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今夜また不染鉄を放送しますね [2018年05月27日(Sun)]

今夜また不染鉄を放送しますね

 三度目!!!
 反響が大きかったのでしょう。
 また見ると新しい発見があるかもしれません。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3759
★前みた時の感想です。
Posted by MF総研/大田 at 19:26 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
坐禅、瞑想を重視しない西田哲学 [2018年05月27日(Sun)]

坐禅、瞑想を重視しない西田哲学

 西田哲学は、坐禅、瞑想を絶対視していません。親鸞、禅、キリスト教聖書に、共通のものがあるとしています。瞑想ではありません。独断のないことです。「物となって」ということが、3つに共通です。親鸞、聖書は瞑想は重視しないでしょう。しかし、共通のことがあるというのです。
 思いどおりにならないことがあっても、瞑想、マインドフルネスににげてはいけないのです。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3762

 瞑想やマインドフルネスも、いつまでも、そこにくるようにさせるのは、自立を妨げています。生きがいを失うほどにつらくなった時、しばらくの間だけ教えてもらい、自分の意志により、自分の心を洞察できるようになって自立して、社会、家庭、世界の建設、創造に邁進していくのです。センターに逃げてはいけないというのが西田哲学でしょう。一度行ったら、二度といかないですむようにならないといけないでしょう。さびしいことだが、マインドフルネスSIMTの支援者は、二度とクライアントがこなくてもいいように自立させます。親が子にするように。

 マインドフルネスSIMTは、瞑想を重視しません。行動時自己洞察を重視します。行動時におけるエゴイズムの観察、抑制を重視します。その瞬間に他者を苦しめ、自己を傷つけ、社会的に糾弾されるような失敗をします。今、日本中を騒がせている数々の事件は、自己中心、偏見、エゴイズムから起こっています。セクハラ、パワーハラスメント、ドクハラ、いじめ、過労自殺への追い込みなどもそうです。自分の家族にならしないようなことを、他者にはする。人格性を否定しているエゴイズム。

 「独断」エゴイズム、己見我利我執、本音は、若いころからの心理的習慣で形成されるので、 小学生からマインドフルネスSIMTのやさしいもの(行動時自己洞察ができるような)を学んでほしい。家庭、学校に自己中心の心理の観察習慣があれば、青年期にも、社会に出てからも、その様なエゴイズム、独断を観察するでしょう。北陸は、西田哲学、鈴木禅哲学が若い頃から郷土の偉人として教育されるでしょう。そういうことのない関東、関西とは違うでしょう。若いころから、他者の苦を共感する心の教育をすれば、このようにすさんだ社会にならないでしょう。
 西田哲学や鈴木禅哲学が正当に理解されていないような気がします。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3495
★西田幾多郎のお孫さんの嘆き

 現実に活かすことが、西田哲学の「実践論」の具体化であろうと思います。坐禅や瞑想ではなくて「至誠での世界創造」だといっています。「善の研究」では、具体的でないので、後期の「実践哲学」によります。物となって見、物となって考え、物となって働く、というのです。独断がないかどうか評価しながら見、考え、行為するのです。無評価ではないのです。セクハラ、パワハラなどでないか瞬間評価するのです。何事につけそうです。だから、瞑想ではないのです。対人行動時、仕事の瞬間、家族に向かう時、行動時自己洞察(独断、エゴイズムがないか)が本舞台です。瞑想は補助です。本番でできるようになるための助走です。本末転倒しないように。人は社会的な存在です。社会(世界)の中で生きています。社会から生きるためにもらい、社会に働いていくのです。西田哲学は、個人は「創造的世界の創造的要素」であるというのです。 あまりに、瞑想を重視すると社会的でないといって、そむかれるでしょう。瞑想する人にも、食べ物や電気が必要でしょう。各人ができること、スキル、したいことがちがいます。自分ができること、したいことで社会が求めることをして、自分ができないことをいただく。もらい、与えて、共生していく世界です。「作られたものから、作るものへ」です。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3476
★団体(社会)の悪と個人の悪

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3253
★同

http://blog.canpan.info/jitou/archive/2734
★永井均氏は、西田哲学は、人格を説明しきっているという高い評価
Posted by MF総研/大田 at 07:14 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
「生きがい」喪失事件 [2018年05月26日(Sat)]

「生きがい」喪失事件

 政治、国際、スポーツ、教育、医療などの分野に事件が起こり、関係者のエゴイズムが渦巻くのがすけてみえる。「アメフト問題」も痛ましい。「生きがい」としていたスポーツを放棄しなければならなくなった青年。このことで、今後の人生につらいことが待ち受けるかもしれない不安。政治がらみでは、自殺まで起きている。生きがいの喪失。

 個人と組織の防衛、自己保身のエゴイズム(マインドフルネスでは己見我利我執、本音)がすさまじい。子どもや青年は、こうした大人にずるい生き方を学ぶ。

 神谷美恵子のいう「生きがい」。選手、監督、コーチなど、生きがいではなかったのか。

 「組織を守ろうとして」という名目で、違反行為をせざるをえないように追い込む、うそ、改ざん、書類破棄、隠す、、、、、。

様々に「見て」「考え」「行為」をする。その時に、自己保身のエゴイズム、自己組織保身のエゴイズムがうごめいている。それを観察(マインドフルネス)して、抑制すべきだという自己抑制はないのだろうか。
 エゴイズムは、個人、組織の利益を優先して、それの周囲の利益を害することがあると、自己にはねかえってくる。自己、自己の組織の利益を守るはずだったのに、さらに大きな「生きがい」を喪失するほどの報いが来るかもしれない。

