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【コラム】日本最北端の水産業を支える中国人女性研修生!(後半) [2009年11月02日(Mon)]
(前半はこちら)
 その後、中陳社長、専務と一緒に、副港市場での海鮮料理に舌鼓を打った後、私たちは猿払へ移動。途中、宗谷岬で日本最北端の空気(!)を吸ったあと、とても立派な猿払村役場の庁舎を訪れ、森和正村長、保健福祉推進課の伊藤浩一課長、協働まちづくり推進課の荒井輝彦課長にお話を伺った。


左手が荒井輝彦課長、右手は森和正村長。


 猿払村のホタテの水揚げは5トン、この村では4年貝ではなく5年貝のホタテが取れるとのこと。稚貝も放流しているが、地貝も多く、とにかく漁場が良いとのこと。昭和40〜42年ごろ、乱獲のせいで何も獲れない時期があったが、当時、村が「バクチを打ち」、4200万円の年間予算のほぼ半分、2千万を投じてホタテ貝の稚魚を購入して、放流した。これが転機となり、46、47、48年ごろからホタテが戻ってきた。昭和54年ごろは、1キロ120円であったホタテが、現在では65円、70円ということなので、最盛期に比べ価格は落ちているようだが、それでも「猿払」ブランドは国際的評価が高く、村長、課長の発言からも、ホタテ産業の力を背景にした、猿払村の自信が感じられた。

 以前は、近隣の市町村から送迎バス付で働きに来ていたそうだが、現在では労働力不足を研修生が支えている。猿払村が受け入れている中国人研修生は、日本人従業員220人に対して105人。研修生は、中国山東省出身、22歳から23歳くらいの若い世代、女性が多いが男性も受け入れているという。「皆、品行方正で勤勉」「風紀の乱れなどはない」「ビザを延長して働いてもらいたい」とのこと。

 「限界集落」ではなく、「幸福集落」なのだ、という意識で猿払村の村政にあたっているという森村長。ホタテの貝を白線やチョークへリサイクルするなど、資源の地域循環にも取り組む。会議中、お茶と一緒にホタテの貝柱が出てきたのにはびっくりしたが、猿払のホタテは違う、5年貝なのだとの説明に納得しながら、すっかりご馳走になってしまった。

 続いて、この後視察させてもらった漁業協同組合でもホタテ、ホタテ、ホタテの嵐。木村幸栄専務に案内頂き、全ての工程で猿払の最高級のホタテを試食させていただいて、もうびっくり、大満足。(ちなみに、漁協のホームページで猿払の貝付、冷凍、乾燥ホタテ(貝柱)が購入できる。貝付は10/31まで。http://www.hotatebin.net/



 漁協の後、立ち寄らせて頂いたマルカ菅原商店。ここでは、冷凍ホタテを中心に扱っているとのことだったが、17名の中国の女の子たちが研修生として一心不乱に貝剥きと貝の選別作業に集中していた。




 櫻井和子専務は、「研修生の子たちは純真で真面目、よく働くし、一生懸命。日本人の女の人はこんなに働かない」という。毎日朝から夕方まで作業に打ち込み、お金を貯めて、故郷へ送金する彼女たち。ホタテの大きさを選別して並べる作業に打ち込む女の子を見ていて、(ストイックとも思える仕事ぶりに)清清しさと同時に一種の羨望の念も感じつつ、猿払のホタテ産業の現場は彼女たちが支えていることを実感した一日だった。
(研究員 佐藤 万帆)
【コラム】日本最北端の水産業を支える中国人女性研修生!(前半) [2009年11月02日(Mon)]
日本最北端の水産業を支える中国人女性研修生!
〜稚内市・猿払村出張報告・前半〜 
 (研究員 佐藤 万帆)

 SPF人口チーム第一分科会(+α)では、外国人研修生の研修現場の実態調査のため、10/18〜20まで北海道稚内市と宗谷郡猿払村を訪れた。訪問チームは、事業メンバーの石弘之東京農業大学教授、後藤純一慶応義塾大学教授、安里和晃特別研究員、第一分科会メンバーの明石純一筑波大学大学院助教、三菱総合研究所木村文勝研究部長、第三分科会メンバーのダイバーシティ研究所鈴木暁子氏、そしてSPFから茶野常務理事、窪田アドバイザー、岡室主任研究員、私の合計10名。

