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木村拓哉さん、深い哲学を語る [2017年04月21日(Fri)]

木村拓哉さん、深い哲学を語る

 木村拓哉さんが、NHKの「あさイチ」で出演された。(4月21日) この時に、先輩との会話を披露された。
 木村さんは、大変な人気を獲得しておられたのは誰も承知している。
 ある先輩が「自分でなりたっていると思っているだろう。」

(多分、間)

「あほか。生かされているんだ。」

 衝撃だった。この後から、木村さんは変わったという。

 芸能界に、すばらしい哲学を持つ人々がおられる。日本の見えない裾野は大変 広い。思いがけない場所に、深い人がいる。そういう深い仏教者を法華経は「地湧の菩薩」といった。そういう人は、組織人から理解されず、迫害され、知られることがない。にもかかわらず、苦悩する人を救済しようと、組織の後ろ盾もなく、ある場所に現れるので、まるで大地から湧いたような仏教者であり、地湧という。

私も木村さんに は何か違うところがあるな、と感じていた。
 週刊誌的ニュースによると、木村さん、ファンからひどくたたかれておられそうですね。ここでも、離れないのが本当のファンですね。
Posted by MF総研/大田 at 09:16 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
創造的世界の創造的要素、作られたものから作るものへ [2017年04月20日(Thu)]

創造的世界の創造的要素、作られたものから作るものへ

 人は世界の中に生きている。世界なくして生きることはできない。その世界は自分だけで作っているのではない。どんなに自分が偉大だとうぬぼれる人でも、自力だけで生きているのではない。西田幾多郎はこういう。

 「かかる世界の個物的多として、我々の自己の一々が、自己自身の世界を限定する唯一的個として、絶対的一者を表現するとともに、逆に絶対的一者の自己表現として、一者の自己射影点となる。創造的世界の創造的要素として、創造的世界を形成していくのである。」(『場所的論理と宗教的世界観』旧全集11巻403頁)

 ここでいう世界は実は絶対者なのであるから、深い意味がある(仏教学者にも理解されにくいところ)が、意志的自己、叡智的自己で見れば、竹村牧男氏の説明がわかりやすい(だから真理には階層がある。深い真理を読み取れないことがある)。こうなる。

 「現実世界というのは主体と主体とが相互に働き合う世界、お互いに働き合いながらこの世界を形作っていく世界、そういう創造的な世界、それが歴史の世界でもあるわけです。」 (竹村牧男(2012)『宗教の核心―西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ』春秋社、p136)

 今ここで、個人と個人が相互に働き合いながら世界を動かしていく。世界の一角を自分が創造してゆく。個人の働き以外に世界はない。その個人の働きは自分だkでのものではない、根底の世界(絶対者)のものである。

行為的直観

 意志的自己はすることが決まっていない。その都度、目的をみつけて行動する。しかし、それでも、世界を与えられるから、何をしようかと目的を思いうかべて、行動する。たいていの人間は、叡智的自己である。何をするか価値(家事、職務)が決まっている。行為に熟練している。その価値実現行為で世界を創造していく。いつも世界から与えられたものを見ることによって行為する。自己は世界の中に入り、働く。自己の目前の世界は無数の人が過去から働いた結果である。このことからも、自己は自力だけで世界を作る行動ができるのではない。作られたものが自己に迫り、自己は自己の自由意志で世界を創造する。

  「私はそこに行為的直観的に物を見、見ることから働くというのである。直観というのは、作用がなくなるということではない。自己が矛盾的自己同一的な世界の個物的多として世界の中に入ることである、自己矛盾的に物となって、働くことである。それは絶対の過去が現在であるということである、そこでは 絶対に過去的なるものが現在的に我に迫って来るのである、作られたものから作るものへである。我々の自己の作用というものは、そこから始まるのである。絶対現在の自己限定として、そこに人間の行為というものが始まるのである(人間の行為はイデーを見ることから始まる)」(『実践哲学序論』旧全集10巻31頁)

