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2011年06月25日

オンブード笹尾さん インタビュー


インタビュー 現・男女共同参画オンブード 
 笹尾 照美さん(62)
 2011年6月6日 伊丹市中央「モスバーガー」にて


◎オンブードに応募したきっかけ

 笹尾さんは2年前に定年退職されましたが、
 それまでは兵庫県の職員として、病院に勤務。
 薬剤師として就職し、検査部で働いていました。
 (血液や尿などの生化学的な検査を主に、我々がよく
  検診を受けに行ったそれらを分析するお仕事だそうです)
 
 退職後、ホームヘルパー2級の資格を取得しました。
 同時に、関西学院大学の人間福祉学部の聴講生として
一年半通い、社会福祉について学びました。
 そこでは今井小の実先生の「ジェンダーと福祉」の講義を受け、
 病院勤務時代に時折感じたさまざまな女性差別的なできごと、
 それらの一点一点の事実が、先生のお話を聞くことにより、
 線となってつながるように感じたといいます。
 現在、今井教授の指導のもと、関西学院大学大学院人間福祉研究科で、
 院生として「ジェンダーとケアの変遷」について研究中だそうです。

 その年の12月、伊丹市オンブード主催の
 「男女共同参画オンブード・がっつり報告会」に出席しました。
 (オンブードの活動内容を、一般市民の前にがっつり≠ニ報告する会です)
 たまたま笹尾さんの夫さんが、ラスタホールのサークルつながりで、
 もとオンブードの波多江さんと知り合いであり、
 彼女から「ご夫婦でいかがですか」と誘いを受けたとのこと。
 報告会の場では、一般の出席者にも少し話す機会があり、
 笹尾さんはスウェーデンの育児休暇の制度について、
 当時オンブードの朴木先生と短いやり取りをしました。
 それを聞いていたメンバーたちが、ぜひサポーターズ仲間に
 加わってもらうように勧めたようです。


◎二つの山

 社会に出て仕事を続けるについて、女性にとっては二つの障壁がありました。
 (いまも、なくなってはいません)
 一つは育児、もう一つは介護。
 当時は結婚退職の風潮が強く、職場では結婚の時も出産の時も、
 「それで、いつ辞めるのか」という聞かれ方をしました。
 しかし、働き続ける女性が2人、3人と徐々に増えていき、
 現在では、後輩達はそんな風に聞かれることはなくなったので
 よかったなと思っています。
 けれども一方では、親の介護のため、友達の中で一人、
 定年を目前に辞めざるを得なかった方がいて、とても残念に思いました。

 自分の家庭でも、義母からは「もう辞めたら」と言われることがありました。
 専業主婦が望まれている雰囲気でした。
 職場でも家庭でも、無理解。それらを乗り越えて、笹尾さんが仕事を
 続けることができたのには、やはり「夫の理解」という要素が
 大きかったようです。
 義母は働き続けていた人だったので、
 夫も「働く母の背中を見て」育った為ではないかと言われていました。
 

◎働き続けなければならない

 子どものころから、自分は働かねばならない、という意識を持っていました。

 姉は重度の知的障害者でした。
 終戦直後、妊娠中の悪環境や不自由な医療環境が災いしたと思われます。
 当時のこと、知的障害者に対する世の中の差別偏見意識は強く、
 家族の中に障害者がいることは、結婚がひどく不利なものに
 なることを意味していました。

 結婚するのが難しい・・・女が自活していかねばならない。
 子どものころから、なにか手に職をつけるように親に言われて育ちました。
 小学二年生の時に、岡山から伊丹に越してきて、
 伊丹市立南小学校を卒業後、親和学園に通い、
 そのあと親の強い勧めにより、神戸薬大へ。薬剤師への道をたどりました。

 そんな笹尾さんが24歳で結婚したのは、
 ・・・「ハプニング」だったとおっしゃいます。
 詳しくは聞きそびれましたが、家の近所に、夫の会社の独身寮があり、
 それで出会いのきっかけが生まれたようです。
 案の定、相手方の両親には結婚に反対されました。
 でも、夫は押し切ってくれました。
 今にして、「若気の至り」であったなどと言い合っているとか。
 
 (結構ですね。若気の至りが歴史をつくります。坂本竜馬も、北条政子も。)
 

◎オンブード就任

 1年間オンブードサポーターズのメンバーを経て、
 2011年度に、笹尾さんはオンブードに応募されました。
 この6月から市役所各課へのヒヤリングがはじまり、
 オンブードは本格的に忙しくなります。
 「今のところ、まだ日が浅くて、手探り状態です。」

 伊丹市にも「男女共同参画センター」ができたらいいな、と
 オンブードや仲間たちと話し合っています。
 女性だけでなく、男性もはいってきやすい場を持ちたい。
 さらに性的マイノリティーの人々も、
 とくに弱い立場の人々が集えるような場でありたい。


◎ピースボート

 お話は変わりますが・・・笹尾さんは去年10月から今年1月にかけて、
 夫と一緒に「ピースボート」に乗って、地球一周をしてこられました。

 職場の先輩に勧める人がおられ、夫もまた大乗り気でした。
 ちょうど不況のせいか、比較的料金の安いツアーが組まれたこともあって、
 夫婦で参加を決め、18カ国を見て回ってきました。
 とくにその中で。

 チュニジアは、今にして思えば、まさに革命前夜。
 女性運動の団体のほか、商業や農業の各民間団体が、
 それぞれ結束を主張して熱く語りかけます。
 ここでは国連の補助により、ジェンダー専門の大学が作られました。
 学生は4割が男性で、国連への報告等、男子学生が活発に話します。
 それでも試しに聞いてみたら、彼ら自身の家事の分担時間は
 「5分以内」という答えが返ってきました。
 男女平等に向けての活動はようやく端緒についたばかり。
 でも希望はあふれています。
「地球は広くて、多種多様な人たちが住んでいることを実感しました。」

 
◎自主講座

 船の中では退屈するかな、と思って、たくさん本を持って行きましたが、
 イベントや講座などがたくさん開かれていて、結構忙しい。
 笹尾さんは英会話教室を受講して、「少子化問題」を題として
 スピーチを試みました。
 スウェーデンやフランスのように、かつては出生率の低かった国々が、
 国家の政策によって、出生率を大幅に改善したという事実もある。
 日本も同じようにできる可能性はあるはず。