 もともとは、ホタテで有名な猿払を目指しての出張計画であったが、稚内市も今年3月に外国人研修生受入特区の認定を受け、研修生の受入れに積極的との情報を得て、同市も日程に組み込み、盛りだくさんの調査となった。まずは稚内市役所を訪問して、水産商工課の岩田淳一課長と、水産加工業協同組合長で、中央水産社長の中陳憲一氏にお話を聞いた。


左手より、稚内市水産商工課商工グループ主査 佐伯達也氏、
中央水産株式会社中陳憲一代表取締役社長、稚内市水産商工課岩田淳一課長


 岩田課長によれば、稚内は沖合底引漁業で有名だったが、昭和52年の200海里漁業専管水域(排他的経済水域)が設定されたことにより打撃を受け、水揚げ高は昭和52年の200億円から現在は20億まで減少。原料が減っているので、水産加工業も一次加工から高次加工へとシフトしているが、いずれにせよ従業者の高齢化が課題。人口も減少していて、既に4万を割った。そうした状況下で中国から研修生を受け入れている。現在21の事業所で193人の研修生が研修を行っている。特区の認定を受けたことで、各事業所の研修生の受入れ数が増えた。(50人以下の事業所でも6名まで受入れ可能となる)

 水産加工業協同組合長の中陳社長は開口一番、「研修生の存在によって私たちは非常に助かっている」。稚内の水産加工業に従事する人は1,632人、それに対して193人の研修生では、現場を支えるには割合として小さすぎるのでは?との質問には、研修生は休まず、勤勉なので助かる、3年の上限を設けずもっと長く働いてもらいたい、あるいは一時帰国した研修生に戻ってくるための門戸を開いて欲しい、と。稚内で働く研修生はほとんどが山東省出身の女性で、年齢も19歳から23、24歳と若いため、仕事の飲み込みも早いそうだ。また、中陳社長は、決して、「安い労働力だから」研修生を受け入れているわけではない、待遇面ではきちんと手当てしている(最低賃金は守っている)という点を力説されていた。

 また、岩田課長や中陳社長からは、水産加工業は時給も高く(平均800円程度)、求人を出しているのに、日本人の若い主婦たちは「汚い」と嫌って働きたがらないという愚痴も聞かれた。もしも、研修生の研修期間が延長され、あるいは研修生が(結婚するなどして)稚内に残りたいと言った場合、市としてはどう考えるか?との質問に、岩田課長ははっきりと「稚内の人口が増えるなら大歓迎」と答えられた。人口増加の見込みだけではなく、将来的に観光業にも力を入れたい、その際、外国人労働者は力になるのでは、とも。個人的に、地方自治体で産業育成、市の活性化のため尽力される課長の熱意を感じた。

 お二人のお話を伺ったところで、早速9名の研修生を受け入れている中央水産の工場を視察させてもらった。この日は、お正月用なのだろうか、あるいはお弁当用なのだろうか、イクラやタラコの付け合せ用パックを詰めていた。



 中央水産では、実質上研修生の女の子たちの「お母さん役」を務めている、中陳社長の奥様、中陳陽子専務取締役にもお話を聞く機会があった。連休には近隣の行楽地へ研修生を連れて行ったり、稚内のお祭りに参加したり、お正月には皆で集まったり、日本料理を教えたり、逆に彼女たちが市民に餃子を教える機会を作ったり、あるいは、一週間に一度は彼女たちに日記を書いてもらって読んでいるというところまで、彼女たちの日本滞在に問題が生じないよう、あるいは気持ちよく働けるよう、生活面でも細かく気を配っている様子が伝わってきた。



 その後、中陳社長、専務と一緒に、副港市場での海鮮料理に舌鼓を打った後、私たちは猿払へ移動。途中、宗谷岬で日本最北端の空気(!)を吸ったあと、とても立派な猿払村役場の庁舎を訪れ、森和正村長、保健福祉推進課の伊藤浩一課長、協働まちづくり推進課の荒井輝彦課長にお話を伺った。