 この「世界」というのは、自己を超えるものを信じないものには、対象的な世界である。しかし、西田博士は、「世界」は絶対者だという。それは対象的な絶対者ではない。自己の内奥にあり、絶対に対象とならない。単独で存在する基体ではない。個人にしか現れない働きである。
Posted by MF総研/大田 at 20:47 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
自己を超えた根源において自己が成立 [2017年04月19日(Wed)]

自己を超えた根源において自己が成立

 前の西田幾多郎の言葉を引用して、竹村牧男氏はこういう。

 「道元の句を手がかりに、自己を対象的に捉える立場を透脱して、自己を超える根源においてしかも絶対主体としての自己とすて成立していることに徹することが悟りなのであり、ここにおいtれは、禅も真宗も同じだとしています。」(竹村牧男,p162)

 前の西田幾多郎の言葉にあったように、大乗仏教も同じです。ただの思想ではなく人間の事実です。鈴木大拙が日本的霊性といったものです。これを自覚した人を西田は人格的自己といいます。
 多くの人は、この自覚がないので、叡智的自己です。根源を認めないので、自分自身を執着します。無我と言いながらも、執着します。自分で思想を構成できると自己を自慢します。 それは対象的です。自己も対象的に意識し、宗教観も対象的に見ます。それで、自力です。 西田や鈴木によれば、深い宗教ではないのです。人間の事実ではなく、その個人の思考の産物です。
 ただし、意志的自己、叡智的自己は、人格的自己に包含されるので、浅い自己を否定しません。 このような浅い自己に徹することでも、このレベルの苦悩が解決できるからです。うつ病、不安症/不安障害などは、浅い意志的自己レベルのトレーニングで改善することが多いからです。

 逆に、人格的自己でない人は、なぜ、悟りや自己を超えたものを否定するのでしょうか。もう、西洋の人もこれをいう人がいます。
 深い自己を教えられない不幸があります。対象的なものでは解決できない問題をかかえた人がいるでしょう。
 意志的自己のマインドフルネスSIMTで、うつ病が治る人もおられるのに、知らされない不幸があります。自殺せずにすむかもしれないのですから、重大な問題です。

 もう一度、作家、三浦朱門氏の20年前の言葉を紹介します。

 「自分の考えと矛盾する学説、自分の信条を根底からくつがえすような事実に接して、謙虚にそれを批判的に眺め、検討し、そして矛盾を解決しようとする態度が、知識人の基本的態度であろう。テキストと矛盾する現象を認めないようでは、学者とはいえないし、その種の学者を集める大学は、やがて生気を失ってゆくであろう。」

  大学がだめならば、大学の外の研究機関があります。苦悩する国民が救済されるのが遅れているのですが、自分の学説、信条をくつがえすような事実に接した時に、自己に執着しやすい。すなわち、自力であり、自己の小さいことを認めようとしない。我への執着です。無我でない。エゴイズムの心理を大乗仏教は煩悩として教えてくれていましたが、SIMTでは「本音」と呼んで、観察することにしました。

 日本のマインドフルネス(禅、西田哲学)には、宗教ではない範囲と宗教レベルが明確になっているので、これを活用すべきです。宗教レベルでないと救われない人々もいます。ターミナルケア、がん患者の死の不安、人格を否定された人の苦悩など。マインドフルネスは宗教ではないというのは、一部であり、そういうことをいうのは社会が必要とする研究を抑圧して問題です。

文献
竹村牧男(2012)『宗教の核心―西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ』春秋社,162ページ。

Posted by MF総研/大田 at 20:21 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
大乗仏教にも道元禅師にも深い部分がある [2017年04月18日(Tue)]

大乗仏教にも道元禅師にも深い部分がある

 もちろん、経典には浅いことを書いてある部分もあれば、深いことを書いてある部分もある。深いものは、浅いものを包括する。
 大乗仏教にも、浅いことを書いた部分もあれば、深いことを書いた部分もある。法華経も華厳経もそうである。西田哲学も浅い意志的自己や叡智的自己を書いた部分もあれば、深い人格的自己を書いた部分もある。