 このピースボートのなか、笹尾さんは
 チュニジアの交流会で知り合った、ボストン大学出身の若い女性と
意気投合し、もう一人の仲間と語らって三人で自主講座を催しました。
 船上から伊丹の仲間に連絡を取って資料を取り寄せて、
 ジェンダー問題に関する発表を行ない、帰国後さらに報告会を
開いておられます。


◎結び・・・二つの山

 笹尾さんはごく控えめな語り口で、むしろ古風な女性の
 イメージがありますが、それはそれとして、お話をうかがえば、
 さすがやっぱり、なかなか活動的。
 ずっと働き続けたことの自信が背骨になっているようです。
 娘さんも結婚後、共働きの道を選びました。
 母と同じ道を歩んでくれたことにホッとしていると言います。

 女性が働きやすい世の中へ。
 次世代の女性たちが二つの山(育児と介護)をより越えやすくなるように。
 また、男性が育児の喜びを充分に味わえて、過酷な労働をもっと軽減できて、
 人間らしく豊かに生きていけるように。
 いまオンブード活動を通して、市民の皆さんと一緒に力を尽くしたい。
 穏やかに、しっかりと、結びの言葉をいただきました。
posted by motomi saburou at 13:07| Comment(2) | TrackBack(0) | インタビュー

2010年10月13日

ゆるやかインタビュー・高島進子さん 〜その2〜

・・・・・・ 〜その1〜 からのつづき ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


クローバー 神戸女学院へ・・・我が道を行く

神戸女学院へ就職。
私には異世界の「女の園」。
だが、もはやカルチャーショックはない。我が道を行くのみ。
当時、職場はほとんどが女学院の卒業生。
教職員とも、独身の方が多かったようだ。
まもなく結婚したのだが、女性は結婚したら、仕事はできない、
というのが常識の時代。
でも、周りの目は気にならなかった。その大学で、40年。

70年代の神戸女学院には、ウィットとユーモアに富む学生たちがいて、
謝恩会のとき「ベストドレッサー賞」をもらった。
「どんなに季節が変わろうと、歴史がどんなに変わろうと、
 誰がどんなに思おうと、意に介さずに常にBlack and White で迫りました。
 その妙味をここに賞します。」
学生たちは、よく見ている。感心もし、笑ってしまいました。

そして今、時代も変わり、世の中も変わり、大学も変わった。
そして人々の在り様も、女性の生き方も。


星 染まらない

   言うまでもなく、神戸女学院はミッションスクール。
   長年クリスチャンの学校に行って、
   先生がキリスト教に染まることはなかったですか?
   と黒うさぎは聞いてみました。

   宗教心は誰にでもあると思う。・・・ただ、
   「いくばくの人がいかなる名の神をあがめているかが問題では
   なくて、
    人としてお互いにどれだけ深く愛し合っているかが問題だ。」
   という下村湖人の言葉を引用して即答されました。



クローバー ゆらぐ女性の社会的地位

結婚したのは8月。翌年8月に出産。
夏休み前まで休まず授業を続け、休み明けの9月には直ちに出勤した。
講師として出向いていた関学では、男子学生の一人から
「先生、お袋が心配していますから、休講にしましょう」
と冗談半分に言われたことがある。
こちらも冗談半分に、
「今でもゆらぎはじめている女性の社会的地位が、
 ここで私が休んだら、台無しになってしまう。」
と返したら、教室の数少ない女子学生から大きな拍手が沸いた。


星 「デミアン」

   ・・・そうしたエピソードを聞きながら、
   まさに「ミッション」だな。 と黒うさぎは思い、
   つい、
   「常に戦場にあって、常に戦ってこられたようなものですね。」
   と言ってみたら。
   それは違う。とばかりに、先生は黒うさぎに向き直られた。

   ヘルマン・ヘッセ「デミアン」からの
    言葉を引用して。
   「私は、自分の中から自ずと出てこよう
    とするものに従って、
    生きてきたに過ぎない。
    それがどうして、こんなに困難だった
    のか。」 と。

   先生は、いつも自らの気持ちに、
   もっとも素直に
   自然に振舞ってきたとおっしゃる。

   「『戦士』や『活動家』からは程遠い。
    そして、それが困難であっても仕方がないというか、
    苦にならないというか。
    自分で自ずと選んで歩んでいる道なのですから。」
 


クローバー 本当の教育者

いつの間にか、結果としてこんなふうに生きてきてしまったのである。
そして出会うべきときに出会うべき人に出会い、
周りの人がみんな自分を支えてくれた。
人に出会うことはまた、自分自身に出会うことでもある。
気づかなかった自分自身に決定的に気づかされる。
その発見によって、与えられた力によってまた生かされてきた。

それに、私は学校が好きだった。学校の友人も先生も好きだった。
親は、ただ、そんな私を見守り続けていたのだろう。

   「今の子どもたちはどうなのでしょうか。」と
   先生は一瞬頭を傾げられました。
   「いわゆる教育者は、人の人格を破壊してしまうこともある
   と思う。
    深く学んだ人、本当の教育者は、個々人の天性を活かし
   ます。」



クローバー 「男女共同参画」・・・民主主義の実現へ

70年代の中頃から、「女性問題」が徐々にクローズアップされ、
80年代半ば以降、国や県がプランを打ち出してきた。
この問題にはその頃から関わりをもち、やがて県内の各地に
出かける機会ができた。
それまでは、ほとんど「夙川ー西宮北口ー門戸厄神」間の、
狭い世界しか知らなかったけれども、行動範囲が兵庫県全域へと広がった。
往還時に眺める緑の山野、日本の優しく霞のかかったような
風景を目にしてふと、子どもの頃の密かに抱いた憧れ、
日本の原風景との出会いと体験のときを思い出すことがある。

そうして伊丹から今度オンブードへのお誘いの声がかかった。
男女共同参画という課題に取り組むことは、
民主主義実現へのひとつの道程にすぎない。
私たちは、歴史の新たな課題にその都度真摯に向き合うことによって、
人と社会/文化への認識を少しずつ深め、
新しい時代・歴史を創造していくのだと思う。