(→後半へ続く)
【コラム】環境NGOによる移民女性を対象としたプロジェクト(後半) [2009年10月23日(Fri)]
(前半はこちら)

一石三鳥?!の効果あり

 プロジェクト責任者のHodan Osmanさんは語ります。

「この地区には、トルコ、アラブ、アフガニスタン、ソマリア出身の住民が多く住んでいます。文化や教育レベルのちがいから、電気の使い方や配線、化学薬品(漂白剤や殺虫剤など)の使い方などがわからず、間違った使用によって危険な目にあった女性たちがいました。

例えば、ソマリアでは“洗濯物は白ければ白いほど美しい”とされており、漂白剤を大量に使ってしまい、皮膚や目を痛めてしまうこともありました。」

「デンマークでは、3年間のデンマーク語プログラムを無償で受けることができますが、それでもなかなか習得できない。デンマーク語ができないと仕事も見つけることができません。この地区に住む中東やアフリカ出身の移民の女性たちは家にとじこもりがちで、地域に出かけることもあまりありません。そこで、女性たちに役立ちそうな、実践的で日常生活に役立つ講座をすれば興味が沸いて家から出てきますし、環境への知識も深めることができる。さらにデンマーク語も学ぶことができるのです。」


プロジェクト責任者のHodan Osmanさん。13年前にソマリアから移住し、大学で人道援助に関する専門知識を学んだ経験を持つ大変な努力家だ。

行動変容につながるプログラム

 実際に、プログラムのテキストを見せていただきました。「環境を守りましょう!」という「お題目」的な内容を想像していたのですが、専門的、実践的な内容でびっくり。

 まず座学編では、最初に「Environmental ambassadorの目的」として、water, waste, Electricity, Heating, Environmentally friendly household clearning agents という5つのテーマについて説明を受けます。こうした理論と実践を織り交ぜたプログラムが、週1回、2時間あり、5か月間、続きます。

 実践編では、電球の変え方や電池の交換方法、化学薬品の使い方の講習などがあり、実際の器具を使い地域の施設を回りながら、「環境に優しい生活スタイル」をマスターしていきます。またゴミ処理場や風力発電所の見学もあり、多くの人がこの見学でバスや電車の乗り方を学ぶといいます。


プロジェクトの様子から



講座で提供される「教材」(リサイクルバッグ、電池チェッカー)


地域の中で循環するしくみが特徴

 私自身も以前、中国系住民が多住する関西の団地で環境プロジェクトに関わり試行錯誤していた経験と照らし合わせながら、このプロジェクトの「しくみ」としての特徴について思いを巡らせました。

 両プロジェクトの大きなちがいは、次の3点に集約できます。一点目はプロジェクトの精度の高さ、二点目は関わる人材の多様性や専門性、最後に移民自身がプロジェクトの担い手となっていることでしょう。

 第一の着目点は、プロジェクトのアウトプットが十分に練られている点です。“トラブルを解決したい”、というインプットから設計されているのではなく、成果のイメージから設計されています。修了者がプロジェクト運営を支えるという人材のサイクルがうまく回り、彼女らがロールモデルとして新規の参加者を巻き込む宣伝役となっています。実際、口コミで家族や友人に広がっていく。ある時、受講者102人を追跡調査したところ、12人が1000人以上に講座を紹介した、という結果が出たそうです。

 そしてこれらのプロジェクトを支えているのが、専門家やボランティアの人々の層の厚さです。講師はエネルギー関連の会社から派遣。他にも語学教育の専門家、地域の政治家、住宅業者、そして地元のボランティアが多数、関わっているとのこと。他にもはがきによる近況確認や、ハラルフードのオーガニックショップマップの作成など、アイデアあふれるプロジェクトも盛りだくさんです。

 国レベルで見ると、デンマークは厳格な移民政策の印象が圧倒的に強いのですが、草の根レベルではこのような人材が連携して地域の活動を支えていることを知り、親近感を覚えました。

移民女性の心をくすぐるアプローチ

 光熱費の削減やお掃除の「ワザの伝授」など、移民女性の次の一歩への意欲を、さりげなく刺激する、ツボを心得たアプローチ。それを支える専門性の高い人材によるプロジェクト運営力。行動変革を重視した多面的なプロジェクトで、その着想と人の巻き込み力(日本とは一桁ちがう予算規模も!)は、参考になりそうです。