 西田幾多郎は、大乗仏教にも、道元禅師にも深い部分があるという。竹村牧男氏(東洋大学学長)も同様である。 竹村氏は、西田哲学の次の部分を引用する。

 「仏教においては、すべて人間の根本は迷いにあると考えられていると思う。迷いは罪悪の根源である。しかして、迷いということは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起こるのである。迷いの根源は、自己の対象論理的見方によるのである。故に、大乗仏教においては、悟りによって救われるという。私は、この悟りという語が、一般に誤解せられていると思う。それは対象的に物を見るということではない。もし対象的に仏を見るというごときならば、仏法は魔法である。それは自己自身の無の根底を、罪悪の本源を徹見することである。道元は仏道をならうことは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなりという。それは対象論理的見方とは、全然逆の見方でなければならない。元来、自力的宗教というものがあるべきでない。それこそ矛盾概念である。仏教者自身もここに誤っている。自力他力というも、禅宗といい、浄土真宗といい大乗仏教 として、もとより、同じ立場に立っているものである。その達する所において、手を握るもののあることを思わねばならない。」(「場所的論理と宗教的世界観」巻11-411)。竹村牧男(2012)『宗教の核心―西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ』春秋社,162ページ。

Posted by MF総研/大田 at 21:45 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
日本的霊性によせて [2017年04月17日(Mon)]
マインドフルネス精神療法研究、第3回発表大会です。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3520

真理の階層性

 日本的霊性によせて

 前の続きです。
 自己は自己自身だけで存在している(そういうのを基体という)のではなくて、自己を超えたもの(絶対無、これもそれ自身で存在しない)に於いてあるといいます。 西田哲学がそれを論理的に説明していますが、竹村牧男先生の著書から引用します。

 「知られるように西田は、宗教は「心霊上の事実」(371頁)であるといい、「神は我々の自己に心霊上の事実として現れる」(372頁)という。また、「宗教を論じるものは、少なくも自己の心霊上の事実として宗教的意識をもつものでなければならない」という(373頁)。
 すなわち西田にとっては、宗教はあくまでも事実なのであり、決して一つの理念や理想なのではない。」(竹村牧男,2002,p174)(文中の頁は(旧全集の11巻の頁)

 多くの人が、実際体験した事実(心霊上の事実)なのです。だから、ちょっと理解しがたいことばやたとえ(メタファー)などが見られるのです。道元禅師、良寛、白隠、大東国師、盤珪・・・、妙好人、西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治、井筒俊彦、・・・、河井寛次郎、東山魁夷、・・・。エックハルト、 V・E・フランクル・・、弁証法的行動療法のリネハンもそうかもしれません。

 叡智的自己は、絶対無の体験を通した人格的自己の立場には、なかなか、立つことが難しいようです。深いもののテキストが理解できない(竹村先生は、絶対無を体験すると「看経の眼」が開けるという)。ただし、体験がなくても、哲学者は理解しておられると思います。多くの哲学者が、西田哲学のいうところを理解しておられるようです。

 深い人格的自己は、浅い意志的自己、叡智的自己を否定しません。包括します。 深いものは浅いものを包括できますので、否定しません。意志的自己のマインドフルネスSIMTは、浅い意志的自己レベルのトレーニングです。かなり有効性があるので、否定できるはずがありません。しかし、もっと深いものがあり、そういうものでないと深い悩み(自己嫌悪、死)を解決できないことを知っていますので、深いものを否定しません。法華経の行者、常不軽菩薩のように。迫害する人にも、あなたの根底に仏性(絶対無)があると。
 浅い宗教観を固執すると、それは対象的ですから、他の対象的なものを否定する傾向があります。常不軽菩薩に石を投げる人のように。自分のものと違うものがあると、自分の心が安定しないので。

文献:
竹村牧男(2002)『西田幾多郎と仏教〜禅と真宗の根底を極める』大東出版社
Posted by MF総研/大田 at 21:10 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
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