・・・

   先生ご自身の子育てに関して、ギャラリーの一人から
   質問の手があがりました。



クローバー 多様な母性

子どもを育てる過程で、初めて「女性」に戸惑った。分からなかった。
保護者会では、学校の先生方を褒め上げておいて、
校門から一歩外に出れば、とたんに悪口を言い出す母親たち。
これはカルチャーショックというよりカルチャーギャップ?
自分の世間知らず?を初めて知って。でも、やがて
「40にして惑わず」の決意。そして悟り?(笑)。

子どもは、母が育ててくれた。良くも悪くも毅然とした明治最後の女性。
母は、私には「仕事をちゃんとしなさい」と言っているようだった。
なお男性中心社会の厳しさを知ってのことだったと思う。

子育ては不得手だった。子どもから教えられることの方が多かった。
子どもが自分のところに寄って、何か言ってきても、
「今、お母さんは考え事してるから、ちょっと待って。」
そう返事していたらしい。
今になって、そんなことを指摘されている。

子どもが言葉を話せるようになって、子どもと人間らしく
コミュニケーションが取れるようになってはじめて
子育てを楽しいと感じる母親もある。
一方、 子どものオシメが取れたことを、
もう世話してあげられないと、 嘆き淋しがる母親もいる。
「母性」というものも一通りでない。多様な母性がある。
それで当たり前だと思う。


星星星星 


ご自分を評して「少年のように生きてきた」とか、
「一匹狼」と呼ばれてきたとか。
高島先生は、ざっくばらんな口調で、ずばずばと話されます。
カクシャクなどというありきたりな言葉では表現できない、
遥かに強い信念のようなものと存在感とを感じさせます。
伊丹市民オンブードでの高島先生の今春からの活躍を通して、
我々も大いに学びつつ、先生とともに活動してまいりたいと思います。

(Writing by 黒うさぎ) メモ


posted by hatae at 15:56| Comment(1) | TrackBack(0) | インタビュー

ゆるやかインタビュー・高島進子さん 〜その1〜

ゆるやかインタビュー 
 2010年9月17日(伊丹市中央「モスバーガー」にて)


市民オンブード
高島進子(たかしま・のぶこ)先生 〜その1〜



黒うさぎのほか、オンブードサポーターズから3名が応援にかけつけ、
大勢のギャラリーで先生を囲んで、にぎやかなインタビューになりました。
(高島先生は、旧姓を六車(むぐるま)とおっしゃいます。
 著書はすべて、六車の名で出しておられます。)

・・・・・・・・・・・・・・

クローバー アカシアの北京

幼少時は北京で過ごした。
アカシアの北京。からりとした空気に、くっきりと浮き立つ光景。
それが私の原体験風景。
今日の豊かさとは一味違う、当時のアイスクリームや蜂蜜の
濃密な甘さや、蓄音機で聞き入っていたラベルの「ボレロ」の楽の音など、
一つ一つ、遠い記憶のなかに思い浮かべることができる。


クローバー 長府にて

終戦とともに内地へ。
引き上げの直後は、山口県長府(現下関市)。
はじめて見た日本の小さな城下町の風情。
北京とは、まるで違う異国!まさに、カルチャーショック。
やがて学校で習う唱歌とともに、箱庭のようなこの国と
そこで暮らす人々の様子に、幼い私の想像は膨らみ、
憧れに近い興味を抱いた。

進駐軍が駐留する時代。
長府の宿には、オーストラリアの兵士たちがいた。
幼心に、「これからは、あの人たちの言葉?」と思い、
親に頼んで、小さな英会話の本を買ってもらった。


クローバー 国連旗

小・中・高校時代を東京の麻布で過ごす。
そのあたり、邸宅を接収した外国人と
その子どもたちが住んでいた。
学校に行くにも、彼らは送迎のスクールバスつきで、
生活レベルは全く違っていたが、大人と違って、
子どもたちはそうした情景を眺めながらも元気だった。

学校は、戦後大きく変わった。クラス運営も児童本位。
民主主義社会の下で義務と責任とを教え込まれた。
憲法の精神・・・戦争放棄。基本的人権。民主主義。
戦後民主主義の理想で純粋培養された世代。
女の子も級長に選ばれ、正義感・責任感もそのころ
自然に身についていった。

小学6年生のとき、先生が生徒たちに問われたことがある。
「国連の旗の図柄は?」
手の上がったのはたまたま男の子たちだけ、
女の子は誰も手を上げなかった。
そのことを先生が指摘して、新しい時代を築くのだから、
これからは女の子もしっかり勉強するようにと励まされた。
先生たちも、新たな時代を担う次世代を育てよう、という
気概と熱意に満ちていた。


クローバー 青春彷徨の季節

中学は、「学と礼」を掲げる私立の女子校へ。
先生方は、数人の男性教員を除いて女性ばかりだった。
自律・自立の女性たちを当然のこととして
真近に見られる環境で育った。

早熟な中学生だったと思う。

「アンネの日記」を読んだ中3のころ、強制収容所から
生還されてきたオットー・フランク氏の手記を読んで、
氏に直接手紙を書いた。
同世代の友人たちと違い、直接的な戦争体験のない私が
その悲惨をはじめて切実に考えたのはこのときだった。

その頃文通していたアメリカの少年・少女たちの話題は
映画やポピュラーソング、デートのことなど。
当時の風潮と違い、アンネを知って以来、
私のアメリカ離れは早かったと思う。

スポーツも音楽も部活(英語部)も、何でも好きだった。
六車の名の通り、轟いて行動的で華々しく活発だった、とは、仲間の評。
その一方で、家に帰ると、じっと一人で考えに耽っている子だった。
後年、当時の先生から頂いた評は、みんなのとは違っていた。
「何事にも、ただ、ひたむきな生徒でした。」と。

大学のとき、親友から「六車さんの中学時代のことが書いてある。」と
一冊の本を贈られた。それは、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」


クローバー 明るすぎる町

父の転勤で関西へ。東京に留まるという選択肢もあったが、
その時は、「今までと違う場所に自分を置いてみたい」
という思いがあった。

夙川(西宮市)に住む。ここでもカルチャーショック。
東京よりも、明るい太陽、土の白っぽさに驚く。
山と海と川のある生活空間!
それまで通学時、都電から眺めていた東京の心臓部の景観とは
まるで違う阪急電車からの眺め!
人々もまた明るすぎる情景の中で限りなく弾んでいるように映った。
女の子と男の子がくっきり色分けされている、そんな風情も見えた。


