的世界が自分の外にあるという見方は、自己の真実をとらえていないというのが西田哲学の教えです。古来、日本の文化の底に自然と自分は一体である、心と身体は一体であるというように、日本人に多かった(今もそういう人がみられる)見方に通じる見方です。 社会の場所を自分の外にあると見る判断的自己では、苦悩 が多くて、心の病気になりやすいのです。
 判断的自己より深いのが、知的自己ですが、これも浅くて、心の病気になりやすいのです。意志的自己になって心の病気になりにくくなります。心の病気のレベルではない葛藤、自己不全、良心的な苦脳を解決できるのが叡智的自己、人格的自己です。 深い東洋哲学を実践するところがなくなりました。欧米の心理療法者が、M&Aとして指導をはじめました。日本の文化にあった日本的霊性、自他不二のことを欧米の人が実践的に指導してくれる事態が起こっています。仏教の専門家でない人が社会の中で深い哲学を探求するインドの「大乗」、同じような深い哲学が専門家の外で生かされる「第2の大乗」は全世界で起こっているようです。
<連続記事・目次>種々のマインドフルネス&アクセプタンス
Posted by MF総研/大田 at 20:43 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
自分とは何か=深いマインドフルネス [2012年04月26日(Thu)]

自分とは何か=深いマインドフルネス

 前の前の記事で専門家の苦悩について述べました。 専門家は意志作用を知っています。まじめに、真剣に、意志作用を行使して専門的 技術、専門的知識を駆使して社会に貢献してきました。しかし、それでも、燃え尽 き、プライベートでは悩みます。 専門的な技能、知識は対象的なことです。しかし、最も大切な「自分自身」を知ら ないのです。専門的な技術、知識に関係した生活が無限に続きます。無限の過程が 続きます。しかし、その過程を続けている「自分」を知らない、自己自身を自覚し ないのです(自己自身の自覚的限定に至らない)。
     「広義に於ける行為的一般者の底にある深い行為的自己は自己自身を見るといわ れないものであるから、かかる自己の自己限定はただ、無限の過程と見られるの外 はない、どこまでも自己自身の自覚的限定に至らないのである。」 (西田幾多郎旧全集5巻472頁)
 どんなに、専門的にすぐれた仕事をする意志的自己であっても、自分自身を知ら ない。何かをきっかけにして、「仕事をしているが何か満たされない」「まじめに やっているのに報われない」と自分自身の不安定さに悩むことが起きるのです。生 きている自分とは何だろう。自分は芸術家であるが、表現できて いるのだろうかと苦悶する人が出てきます。人を支援する活動をしているのだが、 うまくいかないと苦悩する人がいるはずです。
 形式的なマインドフルネス、アクセプタンス(M&A)、意志作用レベルのM&Aでは すまない問題の苦悩には、対象的M&Aではなく、自覚的M&A(自己存在自身のM&A)で ないといつまでも満足できなくなるでしょう。何かの修行らしいことを何年もするのに、決着がつかないことがあります。自分が問題なのです。
 そういう苦悩をかかえた人も多いのですから、そういう自己とは何かを探求する M&Aにはいっていくことになります。自己は、対象的な(どんなに高度な知識、技能 でも対象的です。自己自身ではない)ものがいくる充実していても、自己存在がわ からず、迷い苦悩する人が出てきます。 うつ病や不安障害などが改善したけれど、まだ自分自身がよくわかっていない(たとえば、自他不二と思えない)という人も、さらに探求すべきです。さもないと、前回の発症を上回るほどの事態がおきたとき、どうなるかわからない。 だから、そういう人は、深いM&Aを実践する 必要があります。日本には、そういう深い自己探求があります。
 家庭や社会の仕事を捨てて(出家して)寺などにどっぷりと入って修行するのではなくて、不快なことも楽しいこと(世界を創造していく、社会貢献して、自己実現の満足)もある社会の現実の中で、自己存在の探求の方針を持って、行動していくしかないのです。対象ばかりを追わずに、常に、どこでも、その時に働く自己自身を探求するのです。
<連続記事・目次>種々のマインドフルネス&アクセプタンス
Posted by MF総研/大田 at 19:19 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
日本人に多かった死生観 [2012年04月25日(Wed)]

