CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
必然の世界と自由の世界 [2018年01月15日(Mon)]

必然の世界と自由の世界

 =日本独特のマインドフルネスSIMT(1)

 日本のマインドフルネスは、日本古来の哲学によります。みな、自分でできることを選んで社会に提供していきます。自分でできないものは、他者からもらいます。

 金子みすゞがいう「みんな違って、みんないいです」
 みなが違うことをして、みなもらいあって、みな幸福になれます。

 自分で自分の好きな職業、いきがいを選択します。そして、その世界に参画します。ところが、思い通りにはいきません。

 社会から感覚を通して情報を得て(外部から情報を得る局面)、自分のできる工夫をして、社会にサービスを提供します(外部へ働く局面)。
 ところで、人間は、自己中心的です。好き嫌い、思想、宗教、色々、違います。自分の好きなものを執着して、好きでないものを排除しようとする気持ちがあります。悲しいかな、それが現実です。

必然の世界

 感覚によって知る世界は、無数の人間が自分の価値実現のために自由に(自己満足的、エゴイズム的に)動いた結果です。感覚を通して把握(欧米のマインドフルネスはここを重視)した時はすでに過去ですから、変えることはできません。一秒も前に戻ることはできません。一瞬前の、ミス、事故、やってしまった行為、なかったことにはできません。感覚で把握される世界は「必然の世界」といいます。だから自分にとって思いどおりでないのは当たり前です。世界の動きも予測できず変動していきますし、身近な人との対人関係でも不快な感情が起こります。必然ですから、不快であっても、逃げずに受け入れるしかありません。

自由の世界

 その世界は、必然の世界ではあるが、その中に、自分ができることもみつかります。好きなこともあります。好きな人もいます。
 世界の中に、自分でできること(価値)を見つけて、行動していきたいと願うのが人間です。 世界の中に、生き甲斐価値を見つけます。そして行動します。

 行動局面は、自分に自由が与えられています。どう行動するか自由です。 私たちの人生は、必然の世界の中で、自由意志を行使して世界を造っていくことです。
 観るものが不快であっても、逃げずに受けいれる心を成長させて、自分は、自分で選択した価値の実現に向けて自由意志で行動できます。こうして、人生とは、必然の世界の中に自由意志の世界があるといえます。
 こうして、みんなが満足を得ることができれば、みんなちがうことをして、みんな幸福です。

生きることがつらい時

 ところが、そうはいきません。不快なことがしばしば起こります。 感情が起きる、つまり不快になる時には、他者と自分に独特の評価基準(嫌悪や執着)や行動基準(自分独特の行動基準)があります。本音、独断といいます。 こういう心理を本音といいます。自分の観かた、考え方、行動の仕方に影響しています。 本音を観察して、自分と他者が不幸にならないような価値実現の行動を瞬時に選択できる心の用い方を身につけていきます。それが、マインドフルネスSIMTです。SIMTは、自己洞察瞑想療法です。(Self Insight Meditaion Therapy)
 いきることはつらいことがあります。他者の言葉や行動は、その人の内面を表現しています。背後にどんな本音やどんな感情やどんな期待があるのかを判断しなければなりません。感覚を通して把握される言葉や行為には、 私に怒っているとか、不満なのだとか、満足してくれているのか判断しないと、対話、仕事になりません。

セッション7必然自由.jpg
Posted by MF総研/大田 at 20:39 | 私たちの心理療法 | この記事のURL
マインドフルネス精神療法研究会でした [2018年01月14日(Sun)]

マインドフルネス精神療法研究会でした

 本日は、マインドフルネス精神療法研究会でした。

 自己の階層の観察をしました。意志的自己までできます。叡智的自己は対象的意識では、直接は観察できませんが、哲学的に確認できます。ここまで宗教ではありません。人格的自己は宗教レベルです。根底は絶対無、絶対的他者です。すべての人の底で知らずに動いています。

