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〔後房雄のブログ〕

現実関与型の政治学者が、日本政治、自治体改革、NPOやサードセクターの動向などについて話題を提供しています。一応研究者なので、面白かった本や論文の紹介もします。


西内啓『統計学が最強の学問である』 [2013年03月16日(Sat)]
西内啓『統計学が最強の学問である』ダイヤモンド社、2013年1月。

こんなに啓発的で面白い統計学の本は初めてです。というか、すぐに挫折していましたが。

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日本には「バカの考え休むに似たり」という素晴らしいことわざがある。そして我々人間は基本的にバカなのだと私は思っている。いくら考えてもわかるわけがないことに対して、よく考えたり話し合えばわかるようになるだなんて思うこと自体、たいへんバカな思い上がりなのではないだろうか。

私たちにできることは、まずランダムさによって運を天に任すことであり、そして統計解析によってその天の思し召しに耳を傾けることだけなのである。(125ページ)

『海賊とよばれた男』 [2013年01月10日(Thu)]
百田尚樹『海賊とよばれた男(上下)』講談社、2012年7月

出光興産の創業者、出光佐三をモデルにした小説ですが、とんでもなく面白かったです。官僚の統制や同業者の談合、いやがらせ、国際石油メジャーの圧力をはねのけながら成長していくストーリーはわくわくドキドキです。

あらためて痛感させられるのは、官僚にもセコイ保身だけの官僚もいれば、危険をおかしてでも国益を優先する官僚もいるということ。権力をかさにきて新参者をつぶそうとするアメリカ人もいれば、意気に感じて支援しようというアメリカ人もいるということ。要するに、どの世界にもセコイ奴とまともな奴がいるということです。

それにしても、官僚統制、規制がいかに悪質かということを石油産業めぐって再認識させられました。それにすり寄って既得権を守ろうとする同業者たちも。日本のどこにでもある構図です。それだけに、孤高のままでそれを突破していく主人公の姿は痛快です。
パーソナル・パーティ [2012年09月24日(Mon)]
『図書新聞』3080号(2012年9月29日号)に掲載された書評を再録します。

1990年代初めから、イタリアも日本も小選挙区制型の民主主義へ向けた歩みを始めたのですが、日本はご覧のとおり、イタリアもベルルスコーニに翻弄されて、20年しか続いていない「第二共和政」の終焉が語られているようです。

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書評: マウロ・カリーゼ(村上信一郎訳)『政党支配の終焉』法政大学出版会、2012年