 今回の調査では、ヨーロッパ移民政策の研究者である新海英史さん(在デンマーク日本大使館専門調査員)に、調査先の選定からアポ取りの助言まで大変お世話になりました。そして、忙しい中、インタビューに快く応じてくださったHodan Osmanさん、MILJØPUNKT Amagerの皆様には、つたない英語にも関わらず、2時間も対応いただき、近隣の団地も案内していただきました。ここで改めて謝意を申し上げます。
(ダイバーシティ研究所 鈴木暁子)


MILJØPUNKT Amager  http://www.a21sundby.dk/redesign/default.asp
Kvarterthuset      http://www.kulturhus.kk.dk/kvarterhuset

【参考文献】『デンマークを知るための68章』村井誠人(編著)、明石書店、2009
【コラム】環境NGOによる移民女性を対象としたプロジェクト(前半) [2009年10月23日(Fri)]
 第3分科会「地域における社会統合政策の国際比較」の今回調査では、昨年度の研究会で構築した日本の4つの地域モデル[※1]に合致する、ドイツ4地域(ベルリン・ノイケルン区、デュッセルドルフ、デュースブルグ、トロイツブルク)および、オランダ(アムステルダム、ティルブルグ)、フランス(ストラスブール)、デンマーク(コペンハーゲン)を訪問し、自治体の社会統合への取り組みをインタビューするために、3名のメンバーが手分けして訪問しました。

 私(鈴木)は、初めてのヨーロッパ、加えて本格的な海外調査も初、というビギナーであり、一抹の不安と心躍る期待を胸に、9月初旬、デンマークとオランダを訪れました。ここでは、デンマーク・コペンハーゲンの環境NGOの取り組みを紹介します。

[※1] 当分科会では、「外国人住民の構成」と「担い手の構成」の2点に着目し、多文化共生社会の形成に至るプロセスが異なる4つの地域がある、と仮定した。4分類とは、「中心市街地型」「都市近郊型」「外国人多住型」「地方型」のである。詳しくは、ブログhttps://blog.canpan.info/diversityjapan/archive/61を参照されたい


環境NGOによる移民女性を対象としたプロジェクト
〜デンマーク・コペンハーゲンの「環境」×「多文化共生」×「ジェンダー」
の取り組み〜Integration through environmental communication

(ダイバーシティ研究所 鈴木暁子)


デンマークの移民受け入れ

 デンマークは総人口545万人、全国レベルの移民の比率は8.4%。首都コペンハーゲン・コムーネに限ると人口の52万人のうち、14.0%近くが移民です。
 同国はEUに加盟していますが、国民投票により移民政策・防衛・通貨・内務司法協力の4分野は適用除外を選択したため、独自の出入国管理をとっています。
 同国の移民受入の歴史をたどると、他の西欧諸国と同様、1960年代から、労働力不足の解消のため、主にトルコ、ユーゴ、パキスタンからの労働者の受け入れを開始。1985年以降は人道主義のもと、スリランカ、イラン、イラク、アフガニスタン、ソマリア等難民や難民庇護申請者の受け入れを続け、1987年から1997年の10年間には、西欧諸国以外の移民人口が倍増しました。また、1990年代後半からは家族呼び寄せによる入国が増え、難民庇護申請者を上回りました。

 このように移民が急増する中、次第に、デンマーク語の習得、失業問題、社会福祉政策への負担増が内政問題化し、2002年6月につい外国人の受け入れを制限しました。最近では、厳格な出入国管理、デンマーク語習得の壁、さらに高い所得税率などの理由から移民は減少傾向にあります。

AgendaCenter Amager 

 MILJØPUNKT Amager(英語名:AgendaCenter Amager)は、コペンハーゲン・Kommune(コムーネ)郊外のAmager地区にある環境NGO。1991年にブラジルのリオデジャネイロ国連環境開発会議(地球サミット)で、国連が世界の地方自治体に求めた「ローカルアジェンダ21(Local Agenda 21)」を具体化するために設立。スタッフは3名。コペンハーゲン・ココムーネの支援も受けて、子どもや大人向けの環境教育プログラムや調査・助言を行っています。