クローバー 疾風怒濤の青春後期

大学は関西学院の文学部社会学科を選ぶ。
(男子学生60数人の中、女子学生は3人の時代)
ともすれば内面に向かおうとする自分自身に、
外の世界、社会に対する視点を持つことを課した。

入学時のオリエンテーションで、
先生方の学生生活上の心得等の話が続いた後のこと。
自己紹介のとき、
「私は大学教授からそのような子細な話を聞きに来たのでない。
 真理を探究するために来たのです。」と言った。
それは極々自然な私の心情だったけれども、
凄い女の子が来た、とみんなは思ったらしい。


クローバー 赤い旗を振る

やがて、世の中は60年安保の嵐の時代、大学も騒然としていた。
社会学を学ぶのに役立つのではと、社会科学研究部に入った。
そこには大学1年生にとって、生きている世界が全く違うような、
7年生、8年生といった、遥か年上の人たちがいた。
やがて市民運動の高まりとともに、私も正義感から学生活動に参加して、
赤い旗を振るようになった。
議論を繰り返す毎日。けれども自分の考えは誰にも通じなかった。
相互理解をなしえないまま、私は4年になってまもなくそこを去った。

今思えば、あれもこれも、真理探究≠ヨの一里塚であったのだろうか?
学生割引が5割引だった時代。私はアイデンティティーをたずねて、
この頃よく東京へ還った。


クローバー 「社会学部学校」へ

4年のとき社会学部ができた。関西圏では一番早かった。
優秀な社会学者たちが外部から大勢集まってこられ、
関学の内にあって関学とは少し空気の違うそこを、
誰言うとなく、人々が「社会学部学校」と呼んだ時代。

そのとき新たなゼミの指導教授に、
「先生は、どんな研究をなさっておられるのですか。」と尋ねたところ、
「僕の本を読んでください。」とただ、静かに一言。
当時のプロフェッサーは、今の大学の先生とは違った。
(少なくとも教授と学生との距離については)
それが恩師との出会いの最初だった。
(恩師は、阪大名誉教授、蔵内数太とおっしゃいます)

卒業後、多くの問題を抱えたまま、合格するとは思えないまま、大学院を受験。
そして、大学院で私は、先生の本に挑戦することにした。
1対1で先生の本を読んだ。
読み終えたのち、「僕の本をこんなに深く読んでくれた人はいないよ」と
先生は言われ、「君の本は赤ペンで大変だ」と
新しい一冊に署名され、それを私にくださった。


クローバー 厳しい話

社会学を一から学び直して立ち直りたい、という一心で大学に残ったが、
さむらい≠ニ呼ばれるような周りの先生方と接しながら、
こういう先生方と一緒にやっていける実力が自分にはあるのだろうか、
とときに思うことがあった。
自分には無理だと思った。あるとき、研究会の前、そんな悩みを
取り留めもなく先生に聞いていただいた。
やがて、研究会の先生方が来られたところで、先生は、
「今、六車君から、いろいろ厳しい話を聞きましたが、
 僕たちだって、いろいろと悩み、苦しいですね。」とおっしゃった。
他の先生方も「そうです」とうなづかれた。
この話は、これであっさり終わりになった。先生の厳格・厳粛な一言に、
私はまた、自分自身に一区切りつけることができた。
私の完敗でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  〜その2〜 につづく ・・・・・・・・・・・・


posted by hatae at 14:19| Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー

2010年08月29日

ゆるやかインタビュー・片山実紀さん

ゆるやかインタビュー
      2010年8月19日(伊丹市中央 「モスバーガー」にて)


 オンブード   
   片山実紀さん(46) 

8月、連日の猛暑のさなかでありますが、伊丹市男女共同参画オンブード
メンバーの皆さんは、この時期にヒヤリング活動のピークを迎えておられます。
激務の合間をぬって、ようやくアポの取れた片山さんのお話を伺いました。
片山さんは、オンブード(2年任期)を勤めて2年目になります。



クローバー 8月が正念場

市役所の各部署が、「伊丹市男女共同参画計画」に沿って、各事業を
きちんと行なっているかどうか。それをチェックするのが、
伊丹市男女共同参画オンブードの主要なお仕事です。
各課の代表者と会って、質問票を片手に30分ないし1時間くらいの
面談を行ないます。毎年この時期ですが、今年も6月末から8月末にかけて、
合計40あまりの課とのヒヤリングをこなします。
8月19日現在、ようやく4分の3ほどを終え、もう一息といったところです。


クローバー 報告書までのプロセス

各課との面談を行なう前に、オンブードのやるべき作業があります。
まず、各課から出された事業報告書をもとに、事前質問を各課にあてて提出します。
ヒヤリングそのものは30分ないし1時間と短いですが、情報を集めたり
過去の記録を調べたりして、効率よく的確な質問をしぼりこむ、この作業には
相当な時間を要します。
面談の後、ヒアリングメモを作成し、それをもとに報告書案を作成し、
各課にいったん戻して文言(単語や数字の確認)をチェックしてもらいます。

ヒヤリングが終われば、記憶の新しいうちに、できるだけ早くヒヤリングメモを
つくってしまいたいところですが、なかなかそれがはかどらないうちに、
次のヒヤリングが始まってしまいます。
多い日には、一日に3つも4つもヒヤリングを行ないます。
三人で分担して担当するのですが、ヒアリングメモの作成が、すでにいくつも
溜まってしまっていると言って、片山さんはタメ息をついています。


クローバー ヒヤリング心得

ヒヤリングの場は、決して「対立」の構図ではなく、
できるだけ「協業」の姿勢をとるように心がけています。
少なくとも、相手を裁いたり、攻撃するような態度にならないよう、
みんなで確認しあいます。
要するにオンブード活動の結果として、互いの相乗効果によって、
施策が、伊丹市が良くなっていけばよいのです。
だから、少しくらいイラつくことがあったとしても、
各課の不足しているところを非難するばかりでなく、
頑張っているところ、成果を正しく評価して言葉に表わすことを心がけています。
(実際、多くの課が誠実に努力しているとのことです)
ヒヤリングの場は、一方通行でなく、できれば活発に質問や問題提起がなされ、
一緒に考える場となって、何かを生み出せる場としたいものです。