日本人に多かった死生観

 うつ病や不安障害などの改善は、意志的自己になればいいです。 見て、効いて、考える、だけでは不足で、社会的な行動ができる自己で満足できます。 精神疾患を改善するマインドフルネス、アクセプタンス(M&A)は、意志的自己レベルの自己探求でいいという理由です。
 しかし、がんや他の病気で、死を覚悟する場合は、これではすみません。 前の記事でこう述べました。
     「ただし、末期になってから、死の恐怖の問題を持つ人は、1年もかけているこ とはできないので、特別のM&Aを開発すべきです。自然を自己と一体とする「日本的 霊性」による死生観によるものでしょう。魂が抜け出ていくという死生観ではなく 。どちらをとるか、その人の好みによるでしょう。本当は、60歳になったら誰で も、探求しておくべきことだと思います。告知されてからでも間に合うでしょう。 がんは5年10年の慢性疾患だそうですから。
 「死の準備教育」ということが提案されていますが、 そのうちの、死の覚悟の問題があります。死後も魂のようなものが身体を抜けて有 り続けるから、死を恐怖する必要はないという思想があります。これで死の苦痛を 免れることができれば、それはそれで尊い助言です。
 心と身体は別であって心(魂)は死後もあり続けるとして、死ぬ恐怖から救われ て、末期を安心して生きる道があります。 ところが、古来、日本人はそういうのとは違う死生観を持っている人もいたようで す。
 日本的なのは「私は死なない」のようです。日本には、古来、無我、無心という ことがいわれます。無我ということは「意識された自己」がないということです。 盤珪は「不生ですむ」と言いました。自分はない、自分というものは生まれていな い、不生なものが死ぬはずがない。こうした、日本人の死生観があるようです。 西田幾多郎は後者のようです。こう言っています。
     「自己が物と合一するとか或いは自己がなくなるとかのみ考えるのであるが、 単に自己がなくなるのではなく、すべて有るものが自己に於てあるものとなるので ある。真に無にして見る自己というのはかかる過程的自覚を包んだ直覚面でなけれ ばならぬ。かくして我々は天光る月にも野になく虫にも自己の生命を感ずるといい 得るのである。」(旧全集5巻463頁))
 生きている今でさえも、自分がない、だから死ぬのは問題にな らない。これは、高度のマインドフルネス、アクセプタンスです。うつ病を改善する意志的自己(世界を対象的に見る)レベルのさらに、もっと先、外的世界ではなく自己存在そのものが問題となる苦脳、自己存在が消滅する苦脳のアクセプタンスが必要になります。その中で、最後までこの生を生きるマインドフルネスが必要になります。 自分は創造的世界の創造的要素で、世界と自分は一つである。自分だけというものはない、世界は自己の命である。一方、世界と自分(魂)は別もので、肉体が死んでもありつづける。
どちらも、死の苦脳の克服になります。わずか、余命数カ月という時、此の問題を探求するのか、それとも、60歳になったら、数年真剣に取り組んで決着 をつけておくか、自由にまかされています。しかし、そういう準備のなかった人を支援する 活動も、病院で死をむかえるので、今までは少なかったでしょう。がん患者は、数年にわたって苦脳があるのですが、メンタルケアというが、十分ではないといわれています。
<連続記事・目次>種々のマインドフルネス&アクセプタンス
Posted by MF総研/大田 at 21:51 | 人が怖い | この記事のURL
自分をよく知らないからうつ病、不安障害になる [2012年04月24日(Tue)]

自分をよく知らないからうつ病、不安障害になる

 西田哲学によれば、自己とは何かということについて、人はさまざまな考え(そ れが各人の哲学である)を持っています。西田によれば、浅い自己から順に、判断 的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己、人格的自己などがあるというのです 。自己の段階が違うと、同じことであっても、事物や自己(すなわち、不快事象に もなる)の見方が質的に変化して、包む(受容できる)範囲が広く深くなっていきます。
 うつ病や不安障害は、自分をよく知らない状況におちいっているのです。受容できる範囲が極端に浅く狭くなっています。だか ら、再発を防ぐために、薬物療法で軽くなった時に、成熟した自己に成長したほう がいいのです。
 判断的自己は、自然界や環境(家庭、職場など)を自己の外に実在すると判断的 に見る自己です。このような自己(観を持つ人)は、学校や社会での不快事象は自 分と無関係に外部に実在するとみて受容できないことがあり、環境から逃避しがち となるでしょう。
 知的自己は、外的な自然界や環境が自己の意識作用の産物であるとは知っている が、世界を外に見る主観主義的な自己です。さまざまな意識作用をよく知らずに、 不快事象があれば、衝動的行動をするでしょう。
 意志的自己は、自然界、外的環境は、自分の人生の目的を達成するための合目的 的世界と見て、さまざまな意識作用を統合する意志作用を用いて、不快事象があり ながらも受容して、自己実現の行動をしていく自己です。 普通は、意志的自己で 十分です。
 うつ病や不安障害、過食症を改善するのは、意志的自己に成長する必要がありま す。対象的に見る事象が不快なために、それをうまく受容できずに、 知的な作用レベルの見方で処理して、意志的行動ができないのです。意志的行動ができないから、 社会的生活が支障をきたすのです。
 うつ病や不安障害になったら、薬物療法で軽くなった段階で、認知行動療法やマ インドフルネス心理療法を受けるのが再発防止になることは、上記の理論からみて、当然です 。薬物療法だけでは再発が多いのは、不快事象がありながらも受容して、自分の人生目標の実現のための行動をする意志的自己になっていないからです。意志作用を行使できないからです。そのために、苦脳の思考を起こして、神経生理学的な反応を起こして、抑うつ症状や不安感情、逃避行動が起こります。うつ病、不安障害、過食症などになった人は、薬物療法と並行して、意志作用を活性化するマインドフルネス心理療法を訓練したほうがいいです。認知よりも高次の作用、さまざまな作用を統合する意志作用の訓練、作用の作用としての意志作用の訓練ですから、第2世代の認知行動療法ではありません。