 本音、感情、価値、欲求を議論しました。

 分節1、無分節、分節2を議論しました。

 「マネハプ」について議論しました。マネハプのように、SIMTも、夫婦で、中学の子と、家族と一緒にするSIMTを週1回するのもいいなと。家族(夫が子供が)が家族にも告げずに自殺していくようなことを防止できるかもしれません。

 実践は、西田哲学の実践論に基づいて、叡智的自己、人格的自己をめざします。 自分の価値領域(家庭、職場、支援活動の場)において働く(ポイエシス)、そこで 独断的な本音を観察し気づいて(プラクシス)、他者を傷つけないような、自分、自分の組織だけの利益でなく、外部までの利益になるように見、考え、行動していく。「わかった」という文字で説明できるような状態は、みな、世俗諦だから執着せず捨てて(そうしないとそこにとどまって成長しなくなる、真の自己を証明しない)、無分節の哲学を理解して、その方向へ実践していけば、いつか、絶対無(無分節) に入る。そして、分節2として、さらに世界を作っていく。すべての人が根底に絶対無を持つ。そういう哲学を信じて実践していくと、体験する時がくる。そのような瞑想をしました。
 道元禅師は坐禅という瞑想法をすすめましたが、「只管打坐」と呼ばれた瞑想です。その哲学は正法眼蔵に書かれていて、後継者が続けてきた方法であり、公案は用いません。公案は臨済宗で用いられます。
 研究会は、西田哲学の哲学を信じ理解し実践しその通りであることを証明する方法でいきます。
 研究会では、意志的自己の意志作用の熟練、叡智的自己、人格的自己への哲学を帯びながら瞑想し、家庭職場で支援活動の場で実践していきます。深い人間探求のマインドフルネスは、日本には、 次のものがあるわけです。

★念仏による
★只管打坐による(生活の場では己見我利我執を捨てて行動)
★公案による
★西田哲学の実践論による

 これらは、宗教もありますが、宗教的ではない観察の方法を心理療法のような形式と内容にして開発していくのが、第3世代の認知行動療法ということになります。 宗教でない社会的マインドフルネスも社会への貢献が大きいのです。
 マインドフルネスSIMTでは、宗教レベルと宗教ではないレベルとを区分します。それぞれ、実践したいものを選択していただけます。


 要は、みな、深い実在論(真の自己とはなにか)の哲学があり、それを証明するような実践論の哲学(「どう生きるか」=プラクシス=自己形成、世界創造できる自己を形成)を信じて、自分の足場(家庭、職場、支援の場)で価値実現の行動をして家庭で職場で支援の場で生きていく(ポイエシス、世界創造)ということにつきます。

用いた資料
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/shuppan/ronsou-1-2016.pdf
「後期西田哲学の実践論」

「会報「こころの健康」
第103号 「本音・自己中心的な執着・本音」
第104号 「マインドフルネス 真理の階層がある」
第106号 「自分とはなにか 自己の階層がある」


http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/senmonka/soudanin-club.htm
★マインドフルネス瞑想療法研究会

 前回は、ドイツの学生さんが参観されました。日本のマインドフルネスがドイツに紹介されればいいのですが。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3029
★人格的自己へのマインドフルネス

http://blog.canpan.info/jitou/archive/2768
★叡智的自己のマインドフルネス

http://blog.canpan.info/jitou/archive/2889
★叡智的自己のマインドフルネス
Posted by MF総研/大田 at 21:42 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
マインドフルネス瞑想療法士🄬認定講座の第8回 [2018年01月13日(Sat)]

マインドフルネス瞑想療法士🄬認定講座の第8回

 今日は、マインドフルネス瞑想療法士🄬認定講座の第8回でした。 テーマは、「禅の哲学と現実にある禅の現代のありかたは、社会に積極的にかかわろうとしていない」西田哲学幾多郎、竹村牧男氏などによる問題提起です。
 しかし、実は、本来の道元禅師には、マインドフルネスSIMTと同じような意志的自己のものから、深い絶対無(無分節、絶対的一者、『ソラリス』では、絶対的他者という)のことまで含まれている。

