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現場からの声 [2011年09月26日(Mon)]
 東日本大震災詐害ボランティア活動に参加した学生の所感です。
 そのまま引用しているため、不適切な表現がある場合がありますが、
 リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。


**************
大学1年生/女性(9/8〜12@15次隊)

今回は初めて災害活動に参加しました。
テレビでは見ることが出来ない現実を目の当たりにすることが不安でしかたなかったです。

最初の2日間、仮設住宅での活動をさせて頂きました。

あるお宅の小5のお子さんの真新しいランドセルにお母さんやお父さん、おじいちゃんの連絡先のメモが付いていました。
そのメモの1番上に書いてあった「いえ」の番号が2本線で消されていました。
見た瞬間、目頭が熱くなりました。
仮設住宅に住んでいるのだから「家がない」というのが前提なのはわかっていたつもりでした。
小さなメモ1枚の1行からこの家族の色々な想いを感じたような気がします。

部屋に飾ってある写真は泥がついたあとがありました。白くなっていました。
置いてあった位牌は傷がいくつかありました。
どれも探してやっと見つけたものだと言うおばあちゃんの言葉を聞いて、津波の恐怖をあらためて感じました。


作業後にごちそうになったふかしたさつまいもとコーヒー牛乳。
それを一緒に食べたり飲んだりしながらお孫さんの話を楽しそうにするおばあちゃんの顔。
どちらも忘れられません。忘れたくありません。絶対忘れません。

物資でもらったはずの野菜ジュースやコーラなどの飲み物を10本もくださったり
ポテトチップスやチョコレートを出してくださったり…
何回も結構です、お構いなく、と言っても
「こんなことでしかお礼ができないからいいのいいの!」
と言ってくださるおばちゃん。
本当にうれしかったです。
スーパーやコンビニで買えるようなものがこんなに美味しく感じたことはなかったです。


今回の活動で人のあたたかさを肌で感じることができました。

「来てくれてありがとう」「元気もらったわ」
この言葉を頂いた時、参加してよかったなぁとつくづく思いました。


これから自分に出来ることがわかりません。
けどそれを探して、見つけて、なにかアクションを起こしたいと思います。
友達と考えを共有しあって次につなげたいです。

そしてまた気仙沼にいきたいです。


お世話になったみなさんありがとうございました!お疲れ様でした!
現場からの声@東日本大震災 [2011年09月20日(Tue)]
 活動に参加した学生の所感です。
 リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。

**************

大学4年生/女性

私はこの活動が8回目となりました。今回の活動期間中、3月11日からちょうど半年を迎え、今回の活動現場であった気仙沼の地福寺のご住職のご厚意により、祈りの会を催すことができました。全員で犠牲者に対して祈りを捧げ、私にとっても参加者にとっても一つの区切りになったと思います。

この帰り道、突然知らない番号の電話が入りました。8月に宮城県唐桑町大沢での活動の際に出会ったおばあちゃん(以後:Hさん)の息子さんからでした。
Hさんのお宅は海岸にとても近い場所にあり、寝たきりの旦那さんと2人で生活していました。Hさんは、地震のときは自宅にいたそうで、80歳のHさんは旦那さんを背負って逃げることなどできず、一人で山に逃げたのだそうです。
津波後、自宅へ戻ると家は流され、旦那さんは亡くなっていました。
そして、Hさんはこの震災で長男と三男のお嫁さんも亡くしました。

そんなHさんの生きがいは畑でした。
ところが、畑は流された船などで瓦礫の山となり、さらに雑草が1mほどの高さまで伸びていました。

そんな時、私たちに依頼が入り、13次隊で学生60名が3日間かけて瓦礫の撤去と草取り作業を行いました。

今回、撤去から1ヶ月程経ったHさんの畑に行く機会があり訪れると、重機が騒音を上げながら瓦礫の撤去を行っている場所の、真ん中にある小さな畑に、ホウレンソウとレタスの小さな葉が顔を出していました。