 本書の原題は『パーソナル・パーティ』である。かつてはイデオロギー政党、組織政党による「政党支配体制」(partitocrazia)で有名だったイタリアにおいて、1994年以降のイタリア政治を支配してきたベルルスコーニ前首相を代表として、指導者個人がメディアなどを通じたポピュリスト的方法で民衆の支持を集めるパーソナル・パーティ(以下PP)が大小様々に台頭してきた背景、理由、メカニズム、理論的意味などを分析している。政治の人格化という用語も使われる。
 PP現象は、レーガン、サッチャー、ミッテラン、ブレアなどの名前がすぐに浮かぶように、先進民主主義諸国に共通に見られるものであり、日本でも、中曽根康弘、小泉純一郎のほか、各地のポピュリズム首長ないし劇場型首長、とりわけ橋下徹大阪市長など、事例に事欠かない。
 本書が日本政治を考えるうえで特に参考になるのは、冷戦終結後、小選挙区制の導入によって、二大政党(ないし二大勢力)による政権選択型の政治(政権交代のある民主主義)を目指したという点でイタリアと日本は軌を一にしているからである。
 両国ともに、政権交代メカニズムが機能し始めたという点では大きな成果はあったが、イタリアでは中道左派はモンスターと化したベルルスコーニに対してなすすべがなく、日本では民主党政権が統治能力の不足で惨憺たる状況を呈している。こうした状況で、そもそも「政治改革」(イタリアでは「制度改革」)は間違いだったのではないかという疑念が強まっている。
 著者も「小選挙区制の失敗はもはや誰の目にも明らかである」と断じるが、だからと言って、最近の日本に見られるような、比例代表制の方がいいとか、中選挙区制に戻せとかいうような表層的な議論に与するわけではない。著者自身、中道左派連合「オリーブの木」の創立メンバーの一人であり、ナポリ市長、労働大臣、カンパーニア州知事を歴任した旧共産党出身の政治家バッソリーノのブレーンでもあっただけに、イタリア政治の混迷への批判はより根底的であり、苦渋に満ちたものである。著者の問題提起は次の一節に集約されている。
「政治の人格化へと移行するのはもう避けられないのに、中道左派政党の政治階級はそれに適応しそこなったのではないか、大物か小物かを問わず政治の人格化を表す指導者たちが政党に固有の集団行動の論理に新たな挑戦状を突きつけてきたにもかかわらず、それと真正面から取り組み、きちんとした解釈をして、最終的には受容するだけの能力が、中道左派政党の政治階級にはなかったのではないか・・・。彼らは、指導者の人格的な身体が政治の舞台を独占するのは、イタリアではたびたび起るアブノーマルな現象だと割り切り、夜が明け、こうした逸脱現象が終わるのを、ただひたすら待ちつづけているのだ。そうすることで結局は闇夜を必要以上に長引かせてきたのである。」
これはこのまま、小泉現象や橋下現象をポピュリズムとして切り捨てる日本のリベラルないし左派の政治家や知識人たちにも向けられるべき問いにほかならない。
では、PP現象ないし政治の人格化を正面から受け止めて対処する政治ないし政党のあり方とはどういうものなのか。
 著者は、政治学者ディ・グレゴーリオの「投票行動の4類型」を借りて、小選挙区制の導入を推進した中道左派の基礎となっていた見通しを批判する。つまり、冷戦後、イデオロギー政党は衰退し、92年の「汚職都市」の大摘発以降、縁故主義のネットワークも崩壊したので、イタリアの有権者も「帰属による投票」(政党志向型)や「交換による投票」(利益志向型)から「意見による投票」(争点志向型)に移行すると考えたが、その見通しは大きく間違っていたという。
 一つには、「帰属による投票」や「交換による投票」は予想以上に持続し、復活した場合すらあるという(北部同盟の台頭、定着や汚職事件の多発、候補者個人への「選好票」の増加など)。
 さらに、新たに「カリスマによる投票」(指導者志向型)という新しい現象が生じ、政党組織の枠組みを破壊してしまう大地震の元凶となった。
 著者が強調するのは、以上のような投票行動の4類型(帰属、交換、意見、指導者)、合意の多様な経路がすべて存在していることを前提として政治戦略を立てる必要性である。市民社会は、「理性と利益と情念が織り合わさってできたもの」だからである。
 とりわけ左翼には、支持者との一体感を形成するような情念型の指導者を疎んじる傾向があることを批判する。なぜならば、「たとえ権威主義的になろうとも、指導者との関係をある時には熱狂的なものに、またある時には落ち着いた安定したものにできるような訴求力が、指導者には必要」だからである。
 一例として、2008年総選挙において民主党は党首ヴェルトローニの人格を強調する選挙戦略を採用したが、ある種の「軽い」合理的選択をする有権者を念頭においていたために、支持率は多少は上がったが、「有権者の五臓六腑に染み渡るようなインパクト」をもたらすほどの力はなかったという意味で失敗だったというのが著者の評価である。
 日本での2009年総選挙で大勝した民主党の支持の急速な崩壊や、松下政経塾出身の政治家たちのある種の「軽さ」にも妥当するような評価だろう。
 著者は、直接選挙制のもとで当選した中道左派の市長たち(バッソリーノもその一人)や、ブレアによるイギリス労働党の復活を新しい中道左派政治の手掛かりとみているようであるが、その輪郭はまだ明らかではない。それについては、著者の問題提起を受け止めて私たち自身が日本においても探究していくべきであろう。
細野豪志、福山哲郎 [2012年09月12日(Wed)]
細野豪志×鳥越俊太郎『証言 細野豪志 「原発危機500日」の真実に鳥越俊太郎が迫る』講談社、2012年

福山哲郎『原発危機 官邸からの証言』ちくま新書、2012年

原発事故直後の官邸の動きがかなり見えてきました。各種の事故報告書が出ているので、当時の政治家たちの証言がまとまって語られるのはいいことです。かなり正確な判断ができるようになりつつあると思います。