専門家の苦脳はさらに深い自己の問題

 意志的にすぐれた行動をしていた人が、なお、内的外的 事物や自己自身を対象的に見ることによる不快事象の受容ができないことが起こる のです。これは、順調にいっていた人、成功したかに見える人に起きる危機です。 対象的なことに苦悩するのではなくて、専門的スキルのスランプ、燃え尽き、芸 術表現の限界、自己自身の無価値観(虐待、犯罪被害者、医療関者など)、無力感、生きることの意味、死ぬことの恐怖 などの「自己存在」そのものの苦悩や「生きること」「人間とは何か」ということ に関連する葛藤は、対象的、意志的自己レベルではすみません。さらに深い自己探 求のマインドフルネス、アクセプタンスの実践が必要です。 これらは、うつ病や不安障害のレベルではありません。 改善の方向があるのですが、従来は、あまり、こうしたマインドフルネスの実践は行われてきませんでした。しかし、この深いレベルの苦脳も多いのです。 2,3か月で改善する問題ではありません。1−3年かけてとりくむ問題です。一生苦しむよりは、1-3年で改善できるならば試す価値があるでしょう。このような問題を克服した人は、社会的にすぐれた行動をするでしょう。歴史上、さまざまな領域でおられます。後世に残っているのは、芸術作品です。(ただし、末期になってから、死の恐怖の問題を持つ人は、1年もかけていることはできないので、特別のM&Aを開発すべきです。自然を自己と一体とする「日本的霊性」による死生観によるものでしょう。魂が抜け出ていくという死生観ではなく。どちらをとるか、その人の好みによるでしょう。本当は、60歳になったら誰でも、探求しておくべきことだと思います。告知されてからでも間に合うでしょう。がんは5年10年の慢性疾患だそうですから。)
 医師が病気を診断する場合と同様に、その人の問題が、知的レベル(見る、聞く、考えるなどの浅い作用の対象)を苦脳しているのか、作用の作用である意志作用の欠如の問題か、作用ではなくて、自己自身の問題であるのかをアセスメントして、ふさわしい支援(治療法にあたる)をする必要があります。すべて、マインドフルネス、アクセプタンスで助言できますが、マインドフルネスは単純ではないのです。さまざまなレベルのM&Aがあるのです。深い問題で苦脳する人が、浅いM&Aを指導されれば、効果がありそうもないと、がっかりするでしょう。違う病気には、違う薬や治療法が効果的であるのと同様です。
 深いM&Aは、欧米のM&Aでも、まだ定型化されたものは開発されていないと思います。日本の昔からの精神でもあり、西田哲学もあり、日本で研究開発していく価値のあるものです。それは、標準的なM&A(深い自己まで)を習得した人が、それぞれの専門領域で開発していくことができるものだと思います。M&Aのスキルと専門流域のこと、両方をよく知らないと、効果的な深い問題の「〇〇のM&A」を開発できないでしょう。 日本では、深いM&Aによる問題で支援できる可能性が広いので、なすべき課題が多いです。
Posted by MF総研/大田 at 20:48 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
患者と治療者の全体の世界の立場 [2012年04月23日(Mon)]
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門 家の倫理」