息子さんは、Hさんから私たちの話を聞き「母が生き生きしていて、とてもうれしい」というお礼の電話をかけてくれたのです。思わず、声が詰まり、涙が流れました。

私たちはたくさんの災害現場で活動をしています。
そこには、それぞれ悲惨な現実があるのでしょうが、私たちはそれらの詳細を知る機会が余りありません。
仮にそれを被災者に聞くというのは、悲しみを思い出させてしまうということもあります。
ですから、被災者が語ってくれるまでは、被災状況については聞かないようにしています。

ただ、私たちは、津波で家を失い、物心ともに多くのものを失った被災者のことを、自分に置き換えることで、その痛みの一部は理解出来ていると思います。
だから、目の前のことにベストを尽くせるのです。
そして、それが被災者を元気づけ、笑顔になってくれると信じているのです。
私たちの活動は、これで終わったわけではありません。
今後は、形を変えて続けて行かなければならないと思っています。
現場からの声 [2011年09月18日(Sun)]
 4次隊に参加している学生の所感です。
 そのまま引用しているため、不適切な表現がある場合がありますが、
 リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。


**************

大学3年/女性

本日は三重県熊野市紀和町の板屋地区にあるお宅で男子2名、女子4名で作業をさせていただきました。

作業内容は午前中に一軒のお宅のヘドロかきをし、
午後は別のお宅のガラス窓の拭き掃除と、
床板を2,3枚ほどはずした床下にもぐり消毒用の石灰をまくというものでした。



午前中にお邪魔させていただいたお宅はかわいらしいおばあちゃんのお宅で、
台風で川の水があふれ家に水が入ってきたときのお話をしてくださいました。

当時おばあちゃんはお部屋で寝ていたらしく、背中に水がきたのを感じ
床上浸水したということに気が付いたそうです。

危ないと思ったときにはもう自分の身長ほどの高さまで水がきていて
おばあちゃんは他のお宅の通りがかった人に救出されたそうです。
「長年ここに住んでいるけどこんなことは初めてだった。とても怖かった。」とおっしゃっていました。

そんなお話を聞き、私たち6名はおばあちゃんのため必死で床下のヘドロをかき、土のうにつめては外に運び出し、
約二時間で大小あわせて計4部屋のヘドロ掻きを完了することができました。





作業終了後おばあちゃんにお部屋を見てもらったところ、
「うちはお父さんもいないし、私も足腰が悪いから泥かきできないからどうしたもんかなーと思ってたんだよ。でも今日あんたらが来てくれて、部屋をこんなにきれいにしてくれてすごくうれしい!本当にありがとうございました!」と言ってくださり、
ほんの少しの時間しかいれなかったものの、今日私たちがきた意味はあったのだなと感じることができました。


明日は作業最終日です。
私たちは明日でそれぞれの日常に戻りますが、ここに住んでいる方々にとってはまだまだ大変な日々が続くと思います。
被災された方たちのために自分たちができることは何か、ということを考えちぎり、学生らしく元気に作業したいと思います!
明日もがんばります!
現場からの声 [2011年09月13日(Tue)]
現場からの9月12日の活動レポートです。

 今日は9名で5軒のお宅で作業致しました。
 作業内容は床下のヘドロかき・石灰で消毒・側溝の泥かき・屋内清掃です。
お宅で作業していると、「冷たいコーヒー飲み!」「パン食べや!」「お茶飲めよ!倒れるぞ!」…などなど温かい言葉をたくさんかけていただきました!
 その他にも、飲み物やお菓子、パン、タオル、マスクなどたくさん戴きました。
 皆さん本当にいろいろ気に掛けてくださって、作業させてもらった僕が逆に元気をいただきました。

 二軒目で作業したお宅では、「これからも君たちに期待しているよ!」と言っていただき、その期待にこたえられるよう明日からの作業もがんばりたいと思います!

