朴元淳(パ・ゴンスン)
[2010年01月05日(Tue)]
川瀬俊治・文京朱編『ろうそくデモを越えて 韓国社会はどこへ行くのか』(東方出版、2009年)という本に、韓国における市民運動の傑出したリーダーとされる朴元淳氏の詳細なインタビューが掲載されています。
ここ2年ほど、韓国の成均館大学と中国上海の華東政法大学と名大法学部の政治グループの間で、共同研究を進めてきたのですが、2月20日、21日に名大でまとめの研究会をやります。
それへ向けて、私も、「福祉システムの日中韓比較のための予備的考察―「東アジアレジーム」論は有効か」という論文を書いたのですが、その準備のなかで見つけたインタビューです。
朴元淳氏は、もともと弁護士ですが、「参与連帯」事務局長(1995年〜2002年)を皮切りに、「美しい財団」、「美しい店」、「希望製作所」など、次々に新しい組織を立ち上げて市民運動のフロンティアを切り拓き続けてきた人です。(昨年、イギリスのACEVOのCEOであるバブ氏が日本に来た時に、韓国へ行って会ってきたそうです。)
一人のリーダーの歩みですが、日本における過去40年ほどの日本における市民運動の展開過程を10年くらいに圧縮しているかのようで(そして、多くの点で日本を追い越してしまっているので)、とても興味深いです。以下はそのインタビューからの抜粋です。
「一九八七年に軍事独裁が崩壊し、少なくとも手続き的民主主義が可能になる時代となりました。(中略)この移行期の市民運動は、かつての民主主義運動とは異ならざるを得ません。かつてはデモを行って、反対して、抵抗すれば十分にその役割を果たせましたが、一九八七年以後の移行期ではそういう反対を越えて、とても多様な制度的システムづくりが求められます。」
「より詳しくいうと、まず、法治主義の延長線上でかつての非民主主義的で現実に合わない法律を新しい法律に変える。次の段階では、新しい時代に見合った法律づくりのための立法運動、法改正運動を行う。さらにその次の段階として、新たにつくられた法を正しく適用するようにさせる、そのための告発運動、訴訟運動を公益法運動として展開する・・・というふうに私たちは段階を踏んですすめました。(中略)
参与連帯は、第15代国会(1996年〜2000年)の4年の間に78の法律案を請願しましたが、そのうち半分以上が通過したという統計資料があるのを私は確認しています。腐敗防止法運動とか国民基礎生活保障法運動などを繰り広げて、結果的にそれらはすべて通過しました。」
「民主化以後、民主化運動勢力が非常に多様な形態で多様に布陣することになりました。かつては民主主義回復というものに運動が集中していましたが、民主化以後は、主題別に女性運動、環境運動、または福祉運動、地域運動、さらに何らかの政治的運動と、実に多様化しました。
在野運動は相変わらず基層民衆、たとえば労働権や農民らの運動として続けられ、これらは下火になって行きます。やがて専門性を備えた様々な分野の運動が派生し、その次には総合的市民運動としての経実連(経済正義実践市民連合)が誕生しました。経実連の運動は主に経済正義、つまり土地問題などを中心に、もちろん後には総合的になりましたが、しかしそこは既存の在野運動との差別性を強調しながら、中産層をターゲットにする市民運動を繰り広げたわけです。指向性という点ではやや保守的でした。
経実連は89年に生まれ、参与連帯は94年につくられました。経実連と双璧をなす運動団体として出発しましたが、経実連よりはさらに進歩的で、在野運動とも密な関係を保ちました。」
「参与連帯の事務局長を辞めて外に出て、まずこう考えました。参与連帯は基本的には強力なアドボカシー運動の団体じゃないですか。ですからこれとは違う運動をしなければならないとね。人の考えと意識を変えながら、韓国社会の外縁、市民社会、市民運動の外縁を拡張する、こういう運動も必要だ、と。それで思い至ったのが「分かち合い運動」、「寄付運動」でした。それが市民社会のためにも重要だと思いました。なぜなら市民団体が持続可能に運動をしようとするなら寄付する人が多くなくてはなりません。私が参与連帯の運動をしてきた経験からもそのような募金というのがとても重要だと考えて「美しい財団」をつくりました。(中略)
こういう観点から始めたのが1%分かち合い運動です。(中略)(収入)10のうち1は少し厳しいですが、それが100のうちの1なら出しやすいですね。そんなふうに始めてみたらそれが成功して、昨年の場合は125億ウォンの募金を集めました。リサイクル・ショップの「美しい店」も110億ウォンの売り上げをあげています。」