クローバー 14年目

かつては、男女共同参画施策に対する理解が各課に浸透していなかったこともあり、
課によっては露骨に「防御の姿勢」をとるところもあったようです。
オンブードの活動も、すでに14年目を迎え、
今までの積み重ねにより、実のある話し合いのできる雰囲気がだいぶ
できてきているようです。

もともと男女共同参画施策とは、参画課だけの仕事ではなく、
全部の部署に関係のあることなのです。
その認識がようやく根づきつつあるのではないでしょうか。
とは言え・・・


クローバー 40%目標

施策に沿って、まだまだ改善の進まない部分もあります。
意見・意思決定の場には、できるだけ男女同じずつ参加するのが
望ましいというのに、まだまだ現実にはほど遠い。
「伊丹市男女共同参画計画(2006〜2015)」では、市役所の各審議会等にて、
男女の比率が、7年後にはともに40%以上を占めるという数値目標を掲げており、
ヒヤリングの場では、オンブードが各課に強力に訴えかけています。


・・・・・・・・・・

クローバー カン違い?

片山さんが、男女共同参画施策に関わったきっかけ。
実は、二人目の子どもの育児休暇のときに、カン違いして
「町衆講座」を受けてしまったことが始まりです。

片山さんは当時いわゆる社宅族であって、伊丹の町のこと、
中心市街地のこと、なりたちや名所等、もっと知りたいと思っていました。
「町衆」という字面でそう判断してしまったのですが、
ところが、全然そういう内容ではなかったのです。

(☆ 町衆講座とは
 女性交流サロンで開催された講座で、3ヶ月間 計15回強の連続ものです。
 1994年から10年間ほど毎年開催されました。片山さんは1999年度の受講生です。
 講座の目的は「女性問題の視点を持って活動できる女性の仲間を増やす」
 というものであり、明確に男女共同参画意識に根ざしたものでした。)


クローバー 朴木先生

講座の初日、その講師が朴木先生でした。
思っていたような内容とはかけ離れていたものの、それまでこの問題に関して
片山さんが抱いていたイメージとは全く違い、穏やかで筋の通った、
朴木先生の説得力ある話ぶりに驚きました。
それ以来、すっかり先生のファンになり、「おっかけ」の一人になりました。
その後は機会あるごとに、朴木先生のお話を聞くようになり、
また、そうした場で出会う仲間が増えてきました。

努力して学習しようと思う以前に、この問題にかかわって出会う
人々の楽しい和の輪にからめとられ、いつの間にか
その中心の一人に移っていたというところでしょうか。
でも、自分ではオンブードになろうとは思っていませんでした。
「男女共同参画」というものを専門にする、ということに、
どうしてもなじめなかったということもあります。


クローバー 理科系と文科系

自然科学の世界では、問いかける人間がどんな価値意識を持っていようと、
たどりつける正解は一つ。真実は一つである。
ところが文科系の世界では違う。価値観の違いによって、
異なる解答が可能になる。正解は複数存在する。真実は一つではない。
・・・でもそういうのは苦手。

片山さんは自分自身のことを「理系人間」だと思っています。
(片山さんは、「サイエンスカフェ」の伊丹地区の代表として、
 理系の、科学の知的会話を楽しめるサロンを企画しています。)
男女共同参画施策のことは、自分に向いてる世界でないと思っていました。
だからオンブード募集締め切りの僅か数ヶ月前になるまでは、
「自分はオンブードは絶対やらない」と宣言して、期待されないように、
話が自分のところに回ってこないように、あらかじめ
仲間にも言いまわっていました。

2010年4月15日の朝日新聞阪神版に掲載されたサイエンスカフェの記事


クローバー オンブードへ

ところが、朴木先生が、10年間勤められたオンブードをついに
引退されることになりました。それを聞いたとき、
「朴木先生と親しく一緒に仕事ができる、これは最後のチャンスかも知れない」
という思いがひらめいて、あっさり決意したと言います。

(朴木先生はとても忙しい方で、先生のゼミの学生でさえ、
 ゆっくり親しくお話する機会があまりないのだそうです。
 朴木先生は、昨年度まで伊丹市オンブードの仕事を勤められ、
 今年からは、大学でのお仕事に専念しておられます。
 オンブードには、今年から高島先生が代わって来られました。)

オンブードは二年任期です。
初年度は朴木先生と。そして二年目は高島先生と。
「一回で二度おいしい経験」と片山さんは笑います。
朴木先生とはキャラクターが違う、仕事のやり方も感性も、
かなり異なる高島先生に今年からは「師事」することができ、
多くの学びを得られることをラッキーに感じています。


・・・・・・

クローバー 行政との協業

市役所の仕事にかかわるまでは。
伊丹を住みやすい町にするのは、お役所の仕事だと思っていました。
でも今は。市役所の職員はやはりプロであり、
市民が急に彼らと対等に仕事できるものではないけれど、
それでも「まち」とは、行政と市民とが、それぞれの役割を担って
一緒につくっていくものだと感じています。

いっぽう、違和感もあります。民間と行政との仕事のやりかたの相違。
「お役所ならではの」縦割り・管轄感覚。
「自分のところの領域の仕事」で終わってしまう。
でもひとりひとり、仕事に対する熱意は高く、優れた人材が多い。
いわば市役所は、頭脳集団。市民の知らないところで、
すばらしい仕事をこなしている。そんなことにも気がつきました。

行政と市民と、それぞれの持つ発想のパターンが異なるからこそ、
うまく連携して互いの特長を生かせれば、すぐれた仕事ができる。
(男と女も、そういうことかも・・・黒うさぎ、メモをとりながら。)


クローバー 自分を成長させる

「男女共同参画というものが、特異な、特別のものではないと
 思っています。男女共同参画も、子育て、まちづくり、介護、安全・・
 どれも普通で、あたりまえで、大事なことじゃないかなと。」
だからこそ、自然体の市民の参画が意味を持つということでしょう。

黒うさぎの印象では、片山さんは思慮深く、それだけに寡黙な人。
その彼女がフォーラムの場や、ヒヤリングでの応酬で、
雄弁に語るのに聞きほれました。
「一人で引きこもって、何時間でも本を読んでいるのが好き。」
自分はそういうタイプだとおっしゃいます。でもそうした人だからこそ、
人前に出てくれば、他の人とは違う光を放つことができるものです。