学生ボランティア所感F [2011年08月11日(Thu)]
実際に現地で活動してきた大学生の所感です。
そのまま引用しているため、不適切な表現がある場合がありますが、リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。

■第14次隊参加中

活動1日目
朝、同じ現場の方々とバスに乗り込み現場へ。
最初は、やっぱり被災地とは思えないくらい綺麗だった。
でも途中から瓦礫の山。がれきがれきがれき…
崩れて無くなってる海沿いの堤防。

ここが被災地なんだ。

瓦礫の山、何もないところにポツポツと建ってる家、それらを見て初めて自分は被災地に来たんだといぅ実感がわいてきました。


私が担当することになった家は、そのままそこに住み続けることにされた方のお宅。
1階2階の壁と床板はがしがボラセンから来た要望でした。

外装からは、大きな被害を受けた印象はあまり受けられませんでした。
でも家の中に入ってみると至る所に溜まってる泥、2階の押し入れゃ様々な入れ物から出てくる水、壁についてる土などの汚れ。ほとんどのものが使えなくなってる。

作業中、お母さん方が私達のために缶コーヒーや缶ジュースを買って差し入れてくださいました。自分たちの方が大変な思いをしたであろうに、「しんどいだろうにどうも有り難う」「わざわざすみません」と気を使ってくださいました。
でも見るからに疲れた顔をされてるお母さん。気なんて使わないでください。使えるだけ私達を使ってください。お母さんの笑顔がもっと見たいから。


1階では壁紙を剥がして、石膏を剥がしました。床板も一部屋はがせたくらい。
2階は押し入れから物を出して、家の方に分別してもらいました。
食器類は水で出来る限り泥を落としてお母さんに見てもらった。
窓の縁の掃除も行いました。
慣れてないせいもあるだろうけど、思ったよりも時間がかかって進まなかった。


2日目は昨日と同じ現場で、1日目より人数も増えて大人数で作業。
1階は壁はがして、床板はがしてヘドロもかきだせた。
あとは水で流して石灰をまく。これが大変そう…

2階はベランダの掃除。
あと、思い出の品々を水で綺麗にしたり、床板に切り込みを入れて剥がせる段階に。
今日は3階にも入って、ベッドの組み立ても行いました。

昨日よりは多少なりとも効率よく動けたかもしれないけど、人数の多かった分、
ちょっと分担が上手にできなかったかも…

でもお家の方々は喜んでくださって「本当に有り難うございます」って何度もお礼を言わはる。

作業はまだ終わってない。中途半端なままでは帰れない。

ちゃんと全部終わらせて、お母さん達の「有り難う」を素直に受け止められるように、お母さん達のことを想って作業に取り組みます。

明日、14次隊最後の活動日。
悔いないように作業に取り組みつつ、もっと家の方とも交流して関西に帰ります。


説明下手でちゃんとまとめられませんが…

みんな。

行けるなら来ましょう。
誰かのために。

動けばそれは誰かのためになるはずです。
学生ボランティア所感E [2011年05月08日(Sun)]
実際に現地で活動してきた大学生の所感です。
そのまま引用しているため、不適切な表現がある場合がありますが、リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。

■3月22日〜 活動に参加/大学3年生/女性

 宮城県本吉郡南三陸町。私の両親が生まれ、育ち、母が私を産んだ町。
 私は東京で育てられましたが、南三陸町は両親の故郷という事で、昔から私にとっても何度も訪れた事のある馴染み深い土地でした。


2011年3月11日
14時46分、マグニチュード9.0震度7の巨大地震が起こりました。

 この日の夜、父も母も南三陸町の家族とほとんど連絡が取れない状況でした。

3月12日
 朝になって、ようやくテレビで津波被害の全貌が明らかになってきたとき、私達家族は、言い表せない程のショックを受けました。

 南三陸町にあった建物がほぼ全て流され、確認できる建物は、病院と、ショッピングモールと、役場だけでした。
 この時、母は滅多に流さない涙を流し、普段からフザけてばかりいる父も、ただじっとテレビを見つめたままでした。
 それからの3日間、私たち家族はほとんど家から離れず、ろくにご飯も喉を通らないまま過ごしました。