現実に今紹介されている禅は「ただ坐禅するだけだ」といい、外部世界の貢献は関心がないということがみらる。そういうことを、文献で確認しました。

★現在の襌の問題、自己洞察がなく、ただ坐禅する。または、公案により絶対無を探求するが職場家族の面前では公案はできない。どちらも、家庭、職場ではできない。しかし、西田哲学は、家庭、職場の行動中(ポイエシス)に、自己洞察実践(プラクシス)せよという。その実践は、「至誠」で見て、考え、行動することである。
こちらにも問題点を述べました。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3665
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3036
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3037

★マインドフルネスのための道元禅入門
 道元には、現代でも通用する豊かな実在論、認識論、実践論もあるが、広くは知らされていない。実在論については、西田、井筒、竹村などの諸氏が発掘した。それを基礎にした認識論、実践論は、社会的マインドフルネスになると思われるが、広くは紹介されていない。 只管打坐により深い自己を探求する師はマスコミにも知られていないくらいごく少数の師がいる。しかし、「社会的マインドフルネス」のように心理学的哲学的に説明しながら実践する方法はまだないので、実践論を開発するのはこれからである(今、西田哲学の実践哲学による方法を研究会で実験中)。
 実際の道元の著作をつぶさに検討してみると、己見我利我執を捨てることを強調、絶対無に該当することも随所にみられる。文献を読む学者には禅は指導できないと道元はいう。文字は対象論理であり、実践がなく、文字以前の絶対無、自己の根底に至ることはできない。

★PTSD(心的外傷後ストレス障害)のマインドフルネスSIMT
 SIMTはこれにも効果がみられた。

★セッション8の指導要領

★脳トレーニング8
★資格認定申請のしかた

テキスト
(A)『禅の哲学とマインドフルネス、その現代的課題』 ⇒目次
  http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/shuppan/simt08-mokuji.pdf
(B)『マインドフルネスのための道元禅入門』 ⇒目次
  http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/shuppan/prf05-mokuji.pdf (C)『心的外傷後ストレス障害』 ⇒目次
  http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/shuppan/apl02-mokuji.pdf


★★2018年度の講座
今期6月開始の埼玉講座と金沢講座は事前チェック中です(入学試験のようなもの)

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3663
★今期、埼玉か金沢で認定講座を受けることを検討のかたは、入学試験のようなことがあります。2か月くらいかかります。ご連絡ください。すでに2名のかたが試験中です。
 講座は、意志的自己レベルのマインドフルネスの指導者になることです。大変幅広く、社会問題の解決支援に貢献できる可能性があります。

全部で10回です。
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/kouza/ix-soudanin.htm
Posted by MF総研/大田 at 21:59 | 私たちの心理療法 | この記事のURL
禅の長所と弱点・マインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座の8回目 [2018年01月12日(Fri)]
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3663
★今期、埼玉か金沢で認定講座を受けることを検討のかたは、入学試験のようなことがあります。2か月くらいかかります。ご連絡ください。すでに2名のかたが試験中です。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3631
★患者、家族会

禅の長所と弱点
 =マインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座の8回目

明日、マインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座の8回目です。
テーマは、

「禅の哲学とマインドフルネス、その現代的課題」
です。

 西田幾多郎や鈴木大拙、井筒俊彦、竹村牧男氏などによれば、日本の禅(道元、白隠など)には、今日最高の自己の 真相の哲学を含んでいます。しかし、そこまで実践している人は、ごく小数で、 現代(いやすでに、昭和初期から)、現実の社会に活かされていないという問題があるというのです。