原発事故直後についていえば、東電幹部や原子力関係機関、専門家たちがほとんど使い物にならない状況だったことが明らかになっており、そのなかで、本当に制御不能になる危機をなんとか抑えたことに関しては、菅総理を始めとした政府の功績は認めるべきだと思います。(特に、もっとも責任が重い東電側の証言がほとんど出されないことは重大な問題だと思います。語る責任があるはずです)

細野さんの証言によれば、東電からの全面撤退の申し出について最終的決定を行った15日午前3時過ぎの会議で、菅総理がほとんど一人で「撤退はありえない」と断言して雰囲気を一変させたそうです。

「それは私にとっては、本当に目が覚める瞬間でした。自分のなかで逡巡していたものが、完全になくなった。」(92ページ)

福山さんの本でも、枝野官房長官が、あの瞬間だけはあの人(菅直人)が総理で本当によかったと思った、と語ったことが紹介されていました。

日本のマスコミは、ちゃんと仕事をした人のことを肯定的に紹介する習慣が極端に欠如しています。その害毒は重いと思います。

民主党政権の評判は惨憺たるものですが、ほかの面についても当事者たちがきちんと証言を残し、内在的に検証できるようにするべきだと思います。

鳩山総理の普天間基地での迷走と、菅総理が思いつきの消費税発言で参議院の過半数を失ったことはもっとも深刻な誤りだったと思いますが、そのことも含めて、内側の証言によって民主党政権の実態を検証することが不可欠だと思います。
フリードリヒ・ハイエク [2012年09月05日(Wed)]
エーベンシュタイン『フリードリヒ・ハイエク』春秋社、2012年

ハイエクの「知的道程」をたどった伝記で、ハイエクの思想の展開が見事に描かれていました。前作『最強の経済学者ミルトン・フリードマン』日経BP社、も面白かったです。

冷戦終結後、ポパー、フリードマン、ハイエクなどを初めて本格的に読みましたが、20世紀の一大潮流であった「社会主義」への批判に、異端として生涯をかけた思想家たちのインパクトは強烈でした。

未だに「反省」しない人も多いようですが、私自身は好奇心が多少強かったので、80年代にフリードマンの『選択の自由』を読んで面白く思ったりしていたのがよかったのかもしれません。

さわりだけ。社会主義の起源についての一節です。

私たちの本能は互いに顔を合わせることのできる小規模の社会で作られた。そのような小規模社会では人が必要とすることは目に見え、人々は互いにそうした必要を満たすべく行動する。

一方、現在の(開かれた)社会では、人はあるシグナルに従って行動し、それが見知らぬ人の必要を満たし、見知らぬ資源をそのために利用している。

しかし私たちの本能は未だに、自分が必要を満たしている相手を直に見たいし、共通の目的のためには身近の人間と手を組みたいと思わせる。このような気持ちは、(開かれた)社会とは矛盾するものだ。

文明はどれも、その生来の本能を抑制することで発達してきたと私は考える。人は生来の願望に反して文明人にさせられてきたと言ってもいいかもしれない。そんなことは嫌だっただろう。個人的には文明の発達から恩恵を受けたが、生来の本能を捨て、訳のわからない公のルールに従わなければならないなど、非常につらい経験だったに違いない。未だに嫌がっているくらいだ。(418ページ)


ハイエクは、「議会」というものを、共通ルールを決定する本来の立法院と、現在の議会のようなばらまきをやる行政院とに区別するわけですが、以下は、そのばらまき政治への批判です。

開かれた社会を支えるのは、同じルールがすべての人々に等しく適用されるという理念である。

ゆっくり、じわじわと、すべての人々を対象とした一般的ルールが広まり、個別の集団の利益のためならば他者に害を与えてもいいとする個別のルールが駆逐されていく。このプロセスを通じてしかオープンな社会は誕生しない。(428ページ)