人生で一番辛い3日間でした。


3月14日
 今日消息が分からなかったら諦めようとしていた時に、父方の従姉妹がテレビのインタビューで、家族全員が無事だという事を伝えている映像が流れている事を知りました。

 その数時間後に母の姉の無事も確認出来、本当に奇跡としか言えない状況でした。
 子どものように泣いて喜ぶ母を見て、神様、お母さんのかけがえのない人を助けてくれてありがとう。心からそう思った瞬間でした。

3月21日
 IVUSA救援物資輸送隊前日、私の故郷が南三陸町という事で、里帰りも兼ねて私も輸送隊に同行させて頂く事になりました。

3月23日
 朝から南三陸町へ。馴染み深い海の町は消え、見えるはずのない場所から海が見え、見えるはずの建物は全てなくなっていました。
 志津川ベイサイドアリーナという大きな避難所で、豚汁とおにぎりをそれぞれ2000食分ずつの炊き出しを行いました。
 この豚汁に入っている野菜は、かねてからIVUSAと繋がりのある、新潟県十日町の方々から物資として頂いたものです。私達IVUSAの活動も、自分たちだけではなく、色々な人の助けがあって出来ている事なのだと、実感し、あり難く感じました。

3月24日
 石巻の港商店街へ。南三陸町とは違い、一階部分が津波被害にあった建物がほとんどで、町の人々は店の復旧作業に追われていました。私達は作業用の水を配って回りました。それぞれの町にそれぞれのニーズがあり、その一つ一つが同じように大事であることを感じた一日でした。

4月4日〜8日 IVUSA東北派遣4次隊。
4月5日
 この日は石巻の河北地域での作業でした。津波被害がとても大きかった地域で、皆少し緊張しながら作業に臨みました。私はある家の納屋のヘドロのかき出し作業を行いました。
 作業を行いながら私は、ボランティアが出来る有り難さを痛感しました。
 日本中の人が、何か出来る事があればと思いながら一歩を踏み出せない現状の中、自分が何か出来るフィールドに立てている事に、改めて感謝出来た一日でした。

4月6日
 この日私は、皆とは別行動で、南三陸町のニーズ調査に同行し、救援物資を届けに行くため、自宅避難している祖父母の家に向かいました。
 その地域は、ライフラインが全て止まっている状態でした。
 私が訪れた時、ちょうどおばあちゃんが水汲みから帰ってきたところで、私を見つけると驚いたような顔をして、とても喜んでくれました。
 今だから言える話なのですが、本当はその時、私はおばあちゃんにお小遣いをもらいました。「いらない」「私があげに来たんだから」と全力で断りましたが、結局断り切れませんでした。
 たかだか私はほんの少し顔を見せに来ただけなのに、そこに定住できる訳でもないのに・・・不甲斐なさと申し訳なさでいっぱいの気持ちになりました。

 地震の被害を受けているのは、家が崩壊したところだけではありません。

 大人数で助けたくても助けられない地域もあるという悔しさを、心の底から感じた一日でした。

4月15日〜4月18日 IVUSA東北派遣5次隊。
4月16日17日
 気仙沼の西高等学校で開かれた復興青空市場と呼ばれるバザーのお手伝い。集められた支援物資を無償で配布するという主旨のもと、売り子をやらせてもらいました。
 物資を受け取りに来た人々の目が、皆真剣だったのが、とても印象的でした。売り子を担当していたのはほとんどが地元の人たちでした。

 物資を渡しながら言う「がんばろうね」という言葉には、東京で安易に発せられる「がんばろう」とは明らかな違いがありました。
 「一緒にがんばりましょう」という言葉の重みを、日本でどれだけの人が認識しているのだろうとも感じた瞬間です。

 
 これが、私が東日本大震災が起きて感じた事の記録の一部です。あくまで自分の気持ちであって、IVUSA全体の考え方ではありません、でも、それが大事なのだと私は思います。IVUSAに入って災害派遣に行くのは、組織としての意識共有は必要ですが、災害に対しての想いというのは一人一人に持つべきだと、私は思います。
 自分がどう関わっていくのか、どう地元の人たちに寄添った考え方でボランティアに臨めるかが、今後必要になってくると思います。

 今後、私達ができることは、この災害を忘れないという事です。
 今、この瞬間にボランティアに行ける自分が居て、現地の様子を肌で感じて、それを伝え続けて初めて、東北は復旧するのだと思います。

あなたは今、何を感じますか?