 西田幾多郎のことばです。

 「宗教といえば、此の日常経験の立場を離れて、神秘的直観の如きものと考えられるかも知らぬが、かかる宗教は無用の長物たるに過ぎない。宗教とは我々の日常生活の根底たる事実でなければならない。」(「実践哲学序論」、旧全集10巻120頁)
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3226

 「出家は目的のない坐禅するだけだ」というならば、宗教的実在論の哲学がありません。出家でない「私は家族、職場、顧客のために働くのだ」といいます。全く対等であって、宗教的深みがありません。坐禅する自己、社会のために働く自己、両方とも、意志的自己レベル、叡智的自己レベルであり、そもそも「自己とはなにか」「どう生きるか」についての深い議論がありません。 そんな在家の場での指針を教えない坐禅をするが、布施、食物などのサービスは在家からはもらうというならば、在家からは「無用の長物」といわれますよと西田幾多郎はいうのであろう。家庭、職場で活かせる坐禅でありたいというのでしょう。
 坐禅が悟りだという宗教思想であれば、家族職場の人が働く日常の瞬間には悟りがないわけであり、そのような主張は、家族や職を持つ1億人には、「無用の長物」と言われかねません。すべての人間の日常生活をする自己にも根底が絶対平等であることこそ、宗教といえるでしょう。 西田幾多郎がいうのは、そういうことでしょう。

 フランクルは、ひとはいきがいをもとめるといいます。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/2629
 目的のない坐禅、家族の幸福、職業(教育、福祉、ビジネス、政治、・・・)、ボランティア活動に生き甲斐を見出す。自由である、同等ですね。

 自分の本務(世界創造)を離れた「観照」は堕落とまでいいます。観照だけで自分や自組織内に留まるならば、外部の社会のために働いていないということなのでしょう。外部にサービスを提供しない 組織になるわけです。外部からは各種のサービスを受けているのに。共に生きる「共生」が強調される時代、もう、時代が違います。これと対決しなければならないでしょう。

 「我々の自己は自己自身に関する関係、即ち目的的作用型であると共に、絶対他者に対する関係として、即ち表現形成的として真の自己であるのである。我々はの前に真の自己となるのである。無論我々の自己がかかる立場に立つということは、そこに観照的方向へも行くということも含まれているのである。何処までも自己自身に関係する関係としての個物的立場を離れて、ただ第三者によって措定せられた関係という方向に行くことが観照的となることである。矛盾的自己同一的立場を離れて、かかる方向に行くことは自己の堕落である。」(「実践哲学序論」旧全集、第十巻、p39-40)

 絶対無のことを『ソラリス』のように「絶対他者」 とも言っています。また、宗教者が「神」というものにあたるとみていて、対象とならない自己根底を「神」ともいいいます。大乗仏教の経典ならば「ほとけ」ともいうでしょう。

 今、「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎、山本有三)という本がよく読まれているそうです。若者がどう生きるかということを切に考えているのです。「個物的立場」 「歴史的地盤」とは、移りゆく歴史の最先端、すべての人の、その生きる現場です。社会のために働くことが、ポイエシスであります、瞑想ではありません。 現実の家庭、職場を離れてポイエシスはないといいます。

 「我々のポイエシスと云うものは、歴史的地盤からでなければならない。之を離れてポイエシスと云うものは考えられない。」(104頁)
「中世の如き超越的立場に還ることでないことは、既に論じた所によって明らかであろう。」(123頁)

 講座の第8回は、確かに、道元には、西田・・・竹村などの諸氏がいうようことを確認します。すべての人の根底の絶対的平等をいいます。 坐禅が悟りというだけではない、根底のことも道元は強くいっています。
 もう一つは、道元や白隠の哲学は深いが、現実の社会(家族、職場,学問研究の場など)では、それが活かされていないということは、どういうことかを考えます。 西田幾多郎のお孫さんの上田氏も、西田哲学が現実に活かされていないと嘆いておられます。