「金大中政府(国民の政府)と盧武鉉政府(参与政府)の10年を経て市民社会が一方では発言権がかなり強くなり、さらに参与政府の下では市民団体に所属した人々が政府にたくさん入りました。(中略)市民団体が持っていたアジェンダの多くが国家に受け入れられるようになってすばらしい発展を成し遂げたといえます。
ところが、その一方で、市民団体のすることが減ったといえます。(中略)市民団体は自身の主張とスローガンが政府でたくさん受け入れられるように努力するわけですが、実際には、政府がその主張を受け入れてしまえばしまうほど、自身の位置づけが弱まっていくわけですね。そうなると市民団体は自ら自身のアジェンダというか、社会的実践課題をさらに多くつくり出して、非常にディテールに徹したことまでつくり出して、運動を持続させなければならないわけですが、市民社会団体がそのような専門的で洞察力に富むことが出来ない部分もあるのが事実ですね。それで危機が生じて、いまだにその危機は続いていると思います。(中略)新しいアジェンダの産出、創り出す能力がなければならない。それでシンクタンクが必要だというところにいきついたわけです。これが、私が「希望製作所」をつくるようになった背景です。」
「いまやNPOも企業的要素や公共的要素をすべて持つようになりました。それで伝統的には厳格に区別される政府という公共領域と市場という企業領域、自発的な市民の結社体である市民社会領域との境界がますます崩れていくと思います。もちろん牽制と均衡という本来の役割が明確にあるわけですが、自身のセクターを越える相互協力的なパートナーシップやネットワークがますます必要な時代になります。それで「希望製作所」は今まで政府や企業、既存の市民団体が軽視したり、まともにはやってこなかった部分を、一つの社会的デザイン、社会的プロジェクトとして推進することを目的に誕生したわけです。それで大企業中心の韓国で、郷土に根ざす社会的な小企業を育てようとコミュニティ・ビジネスセンターとか、小企業発電所をつくって、引退するシニアを市民社会の奉仕者に転換させるためのハッピーシニア・プロジェクトなどを推進しているわけです。」
日本での民主党政権は、金大中政権、盧武鉉政権の時代に当たるでしょうから、日本の市民運動の今後にとって示唆が多いですね。まずは、民主党政権をどれだけ活用できるかが問われます。
ここ2年ほど、韓国の成均館大学と中国上海の華東政法大学と名大法学部の政治グループの間で、共同研究を進めてきたのですが、2月20日、21日に名大でまとめの研究会をやります。
それへ向けて、私も、「福祉システムの日中韓比較のための予備的考察―「東アジアレジーム」論は有効か」という論文を書いたのですが、その準備のなかで見つけたインタビューです。
朴元淳氏は、もともと弁護士ですが、「参与連帯」事務局長(1995年〜2002年)を皮切りに、「美しい財団」、「美しい店」、「希望製作所」など、次々に新しい組織を立ち上げて市民運動のフロンティアを切り拓き続けてきた人です。(昨年、イギリスのACEVOのCEOであるバブ氏が日本に来た時に、韓国へ行って会ってきたそうです。)
一人のリーダーの歩みですが、日本における過去40年ほどの日本における市民運動の展開過程を10年くらいに圧縮しているかのようで(そして、多くの点で日本を追い越してしまっているので)、とても興味深いです。以下はそのインタビューからの抜粋です。
「一九八七年に軍事独裁が崩壊し、少なくとも手続き的民主主義が可能になる時代となりました。(中略)この移行期の市民運動は、かつての民主主義運動とは異ならざるを得ません。かつてはデモを行って、反対して、抵抗すれば十分にその役割を果たせましたが、一九八七年以後の移行期ではそういう反対を越えて、とても多様な制度的システムづくりが求められます。」
「より詳しくいうと、まず、法治主義の延長線上でかつての非民主主義的で現実に合わない法律を新しい法律に変える。次の段階では、新しい時代に見合った法律づくりのための立法運動、法改正運動を行う。さらにその次の段階として、新たにつくられた法を正しく適用するようにさせる、そのための告発運動、訴訟運動を公益法運動として展開する・・・というふうに私たちは段階を踏んですすめました。(中略)
参与連帯は、第15代国会(1996年〜2000年)の4年の間に78の法律案を請願しましたが、そのうち半分以上が通過したという統計資料があるのを私は確認しています。腐敗防止法運動とか国民基礎生活保障法運動などを繰り広げて、結果的にそれらはすべて通過しました。」