第3節 専門家の我執・西田哲学

<第6> 患者と治療者の全体の世界の立場

 前の記事の図2のような全体(もちろん他の治療法もあります)の立場を知って 患者と医師Aが一定期間向き合う(自由に他の医師、心理士に変わることができる )ことが世界の立場からであり、それがなく、図1のようであれば、「技術者(専 門家およびその職業団体)の我執、個人の苦悩、世界の歪曲」 の様相を帯びていると言えるのだろうが、心理療法がアメリカほどに普及していな い日本では患者に選択の自由が少なく悲しい状況になるのかもしれない。
 来る患者を<すべて>受け入れるのは支援者の良心と義務であろうが、一定の期 間でうまくいかない場合には状況が変化する。世界の立場になれば、専門家はいく らでもいる。自分が「治さないことが、かえって患者さんが治ることをもたらす」 自分が「治そうとすることが、かえって治ることから遠ざける」そんなことになら ないような社会にしたいものである。うつ病や不安障害は多い。自分や家族が患者 、家族、専門家が世界の立場で動くことにかかっているのではないだろうか。
 うつ病や不安障害については、薬物療法のみの専門家が多い日本である。西田幾 多郎が、技法、スキルに熟練した専門家にも我執、独断が生れるという人間の本質 という心は理解しにくいのであるが、上記のようなことなのだろうか。自分がとっ ている態度や自分の本心が、もし相手につつぬけであるとしても(世界の立場なら そうである)としたら、受け入れるであろうか。もし、支援者の本心が、自分の愛 する家族や自己自身に向けられているならば、受容できるだろうか。専門家が深く 探求すべき問題である。
 マインドフルネス心理療法は新しいのであるが、この課題をできない患者も、課 題ができても改善しない患者さんもいる。グループ治療に不向き、個人指導なら改 善の可能性があり、カウンセラーのスキル不足、患者さんが課題を実行できない、 他の病気の可能性、患者と治療者の信頼関係など多くの要因がある。そういう人に は、他の認知行動療法や薬物療法が向く可能性がある。だから、そういうクライエ ント(患者)は、いつまでも自己の治療法に執着しない方がいいというのは、同様 である。他の治療法、専門家を探すべきではと話し合うのがいいようである。心の 問題は広く深いので他の専門家がいるかもしれないのだから。世界の立場、患者の 立場に立って、支援者の満足に執着することを警戒しなければならない。
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」目次
Posted by MF総研/大田 at 21:04 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
心の病気の治療、相談の世界に専門家のエゴがないか [2012年04月22日(Sun)]
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連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門 家の倫理」

第3節 専門家の我執・西田哲学

<第5> 心の病気の治療、相談の世界に専門家のエゴがないか

 心の悩み相談、治療、心理的ケア、カウンセリング、心理療法の領域について、 図で表してみた。個人の立場を去って、世界の立場に立つというのは、 悩み相談、精神疾患の支援にかかわる医師、心理士、 カウンセラーの倫理(通常の職業倫理を越えた人格的倫理)にかかわる問題が含ま れているようである。
 うつ病や不安障害の治療法としては薬物療法、傾聴型のカウンセリング、認知行 動療法、対人関係療法、マインドフル ネス心理療法などがある。がんや身体の病気には、インフォームド・コンセン トとして、いくつかの治療法があることを患者に伝えるが、うつ病や不安障害の場 合、病院に行くと、他の治療法の説明がな く、薬物療法が開始されている。イギリスの場合は、まず、心理療法(認 知行動療法)であるのとは違う。 薬物療法は、非常に重症である患者を重症にする効果があるということにも合致し て合理的なように見える。
 一つだけの立場と多くの立場をすべて含んだ世界の立場ということから「心の病 気」(うつ病や不安障害)の治療関係を表示すると図のようになるだろうか。 一つの立場では、図1のようである。自己(患者、クライエント)は 世界全体を知らないし、教えられていない。医師も心理士もそうである。自分が学 習したスキル以外のことをよく知らない。 しかし、世界全体では、大体、図2のようになるだろう。世界の立場なら、 患者(クライエント)および医師(または心理士)は、今は医師Aまたは心理士aの 治療を受けていても、他に多 くの医師、心理士がいることを知っている。
 心の病気以外の多くの病気は、世界の立場をとっている。たとえば、がんには、 外科療法、化学療法、放射線療法など種々の治療法がある。 患者も納得のいく治療法、医師を探 す。医師も専門病院を紹介する仕組みになっている。がん治療の専門でない 医師は、患者さんががんではないかと思うと、専門病院を紹介する。
 しかし、精神疾患(心理療法でも治るうつ病、不安障害などに限定しての議論で ある)は特徴的である。ある年月治らない場合でも「私のところで治ら ないので、もっと専門家(医師、心理士)を紹介します」ということがない。患者 (クライエント)も、同じ医師(または心理士)に、治らなくても長く ついている。他の病気なら早く治りたいので、ある期間治らないと、別の専門家を さがすはずであるのに、精神疾患は、不思議な関係 になっている。生命がかかっている(ながびいていると抑うつ症状が強まり自殺の リスクがある)のに、不思議である。
 心の病気の人は、自由に自分の希望する治療法を受けられない。あるいは、専門 家から、すべての治療法を紹介(インフォームド・コンセント)されていない。ま た、希望する治療法を受けられる場所は少ない。欧米では国中に広まっているのに 、日本では、広まらない。 生命がかかっているのに、この方面に予算を回されない。個人は創造的世界の創造 的要素である。患者さんも家族も世界を変える。一人一人が世界を変える。政府を 動かすのも、患者さんや家族である。