インタビューは佳境を迎えています。
片山さんの、これまでの生き方のこだわりについてお聞きしました。

「人生の時期に応じて、自分なりのテーマを持って生きてきたと思う。
 大学時代は、『今しかできないことをしたい』、思いきり勉強しようと
 意識していました。
 就職してからは、『常に内から輝いている』人間でありたいと思っていました。
 最近では、自分の子どもの目線から見て『かっこいい』人間でありたいと思う。
 とは言いながら、実際の生活には、もちろんギャップもあります。
 徹夜に近い仕事をこなせば、あくる日は、疲れてバッタリ寝ています。・・・」


彼女の「かっこいい」のは、外見ではなく、内面の意志の強さと向上心。
「自分を成長させるのが好き。」
ちょっとはにかみながら、おっしゃっていただいた、かっこいいその一言で、
今日のインタビューを締めくくりたいと思います。


(Writing by 黒うさぎ) メモ


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2010年01月25日

ゆるやかインタビュー・沖井恵子さん

ゆるやかインタビュー
      2009.12.28.(串かつ「吉野」にて)


串かつ「吉野」 女将 
   沖井恵子さん(50)


クローバー 女将

便宜上、「女将」と書いてみましたけれども。
・・・そう呼ばれるのは、あまりしっくりこないと言います。
たとえば、お店の奥で和服でも着て静かに立って、
艶然と微笑んでいる、という人ではありません。
いつもスタッフの先頭に立って、てきぱきクルクルと働きまわっています。
「『女将』でなくて、なんでしょうね?」黒うさぎに聞き返される。
「ママ」というのも違うと思うし、「奥さん」というのとも違う。
でも、経営者であります。

両親の代からの串カツ屋さん。・・・20数年前に、
後継者もいないし、廃業しようかと両親が言っていたのを聞いて、
自分たち夫婦で一緒にお店を継ごうと決意しました。
夫もそれまで勤めていた会社を辞めて、それ以来夫婦で頑張りましたが、
つい去年、夫は55歳を迎えたのを機に、
本来自分のやりたかった仕事(自動車代理店)に専念するようになりました。
だから現在、お店はもっぱら彼女と、創業以来勤続している職人さんとで
切りまわしています。

もっとも10年くらい前からは、自分と夫の両親・計4人の介護に
順次かかって、なかなかお店に関わることのできない日々が続きました。
その間、伊丹の「中心市街地」では、「ダイヤモンドシティー」が
できたりして、人の流れがすっかり変わりました。
繁華街にあるお店だからといって、表通りを歩く人だけを
アテにしているようなことでは経営が成り立ちません。
心機一転、お店を一部改装すると同時に、彼女がそれまでのメニューを
全面的に変えたのが3年ほど前のことです。



クローバー 検索サイト

「ついでに寄る」のでなくて、このお店を目当てにわざわざ来ていただける、
そういうお店になるための仕掛けつくりを考えました。
予約のできるコース料理をメニューに加えて、
ネットの飲食店検索サイトを使って、予約客の集客を狙ったのです。
現在、来店客のざっと半分がネットを通じて来店されます。
宴会等の予約の多くはネットを通じてのお客さまです。

伊丹市内には、◎菱電機、△友電工、*洋リノリウム等々、
大きな企業・工場が結構たくさんあります。
その関係で、東京そのほかから、会社出張で伊丹へ来られる人は多く、
そういう人たちが、インターネットを使って伊丹の飲食店を
検索するケースもかなり多いといいます。
お店とすれば、ネット検索によるお客さまを増やし、
予約していただけるコース料理メニューを
全面的に押しだして勝負したいところです。
しかし地元で創業以来愛されている手軽なメニューも
削るわけにはいかないのだと彼女は言います。
なぜかというと・・・



クローバー 町の串カツ屋さん

いわゆる団塊の世代の人々は、もう子育てを終えて家族数も減り、
家庭でわざわざ揚げ物を作る機会も少なくなりました。
揚げ物といえば、スーパー等で買って帰ったものを、
家で温めなおして食べるくらい。
お店先で揚げたてのものをいただくのとでは大違いです。
串カツ屋でなら、肉類・魚類・野菜類ほか、いろいろな食材を少しずつ、
好きなものを、揚げてすぐにおいしくバランスよく食べることもできます。
という意味で、町の串カツ屋の存在意義は大きいのです。

近所のパチンコ屋さんの帰りに寄ってくださる兄ちゃんたちに、
昔ながらの単品の串カツを、一つずつ注文して
楽しんでいただくという要素は、お店にとってまだまだ必要です。

そこのところが伊丹のお店の立地の「中途半端」なところだと彼女は言い、
黒うさぎは、両方の要素が補完しあってお店の魅力が増すのだと
言い直します。
予約しなくても気軽に寄れて、ちょっと珍しい食材も揃う、
おいしい串カツ屋さんの存在は、地元民としては、ありがたいものです。



クローバー 舞台照明のお仕事

今でこそ「女将」さんをやっておりますが、
若いころの沖井さんは、全く違う道を歩んでいました。
なんと大阪芸術大学の舞台芸術学科を卒業して、
舞台照明の仕事に就いていたそうです。

舞台の仕事は、女性にとっては過酷なものです。
多くの仕事は9時間〜12時間労働だし、彼女が就労していた当時は、
力仕事も今より多く、とても子供づれの主婦ではできない仕事でした。

当時の多くの同業の女性と同じく、彼女も結婚して
妊娠に気づいた時点で仕事を辞めました。
せっかく4年制の大学を出て、専門技術を習得しても、
女性がこの職種には参画していくことは大変難しかったのです。
そして、そうした風潮は今もあまり
改善されていないのではないかと彼女は言います。
(このお話、別途調査の必要ありそうです。)

現在では、舞台関係のお仕事の中でも、美術や音響などに比べて、
照明の仕事は、女性スタッフの比率はとても多くなってきています。
でもその大多数は、出産妊娠を機に辞めてしまいます。
育児休暇も出産休暇もなく、職場復帰がやりにくいといいます。
就労人数の増えた女性をきちんと人材育成できずに、
職場の戦力としてちゃんと再雇用できていないという状態は、
この業界全体にとっても大きなマイナスなのではないか。
沖井さんの口調が少し熱をおびてきました。