同NGOが入っている建物Kvarterhusetは、100年以上も前の工場を改装した建物。著名な建築家が再生を手がけ、木材を活かしし北欧らしく白を基調とした落ち着く空間だ。図書館や貸し会議室もあり、NPO/NGOも入居しているカルチャーセンターとなっており1Fにはおしゃれなカフェもある。向かいには保育園があり、ひっきりなしに家族連れが訪れていた。


1Fのカフェ、奥が図書館


入居しているNPO/NGO


移民女性を活動の担い手に

 同センターでは、2006年から地域の移民女性を対象とした環境教育プログラムを実施。受講者は終了式でEnvironmental ambassadorとして任命され、今までに100人以上を輩出しています。
 財源は同国のエネルギー省と(社会)統合省から。1,120,000クローネ[※2](日本円換算18,704,000円)を得て、ボランティアスタッフや専門家の力を借り運営されています。参加費は無料で、講座はデンマーク語で実施されますが、通訳がつき託児も用意されています。

[※2]1クローネ=16.7円 

 このプログラムのねらいは、地球環境やリサイクルに関する知識を単に「学ぶ」だけではなく、日常生活に役立つ「知恵」として会得してもらうこと。そして、研修を通じて移民自身のエンパワーメントを助け、をつけ、「地域社会デビュー」することにあります。
 そもそも同センターでは、2004年から、外国で生まれ育った女性を対象に、自転車の安全な乗り方教室を開催していました。そこから着想を得て、環境教育と移民女性のエンパワーメント組み合わせた、デンマークらしいプロジェクトが誕生したのです。


センターが入居する建物の周辺には、移民・難民が多く住む団地が広がっている。外から見ただけでは団地は分からないが、高齢者が多い団地、貧困層が多い団地、留学生用の団地といろいろあるそうだ。一戸の広さは日本の団地よりも格段に広い。


団地の玄関の横に設置されているリサイクルボックス
右は紙のリサイクルボックス、左の円形の戸はビン・カンを入れるボックス
この分別作業でも講座の修了生が活躍しているそうだ。

(→後半へ続く)
【コラム】ベルリン調査から [2009年10月13日(Tue)]
第2分科会の明石先生が、デュースブルグ調査について活き活きとご報告してくださったので、ここでは後半のベルリン調査で感じたことを書いていこうと思う。(石川 真作)

ベルリン調査から

 ベルリンにはこれまでも何度か行ったことがある。初めて行ったのは1990年の3月頃だったか、壁が開いて間もない頃のことで、まだ東ベルリンに入るには入国手続きが必要だった。今や歴史的な名称となったチェックポイント・チャーリーで手続きしたと記憶している。今回その周辺を何度も通ったが、当時の記憶とは全く異なった風景であった。当時壁近くの廃墟だった帝国議会も連邦議会として再生、美しくライトアップされ、ベルリンは全く違った都市になった。各地に工事現場があり、日々刻々と変化している様子が垣間見える。

 その間に、移民をめぐる状況も変化した。私が初めてベルリンに行った1990年、ドイツは外国人法を改定した。長期滞在している外国人の帰化を容易にしたこの改定で、彼らを社会に組み入れる意思が示されたが、その後、次の段階としてドイツで生まれた子供に暫定的ながら国籍を与えるという国籍法の改定がなされるまで、9年の月日を要した。更に5年を経た2004年、移民法が制定され、ドイツはとうとう自らが移民受け入れ国であることを認めた。最初のガストアルバイターがドイツの土を踏んでから、実に半世紀近くが過ぎていた。

 その間、移民の多く住む地域で最も大きな変化を経験したのがベルリンのクロイツベルグ区だろう。東西ベルリン統一の結果、かつての西ベルリンでは壁際の「場末」に位置し、貧しい外国人の「吹き溜まり」とされていたクロイツベルグ区は、首都ベルリンのほぼ中心に位置することとなった。そして今では、「色とりどりの」文化が息づく若い街へと様相を変えた。