「民主化以後、民主化運動勢力が非常に多様な形態で多様に布陣することになりました。かつては民主主義回復というものに運動が集中していましたが、民主化以後は、主題別に女性運動、環境運動、または福祉運動、地域運動、さらに何らかの政治的運動と、実に多様化しました。
在野運動は相変わらず基層民衆、たとえば労働権や農民らの運動として続けられ、これらは下火になって行きます。やがて専門性を備えた様々な分野の運動が派生し、その次には総合的市民運動としての経実連(経済正義実践市民連合)が誕生しました。経実連の運動は主に経済正義、つまり土地問題などを中心に、もちろん後には総合的になりましたが、しかしそこは既存の在野運動との差別性を強調しながら、中産層をターゲットにする市民運動を繰り広げたわけです。指向性という点ではやや保守的でした。
経実連は89年に生まれ、参与連帯は94年につくられました。経実連と双璧をなす運動団体として出発しましたが、経実連よりはさらに進歩的で、在野運動とも密な関係を保ちました。」
「参与連帯の事務局長を辞めて外に出て、まずこう考えました。参与連帯は基本的には強力なアドボカシー運動の団体じゃないですか。ですからこれとは違う運動をしなければならないとね。人の考えと意識を変えながら、韓国社会の外縁、市民社会、市民運動の外縁を拡張する、こういう運動も必要だ、と。それで思い至ったのが「分かち合い運動」、「寄付運動」でした。それが市民社会のためにも重要だと思いました。なぜなら市民団体が持続可能に運動をしようとするなら寄付する人が多くなくてはなりません。私が参与連帯の運動をしてきた経験からもそのような募金というのがとても重要だと考えて「美しい財団」をつくりました。(中略)
こういう観点から始めたのが1%分かち合い運動です。(中略)(収入)10のうち1は少し厳しいですが、それが100のうちの1なら出しやすいですね。そんなふうに始めてみたらそれが成功して、昨年の場合は125億ウォンの募金を集めました。リサイクル・ショップの「美しい店」も110億ウォンの売り上げをあげています。」
「金大中政府(国民の政府)と盧武鉉政府(参与政府)の10年を経て市民社会が一方では発言権がかなり強くなり、さらに参与政府の下では市民団体に所属した人々が政府にたくさん入りました。(中略)市民団体が持っていたアジェンダの多くが国家に受け入れられるようになってすばらしい発展を成し遂げたといえます。
ところが、その一方で、市民団体のすることが減ったといえます。(中略)市民団体は自身の主張とスローガンが政府でたくさん受け入れられるように努力するわけですが、実際には、政府がその主張を受け入れてしまえばしまうほど、自身の位置づけが弱まっていくわけですね。そうなると市民団体は自ら自身のアジェンダというか、社会的実践課題をさらに多くつくり出して、非常にディテールに徹したことまでつくり出して、運動を持続させなければならないわけですが、市民社会団体がそのような専門的で洞察力に富むことが出来ない部分もあるのが事実ですね。それで危機が生じて、いまだにその危機は続いていると思います。(中略)新しいアジェンダの産出、創り出す能力がなければならない。それでシンクタンクが必要だというところにいきついたわけです。これが、私が「希望製作所」をつくるようになった背景です。」
「いまやNPOも企業的要素や公共的要素をすべて持つようになりました。それで伝統的には厳格に区別される政府という公共領域と市場という企業領域、自発的な市民の結社体である市民社会領域との境界がますます崩れていくと思います。もちろん牽制と均衡という本来の役割が明確にあるわけですが、自身のセクターを越える相互協力的なパートナーシップやネットワークがますます必要な時代になります。それで「希望製作所」は今まで政府や企業、既存の市民団体が軽視したり、まともにはやってこなかった部分を、一つの社会的デザイン、社会的プロジェクトとして推進することを目的に誕生したわけです。それで大企業中心の韓国で、郷土に根ざす社会的な小企業を育てようとコミュニティ・ビジネスセンターとか、小企業発電所をつくって、引退するシニアを市民社会の奉仕者に転換させるためのハッピーシニア・プロジェクトなどを推進しているわけです。」
日本での民主党政権は、金大中政権、盧武鉉政権の時代に当たるでしょうから、日本の市民運動の今後にとって示唆が多いですね。まずは、民主党政権をどれだけ活用できるかが問われます。