クローバー 郷町商業会

沖井さんの実家は、祖父たちの代のときに、戦災で大阪・ミナミで焼け出され、
疎開先の伊丹に移ってきたのだそうです。
ところが伊丹は古い商業の町であり、当時、大阪から移り住んできたばかりの
父親たちにとっては、なじめない部分があったらしい。
彼女は目と鼻の先にある伊丹小学校ではなく、わざわざ南小学校に
通うことになりましたが、そうしたことが一因ではなかったかと思えます。
彼女も彼女の兄も、中学校からは他市の私学の学校に通っていました。
そんなわけで地元との友だちつながりは案外に希薄です。

だから、つい3年前に、友人の誘いを受けて郷町商業会の理事になった時は
「この町に受け入れてもらった」気がして、とても嬉しかったのだそうです。
黒うさぎにも経験のあることですが、「地元の商店主」という種族は、
めいめい自分のお店の商売に懸命になってその場に閉じこもる性癖があり、
何年も近所に住んでいてもお互いにほとんど面識もない、
ということが起こり得ます。
でも商業会の理事になってからは、それまでになかった友だちの輪が広がり、
さまざまなイベントに積極的に参加することになりました。
そしてその活動を通じて、「伊丹まちづくり会議」や「伊丹ホール」のメンバー等、
まちづくりの仲間たちとのつながりがどんどん広がっていくことが、
楽しくてしかたがないと笑います。
楽しくまちとかかわりながら、まちを変えていく「草の根市民」の一人として、
沖井さんの今後の活躍を大いに期待しています。



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2009年09月12日

ゆるやかインタビュー・木原明美さん〜その2〜

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・キラキラ 〜その1からのつづき〜


クローバー 施設管理のキャリア

グループ活動をはじめてしばらくたったころ。
活動を維持・発展させるためには、どうしてもお金が必要になります。
その活動費を稼ぐために、パートに出ようと思いました。
行ったのは病院の清掃の仕事で、はじめからパートの現場副責任者に任命されました。
そして3ヶ月後には現場責任者に。もはやパートでなく、フルタイムの正社員となり、施設管理全般を任されてしまいました。
病院だから、院内感染に関することとか、わからないことだらけ。
清掃業のノウハウを、とにかく一生懸命勉強しました。

どちらかといえば、会社の仕事よりも自分たちのグループ活動を中心に考えているような木原さんに対し、
「会社は一人で動くものではない。組織で動いていくものです。
あなたのグループ活動もそうだと思う。
組織の管理ということがちゃんとできるようになれば、
あなたの活動にも役立つはず。」
そう言って励まして?くれたのが、この会社の常務さんでした。

現場では70歳以上の人ばかり、30人も使っているのです。
たいへんな仕事に、木原さんが弱音を言いかけると、
「あなたの目の前に現れた壁は、乗り越えられるためにある。
今これを乗り越えないと、壁はあとから何度でもあなたの前に現われ、乗り越えるのがますます困難になってしまう。」
なんだか調子よく常務さんに使われてしまったかも知れないけれど、とにかく木原さんは壁を乗り越えちゃいました。

経営(人をどう使うか)について、このころに学んだといいます。
この会社は最終的には倒産してしまったので、木原さんは倒産処理までやりました。

自身の施設管理者としてのキャリアが長いので、後に、伊丹女性交流サロンでの仕事の話を受けたとき、
「事業、情報、相談受付と施設管理の4つの仕事をこなせる人は、自分しかいな
い。」
ここの仕事の厳しい状況は人から聞き知っていましたが、かえって、自分こそは、という気持ちになったそうです。


クローバー 退職

そのあと、木原さんは別の会社でやはり施設管理の仕事に就きます。
今度は商業ビルでした。最初は夜間だけのパートのつもりでしたが、職場の状況が変わるにつれ、ここでもやっぱり木原さんは責任者に任命されました。
さらに、この会社の別事業である大阪市内のホテルの清掃指導に、急に出向することになりました。
それまで受け持っていた商業ビルを離れるについては懸念があったので、上司には伝えておいたのですが、はたして。
木原さんが心配したとおり、商業ビルのほうの現場が立ち行かなくなり、仕事がバラバラになってしまって、困った現場スタッフから、大阪の彼女のもとへと次々に電話がかかってくるようになりました。
「話がちがうじゃないか。」
たまりかねて木原さんは会社を辞める決意をします。

「辞める」と言ったら最後・・・自分は頑固者だと思われているから、会社は多分引きとめてはくれないだろう。
覚悟はしていましたが、その通りに退職届けがあっさり受理されてしまった時はさすがに気落ちしました。
今まで会社でがんばった自分は、いったい何だったのだろう、そんな気分になりました。
後から思えばこのころは、かなり過労でストレスが溜まっていたようです。
「休まなきゃいけないんじゃない?」などと友人たちも忠告してくれていたのに、まったくそれは自分の耳にははいっていませんでした。


クローバー ドーンセンター

「仕事を辞めたから。・・・また当分勉強するわ。」
原点に立ち返って充電しなおそうと思い、電話で報告したその友人から、あくる日に電話がかかってきました。
大阪・ドーンセンターでの協催事業を推進するスタッフを、NPOで募集しているとのこと。
・・・これで、木原さんのつぎの仕事が決まりました。

もしこのときの電話がなかったら、話していなかったら、ドーンセンターでの仕事には結びついていなかったわけですから、「言葉に出す」ということがチャンスを引き寄せるということですね。
ドーンセンターでは、協催事業の促進のほか、海外向けのメッセージを送るという仕事もありました。ここでの仕事で得た出会いや、人的ネットワークは今も彼女の仕事に直接役立っています。

惜しいことに、大阪府では近年の「財政改革」のあおりで、協催事業がなくなってしまいました。
自分のやるべき仕事がなくなったと感じた木原さんはドーンセンターを去ります。

(「それって、・・・彼が悪いんだよね。」
  黒うさぎ、それ以上言うな。・・・   )


クローバー がんばりすぎない

「がんばりすぎない」そのことを、伝えてあげたい。
私たちの世代の人は、こうあるべき、こうでなければならない、そんなふうに教えられ、しつけられてきました。
本当は、いろんな考え方があり、いろんな生き方ができるのです。
無理やりにでなく、ラクにできる生き方をしてほしい、とみんなに思う。
動けなかったら、動かなくていいやん。と言ってあげたい。