 自己の利益のために、見て、考え、行為すること、自己の組織のためにという名目で見て、考え、行為する時も、結局、個人がするのである。他者を苦しめないように、いきがいを喪失するような羽目にならないように、どのように、見て、考え、行為するべきか、教えてくれる専門家はいないのですか。

 個人が、組織の中で、社会の中で、生きていかねばならないが、生きがいやエゴイズムの葛藤、個の利益と組織の利益の葛藤で悩む。個人としてはしたくないことを上司から命じられる。どうするか苦しむ、いきがいなど感じられない。また、命じる上司もおかしい。わが子にならば、命じないようなことでも、部下にはさせる、そのエゴイズム。

 他者、社会とかかわっていく人生に、自分と相手のエゴイズムが渦巻く人生。きれいごとではない組織、社会。教育学、哲学、宗教、心理学、文学などの専門家は、導いてくださらないのですか。

 神谷美恵子の「生きがい」は、エゴイズムの意識までも行使するのではなくて、個人の絶対的平等(存在価値)をふまえての当為価値(人生でなす継続的貢献行動)であるような気がする。すなわち、「共生」である。すべての人の幸福、生きがいを実現することが条件である。他者を害するのではない。

 そこへんを示してくれるものとして西田哲学に学んでいる。それよりもすぐれたものがあるというならば、専門家が、青年に国民に教えていただきたい。

 一体、ブームの西洋発のマインドフルネスって何なのだろう。エゴイズムの心理の観察が弱い。金儲け主義もあるという。日本には深い観察の実践があったはず。なぜ、このようなものがブームになるのか。日本の各種の専門家が怠慢だったのか。


http://blog.canpan.info/jitou/archive/3476
★団体(社会)の悪と個人の悪

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3253
★同

http://blog.canpan.info/jitou/archive/2734
★永井均氏は、西田哲学は、人格を説明しきっているという高い評価
Posted by MF総研/大田 at 07:56 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
絶対的一者と自己 [2018年05月25日(Fri)]

絶対的一者と自己

 神谷美恵子や日本の芸術、西田哲学などで,「超越」「絶対的一者」「自己を越えたもの」(=無分節、日本的霊性)があるということをいっています。対象的な論理しか知らない人から誤解されることが多いのは、西田幾多郎博士が存命中からあり、今もなお、続いているでしょう。
 絶対的一者(超越)がそれ自体で存在するのではない。個、自己(内在)を通してしか、絶対的一者はない。 この点は、鈴木大拙も同様なのであるが、誤解される。
 竹村牧男氏の説明をみます。

「絶対者の自己否定とは、絶対に自らを無とすることである。そのことにおいて一者は個物的多に翻えるのであったが、故に絶対者にもとづいて自己があるということは、絶対の無において自己が成立しているということである。したがって個は一切、基底を持たないという形で成立することが絶対者に基づくということである。」(『西田幾多郎と仏教』竹村牧男、大東出版社、p236)

 人格的自己である。個は、絶対的一者において成立し、絶対的一者は個をとおすことでしか現れない。絶対的一者も、個も単独では存在しない。 個は絶対的一者において成立し、絶対的一者は個において成立する。

 竹村氏の上記の書で、鈴木大拙の言葉を紹介しています。

「超個者が個を通して始めてその意志を実現し能うということは、超個者はそれ自身として存在し能わぬという意味である。超個が超個として存在することは、超個でなくなることである。」 (p159)

 神谷美恵子の「生きがい」が深いものであることはこれに基づくのでしょう。そして、人間はすべて平等であるという人格性は、これで説明できるのです。哲学者、永井均氏も認めています。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/2734

 日本人は、日本の西田哲学を本当に理解し、活用すべきです。そうでないと、浅い瞑想、浅いマインドフルネスに閉じ込められてしまいます。
 西田哲学は、瞑想には否定的なのです。現実の社会で働く現場を重視するのです。この瞬間に世界、社会を創造するからです。瞑想の瞬間は、世界を創造しません。休息のような時間です。 すべての人「が瞑想だけをしたら、食物は生産されず人類は滅亡します。
Posted by MF総研/大田 at 21:08 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
マインドフルネス心の健康体操でした [2018年05月22日(Tue)]

マインドフルネス心の健康体操でした

 今日は、蓮田市立老人福祉センターでの、「心の健康体操」でした。世界一やさしい「マインドフルネス」でしょうね。

白板に、こうした図解をまじえて、説明しています。今日は、「本音」を観察することでした。 各人、独特の好き、嫌い、をもって評価しています。相手の本音とくいちがいがあるので、感情が起こります。本音の観察が重要です。夫婦、親子、職場の人との間で、「本音」の葛藤があり、感情が起こります。
 「無評価」で見ることは、無理です。上司は、部下の書類をみて「おい、これではだめだ」と評価して、不満の感情を起こします。それを「聞く」と、部下の心に、不満の感情が起こります。部下には「本音」があります。
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http://mindfulness.jp/kenkou-taisou/roujin-ctr.htm
★ここに紹介しています。
 見学なさりたいひとは、大田までご連絡ください。開催日は、蓮田市広報に掲載されています。
Posted by MF総研/大田 at 21:39 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
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