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〔後房雄のブログ〕

現実関与型の政治学者が、日本政治、自治体改革、NPOやサードセクターの動向などについて話題を提供しています。一応研究者なので、面白かった本や論文の紹介もします。


田中弥生氏の矮小な反批判(1) [2011年09月23日(Fri)]
田中弥生『市民社会政策論』明石書店、2011年8月。

田中弥生氏の『NPOが自立する日―行政の下請け化に未来はない』(日本評論社、2006年)での主張に対して、私は2007年の雑誌論文と2009年の著書『NPOは公共サービスを担えるか』(法律文化社)においてあえて名指しで批判をしました。

それ以来、何の反応もなかったのですが、ようやく名指しの反批判が本書の2章で出されました。強く歓迎するとともに、今後、読者が両者を読み比べた上で意見を述べられることを期待します。日本では、一応でも、公開での論争が成立することが稀なので。

以下、私なりの最初の反応(2章のみ対象)を記しておきたいのですが、私の著書を読まない人にしか通用しないような姑息な批判が多く、正直、論争の楽しさが感じられません。議論を瑣末なものから核心的なものに方向付けようという姿勢がないからでしょう。

(1)田中氏は、私を「NPOへの行政委託推進論者のなかで最も急進的な立場をとる」者(94ページ)と位置づけ(これ自体はむしろ名誉なことだと思っていますが)、次のような総括的批判をしています。

その特徴は、非営利セクターを、公共サービスの執行機能、あるいは代行機能の役割に特化させ、寄付やボランティアを非営利活動の視野からはずして議論するところにある。(田中、95ページ)

こうした驚くような単純化をしたうえで、「市民社会の活性化」にとって二つの意味で深刻な問題があると批判します。

第1は、民間非営利組織の役割をサービス提供機能と捉えており、そこには市民参加を通じた社会課題に対する当事者性の育成と言うもう一つの重要な役割を切り離しているという点である。

第2は、公領域について、租税をベースに政府が担う領域、あるいは政府が主権をもつ領域しか存在していないという点である。換言すれば、後(2009)の議論においては、市民が、その発意で資源(ボランティアや寄付、会費など)を提供することで維持される、市民が担う公領域は存在しないか、あるいは視野の外に置かれているという点である。(127ページ)


こんな単純な批判が通用するなら、世の中苦労はありません。相手を矮小化して批判した形にしても、議論の進歩はまったく起こりません。市民社会の議論は私自身が飽きるほどやってきましたし、『公共サービス』でも「市民社会主導型の自由主義改革」の議論をしています。

また、大小様々、多種多様なNPOによる重層的なセクターを想定して議論していることも本を読めばわかることです。NPOを公共サービスの執行機能に特化させるような議論などどこにあるのでしょうか。従来の外郭団体の実態こそがそれですが、それをこそ最も批判し、改革の戦略を提起しているのが私の本です。

いずれにしても、私がNPO型のビジネス・モデルを論じている以下の部分を読めば、こんなところに論点がないことは一目瞭然のはずです。

「経営に必要な資源(資金、人材、情報など)を持続的に調達できる仕組み」をビジネス・モデルと呼ぶなら、NPOの場合は、顧客、寄付者、ボランティアなども含めた企業以上に多様な関係者(ステークホルダー)に対して、持続的に関心を掻き立てて満足を提供できるようなNPO型ビジネス・モデルともいうべきものを構築することが可能であり必要である。

NPO型ビジネス・モデルとしては、どの資金源を基軸にするかで大きく3つのタイプが想定できる(それぞれ他の資金源も組み合わせるのは当然である)。

タイプAは寄付・ボランティア型であり、寄付者、ボランティアを持続的に引き付ける仕組みを作り出すモデルであり、フォスター・プラン、あしなが奨学金などの例が典型である。

タイプBは市場型であり、企業や他のNPOにはない独自の価値を生み出すことによって市場において十分な対価収入を得られるだけの事業を確立しているモデルである。

そして、おそらく現在の日本において最も有力と思われるタイプCは公共サービス型であり、公的資金による事業(事業委託、バウチャー制度など)において企業や他のNPOにはないような独自の価値を生み出すと同時に、その事業を軸にしてさらに多様な事業展開を行うことによって行政や企業が対応できないニーズにも対応できるようにするモデルである。

これ以外に、財団、公益信託、政府などからの助成金も収入源としては貴重ではあるが、期間が限定されている場合が多いので、ビジネス・モデルの各タイプを補完するものと位置づけられる。(後、6−7ページ)


要するに、可能な資金源の一つを排除するような議論をNPO経営に関わる者がするわけもないのであって、問題は、セクターをめぐる可能性のとリスクの評価、それを踏まえた戦略的判断なのです。

公共サービス型ビジネス・モデルについても、公的資金による「事業を軸にしてさらに多様な事業展開を行うことによって行政や企業が対応できないニーズにも対応できるようにするモデル」だと説明してあるのは上記の通りです。このどこが「特化」なのでしょう。

公的資金を使わずに、寄付、ボランティア、自主事業収入だけで社会課題を解決する成果をあげることがいかに困難か、田中氏には何の経験もセンスもないのでしょう。

ちなみに、田中氏たちが提唱する「エクセレントNPO」の基本条件は、市民性、社会変革性、組織安定性だそうですが(田中、補論)、市民性についての規範論ばかりが目立ち、社会変革性や組織安定性を実現するための理論的、実践的議論がほとんど見当たりません。私の本は、「知的な実務家に評価される研究」をめざすと記しましたが(@@ページ)、田中氏は誰に向けて書いているのでしょうか。