西田哲学でいう専門家の執着がないか

 もし、医師Aが医師Bか心理士a,bを紹介すれば、その治療法で治るかもしれない 。薬物療法でなくて、心理士が担当すれば、治るかもしれない。アメリカでは、認 知行動療法やマインドフルネス心理療法で治る患者もいるのであるから。専門家( およびその集団)が自分の患者に自分の治療法をいつまでも執着しないほうが治る かもしれないわけである。そのことは心理療法の中でも言える。心理士a(病理レベ ルの治療には不得意な心理士)が長くカウンセリングしても治らない患者さんを他 の心理士bc(うつ病を治療する認知行動療法が得意)に紹介すると治るかもしれな い。別の病気がひそんでいるかもしれないのに、心理士の善意(支援をやめるわけ にはいかないという善意)が改善を遅らせるかもしれない。
 日本は、心理療法が遅れている。限られた立場で見られている。研究が遅れてい る。
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」目次
Posted by MF総研/大田 at 20:28 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
専門家にも我執がある・人間の本質 [2012年04月21日(Sat)]
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」

第3節 専門家の我執・西田哲学

<第4> 専門家にも我執がある・人間の本質

 自己の我執を自覚すべきは、宗教者だけではない。次は、宗教者(浄土真宗の開祖)、親鸞に ついての言及であるが、さまざまな専門家も自覚すべきことである。
     「親鸞がしばしば用いる表現に「煩悩具足の凡夫」というものがある。人間は限りない煩悩を 身に備えた愚かな存在であるという透徹した眼が親鸞にはあった。愚かな存在であるのは、親鸞 も変わりがない。『教行信証』の「信巻」に「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利 の太山に迷惑して」という親鸞自身の心情を吐露した文章がある。
     愚禿というのは、もともと禿頭の愚かな者という意味であるが、それを親鸞は自らの号とした のである。自分もーーーーあるいはむしろ、自分こそーーーーむさぼりの心や愛憎に突き動かさ れ、名誉や利に惑わされているという深い自覚がそうさせたのであろう。
     親鸞の『正像末和讃』のなかに「愚禿悲歎述懐」と題された和讃(仮名まじりの賛歌)がある 。親鸞が嘆き悲しみながら述懐したものとされたこの和讃のなかの次の表現も、同じく、人間の実 相を言い表したものであろう。「悪性さらにやめがたし/こころは蛇蝎のごとくなり」。生まれも った悪を離れることのできないわが心は、毒をもった蛇やさそりの如くであるということが言わ れている。」(2007,藤田正勝「西田幾多郎」岩波新書、pp148-149)
 西田もこういう。
     「自由なる自己そのものを見る良心は深い自己矛盾でなければならない、自ら良心に恥じない などというものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ最も深く自己自身を見る ものの意識である。」(「叡智的世界」旧全集5巻176頁)
 自己の悪性を自覚していれば、専門家なら抑制することができるし、あえて意図的に悪を犯す 人(それは専門家とは言えない)もいる。しかし、悪性を自覚していないと、それを犯しやすい 、気をつけていないのだから。抑制しようという意志も働かないから。心の働きは、高次の働き でなければ、知ることはない。悪に気がつくのは、悪そのものではない、悪を見るものである。
 こういう自己の愚かさの自覚は、現代では宗教者よりも、むしろそれ以外の、人を扱う専門家 に必要であろう。命にかかわる人に接するのは、現代では宗教者よりも、それ以外の専門職に多 いからである。うつ病、自殺、人格の否定は、宗教団体ではなくて、それ以外の専門職がかかわ っている場所(企業、役場、学校、家庭、病院、介護の現場、福祉の現場)で起きている。
 逆に、自己の悪性に苦脳する悲しい人は多いはずである。虐待された人や犯罪被害者、家族を救済できなかったという自責に苦しむ人など、自己自身の道徳性で苦しむ人は、逆に自己自身をせめて苦しんでいる。このような苦脳は、対人関係の悩みとか、就職、経済のような対象的なことの苦脳ではない。深い自己自身の苦脳である。対人関係や仕事の苦脳とは深さのレベルが異なる。 認知でもなく、意志作用レベルでもない、さらに深い自己の問題である。 そのような悩む人も、宗教によらずとも、M&A的臨床心理学で支援される必要がある。なぜ、M&Aがいいかというと、責められる自己像や経験は対象的に見られたものだから、それを無評価で包む実践によって、自己の悪性を包む内奥のもの(自己自身)を自覚するのがいいからである。
 親鸞上人のように、深く自己の悪性を自覚すべきなのは、宗教者ばかりではない、 すべての者なのである。西田哲学もそれを教えているのである。人は、自分が学習した枠組みで 見るが、それで、ものごとの真相を知っているわけではない。特に、西洋は二元観が多いが、日 本、東洋は一元観が文化の背景になってきた。詩、歌、小説、絵画などの芸術も、それを表現したものが多い。それで救済される人も多い。志賀直哉の「暗夜行路」、川端康成の「千羽鶴」の例でみた。西田哲学はそういう日本の情的な心を論理化したのである。それに導かれて実践すればいいのである。意志的自己、叡智的自己から人格的自己まで、すべての人が実践できる西田哲学は、誰もまだ実践法を開発していないので難しいのである。日本人ならすべきである。
 藤田氏の「西田幾多郎」は、西田幾多郎の言いたかったことをよく代弁しているように思う。後 で触れたいが、仏教も不十分であると西田は言っている(昭和20年であるが)ことも指摘して いる。情的な表現になっていて、論理化されていないので、実践方法がよくわからないのである。そうこうしているうちに、(僧、学者など)専門家でさえも幹になる部分を見失った。 自分たち(僧、研究者)だけの満足になっていて、現実の社会(寺や大学の外で苦悩する 人、それに関わる専門家)に生かされていなかったし、社会の人々の苦脳を解決する指針になっていない(現在でも状況は変わっていない。寺や大学 の外で自他不二の哲学が実践されていないし、それを仏教学者からも教えられていない。)。西 田哲学もまた、現実に生きて働いていない(上田薫氏の嘆き)。日本には、西洋にない深い哲学 があるのに、生かされていない。欧米のマインドフルネス&アクセプタンスの研究者が、東洋哲 学と実践を活用し始めた。しかし、自他不二の深い哲学までを発掘して我々に教えてくれるだろ うか。日本人が捨ててしまった(かろうじて、芸術の分野で表現されるようであるが)ものだが。
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」目次
Posted by MF総研/大田 at 19:41 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
技術者(専門家)の我執、個人の苦悩、世界の歪曲 [2012年04月20日(Fri)]
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」