 調査の合間、クロイツベルグの移民地区の真っ只中にあるトルコ系イスラーム団体を訪ねた後、近くの「渋い」カフェで一息ついた。路上に置かれた席から眺めていると、行きかう人々は若く、様々な顔つきをしているが、一様に活き活きとして見える。カフェの隣はタイ料理、反対はトルコのケバブ屋だ。客はそれぞれいろいろな言葉で話している。2mほどもありそうな背の高い自転車で通り過ぎる人がいる。カフェの女性スタッフは、顔つきや服装から南欧系かと思われたが、帰ってきた小さな娘との会話はトルコ語だった。出発前に教わった地元DJお勧めのクラブがあるのもこの近くだったことを思い出した。

 実際に多くの地区に再開発の手が入り大きく変容しようとしているクロイツベルグでは、地価の高騰も指摘されている。その一方、隣接するノイケルン区に、統一後は貧しい移民の集住地域が形成されてきたという。ベルリン他各都市で、移民を飲み込んだ新たな都市文化の形成が見られる一方で、数世代を経て移民の間にも格差が広がっているのが実情である。今回のベルリン調査の主目的はノイケルン区の移民担当官へのインタビューであったが、ノイケルンの一部は特に貧しく、財産も教育もないままメトロポリスの底辺であえぐ人々が集住する地区となっていることが、彼の話から垣間見られた。その状況は、ドイツの移民・難民政策が曲折する中で構造的に作られた側面も大きいことも理解できた。そうしたことは、今後日本でも充分起こりうることであるとの認識も新たにした。クロイツベルグとノイケルン、隣接する両区には、移民が生きる都市の複雑な様相が凝縮されていた。

 翌日は、両区で行われている移民支援プロジェクト、「スタッドタイルムッター(Stadtteilmutter=地区の母)」のクロイツベルグのビューローを訪ねた。このプロジェクトは、地道ながら、貧しい移民がはまり込む負のスパイラルを断ち切るために有効な方策である、と見受けられた。ここでは、移民出身の女性たちが、就学において支障をきたしている児童のいる家庭を中心に貧しい移民の家庭を訪問し、出身地の言語を用いて情報提供や説得を行っていくプロジェクトである。教育の放棄は貧困の再生産につながると同時に、たとえ意欲があっても言語の問題で学校や福祉に関する情報が得られなかったり、伝えようにも「ドイツ人」の「お役人」に対するアレルギーは相当なものがあるのも事実である。そうした問題を乗り越えるには地道に粘り強く個別のケースに対応するしかないのだろう。それも移民自身の力で、である。一方、このプロジェクトは、失業対策の職業訓練プログラムとの連携という側面も併せ持つ。言うならば失業者の「労働力」を福祉に振り向けているわけであり、そのいかにもドイツらしい「論理的」な発想にも感銘を受けた。

 最後に、ベルリンの調査では、ベルリン在住のべ40年以上というKさんに大変お世話になった。夏のバカンス時期に当たったこともあり、準備段階で非常に難航した今回の調査だったが、出発直前に私の携帯電話にベルリンからお電話くださり、「乗りかかった船だから何とかしますよ」とおっしゃり、本当に何とかしてくださったのがKさんであった。Kさん運転の車の中で伺った武勇伝の数々は印象的で、「大陸浪人」とでも形容したくなるような佇まいを持った方であった。9月末には「満を持して」の永住帰国を控えておられたにもかかわらず、見ず知らずの私どものためにご尽力いただけたことにこの場を借りて改めてお礼を申し上げたい。


シェヒトリッキ・モスク


 上の写真はノイケルン区、テンペルホーフ空港の脇に佇むシェヒトリッキ・モスクである。ドイツでは、デュースブルグ市の「ポルマン・メルケズ・モスク(明石先生のエッセイに写真添付)」に次ぐ規模のドームとミナレットを持ったモスクである。このモスクの敷地は、ドイツで最も旧いムスリム墓地のある場所である。モスクの前には、19世紀以来ベルリンで死去したムスリムのお墓が並んでいる。ここはもともと、18世紀末にベルリンで客死したオスマン帝国の初代駐ドイツ(プロイセン)大使、アリ・アズィズ・エフェンディ(モスクの名称「シェヒトリッキ=殉教」は彼にちなんでいる)のために、カイザー・フリードリッヒV世が用意した墓所であり、その後、ムスリム墓地として使用されてきたのである。現在もモスクの背後にあたる区画は、ムスリムの埋葬のための区画となっている。ナチ時代の遺構であり、冷戦期は「ベルリン大空輸作戦」の舞台装置にもなったテンペルホーフ空港とこの場所が隣り合っているのも何やら感じるものがあるのだった。