ところで、田中氏は、公的資金の危険性を強調するわけですが、NPOは公共サービスから撤退すべきだと主張するのかどうか、本書でもよく分かりません。まさか全面的に撤退すべきだとは主張しないとは思いますが(ひょっとしてそうか?)、それなら、今後もNPOが公共サービスを担うことを前提に、「下請け化」の危険に戦略的に対処するための論点を詳細に論じている拙著『公共サービス』の議論に何の関心も示さないのはどうしてなのでしょうね。

そして、その一環として提起されている日本版コンパクトの提案にこれほど批判的な理由もよく理解できません。(ちなみに、外郭団体、天下り、随意契約の一体構造の改革を掲げている民主党が、透明、公平な行政―NPO関係を構築する突破口として日本版コンパクトに注目するのは当然のことです。むしろ、政治主導の空回りのなかで、官僚に遠慮してそこから手を引こうとしているというのが現状の問題点です。田中氏の議論は、それを正当化するもので、官僚は大喜びでしょう。)

寄付税制は今年6月のNPO法改正で大きく前進したわけで、今後必要になるのは、私のいう寄付・ボランティア型のビジネス・モデルを個々のNPOがいかに構築するかです。それに関して、田中氏は管見の限りで、一回も役に立つ議論や提案を出したことがありません。規範的に寄付、ボランティアの重要性を繰り返すだけです。研究としても、実践的議論としても何の役にも立ちません。

(2)いずれにしても、現在議論すべき本来の論点は、日本のNPOセクターないしサードセクター全体の今後の可能性とリスクをどのように評価して、それを踏まえてどのような戦略を提起するかにあるというのが『公共サービス』における私の中心的主張です。

田中氏は、これをまったく理解できず、「市民」や「市民社会」を振りかざした規範論を基準に、他人の議論を機械的に裁断するだけです。研究として何の深みもなく、実践論として何の有効性もないのはそれゆえです。また、読んで全然面白くないのもそのゆえです。

核心に入るならば、田中氏と私の分岐の基礎にあるのは、NPOセクターのなかに市民派的セクト主義の傾向が生まれているというここ数年の状況です。

市民派的な志向のNPOが存在することはいいことだと思いますが、それだけが正しい本来のNPOであって、それ以外は不純なもののように見なすのは行きすぎです。

代表的な例は、特定非営利活動促進法(通称NPO法)の名称を「市民活動促進法」に変えるべきだというキャンペーンです。制度としては統一的な非営利法人の制度があればいいのであって、そのなかで自称「市民活動的」なNPOのグループを構築すればいいのではないでしょうか。(NPO法を守れ、などというセクト主義もやめてもらいたい。社団、財団がどうなるか、各種公益法人がどうなるかなどは日本のNPOセクターにとって重大な問題です)

それ以外に、企業が支援するNPO、右翼的なNPO、なりふり構わず社会課題の解決に没頭するNPOなどがあっても当然で、その存在自体を批判すべきではありません。

広範で多様で重層的なNPOセクター、サードセクターを構築する(そしてその力量や自律性を高める)という課題の方が、一部の狭い市民活動的NPOのグループを形成すること以上に、日本社会にとって重要だというのが私の主張です。

論争するならこの論点をこそ取り上げるべきです。これについては、以下のように『公共サービス』ですでに正面から提起しています。誰も明示的に反応しませんが。

現在の中間支援組織のリーダーたちの主な問題関心は、NPOセクターのなかで衰退しつつあるように見える市民活動的要素を強化することの方にあると言えよう。本書の第6章で批判を加えた田中弥生の議論の基礎にもそうした関心がある。

10年を経て焼く3万6000団体になったNPO法人のなかには「市民活動団体」とは言えないようなタイプの組織も多くなっていることは事実であろうし、市民活動の成長発展を当初からの目標としてきたNPOリーダーたちがそうした現状に危機感を抱くことも理解できる。

しかし、だからといって、NPOセクター全体に「市民活動団体」としての基準をあてはめて批判することが正当化されるわけではない。全国的な中間支援組織が、必ずしも「市民活動団体」を志向しないさまざまなNPOや各種公益法人などを視野の外において、協議のNPOセクターのなかのさらに一部である市民活動団体だけを対象にした方針しか掲げないとしたら、広義のNPOセクターないしサードセクターの今後の発展にとって重大な問題だといわざるをえない。

もしも、イギリスやアメリカで見られるような、相当数の大規模な事業型NPOも含む重層的な社会的存在感のあるサードセクターを日本でも目指すのであれば、そのような市民活動促進と並んで、公共サービス改革という挑戦を正面から受け止めうるようなサードセクターの強化が不可欠だと思われる。念のために言えば、欧米ではそうしたサードセクター全体が市民セクター、市民社会セクターなどと呼ばれているのである。(後、200−201ページ)


田中氏も、「3・11後の政府・NPO・ボランティアを考えるために」などという副題を掲げるのであれば、こうした戦略的問題提起をこそ対象にして批判を展開すべきである。

ちなみに、私の田中氏への批判の中心的論点は、まさにこうした戦略的議論の欠如であった。どの要素を無視しているとか、数値がどうとかいうような矮小な議論は副次的なものである。

(続く)
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