今こそ、がんばろう、にっぽん。
学生ボランティア所感D [2011年05月01日(Sun)]
実際に現地で活動してきた大学生の所感です。
そのまま引用しているため、不適切な表現がある場合がありますが、リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。

■4月22日〜4月25日の活動に参加/A・0/大学2年生/女性
あちらこちら瓦礫の山、家に突っ込んだり、つぶれた車、崩壊した家…本当に目を背けたくなるような風景が広がっていて言葉を失った。

今までここで本当に生活していたのだろうか。
ここが今私たちが住んでいる同じ日本なんだろうか。

これが私が現場に入ったときの第一印象。

現場はテレビで見る以上に過酷だった。
テレビを見るだけでは感じられない臭い、ライフラインが停止している不便さ。

私が現場で出来た事は本当にわずかなことだった。
まだまだやるべき事が沢山あるのに帰らなければならないのが本当に悔しかった。

でも、私たちの班が作業した家のおじいさんは作業する私たちに、差し入れしてくれたり、「無理しないでね、頑張り過ぎないでね、怪我しないでね」などと声をかけてくれた。
そして、最後には泣きながら感謝された。
少なくともおじいさんには、希望と元気をあげられたのだろうか。

私たち100人程度が2日で出来たことは、たった16件の家の片付け。

圧倒的に人手が足りない。

これは、もはや他人事ではない。

私たち学生に出来ること、みんなで一緒にやりましょう。
学生ボランティア所感C [2011年04月26日(Tue)]
実際に現地で活動してきた大学生の所感です。
そのまま引用しているため、不適切な表現がある場合がありますが、リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。

■4月15日〜4月18日の活動に参加/N・M/大学3年生/男性@京都
2回目の派遣。でも、もちろん余裕などない。周りから『自分は行けないから、その分頑張ってほしい』と声をかけられ、親には、『あんたらにできること、しっかりやってき。私らは、どこに募金したらいいかわからんから、あんたに募金するわ』って活動に必要な資金を出してくれた。被災地に行けない人の思いをしっかり届けようって思った。

東京から高速に乗り気仙沼を目指す。
続いた余震の影響で道路がガタガタだった。『自然の力は恐ろしい』そう思った。

作業1日目。場所は気仙沼西高校で行われる青空市場。物資配給をフリマ形式で行うシステムだった。何でこんなやり方をするんだろうか・・・。疑問だった。
でも、お手伝いをしてわかったことがあった。地元ボランティアの方と話していて、『被災者は制限が多すぎる。ご飯も、風呂も、服もほとんどないんだから。だからフリマのような形で自由な時間を作らないと。』と言っていた。
非日常の中に日常を少し見出だすことをこのバザーで担ってるのかと思った。
この日は交通整理をしながら、『挨拶運動』を勝手に始めた。挨拶をすれば、笑顔で返してくれ、ニコニコしながら世間話をしてくれたり、中高生は関西から来たと言うと口を揃えて『何でやねんって言って』て騒ぎ始めた。ただ話をするだけでも、誰かのためになれる。改めて感じた。
途中雨が降って中止になるかと思っていたが、並んでいた方は中止しにしてほしくないと全員言っていた。生きるために必死な気持ちがじわじわ伝わってきた。
2日目。この日は作業現場のグループと青空市場のメンバーに分かれた。この日は気仙沼の高校生と一緒に体育館の在庫整理をしながら品出しをした。地元の高校生は手慣れた様子で、何がどこにあるのかすぐに教えてくれる。いつのまにか『まっきーさん』と呼ばれるようになるまで親しくなっていた。最終日でもあったため、3300人もの方が青空市場に訪れていた。
また、関西から持ってきたメッセージを地元ボランティアの方や被災者の方に見てもらった。『まだまだ頑張らないとな!』『勇気が出た』って声をかけてくれた。離れていてもできることはある!
そう思った。
青空市場が終わって、高校生と話して
高校生が『一緒に写真撮りましょう!』って言ってくれ、お決まりのivusaポーズをした。後日、写真をメールで送ってくれた。
メールをしていて高校生が
『いっぱい勉強して、気仙沼の復興の手助けをしたい』『また、みんなと作業したい』と言ってくれた。
そして、『いま、どんどん関西で地震のことが忘れられていると聞きました。この地震のことを風化させないでほしいです。』とも言われた。
この子達と作業をしていて、地元の人が地元の復興への思い、地元への愛情が伝わってきた。