【コラム】異文化を梃子に、都市再生に挑む:デュースブルクの試み [2009年10月05日(Mon)]
2010年開催予定の国際シンポジウムに向けて、今年も調査・調整に動き出しています。
明石純一委員(筑波大学大学院人文社会科学研究科 助教)による出張報告その1です。


異文化を梃子に、都市再生に挑む:デュースブルクの試み

 今回のEU調査では、イタリア(フィレンチェ、プラート)、ベルギー(ブリュッセル、ヘント)、フランス(パリ、ストラスブール)を巡り、最後に、ドイツのデュースブルクを訪れた。来年1月に開催予定の笹川平和財団のシンポジウムに、この町の市長をパネリストして招待するという使命もあって、緊張と不安を抱えたまま同市に到着する。

 デュースブルクは、ノルトライン=ヴェストファーレン州にある人口約50万人の都市。古くは炭鉱によって栄えたこの地域には、1960年代に日本や韓国から出稼ぎ目的で渡航してきた労働者の一部がそのまま定住したという。彼らの現在の暮らしぶりは定かではないが、こうした経験もまた、デュースブルク市の歴史に国際性を供しているのだろう。炭鉱で産業の礎を築き、鉄鋼を中心として経済成長を果たしたドイツ有数のこの工業都市は、しかし今日、その栄華の跡こそが痛々しい。実際、斜陽産業を抱えてきたデュースブルク市は、時代とともに廃れることを半ば運命づけられ、鉄鋼業の衰退とともに移民によるゲットー化が進み、治安も悪化の一途を辿ったという。そしてこの都市は現在、生き残りにかけ、移民や移民の持つ異文化の力を活用しようとしている。その中心人物が市長であるが、ご本人に会う前に、この都市の再建計画と実態を知るべく関係団体を訪れ、それぞれから話をうかがった。


鉄鋼都市として栄えたデュースブルク


 午前、ひとつめはトルコ人企業家協会(TIAD)。70の企業からなるこの団体は、13年前に設立された。この協会は、事業カウンセリング、起業家への資金援助、ビザ・滞在許可手続きの補助、人材・事務所の紹介などを行っている。現在では、地域開発と雇用を促進する目的から、一例をあげればデュースブルク市をブライダル産業の拠点とすべく、関連事業を主導している。このプロジェクトは、EUや連邦や州の基金からの出資による。その結果として、母国トルコとの経済交流の活性化や、欧州内のトルコ系移民たちへの知名度を高めることに成功したという。TIADによるこうしたデュースブルク市の売り込みの背景には、高度な教育を受けた有能なトルコ系移民がドイツ経済の将来を悲観しこの土地を離れようとする傾向に対する強い危惧がある。

 ふたつめの訪問先は、デュースブルク開発公社(EG・DU)。市の出資により、デュースブルク市内に五つの事務所を設け、地域経済の活性化に取り組んでいる。ここでの最大のトピックは、昨年この街に建設されたドイツ最大のモスク。ムスリム住民から新しいモスク建設の要望があった際、すぐさまに住民の代表らが構成する諮問委員会が設置され、ムスリム住民と非ムスリム住民の対話が始まった。その対話は、モスクの役割や機能についての数多くの討議を可能とし、結果として、ホスト社会におけるムスリム人口に対する懸念を少なからず払拭する方向で作用した。具体例をあげると、写真のミナレット(尖塔)の長さが、近くにある教会よりも3m低く作ることが、話し合いにより決まったという。その他、異なる宗教間の対話を促す目的に設けられた礼拝所に隣接する図書館には、イスラム教のみならず、キリスト教やユダヤ教を意識したデザインの丸天井が設えている。担当者によれば、計画当初からの住民の参与と意見集約により、他の州などでみられるモスク建設への批判運動が、デュースブルクではさほど顕在化しなかったという。