現実政治をみると、先は相当長そうですね。
佐藤優 [2012年05月01日(Tue)]
「国策捜査」で有罪となった佐藤優氏の対談本を2冊読みました。

佐藤優・石川知裕『小沢一郎はなぜ裁かれたのか』徳間書店、2012年3月。
佐藤優・竹中平蔵『国が亡びるということ』中央公論新社、2012年4月。

小沢事件で逮捕された元秘書の石川議員と、小泉政権の軸だった竹中氏と、興味深い相手と興味深い議論をしています。

前者では、マスコミに叩かれてもマスコミを敵にしてはいけない、マスコミを武器にして本当の相手と戦え、マスコミは検察や官庁などの与党総会屋だが一線を超えると攻撃に転じることもある、不当逮捕されても自殺と完全黙秘はやめるべきだ、などの教訓が参考になりました。

後者では、小泉政権と竹中氏について佐藤氏がかなり肯定的な評価をしていることがわかり興味深かったです。「新自由主義」という色のついた言葉を使うかどうかはともかく、自由主義的改革が依然として道半ばという現状認識だということです。

佐藤氏や竹中氏のような専門家を使える政治家が少ないという問題の深刻さを痛感します。
上野千鶴子 [2012年04月03日(Tue)]
上野千鶴子『ケアの社会学』太田出版、2011年8月。

書いている論文の関係で、ようやく読み出し、後半3分の2ほど読みました。官/民/協/私の四元構造を論じている部分です。

生活クラブ生協やワーコレの分析は、さすがに鋭く、その男社会ぶり、高学歴主婦への偏向などの問題点を鋭く衝いていました。

それだけに、フェミニストの彼女がなぜワーコレに深くかかわったかが謎でしたが、ワーコレが生協を根本的に問い直す異物だという認識からだというのは納得しました。

専従職員と組合員主婦の二重構造が生協の大問題ですが、専従職員集団もワーコレにしてしまうというのが根本的解決策です。九州の生活クラブのリーダーがそういう見通しを述べているようですが、私も90年代にワーカーズ・コープや共同保育所にかかわる中で、生産者協同組合と消費者協同組合の複合という形にもっていくのが筋道だと考えていました。

有名なベーク報告も、新しい協同組合の兆候として複合型協同組合を挙げていましたし。

とはいえ、強固な職員機構を構築している生協や農協などが、ワーカーズに転換することは不可能でしょう。小規模なサービス提供型の協同組合が複合型をめざすのは現実的だと思います。典型的には保育所や老人ホームなど。

それはともかく、彼女の四元構造論については異論はありませんが、協セクターの経営力についてあまりに甘すぎるのが気になりました。実際、企業との競争で生き残れる協はどれくらいあるでしょうか。本書の記述自体が彼女の評価を裏切っていると思います。

それと関係するのでしょうが、政府行政の役割について、踏み込んだ議論がなく、従来型の大きな政府論に限りなく近いと思いました。準市場という言葉も使っているのですが、事業委託契約、指定管理者制度、バウチャー制度(準市場)などの制度設計についての関心がほとんどなく、ひっくるめてネオリベなどと批判しているのはいただけません。

もっと公的資金を投入しろという主張のようですが、どのように投入するかについては論じません。

他方で、ある福祉NPOの関係者のものとして、「行政には期待しない。わたしたちがやることの邪魔をしないでくれさえすればよい」などという甘い発言を末尾に引用して第15章を結んでいるのはがっくりです。こんな発言に流されるような人ではないはずですが。

公的資金に財政の9割以上を依存しているのが福祉NPOの実態であり、資金だけ出して邪魔するななどというのは甘えでしかありません。もちろん、行政には期待しないとはいいながら、公的資金なしにやる覚悟があるわけもありません。

どこの国でも、福祉NPOにとって公的資金は決定的に重要なのであり、それを直視したうえで、それをめぐる行政ーNPO関係の内部に深く立ち入って改革を進めていくことが不可欠です。根拠のない空威張りが通用するほど甘くありません。

上野さんも、社民型の大きな政府とネオリベとの間の第三の道の展望は見えないようです。協セクターを強調するだけではあまりに無内容です。(ちなみに、なぜか私の1996年の論文が1本だけ参考文献にあがっていますが、本文の議論では触れられていません。そこですでに、市民社会主導型の自由主義的改革を提唱していたのですが・・・)