 禅から国民が離れています。寺はつぶれるおそれがあります。なぜ、マインドフルネスに向かうのか。内省し、本音にむきあい、行動しないと、本当になくなるでしょう。道元禅師を育てた中国では禅はなくなりました。

 宗教的なことばかりではなくて、その方向をカバーした自己の階層の全体展望があり、意志的自己、叡智的自己の内省、自己洞察法はプラクシスで、宗教ではありませんが、すべての人の社会的行動(ポイエシス)の時、実践されれば、個人の自由が保障されて、組織の全体の質が向上するでしょう。
 日本では、宗教が警戒されますが、西田哲学の自己の階層で、宗教ではない領域と宗教的領域の区別を知って実践することができます。その2つの領域で、活かされるような、すべての人のポイエシス(家庭生活、産業社会的生活)と同時に実践されるプラクシス(内面の自己洞察)を開発しなければなりません。現代の人は、できるはずです。家庭、仕事を持つ現代人が、家庭で職場でできる内省=自己洞察の方法を、宗教ではない領域と宗教的な領域とを区別しして開発したいものです。西田哲学のようなものは、西田博士しかできなかった。それを活かすのが私たちの使命でしょう。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3551
★ポイエシスとプラクシスは同時

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3572
★自己の階層

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3641
★マインドフルネスSIMTは、西田哲学の意志的自己の意志作用の実践化
 さらに叡智的自己、人格的自己があり、哲学的には説明されており、その実践法は、研究会で試験中。
Posted by MF総研/大田 at 16:41 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
「ソラリス」(17) 映画制作の組織で、作者でなく監督の伝えたいものになった問題 [2018年01月07日(Sun)]

「ソラリス」=NHK Eテレ、100分de名著 (17) 映画制作の組織で、作者でなく監督の伝えたいものになった問題

 12月25日、NHK Eテレビの「100分de名著」「ソラリス」の4回目の放送がありました。 終わりました。総括として感想を述べます。
『ソラリス』は、大乗仏教のように、現実離れした状況設定で、自己の真実を書いてあるとも読むことができます。 対象論理の思考では絶対に見ることのできない自己の根源、勝義諦を画いた物語にしたてられているとみるものです。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3573 ⇒勝義諦

 仏教、禅は、エゴイズムの心理を観察して、私利私欲からの行動を抑制しようと言います。西田哲学では「至誠」で生きようといいます。それに関連することが『ソラリス』でも描写されています。組織でこれが放置されれば、組織は崩壊するでしょう。

(17)総括2 映画制作の組織の問題

 この『ソラリス』は、組織としては、いい状況にはありません。 任務、目的を十分には実現できないような欠陥がみられます。 簡単に二つ、みておきます。

1)組織が十分に働くためには、組織員がうそをつかない、本音をかくさないで同意点をさぐる、私欲を優先させない、組織の目的を忘れないことなどが要求されるでしょう。こうしたステーションの組織の組織員の問題があります。
 原作に書き込まれている、ステーションの組織員の問題を作者は描いています。 これは、日本中に、世界中に起きているエゴイズムの問題です。 前の記事でみました。⇒ http://blog.canpan.info/jitou/archive/3658

2)映画制作の組織に重大な問題点がありました。

この観測ステーションの目的は、「ソラリスの海の解明」です。100年くらい研究されてきていました。これは、自己とは何かという哲学的な探求だと思われます。そして、人間のすべての意識作用の根底に、絶対に意識の対象にならないものが働いていると、東洋の大乗仏教で言われてきました。レムもそれに向かったと思われます。彼は、SF小説の形式で、これを表現しようとした。 『ソラリス』の海は、「絶対的他者」であり、西田哲学でいう絶対無と類似します。