ドイツ最大のモスク「ポルマン・メルケズ・モスク」


 午後、ランチを取るひまもなく、本日三つの訪問先、デュースブルク市の統合担当局(Referat für Integration)に駆け込む。担当者を待つ間、机の上に用意されたクッキーにかじりつき、珈琲やミネラルウォーターで胃に流し込む調査チーム。もちろん、事前にお許しを得てのこと。様々な社会統合の試みと実態について語ってくれたなかで強く実感したのは、三分の一の人口が移民と移民に背景をもつ人が占めるこの街では、もはや彼(女)らは地域社会の「部分」などではありえないということ。移民は、統合政策や施策の対象というよりもむしろ、その主要な担い手である。朝一番でお会いしたTIADの代表は当然としても、先のEGDUの担当者、そしてこの統合担当局のチーフも、トルコ系移民であった。一連の説明のなかでは、「統合」(Integration)よりも「共生」(Zusammenleben)との言葉を好んで用いていたことが印象に残る。


デュースブルク市統合担当局


 本日最後のアポイントメントは、ちょうど一週間前の市長選で再選を果たしたアドルフ・ザウワーラント市長。移民とその異文化性を積極的に活用する都市再生により、デュースブルク市の復興を推し進めている注目の人物。日本の状況を説明していた時のこと、「日本では一部で外国人犯罪が心配されている」という調査チームのメンバーの台詞には、恰幅のよいその体躯から「ここもまったく同じだよ、はっはっは!」と豪快な笑いが飛び出し、隣に控えていたトルコ系移民の友人と阿吽の呼吸でハイタッチ。こちらの深刻な面持ちとは対照的に、愉快でたまらないといった様子。現実を正面から見据える冷徹さと、大胆な都市開発構想、そしてその着実な成果こそが、彼の再選を可能としたのだろうか。独特の親近感を覚えさせられるこの人柄が、市民からの支持を集めているのだろうか。ちなみにデュースブルク市の市長選と議会選は、日本では自民党が歴史的敗北を喫したまさにその当日のことであった。この種の偶然にも感慨を抱きながら、来日に乗り気な市長の態度に一安心しつつ、大急ぎで空港に送っていただき、EU調査の全スケジュールを終えた。市長が打ち出す異文化を「梃子」とする都市再生の挑戦については、2010年1月のシンポジウムにてご本人の口から、乞うご期待!

 なお今回の調査では、ドイツにおけるトルコ系移民の専門家で、トルコ語の通訳とともに、充実としか形容できない本デュースブルク調査をコーディネートしてくれた石川真作さん(第三分科会委員)、そしてドイツ語通訳の渡辺さん(隣町のデュッセルドルフ在住)に、本当に世話になりました。過密すぎるスケジュールも、お二人のおかげで円滑に進みました。また今回のインタビュー調査に応じて頂いた方を含め、ラマダーン中にもかかわらず、トルコ系ムスリム移民の方からは大変な歓待を受けました。ここに改めてみなさまに謝意を申し上げます。
(明石 純一)
岐阜県美濃加茂市・可児市 フィールドワーク [2008年11月01日(Sat)]
10月某日

 事業委員会と第1分科会メンバーで岐阜県美濃加茂市・可児市へ訪問しました。

 製造業の盛んな東海地域では、多くの外国人労働者が居住・就労しています。岐阜県美濃加茂市の外国人登録者数は住民人口の10%を超え、お隣の可児市とともに、全国でも有数の外国人集住都市です。
 
 外国人住民の方への支援を提供している美濃加茂市経営企画具多文化共生室の方々より、多文化共生施策についてお話をうかがいました。この10年で、地域社会へのブラジル人の定住化が進み、最近はフィリピン人住民も増加しているとのこと。



 外国人労働者を雇用している工場、子ども達の放課後学習を支えているNPO、十代の子ども達の就学・就労に関わる高等学校などを訪問させていただきました。



 また、市内の主要道路にはブラジル料理のレストランや、カーニバルの衣装を扱う店がのきを並べ、色とりどりな看板が目に鮮やかでした。(事務局)