それはそれとして、ワーコレ、富山型小規模多機能施設、鷹巣町など、社会学者らしくきちんと調査、分析している2段組み500ページもの大著を提供してくれたことには深く感謝します。とても参考になりました。おそらくは、まだ読んでいない前半に彼女の本領があるでしょうし(これについては、田中尚輝さんがブログで取り上げています。有償ボランティアについての両者の論争はいずれフォーローしたいと思います)。
『獅子頭』 [2012年03月31日(Sat)]
楊逸(ヤン・イー)『獅子頭(シーズトォ)』朝日新聞社、2011年10月。

中国人で初めて芥川賞を取った作家の最新作です(受賞作の『時が滲む朝』は天安門事件を関与した若者たちの視線から描いていました)。

いつもながら、23歳で留学してきた人の日本語とはとても思えません。おかげで、中国人の内面を追体験するというめったにないことができます。

農民出身の主人公が、大連に出て、さらには日本に働きにくるわけですが、その中国人の側から中国人の常識と日本人の常識の軋轢を深く面白く描いています。

この小説は、「人間の価値観はいつどこでどのようにして得たものなのかについて、私が探索した道のりである」と著者はあとがきで述べているように、自ら体験したことと重なっていて迫真性があります。

違った社会に育った人の間の常識や価値観の違いがリアルに描かれていると同時に、その底流に人間としての共通性も浮かび上がります。その意味では、人間はやはり同じようなことを思い、考えるんだと知らされました。
『ひとりで死んでも孤独じゃない』 [2012年03月24日(Sat)]
矢部武『ひとりで死んでも孤独じゃない 「自立死」先進国アメリカ』新潮新書、2012年2月。

無縁死とか孤独死とかが騒がれています。

それを防ぐために、家族の絆を復活、強化することが必要だと叫ばれています。

なんとなく違和感がぬぐえませんでしたが、一人で死ぬこと自体が悲惨だという考え方に異論を出し、むしろ「自立死」があるべき姿ではないかという問題提起は新鮮でした。もともと人間は、生まれてくる時も死ぬ時も一人なのですから。

絆が好きな人は復活させればいいと思いますが、一人でも愉しく安全に暮らし、「自立死」ができる環境を整えるという方が私にはぴったりきます。

唯一、死後かなりたってから発見されるというのはさすがに悲惨だし、周りにかなり迷惑をかけるので、アメリカではそれを防ぐツールやシステムを整備することに努力しているようです。

日本でも、老後、無理に家族と暮らすよりも、環境さえ整っているなら一人で暮らしたい人も多いのではないでしょうか。家族での無理な同居は家族関係も傷つける恐れが高いでしょうから。

家族と同居せず、一人で暮らしながら、ときどき家族と会うというスタイルの方が両方にとってのストレスが軽いように思います。

孤独死の悲惨さを煽って、また懲りずに旧い家族介護、同居への復帰を誘導するのではなく(非現実的だし)、「自立死」のための条件整備に目を向ける時期だと思います。
『利他学』 [2012年03月21日(Wed)]
小田亮『利他学』新潮選書、2011年5月。

進化生物学の立場から、淘汰による進化の過程で、人間には一定程度の(個人によって差はあるが)「利他心」があることを明らかにしています。

利他的行動をとった方が、直接の見返りだけでなく、評判を通じた間接的な見返りも受けられる可能性が高まるので進化において有利だということのようです。

その結果、利他的な行動をすることに「快」を感じるように脳がなっていることも確認できるそうです。

進化生物学というのは、著者もいうように、理系と文系を融合させた面白い学問ですね。

いずれにしても、人間がそのような存在である以上、そうした利他心を有効に活用できるような社会的仕組み、寄付、ボランティア、NPOなどが存在することにも根拠があるということになります。

ちなみに、相手がどれくらい利他的かを見抜く能力も人間は発達させてきたらしいのですが、その際、アメリカ人は顔下半分の表情に注目し、日本人は顔上半分の表情に注目するというのは面白い事実でした。

笑い顔は大きな判断材料のようですが、本当の笑いは左右対称だが、人為的な笑いは意思を司る左脳がコントロールする顔の右半分だけが動くそうです。気を付けましょうね。
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