 ステーションの組織の目的は、「ソラリスの海の解明」ですが、この小説は、これを描いた。クリスは、遠くから観測している間は、真実がつかめなかった。しかし、その海に突入して自己が消えて海と一つになったので、海の正体を知りました。
 クリスの使命は、終わりませんでした。残酷な奇跡だったのです。これから、残酷な使命がまっていることを自覚しました。自分ひとり、わかったら終わりというのではありません。ステーションには、他の人間がいます。伝えなければなりません。しかし、それがとても困難なのです。残酷な使命です。日本でも、仏教、禅、西田哲学の真意が仏教僧、学者に理解されて、国民に伝えようとしているでしょうか。「いいえ」です。 この絶対的他者を他人に伝えて、様々な社会問題の解決に活用できれば、すべての人間の絶対的な平等をいうのですから、世界から宗教による対立、独裁的国家、組織はなくなるはずです。 クリスの『ソラリス』の海との対峙は終わりません。スナウト、サルトリウスに、そして地球の祖国の人々に伝えなければなりません。理解されるでしょうか。いいえです。
 東洋の宗教では、小乗仏教では発見されず、大乗仏教(般若、中観、法華、如来蔵、阿弥陀、唯識、華厳)で発見された『ソラリス』の海は、日本でも、明治のころから、学問的に検討され、西洋では、ロゴセラピーのフランクル、日本では、井上円了、西義雄(以上、東洋大学)、 西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治、秋月龍a、井筒俊彦、竹村牧男(東洋大学)などの諸氏の哲学、仏教学的な説明が理解されているでしょうか。いいえ。『ソラリス』の海、絶対的一者、絶対的他者との対峙は続いています。
 作者のレムと直接、対話した、映画監督は、2回とも、それを理解しなかった。原作者の意図を無視しました。つまり、絶対的他者の探求が終わったというふうに筋を書き換えた。

 『ソラリス』は、2回映画化されましたが、 映画制作は、大勢の人間が関与して一つの物をつくっていく組織的活動です。ここにも、重大な組織上の問題がありました。 映画化された時、タルコフスキー監督は、「任務は終った」というふうに書き換えました。地球に戻る筋にしました。これも、任務放棄です。レムは激しく反対したそうです(p91)。

2回目の映画化の時、ソダーバーグ監督は、「宇宙時代のラヴ・ロマンスをテーマに作品を仕上げました。・・・ レムはこの映画に不満で、ポーランドの新聞にその理由を長々と綴るエッセイを発表しています。映画そのものは観てもいないというのに!」(p53)

 映画は2回とも、作者レムから見れば、任務が伝わっていない、不幸なものでした。 この映画の組織は、作者の伝えたいことを伝えていないのですから、むしろ『ソラリス』を誤解させたので、失敗に終わったのです。

 組織の使命をどうとらえるかは、非常に重要でしょう。たとえば、ある人物の思想実践を伝えようとして組織ができたとします。 ところがその組織がその人物が伝えたかったことを正しく把握せず違ったものを伝えたらどうなりますか。組織の使命を果たしているのでしょうか。

 組織の使命を、組織のメンバーが違ったふうにしたら、どうなるのか。もう、違う使命を帯びた組織でしょう。
 原作の『ソラリス』は人間を超えた絶対的他者の探求という哲学の使命を持つのですが、映画は、人間のラブロマンスになったのです。

 3度目の映画でレムの真意を伝えるような映画を制作していただきたいです。地球に戻らず、ステーションでクリスが、他の人たちに伝えるのです。残酷な運命がまっています。 『ソラリスそれから』という筋の脚本が予測されます。クリスは理解されませんから、残酷な展開になります。スナウトはどちらなのか。サルトルウスは、地球に別の科学者を派遣してくれと要請する。そして、クリスは小数派となり排除される???。

参考記事

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3471
★時代環境が激変した・既存の組織に縛られない自由な心

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3476 
★組織の悪と個人の悪 
 =組織が個人を否定する悪も個人が犯す。そういう個人とは、トップとそれに追従する組織員であり、彼らの組織としての行動として組織員や社会を害する。個人のエゴイズムが組織の目的を害する個人悪。『ソラリス』で描いているのは個人悪。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/2422 
★専門家の我執・独断=学者、宗教者、ビジネス、教育、医療、政治。。 