第3節 専門家の我執・西田哲学

<第3> 技術者(専門家)の我執、個人の苦悩、世界の歪曲

 西田哲学の解釈で、板橋氏は次のように解説している。専門家も我執、我見を起し、自己(お よび自己の属する有形無形の団体)の利益を去った世界(患者側、他の支援グループも含めて広 い世界)の立場に立てなくなる。専門家が熟練して力を発揮してくるほどに、それが生じてしま う。自分が最も高い、よく知っているという我執を起こすのが人間の本質である。
     「しかし我々の自己が、自らの行為を行為的直観において実現することは、たとえば技術の 熟達と共に惰性化・粗雑化が起こるように、行為の実現を媒介する絶対的な否定性を見失わせ、 行為が我々の自己から連続的に限定し差配しうる事態であるかのように錯誤させるものであ り、むしろそこでは、かえって自己基体化・実体化の危険が強まることになる。たとえば、さ らなる修練によって、ひとたび惰性化・粗雑化する傾向にあった技術が再び生き生きとしたもの に取り戻されるなら、今度は技術の創造性と弾力性とが増しただけに、再び惰性化・粗雑化する 際には、より強固なそれに至るまで、そして場合によっては修復が効かないところに至るまで、 かえって事態が顕在化しないということも起こるそしてその技術がその人(*のプ ライド、地位、これまで経歴、面子、名誉、収入、生きがいなど=大田注)になくてはならな いものであればあるほど、必然的にその人は自らの在所までも見失うに至るであろう。すな わち、「形作られたもの」として我々の自己に与えられるものは、単に我々の行為の障害になっ たり、我々の行為を否定したりするものだけなのではなく、むしろさらなる差配への欲望を誘 うものとして「悪魔的に迫り来るもの」なのであり、それは「我々を生かしながら我々を奴隷化 するのである、我々の魂を殺すのである」(9,201)。ここに自己は、「形作られたもの」にお いて自己を奪われ、見失うことで、世界の抑圧の「奴隷」となり、果てなき苦悩の連鎖に閉じ込 められる。しかしそのことは、世界それ自身が自らの本来から転倒し、自らを歪曲化する ことをもまた意味しよう。」(5)
 専門家のエゴが世界までも苦しめるというのだろう。人はすべて、世界の大切な要素(創造的 世界の創造的要素)なのであるから、専門家のエゴが働く場合には、関係する人を救済できず、 苦悩からの解放を遅らせる結果となる。そうであれば、その個人の創造的力を充実させず(社会 復帰を妨げることで)、また、結果的に 死亡(事故、自殺)させるのであれば、世界の要素である個人を世界で活躍することを失わせる 。世界自身を崩壊させることになるというのではないだろうか。ノウハウにすぐれた専門家であ るほどに、惰性化・粗雑化、我執、独断ということを自覚しなければ世界(多くの個人も、そし てそれが構成し世界)を不幸にするというのだろうか。かえって自己のスキル(すべての事例に 万能ではない)に慢心(執着)すると、適切でない事例にも惰性的に粗雑に適用(自己の枠内に 閉じ込める)して、かえって救済や解決、自己実現を遅らせることがあるのだろう。
 自分の我執を去って、世界の立場に立つことは難しいことであるが、自覚しなければならないのである。自己洞察の浅いものは、自覚なしに、我執によって、他者の自己実現を妨害していることがある。西田哲学が教えている。最も客観立場とは、全く自我の評価、自我の都合、自我の好き嫌いを去った、事実そのままの立場である。

(注)
    (5)板橋勇仁「歴史的現実と西田哲学」243頁。 (9,201)は、(西田幾多郎旧全集9巻,201頁)のこ と。