ドーンセンターでの仕事から離れて半年。
この間に母と義母が亡くなりました。そうしたことが一段落ついたら、伊丹での就職の話がきました。計ったようなタイミングの良さ。
いい流れで人生を歩めている気がする。

伊丹の女性交流サロンでは、この春にスタッフも総入れ替えになりました。
大変だけれど、新しいスタートをきることのできる、今が働きどき。今は力のいれどき。
木原さんはとても穏やかな普通な様子で、熱いことをおっしゃいます。



  交流サロンの壁一面に、
  木原さんが企画したもの、収集したものが。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・キラキラ


あっさりおっしゃったけれど、すごく頑張ってこられた木原さんが、
「頑張り過ぎない」と言っても説得力がないんじゃないかな・・・
黒うさぎは原稿を見直しながら、ふと考える。
でも、自分を崩しかけるほどに、本当にがんばってきたからこそ、言えること。
だから敢えてそれを言ってあげたい。そうもおっしゃいました。

木原さんは物腰がとてもやわらか。
饒舌な印象は全然ないのですが、お話の情報量が豊かです。
インタビューのおしまいに、もう一つだけ、お聞きしてみました。
・・・家族とは?
「家族は、夫を含め、それぞれが自立すべきもの。
 親の役割はアドバイザー。決定権は、めいめいにあるのだと、
 子どもたちに教えてきました。」


(Writing by 黒うさぎ) メモ



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ゆるやかインタビュー・木原明美さん〜その1〜

ゆるやかインタビュー 
    2009.8.27.(女性交流サロンにて)


伊丹市立女性・児童センター 副センター長
 木原明美さん(48) 〜その1〜


 
木原さんは明石の人。
今年春から伊丹に通い、女性交流サロンの情報・事業・相談受付をはじめ、雑用その他、センターにまつわるすべてのお仕事を担当しておられます。



クローバー とまとPRESS

木原さんが男女共同参画の問題にはじめて触れたのは1997年のことです。
明石市の企画力養成講座を受講して、修了生のなかの女性5人で、グループを立ち上げて啓発誌づくりにかかわりました。

お金がないので、グループで市にかけあって、「紙代はこちらが出すから、印刷機を貸して。」と交渉。
行政からの「お声がかり」でなく、自発的に立ち上がった初めての団体だということもあり、市行政としてもたいへん好意的に対応・支援・PRしてくれました。

最初にできあがったのは、「あかし女性物語」という小冊子です。
市の担当課職員の一人が暖めていた企画で、明石にゆかりのある、歴史に登場する女性をピックアップして紹介したものです。
誰でも気軽に手にとって読んでもらえるように工夫しました。

木原さんの活動の原点となったこの「とまとPRESS」というグループは、今も活動中で、メンバー誰もが自分たちの意見を言い合える良い仲間たちです。


クローバー 頑張りすぎの私

企画力養成講座を受ける以前は、子育てとともに、子どもがらみの地域活動がもっぱらでした。
PTAや、子ども会の副会長や会長を歴任してきました。

はじめて男女共同参画問題にふれたときに、エンパワメントとか、それまで知らなかった言葉と出会い、「私って、なんて遅れてるんだろう」と思いました。
いままで、何も問題なく生きてきた、自分には何の問題もない、そう思い込んでいることこそが問題だ、と当時の情報アドバイザーに指摘されました。
でもそれを本当に実感できたのは、もっとあとのことでした。

明石市で、平成13年ころに「あかし男女共同参画センター」ができたときに、そこの相談受付リーフレットを作っていたのですが、カウンセラーと一緒になって、「相談事例」の文章を練っている最中、急に、「それまで頑張りすぎていた私」に気づいたといいます。


クローバー 渡してもいいんだ。

なんでも自分がやるのが当たり前、と思っていました。
家事をすべて終えて、家族のこともみなきちんと世話してから、自分のことをやるのはそのあとのことでした。
グループ活動も、家のことをすべて片付けてから。

それは、ずっと以前からのことでした。
子どものころ、姉と弟とが登校拒否をしていました。
両親はともに働いていて、この二人を学校に行かせなきゃ、そしてそれは自分の仕事だと、あたりまえに思っていました。

「・・・なにも自分ひとりがしなくてもいいよね。」
「渡してもいいんだ。」ようやくそのことに気づきました。
さらに、自分がなにもかも背負いこむことによって、他の人がやる機会を与えない、ずっと与えてこなかった、そうしたことにも気づき、問題意識に目覚めました。


クローバー 伊丹に赴任して

女性交流サロンでのお仕事はいかがですか、という黒うさぎに対して。

「伊丹に来る半年前まで、大阪ドーンセンターの協催事業を支援・推進する仕事に就いていました。仕事を辞めると、母と義母が相次いで亡くなりました。
二人を看取り、見送って、お葬式等も片付いて、そろそろなにか、と思っていたところに、伊丹の女性交流サロンでのお仕事の募集の誘いを受けました。
自分が今までやってきたことの集約ができる、と言われ、面接を受けました。

今まで、ずっと情報関連の仕事をしてきたせいか、まずここでは「情報が動いてないな。」と思いました。
こういう施設では、ふらっとやってきた人がまず本を眺めていきます。
ところがここでは、本は部屋の一番奥に置いてありました。
まずこれを、みんなに見てもらうのが肝心と、早速に本棚を出してきて、入り口近くに並べました。

サロンの機能として、情報・相談・事業が相互にリンクしていく必要があると思っています。相談に訪れた人が、本棚の本を手に取るとか、講座のチラシに気づき、エンパワメントの機会に触れるとか、そういう流れをこのセンターの中に作っていきたい。

伊丹の女性交流サロンは、他市の施設と違って 「児童館」や「働く女性の家」と隣接しています。
児童館には子どもやお母さんがたくさん来られ、「働く女性の家」も男性を含め、いろいろな世代の人がやってきます。
男女共同参画推進の場として、その意味では環境に恵まれていると思います。
どの世代の人もここに集まってくる、という大きな利点があるのだから、それを活かすしくみをサロンに組み込んでいきたい。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・キラキラ 〜その2につづく〜 キラキラ
posted by hatae at 09:47| Comment(1) | TrackBack(0) | インタビュー