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3098 
★専門家の我執独断が現れる仕組みー哲学者板橋勇仁氏

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3028 
(参照)言語アラヤ識(哲学者・井筒俊彦)(すべての人間の深層にあるがここも対象的意識では見えない。さらにこの奥が絶対無、無分節)

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3137
★道元禅師のマインドフルネス
 =宗教者によっては鎌倉時代に『ソラリス』の海とひとつになった人がいた。ただし、道元の著作は「学問」ではなく、宗教書である。学問的研究は、100年ほど前から開始されています。絶対無が道元にもあると、西田、井筒、竹村などの諸氏が学問的に解釈しています。しかし、多くの学者、僧侶は道元における絶対無との対峙はしていません。地球に戻った、人間の立場。自己を超えたもの、『ソラリス』の海があるのか、対峙し続けなければなりません。世界中で、宗教、イデオロギーの対立から、絶対的一者を持つ人間を殺しています。宗教やイデオロギーの対立の根底の人間の絶対的平等性がある。上記の諸氏によって哲学的に解明されましたが、日本でさえも、国民に浸透していません。


沼野充義 「ソラリス」( NHK Eテレ、100分de名著)NHK出版

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3639
「ソラリス」(1)絶対無か
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3640
「ソラリス」(2)自分の知っているものに紐づける 
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3644
「ソラリス」(3)自分の心の奥底にうごめくもの
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3645
(4)自己の内面に強く意識を向けていく、やがておぞましいエゴイズムに気づく
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3646
(5)強固な幽体Fの中でも不死身の見解 (対象論理でいう学説がどの時代にも強力に主張される。日本でも不死身です。特に、実践が嫌い、自分にわからない見性を嫌う=海を憎むという言葉が『ソラリス』では表される) 「見性」は、絶対無を体験すること。『ソラリス』では、海と一つになることとして第4回にでてくる。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3647
(6)不死身のハリーだが再生するが違っているところがある
 =新しい仏教、禅のように見えるが、やはり世俗諦であること。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3648
(7)クリスは幽体ハリーを愛する
 =自己とは何かを探求する宗教者、学者、哲学者は、さまざまなものを遍歴する。ひとつを愛着し、やがてそれを捨てて別のものを愛し、結局、対象論理の範囲内のものをこしらえてそこに落ち着く。しかし、対象にならない自己の根源は愛着できないものなのに。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3650
(8)自分は本当の人間ではない
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3651
(9)「人間とは何か 自己とは何か」
 =「私は私ではない」
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3652
(10)海から現れるものは真実ではなく回転運動の過程の一部
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3653
(11)絶対的他者をどう理解するか
  =人間のように対象化して憎むことはできない 
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3654
(12) ハリーの死 
  =クリスの心に、もう言葉での真実にみせかけて迷わす世俗諦が消えた
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3655
(13)海、絶対他者と一つになる 、自己が消える
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3656
(14)「残酷な奇跡」 奇跡とは
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3657
(15) 残酷な奇跡の残酷とは
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3658
(16)組織員のエゴイズム=組織の目的を忘れる、うそを言う、本音を隠す、独断的な行為、 組織と個人のエゴイズムの問題

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3664
(17) 映画制作の組織で、作者でなく監督の伝えたいものになった問題

【参考】
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3573 
★絶対に対象的にならない自己の真実

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3202 
★科学はある特定の立場、対象的立場を作る
 すべての立場の根底にあるので、絶対に対象的にならない立場を包む場所がある。これを否定することは対象的にみて否定していて、矛盾である。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3572 
★第3世代の認知行動療法
 このなかの「人格的自己」が絶対無=虐待された人、人格を否定された苦悩、パーソナリティ障害、生きる意味を苦悩する人などの支援に
Posted by MF総研/大田 at 19:47 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
| 次へ