関西でしっかり地元で出会った高校生との約束を果たしていきたい。

学生ボランティアの感想B [2011年04月21日(Thu)]
実際に現地で活動してきた大学生の所感です。
そのまま引用しているため、不適切な表現がある場合がありますが、リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。

■4月4日〜4月8日の活動に参加/M・K/大学2年生/女性
場所は宮城県石巻市。
IVUSAと国士舘の人たちと一緒に行った。1日目は移動とテント設営、ご飯を食べて片付けをして終わった。暖房器具はなし。毛布を受け取りテントで寝た。寒すぎて寝れん。やっと寝れたと思っても、寒すぎて2時間おきくらいに起きる。朝まですごく長かった。起きた時、太陽の光があるとすごくありがたかった。

人生初のめちゃめちゃさむい夜やった。

2日目の朝。
 作って頂いた朝食を食べて、後片付け。水が使えないから、東京から持ってきた水とウエットティッシュを使ってきれいにした。そして、いよいよ現場に出発。
現場について、準備体操をして班長さんが帰ってくるまで待機した。作業の前に全体に連絡があった。もし、ご遺体や手や足があったら触らず、班長さんに連絡すること。班長さんは上の者に連絡すること。
 現場の景色を見ると、津波が一気に押し寄せた形跡があり、町全体がぐちゃぐちゃの状態。遠くの方には小学校があり、その生徒は津波に流されたそう。ご遺体があってもおかしくない状態やった。

 私の班が担当した家は地震を津波の被害を受けて、一階部分はガラスが割れヘドロが覆いつくしていた。ヘドロで使えなくなった家財道具を運び出したり、部屋のなかにある10センチほど積もったヘドロを除去する作業をした。
 その家では、お母さんを娘さんが2人で作業していた。お父さんはいないのか?と不思議に思ったが、聞けなかった。アルバムとか服、食器とかCDとかビデオ、沢山のものが泥まみれでとても使い物にならないと思うくらい汚かった。
 その家の隣は畑やったらしい。でもその畑に津波の水がたまり、川のようになっていた。
船も横たわっていた。標識もぐにゃぐにゃになっていて、被害の大きさを物語っていた。
隣の畑にたまっている決してきれいではない水を汲んできて、女子はヘドロが溜まりぐちゃぐちゃになっている倉庫を、スコップ、土のう、スキッパーをつかってきれいにした。
ヘドロのなかには一輪車やバトミントン、額縁に入った写真などなどが出てきた。割れたガラスや、切れて鋭利になった木材もたくさん出てきた。

 男子は使えなくなった家財道具の運びだしとヘドロをかきだした。その作業だけで、一日が終わった。作業中、お母さんと話した。家族は全員無事やったらしい。でも甥っ子を津波で亡くした。それでも私はましな方や。だって、被害者の中には家族、親族、家、すべてを亡くした人もおる。だから私はまだましな方や。といって、お母さんから私に話してくれた。返す言葉が見つからない。「お母さんが無事で本当に良かった」としか言えなかった。明日もきます。そう言ってその日は作業を終えた。