 (非定型うつ病、パーソナリティ障害などの拒絶過敏性による他者への怒り、不満による感情は浅いレベルのところでおきている。相手と自分を含めた客観的場所から評価せず、自分の見方を正しいとする「我執」が働く。自我の評価判断を留保して、世界の立場で見る、聞く、考えることが、 感情的になることが少なくなって、症状が軽くなる。 自己側からの評価判断は、それまでの人生経過によって強化されており、 相当の期間、1年2年のアクセプタンス、マインドフルネスのトレーニングが必要である。認知(思考)レベルよりも高次の意志作用の訓練による。クライエントが自分の判断の方を正しいととることは、治療過程でも起きる。「このカウンセラーはだめだ」といって、中断するのは、クライエントの我執であることがある(相手が、ベテランの専門家である場合。多くのクライエントを扱ってきたのだ)。ところが、ベテランの専門家でも、自分の学んだ技法のレベルでしかわからないのであるが、自分の技法の枠内で見る執着から、スキルを越えたものを見落とすとか、改善できる助言ができない。
 専門家の我執は、意志作用のレベルではない。もっと深い意識、気づきにくいエゴ的心理が関係している。 自分が正しいという我執は、浅いレベルから、深いレベルまで起こる。専門家は、自分の学んだ技法に執着して、それを絶対視する。そのことにより、関係者をかえって自己の技法に閉じ込めて、治ること、自立すること、新しく生きることを妨害することになることが起きる。善意による「罪」である。)
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」目次
Posted by MF総研/大田 at 20:07 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
深いM&Aは誰が開発するのか [2012年04月19日(Thu)]

深いM&Aは誰が開発するのか

 今、世界中で、注目されているマインドフルネス、アクセプタンス(M&A)とは、つらいこと、不快なことを受容して、自己形成、自己実現を達成しようという意味がある。その不快事象、自己形成には、深いものがあることを仏教や西田哲学が指摘してきたのである。社会問題への適用がされなかったが、封建社会などの時代が一般国民に仏教による深い探求を許さなかった。 しかし、今や、東洋にあったM&Aを欧米の人が、活用しだした。それでも、元来、東洋哲学だから、日本に深い自己探求の哲学がある。
 人の受容できないことには、さまざまなレベルがある。成功していたかに見える専門家でさえも受容できない苦脳が起こる。善意でも他者にレベルの浅い支援を続けることで改善せず、自立できず苦脳を長引かせて結果的に受容できないことをしてしまう。仏教が探求した「苦」は浅いレベルから深いレベルまである。だから、M&Aは、判断的自己レベル、知的自己レベル、意志的自己レベルから叡智的自己、人格的自己レベルまである。 日本人ならば、そういうM&Aを作って、日本の社会問題を解決し、世界に発信していけばいい。 埋もれているが、あることはわかっている。まだ発掘されていない。東洋哲学が、M&Aになりうることを欧米の人が気づいた。深い苦脳があるので、第4世代にもはいっていくだろう。 第1世代は「行動」、第2世代は「認知」(思考)、第3世代は今ブームのもの、メタ認知に相当する「意志作用」であるがM&Aを中核にすえたのが特徴、第4世代は、「行為的直観」を活用したM&Aになるだろう。自己存在そのものに苦脳する人が多いから、第3世代のM&Aでは解決できないことが多いことにすぐ気がつくだろう。
 深いM&Aの開発を誰がするのか。やはり、欧米のM&Aの研究者なのか。