 帰ってまた寒い寒い生活。ご飯たべて、後片付けして就寝。水がないから、お風呂もなし。
テントの中も寒かったけど、昨日よりはまし。

 次の日は、風が強く吹く日で寒かった。昨日と同じ現場に入って作業した。女子は汚くなった食器を、水を汲んできてきれいにした。男子は昨日の続き。
 作業中、何気ない会話をしながらお母さんたちと一緒に作業した。地震のことは触れないように。先輩が持ってきたipodで音楽を聞きながら作業したら、お母さんたちがよろこんでくれた。「音楽聞くなんていつぶりやろう。元気がでる」っていいながら作業した。その家の作業はお昼過ぎに終わった。別れ際、先輩が持ってきたアルバムを、お母さんが娘さんに見せていた。アルバムには沢山の写真と、ひとりひとりの被災者へのメッセージがあった。お母さん、娘さんはそれを見ながら泣いていた。たった2日一緒に作業しただけやのに、なんかお別れするのがさみしいっていってくれた。こっちまで泣きそうになったし、勇気ももらえた。
 これからまだまだ大変だし、まだまだつらいだろうけど、これから、ぼくたちも僕たちの仲間もまた活動にくるので、元気にがんばってくださいといってお別れした。

 つぎの現場は、大工さんの家。仕事で使う木材や発泡スチロール、家がつぶれていた。木材がかなりごちゃごちゃで、釘もでていてかなり危険。この板をめくってご遺体があったらどうしよう。正直そんなことを考えながら作業した。作業内容は乱雑に横たわっている木材と発泡スチロールの運び出し。作業時間が短くて、作業の途中で打ち切りになってしまって悔いが残る作業になってしまった。この日はこれで作業終了。

 ベースキャンプに帰ると風でテントが倒れていた。みんなでテントを直してご飯をたべて就寝。

 次の日は作業最終日。朝食をとってみんなで作業現場に。その日の作業現場は大きな民家。
2班一緒に作業した。玄関先に大きい船がひっくり返っていた。最初は、倉庫の中のものを運び出した。ヘドロで完全に泥と水びたしやった。倉庫のものは全部捨てるとのことで、みんなで運び出した。次にその家の娘さんの部屋をきれいにした。全部運びだして、ヘドロをかきだした。写真とかアルバムとか手紙とか、たくさん大事そうなものがでてきた。そういうものは別にして捨てないようにした。

 お昼をたべてから、次は水を使って食器をきれいにした。それでその日の作業は終わった。
まだまだ住める状態ではないし、時間があればもっとできたかなと思ったけど、これで終了。
悔しさの半面、正直ほっとした自分がいた。もっと作業して役にたちたいと思う自分と、やっと作業終わった。あしたは帰るだけや。と思う自分がいた。

 仙台のアパホテルにバスで移動して、ホテルに到着。アパホテルは私たちに無償で部屋を貸し出してくれていた。部屋に二人でいて、もうすぐ寝ようかなーと思っていた矢先。震度6強の地震が起きた。友達がパニックになって抱きついてきた。わたしは「大丈夫、大丈夫」といって背中をさする。その間もずっと大きい揺れ。はじめ縦揺れで次第に大きく横揺れに。14階の部屋がミシミシ軋みはじめた。窓のほうへ窓の方へ揺れ始めて、いかん!崩れる。死ぬかもしれん。って本気で思った。

 揺れが収まるまで一分ちょっと。でもものすごく長く感じた。2人で部屋にいても危ないし、必要最低限の荷物をもって外にでた。電気が消えて、予備の電気がついた。暗くて怖かった。
足が震えて、自分が揺れているのか地震で揺れているのかわからなかった。
 地上で全員集合したとき、先輩をみてだきついて泣いてしまった。すごく怖かったし、死ぬかと思った。安心して恐怖感がよみがえってきた。先輩はずっと落ち着くまで背中をさすりながら「大丈夫、大丈夫」っていってくれた。

 全員の無事が確認されてから、その日はマイクロで過ごすことになった。となりの先輩と手をつないで寝た。次の日、それぞれ部屋にもどって仮眠をとることになった。洗面して布団にもぐったけど、寝れなかった。ニュースでは昨日の地震で持ち切りやった。

東京に帰ってきて、東京のあったかさにびっくり。家に帰って即寝た。

今思うこと。
 今回災害に参加させてもらって、今までの災害とちがって学生がやる意味が見えた気がする。
「若いから楽しそうにやってくれてこっちも元気がでる」と言ってくれた人がいた。だれかの役に立てたのかなと、元気を分けることができたのかなと思えた活動だった。

自分にも出来ることがある。と思えた。ボランティアに作業を頼めることを知らない人が多くいたらしい。近所の人が連絡をしてくれて、今回IVUSAがきてくれた。といっていた。1か月たった今でも、被害の爪痕はまだまだ残っている。

地震の恐怖。
人生初の震度6強でほんとに怖かった。地震が起こったとき冷静になるのは難しいということ。今、心配なのは現場に入って作業させて頂いた人たちが無事かということ。
うまく言葉に出来ないけど、とりあえず振り返りと今思うことをかきました。この4泊5日に起こったことは忘れません。多くの人に伝えていけたらなと思います。

みんなの無事を祈っています。
日本の復興を祈っています。
今回の活動に関わったみなさん。本当にお疲れ様でした。


学生ボランティアの感想A [2011年04月20日(Wed)]
実際に現地で活動してきた大学生の所感です。
そのまま引用しているため、不適切な表現がある場合がありますが、リアルな感想を伝えるため、訂正なしでアップします。ご了承下さい。

■4月15日〜4月18日の活動に参加/S・M/大学4年生/女性
「ボランティアー被災者」→「学生ー地域住民」
言葉の言い回しが違うだけかもしれないが、心の持ちようによって大きな違いが含まれる。

被災地に入る想定を幾度も重ね、
「死」に対する想定をし、
「自分」という個を理解した上で臨んだ救援活動だったが、
難しかった。

悩み、迷い、間違いもした。
しかし、動き続けることで手探りながら自分にしか出来ないやり方で、目の前の「困っている人」の求めに応じることが幾らかできたように思う。

被災者のために奮闘している行政や社協の人さえも被災者であり、
名前が違うだけの住民同士の助け合いなのだ。

外から来た「ただの学生」に何ができるのか。

青空市場に来ている人から「ivusa」として見られることはない。
だからこそ、5次隊みんなそれぞれが活かせるスキルとハートで常に行動と思考を繰り返し続けるべきであり、それこそが一人一人に求められることであったように思う。

今回、中学生・高校生の地元ボランティアさんから
たくさんの元気と温かい笑顔をもらった。

現場1日目
みな頭では分かっているのに、いざ始まったとたん、救援者となってしまい、表情も行動も堅苦しくなっていた。その勘違いを若者が改めてくれた。

いつも通りの笑顔とバカさと、情熱を全面表現することが大切なのだと教わった。

そこからは、こっちのモノである。
自称「しょこたん」は、0歳児からおじいちゃんおばあちゃんまでみんなにキャピキャピパワーを送り続けることができた。


作業終了となった時、一緒に作業をしてくれた方から、
「地震や津波で、もう最悪だーって思うばかりだったけど、あの震災があったから、こうしてしょこたんと出会う事ができた。悪いことばっかりじゃない。本当に嬉しかった。ありがとうございました」
っと言葉をいただいた。

泣いて泣いて泣いた。

青空市場で出会った人たちはみなそれぞれに被災し、その中で明日をみて闘い続けている。
その中でお手伝いをしていた人たちと少しばかし学生同士の交流ができたこと、笑い合えたこと、絆を持てたこと…

人を救うのは人だ。

また、必ず気仙沼の地へ行く
もっと多くの人と、もっと深く繋がりを築くために。。。


地元の中高生ボランティアさんと

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