<連続記事・目次>種々のマインドフルネス&アクセプタンス
Posted by MF総研/大田 at 07:48 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
人間の本質は、独断的・自己中心的 [2012年04月18日(Wed)]
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」

第3節 専門家の我執・西田哲学

<第2> 人間の本質は、独断的・自己中心的

 悲しいことに、人間は「各人の独断、各人の我執というものが、この世界に本質的」であると いう。人間に本質的であるから、全世界で起きている。西田幾多郎は、人には独断と我執が本質 的だという。
    「否定すべきは、我々の自己の独断と我執でなければならない。無論、矛盾的自己同一 的な世界は夢と偏見とに充満することが、それに本質的でなければならない。・・・各人の独断 、各人の我執というものが、この世界に本質的でなければならない」(3)
 西田哲学の研究者、板橋勇仁氏は、これを引用していう。
     「我々の自己が自己である限り、自らが世界において必然的に決定された存在であるというこ とを見失う事態も生じよう。我々の自己においては、自らが自立的に自らの内に存在根拠を持ち 、行為しうるものとして自らを基体化・実体化し、それに基づいて世界を差配・統御しようと する恣意的で我欲的な契機が備わっており、この契機が無くなることはありえない。「各人 の独断、各人の我執というものが、この世界に本質的でなければならない」」(4)
 板橋氏は、この後に、専門家にも我執、独断が起きることが本質的であることを説明している 。 医学や心理学も「科学」であろうが、そこの担い手の人間にも、独断、恣意が起きるおそれがあ る。歴史的にも何度も実際起きた。自己や自己の技術を優先して、独断的、利己的に思考、行為 する。 不都合なことを隠す、データを歪曲する。無知であるために害のあることを専門家がすすめた。 偏見によって病人を排斥した。専門家の我執、偏見、独断で、困るのは国民である。全世界で起 きてきたし、今も常に起きているだろう。時に、専門家による科学のベールをおおっているので 信じこまされるおそれがある。西田幾多郎がいうのはそういうことだろう。誠実である専門家に もエゴがみられるという。
 「世界を差配・統御しようとする恣意的で我欲的な契機が備わっており、この契機が無くなる ことはありえない。」
 世界とは大小無数にあり、メンバー、患者を支援する個人、集団、同業仲間集団も小さな世界 である。 小さな世界の垣根を越えてもっと広い世界の立場であれば、患者さんは別の支援者、治療者によ って救済されるかもしれない。
 心の病気の場合には、自分を傷つける主観的、独断的、自己中心的な評価的判断が多いのであ るが、西田哲学は、支援者側にも、独断的・自己中心的な心が働くという。精神疾患の領域だけ ではないが、精神疾患の領域でも、治療者、支援者側に、専門家の独断が数多くみられるだろう 。しかも、支援者側の利益(これは明きらかにエゴ)ばかりでなく、悪意がなく、善意(個人や 組織ぐるみの不知、無知、勉強不足、研究不足、拡大適用も)で行われている場合もあるので、 双方に気づかれにくい。それで、長引く、治らない、自殺もありえるはずである。
 専門家、科学者も、何らかの立場に立ち、自己が絶対であると思い込み、知らないことがある、もっと深いものがあるということを知らずに、善意で結果的に人を苦しめ、苦脳から解放されることを妨げる。心理療法も、思考レベルの置き換えによる認知療法から、思考レベルよりも深い「意志作用」レベルを用いるM&Aに移行してきた。仏教や西田哲学によれば、人には「意志作用」よりも深いレベルの自己形成作用があると言っている。とすれば、意志作用では解決できない葛藤、苦脳もあるわけである。


(注)
    (3)西田幾多郎『経験科学』(旧全集巻9,301頁)
    (4)板橋勇仁,2008「歴史的現実 と西田哲学」法政大学出版局、240頁

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Posted by MF総研/大田 at 20:23 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL