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先生と呼ばれる人ほど低価値観 [2017年04月30日(Sun)]
 先生と呼ばれる代議士や大臣の不祥事が続発している。医師を目指している名門大学の医学生のレイプ事件が多発している。しかも、千葉大医学部では学生たちだけでなく30歳の研修医もこの卑劣な犯行に加わっていたというショッキングなニュースが報道されている。新潟県では原発避難者の子どもに、担任がいじめを庇うどころか一緒になってその子を「菌」呼ばわりしたという、教師としてあるまじき情けない行為の報道もされている。本来ならば、先生として尊敬されるべき存在なのに、か弱き女性や子どもを心身共に傷つける行為をするなんて考えられない。一人の男性として情けないし、人間としても許される行為でない。こんなにも低レベルの人格を持った教養高き人物が、日本にこんなに存在するなんて信じられない。

 先生というのは本来、人々が一目も二目を置く、尊敬されるべき存在である。医師、教師、議員、弁護士、芸術家、文芸家など、高学歴で教養の高い人が先生と呼ばれる。当然、高い人格も要求されるし、地域の名士として各界で活躍している。少なくなくても、明治から昭和の初期くらいまでは、このような先生が不祥事を起こすようなことは極めて稀であった。人々から信頼される高邁な人格と高い価値観を持っていた。当然、職業としての社会貢献だけでなく、地域社会でも大きな貢献をしていて、人々が憧れるような存在だった。ところが昭和の戦前戦後から昭和後期と平成になると、先生と呼ばれる人たちは以前とは違った低い価値観に支配されるようになり、尊敬されるような先生が極めて少なくなったのである。

 しかも、先生と呼ばれるような人のほうが低学歴で教養のない人よりも、低レベルの思想哲学を持つようになったのである。そもそも思想哲学というものを持ちえない先生が多いような気がする。その証拠に、人生の正しい目的を持ちえない先生が増えている。または、正しい理念や使命感を持ちえない先生が急増している。真理(法理)に基づいた思想哲学を持てない人は、正しい人生の目的を持ちえない。明治初期に日本にやってきた欧米人は、当時の日本人の高い価値観に驚き、人間として信頼して尊敬した。ところが、現代の日本の政治家・高級官僚・経済人は、欧米人から尊敬されないばかりか軽蔑さえされている。形而上学的観点を持てず、自分の損得や自国の利益しか考えない日本人を心の中で馬鹿にしていると言われている。

 何故、日本人はこんなにも価値観が低レベルになり、正しい思想哲学を持てなくなったのであろうか。それも、先生と呼ばれる高学歴で教養の高い人ほどその傾向が強いというのは不思議である。それは、教育の貧困が招いたと言える。確かに、日本人の学力は世界でも有数のレベルにある。しかし、先生と称される人の思想哲学は貧弱であり、ましてや形而上学的な考え方を持った人物は皆無に近い。明治維新以降の近代教育によって、形而上学を完全に排除して、客観的合理性に基づいた科学万能主義を取り入れたからである。おかげで自分さえ良ければいい、自分の利益と幸福だけを追い求める、非常に低劣な価値観に支配されたのである。高等教育を多く受けた人ほど、低レベルの価値観を持つのは、ある意味当然なのかもしれない。

 勿論、先生と呼ばれる人でも立派な価値観を持ち、人々の幸福と豊かさに貢献している人も少なくない。そういう人は、親から正しい思想哲学をしっかりと教え導かれた人である。近代教育に毒されなかった人もいるのだ。そういう人が、ノーベル賞などを受賞する、大きな社会貢献をする科学者であり、教育者である。アインシュタインが、科学を志すものは形而上学の視点に立って研究すべきだと唱えていた。まさしく、先生と呼ばれる人は形而上学的な認識を持つ必要がある。欧米の人文科学や自然科学の研究界で行き詰った時に、京都学派と呼ばれる西田幾多郎先生が説いた仏教哲学を学ぶことにより、救われたという歴史がある。科学の研究発展とその社会利用には、形而上学的な視点が欠かせないのである。

 古くは新渡戸稲造が、「武士道」を著して、世界に衝撃を与えた。あの武士道の中で注目されるべきものが、『惻隠の情』である。弱くて小さき者、敗者の心に共感し、けっして勝者のおごりを持ってはならないと説いた。か弱きもの小さきものに対する、限りない敬愛と慈悲の心こそが、社会的強者や勝利者に必要なものだと説いている。今回の医師と医学生によるレイプ事件や大臣の舌禍事件は、彼らにこの惻隠の情を教え導く本当の師がいたとしたら、起きなかったであろう。先生と呼ばれる者なら、まずは新渡戸稲造の『武士道』を読んで、惻隠の情を身に付けてほしいものである。日本の学校教育に、このような武士道の心や形而上学を復活させてはどうだろうか。人間として恥ずべきこんな行為を、二度と起こさせないためにも。
不登校になる本当の原因 [2016年11月14日(Mon)]
 一時期減少傾向を示していた不登校が、また増えているという。この不登校の統計データだが、あまり信用できない。何故なら、調査しているのが文科省であり、なるべく不登校の実数を少なくしようという意思が働いているからである。各県の教委や各市町村の教委もまた、学校に問題は存在しないと言いたいらしく、不登校やいじめなどの問題は存在しないと世間に公表したいと思われる。統計データほど当てにならない。何故なら、統計調査をする主体者の意図によって、結果が大きく変化するからである。統計調査は、問題を明らかにして解決を図るための資料とすべきなのに、お役人というのは自分の無力さを隠しておきたいらしく、問題を過少に見せたいみたいである。

 不登校の定義をどこに置くかによって、その実態数は大きく変わってくる。1年間に1度でも学校に登校すれば不登校とはみなさない、または保健室登校でも不登校には当たらないと定義したら、不登校の児童生徒の数はかなり少なくなる。しかし、1か月のうちに2〜3回でも不登校になるなら不登校と見做すべきだし、保健室登校も不登校とカウントすべきだ。または、朝は元気で登校しても、午後から帰りたくなるというのも不登校として扱うべきだと考える。どんなに小さい不登校の状況であっても、子どもたちは問題を抱えているのであるから軽視すべきでない。何らかの手立てが必要だ。

 最近、ようやく不登校に対する社会的認識が変わり、不登校を特別視しなくなり、不登校でもよしとする風潮が一般化してきた。それは、子どもを守るという緊急避難的措置としては正しいが、根本的な問題解決には至らない。したがって、うつ病が市民権を得て患者が爆発的に増えたように、不登校という状況があってもそっと見守ることが必要だなどという誤った認識が増えたお陰で、不登校が増えているとすれば由々しき大問題である。不登校の子どもに対して、教師と保護者が腫物にでも触るような態度をとり続けたとすれば、問題は解決されないばかりか益々悪化し兼ねない。不登校は見守るだけでは解決しない。何らかの対策が必要だと認識すべである。

 不登校の原因を文科省と学校では調査している。いじめ、虐待、学友との不和、学業不振、発達障害、病気、家族の問題等々様々な原因をあげている。しかし、こられは本当の原因ではない。あくまでも、これらは不登校のきっかけであり、本当の原因は他にあるという認識を持っている教育関係者はあまりいない。何故なら、不登校の本当の原因を親も担任も知らないからである。そして、本人さえもそのことを知らない。不登校の本当の原因である『関係性』の大切さを誰も認識していないのだから当然だろう。不登校という現象が起きるのは、関係性が破たんしているからである。子どもと保護者、子どもと教師との関係性が貧弱であったり希薄であったりするから、不登校が起きるのである。不登校の原因をいじめや虐待、本人の精神的な問題を原因として取り扱っているうちは、不登校はこの世からなくなることはけっしてないのである。

 学校にいじめや虐待、友達との不和、先生への違和感や不信などが起きたら、そのことを子どもたちは保護者や親しい先生に素直に話すであろうか。今の子どもたちは、自分たちの心の闇を教師や校長・副校長に話さないし、保護者にも話さない。どんなにしつこく聞き出そうとしても、話せないのである。勿論、スクールカウンセラーにも話せない。何故かというと、学校における子どもと教師の関係性が崩壊しているし、家族というコミュニティも崩壊しているからである。関係性が実に貧弱であり希薄化しているし、心から支え合うという関係性がなくなっているからである。特に不登校の子どもたちの両親(夫婦)の関係性は破たんしているケースが多いし、家族の関係性がばらばらである。

 夫婦の関係性が非常に良くて、お互いの信頼や敬愛感情が高ければ、子どもたちも安心して親に甘えられるし頼ることができる。何故なら、夫婦間におけるお互いに与え合う愛が強ければ、両親の豊かな愛は子どもに向かうことができる。人間は心から愛されていなければ、子どもを愛せないのである。無償の愛に包まれた人間は、周りの人々をも慈悲の愛によって包み込める。子どもは安心して親に甘えられるし、自分の本心を打ち明けることができる。このような親なら、子どもの為に自分の命を賭して、犠牲を払ってでも子どもを守るものである。そうすれば、どんなに学校で問題があったとしても、子どもは安心して学校に行ける。子どもと教師の関係性、教師どうしの関係性、家族間の関係性が良ければ、子どもは安心して教師や家族に相談できる。そして、不登校にもならないのである。不登校の本当の原因が関係性だと認識し、関係性の改善を図らなければ、不登校は永久になくなることはないだろう。
愛、能う限りに〜母性〜 [2016年01月22日(Fri)]
 申年の今年は、母性が深まる年らしい。しかし、世の中では母性がまるっきり乏しいとしか思えないような痛ましい事件が続いている。実の母親なのに、我が子を殺したり虐待を繰り返したりする悲惨な事件が起きているのだ。こんな悲惨な事件が続発する原因が何かと言うと、母性を発揮出来ない母親が多くなってしまったからではないだろうか。そうなってしまった原因を探るヒントが、ある小説で描かれている。湊かなえさんの「母性」という小説の中で、「愛、能う限りに」という一節が出てくる。17歳の女子高校生が転落自殺をするという新聞記事を読んだある高校教師が、同僚に対してその子の母親がコメントした「愛、能う限りに育てなのに」という言葉に違和感を覚えるという話をする場面がある。我が子へかける愛情について、愛、能う限りに、なんていう言葉を普段から使う人が果たしているだろうか。

 「母性」という小説は、著作者自らがもう二度と書けない傑作だと宣言している。私もそう思う。母性というものをこれほど深く認識させる小説は他にないし、現代における母性の危うさを如実に描いている。母性というものを、いろんな観点から解析することが出来るが、この小説では心理学的に観た母性が中心になっている。母性というと、女性ならば生まれ付き誰でも持っていると思われていることが多いが、著者はそうではないと主張している。母性というのは、生まれ付き誰でも発揮できるものではなく、乳幼児期の育てられ方や周りの人々によって支えられることで発揮できるという。だから、中には豊な母性を我が子に対して持ち得ない母親もいるし、間違った母性を持ってしまうケースもあるというのだ。この小説の主人公と娘は、まさにそんな不幸な例なのである。

 主人公である母親は、わが娘に対して豊かな母性を持って育てていると信じている。自分が母親から受けた愛情と同じように、我が子にも愛を注いでいると思い込んでいるのだ。しかし、その母性は捻じ曲がっている。本来、母性とは無条件の愛である。したがって、どんな我が子でも、まるごと愛するのが母性である。一方、対照的に父性とは条件付の愛である。いわば、我が子をいい子に育てるための躾の愛であり、厳しく叱ることもある。母性とは、どんな時も許し受容する愛である。子どもは最初にこの母性を豊かに受けることで、その後の厳しい父性にも対応できるようになる。この母性から父性への順番が逆になると、子どもは愛着障害や自己愛の人格障害を持つ場合が多いし、メンタル障害を起こす例がありうる。主人公の母親は、まさに正しい母性を発揮せず父性的愛を注いでしまったが故に、家族に問題が起き続けるのだ。

 ネット上では、この「母性」という小説への感想や書評を多く掲載している。特に、この母親に対する厳しい批判をしている人が多い。まず間違いなく男性の読者は、この主人公の母親を激しく糾弾している。母親の母性に問題があると分析しているのだ。しかし、それは間違っている。確かに、我が子に対して愛情を注いでいると言いながら時折暴力さえ奮っていて、娘は母親の言動に対して恐怖感さえ持っている。それが故に子は苦しみ、様々な事件を誘発しているからだ。しかし、筆者はもっと深い問題を示唆している。この母親が正しい母性を発揮できない一番の原因は、夫にあると考えている。また、この母親の親もまた間違った母性を発揮した為に、負の連鎖をしているというのだ。筆者が描きたかったのは、母親が正しく母性を発揮出来ないのは、夫と自分自身の親からの育てられ方にあるということではないかと読み解くことが出来る。

 今、世の中では母性を正しく発揮できない故に起きた事件が続発している。我が子を無条件に愛せない母親が、年々多くなっているように感じるのは私だけではあるまい。母親がシングルマザーで、一緒に暮らしている恋人が関わっているケースも多い。こういう例も含めて、母親だけが問題だとは思えないのである。母親が安心して母性を発揮して、我が子を無条件の愛で包み込むには、父親(または父親に代わる保護者)が父性を発揮してくれることが必要である。そして、夫(恋人)として妻を大きな愛で包み込むことも求められる。愛は連鎖するというか、循環するのだ。母親が我が子を愛するには、夫や恋人からの大きな愛が必要不可欠なのである。さらに、父親自らが家族を守る盾になり、何が起きても自分が犠牲になるという覚悟が必要なのだ。そういう条件が整えられて、初めて安心して母親は我が子に豊かな母性を注げるのだ。このことを男性は深く認識して子育てをしなければならない。愛、能う限りになんて悲壮な考えは、子育てには似合わない。あるがままに我が子を愛する母性を豊かに注げるように、夫(保護者)が支えなくてはならないのである。
惻隠の情 [2015年11月07日(Sat)]
 惻隠の情という言葉の意味を説明できる人、または惻隠の情という言葉を日常会話や文章に使う人は、現代人では殆ど居ないと思われる。日本語の中で、死語になっている言葉では代表的な語句として紹介されている記事を見たことがある。新聞記事や数多くの小説やエッセーでも、この語句をまず見かけることはないであろう。数年前に「国家の品格」という著作がベストセラーになったが、あの本の中で藤原正彦氏が好んで用いていたくらいではなかろうか。惻隠の情という語句が死語になったのは、おそらく日本人がこの惻隠の情というような気持ちを持つことがなくなったからではないかと思うのである。非常に残念である。

 惻隠の情という語句の意味はこういうことだと思っている。惻隠の情とは、武士道精神の最たるもので、他者に対する思いやりであり、敗者、弱者に対する共感であり哀れみというようなものであろう。つまり、弱者や敗者の気持ちに共感し、その悲しみや苦しさを我が事のように感じる気持ちではないかと思う。大相撲で敗者を踏みつけたり睨み付けたりするような行為は、惻隠の情と真反対と言えるであろう。武士は、敗者に対する敬意を決して忘れなかったし、勝負がついて相手に戦意がなくなったら、それ以上の攻撃を加えるようなことは、けっしてしなかった。それが惻隠の情というものだし、そのような精神を幼児期から武士は学んだのである。

 惻隠の情というものが現代人の心にしっかりと根付いているなら、学校でのいじめはけっして起きないだろうし、会社でのセクハラ、パワハラ、モラハラなんて行為はないだろうと思う。相手の苦しみや辛さを自分のことのように感じる心があるなら、相手が嫌がることをけっしてすることはないからである。この惻隠の情をなくしてしまったのは、明治維新以降の近代文明教育のせいであろう。大久保利通が、富国強兵を推し進める為に、欧米の近代教育制度を取り入れたのである。この客観的合理性に基づく、徹底した能力向上の教育は、自分さえ良ければいいという個人中心主義を人々の心の中に蔓延させ、他人の苦しみ悲しみを何とも思わない実に冷たい人間を生み出したのである。

 惻隠の情なんてなくても生きていけるし、何の不都合もないなどと嘯く人間がいるかもしれない。また、そんな惻隠の情なんて前近代的な心を発揮していたら、この競争社会では落ちこぼれてしまい、自分が社会的な敗残者に成り下がってしまうと言うかもしれない。しかし、よく考えて欲しい。現代社会では、あらゆるコミュニティが崩壊していると言われている。家族というコミュニティは崩壊して、夫婦関係や親子関係が破綻している。何度も離婚している男女が多数存在し、その都度子どもたちは傷付いている。企業というコミュニティや国家というコミュニティも崩壊している。つまり、惻隠の情を無くした人間は、良好な関係性を発揮できないから、共同体が成り立たないのだ。

 それでは、惻隠の情というのは、もう日本人の心の中に呼び戻すことは出来ないのであろうか。日本人らしい良識とも言える、この惻隠の情を日本人の心に復活させたいと思うのは、私だけではない筈である。近代文明教育における客観的合理性にシフトし過ぎた欠陥を改善すれば良いと思うのだが、文科省のキャリア官僚はその間違いに気付きそうもない。国立大学から哲学科を無くそうとしているぐらいだから、その愚かさは想像以上である。実は、学校現場では「心のノート」という教材があり、その中で弱者への配慮という記述がある。しかし、この心のノートを的確に教えられる教師がいないのである。学校教育で無理だとすれば、家庭教育や社員教育において何とかこの惻隠の情を浸透させたいものである。

 惻隠の情の大切さと必要性を現代の子どもたちの心に芽生えさせるにはどうしたら良いであろうか。親や教師が惻隠の情を教えるのは難しい。なにしろ、教える側に惻隠の情がないのだから、伝える術がないのは当然である。ということなら、社会教育という場で教え導くしかないであろう。惻隠の情を子どもたちの心に芽生えさせるには、お掃除が良いと言う人が多い。家庭でもいいが、公共の場所を子どもたちに清掃させることで、惻隠の情が少しずつ湧き出て来るという。こういう清掃奉仕活動を長く継続して実施していくと、惻隠の情が身につくに違いない。学校の清掃を子どもたちにさせない地域もあるというが、言語道断である。人間教育には、お掃除こそ一番効果がある。惻隠の情を復活させる為にも、清掃奉仕活動を日本に浸透させていきたいものである。
国立大学から哲学科をなくすという愚行 [2015年08月11日(Tue)]
 文科省が国立大学に対してとんでもない注文を出した。なんと、国立大学から人文社会科学系の学部を廃止して再編せよという方針が、各国立大学に通知されたというのだ。なんという愚行であろうか。国立大学は理系の学部さえあればいい、産業界にすぐに役立つ理系の学生さえ育成すれば、それでいいという理論である。文系や教育学部なんぞは、国立大学では不要であるという考えらしい。確かに、経済界にとっては理系の学生は、即戦力として活用できるから、有能な理系学生は喉から手が出るほど欲しいという事情は共感できる。しかし、文系の学生を国立大学から排除してしまってよいものだろうか。

 この方針は、既に政府の骨太の方針に伴う国立大学改革案に盛り込まれている。グローバルでフラットな世界経済の中で、日本の企業に技術革新を推し進めて輸出競争力を高めるには、理系の学生が必要不可欠だと主張する政府と経済界からの強い要望に応えた形であろう。確かに、技術立国の日本には優秀な技術者や研究者が欲しいという事情は理解出来る。しかし、文系の教育を私立大学だけに任せてよいものであろうか。文科省は、単なる通知であり何も文系の学部を無くせと言っている訳ではなく、大学側の主体性を踏みにじるものではないと主張している。しかし、大学に対する補助金支出の実権を握っている文科省に逆らうことは出来ないのが、国立大学なのである。

 そもそも、今の社会に文系の優秀な学生は要らないのであろうか。私立大学でも文系の優秀な学生を育成できない訳ではない。しかし、京都学派と呼ばれて、世界的にも著名で優秀な哲学者を輩出した京都大学の哲学科をなくしてもよいのであろうか。世界の哲学界において、一時的に行き詰ってしまった西洋哲学を救ったと言われている西田幾多郎博士の京都学派を、この世からなくしていい訳がない。哲学科というと、一般人には馴染みが薄い。何故かというと、難解な言い回しや理論が、我々凡人には理解が難しいからであろう。もっと身近な言葉や解りやすい論理で、一般の人々にも理解出来るようにしてほしいものだが、アカデミックな世界はどうしても自分達だけが理解出来ればいいと短絡的に考えがちである。それが哲学から人々を遠ざけてしまうという過ちを犯している。

 哲学や思想というと、日本人はどうしても毛嫌いする傾向がある。そして、この社会には思想や哲学なんて要らないと思っている日本人はすこぶる多い。だから、日本の近代教育では、一切の思想や哲学を排除してきたのである。こんな難解な言葉をもてあそんでいるような学問は、経済や政治の世界にとって無用だと考えたに違いない。ところが不思議なことに、日本では哲学や思想を教育から排除しているのに、欧米では逆に哲学を重要視し始めている。欧米には科学と哲学を統合して、科学哲学という分野を作った歴史もあるが、近年は新科学哲学として発展させている。勿論、京都大学や東京大学といった日本を代表する哲学科でも、近年その研究が盛んになっている。

 学問には、科学的な唯物論的思考に基づく形而下学と、その形而下学を超える思考によって成り立つ形而上学という分類の仕方がある。世界的に著名なアインシュタインは、形而上学を基本とした科学でなければ、人々を幸福に出来ないと主張していたことが、最近の研究で明らかになったという。アインシュタインは、自分の科学的研究が原爆に利用され広島と長崎に投下されたことと、マンハッタン計画を進言したルーズベルト大統領への書簡に署名したことを悔いていた。そういった反省も込めて、科学には形而上学が必要だと言ったに違いない。原発事故が何故起きたのかと問えば、その研究開発や発展に携わった科学者・技術者が、形而上学を無視した原発開発を推し進めたからだ。チェルノブイリ、スリーマイル、そしてフクシマの原発事故は、すべて形而上学を無視した科学が引き起こした事故である。

 このように、形而上学を無視した科学の進歩は、人々を幸福にするどころか、不幸にする危険性を孕んでいる。哲学の一分野としての形而上学であるが、最近は単なる存在論や神学、宗教哲学の研究だけに留まらず、科学的な実存論的思考と統合されつつあるとも言われている。最先端の科学である量子力学、宇宙物理学、脳科学、細胞学、分子生物学などの研究が進化するにつれて、形而上学である仏教哲学の理論などが、唯物論的思考からも真実だと欧米の科学者たちは気づき始めているからである。ということは、これからの時代はまさに科学哲学といった分野は我々人類にとって、益々必要不可欠なものになってくるということだ。つまり、哲学をないがしろにした科学の研究・発展はありえないという結論になる。故に国立大学から哲学科をなくすという暴挙を、我々は許してはならないのである。
知識の教育から智慧の教育へ [2015年03月02日(Mon)]
 日本の高等教育を見直そうという機運が盛り上がっている。今までは、知識偏重の教育であったが、それでは主体性や創造性といった、社会に貢献するうえで必須な能力が育たないからだという。おいおい、今更そんなことを気付いたのかい、と呆れる一方であるが、どんなふうに教育を変えていくのか、お手並み拝見といきたい。明治維新以降、欧米の列強に負けじと、それまで綿々と続いてきた智慧の教育を切り捨てしまい、近代教育を導入して、富国強兵の為に必要な知識や技能を修得する教育を始めたのである。そして、その傾向は、戦後に益々強くなり、人間として最も大切な思想哲学さえも切り捨ててしまったのである。それなのに、どのような手法で、知識から智慧の教育を展開しようとするのか、今の文科省のキャリア官僚が主導してそれを行なうならば、非常に難しいだろうと言わざるを得ない。

 何故ならば、文科省のキャリア官僚を含めた行政マンたちが、今までの教育の間違いにまったく気付いていないからである。さらに、自分たちも近代教育を受けてきた当の本人であるし、高等教育までも受けているから、知識偏重の教育こそが必要だと信じて疑わないからである。ましてや、今の教育制度における過度の競争を勝ち抜いてきたのがキャリア官僚なのだから、知識を沢山身につけた者が勝ち組だという固定観念に捉われているのは間違いない。それをいまさら知識偏重教育を否定して、主体性や創造性を身につける教育をしようとしても、どうしていいのか解らないのは当然である。自分でも主体性や創造性を持ち得てないのだから、それを教育する手段なんて思いつかないのは当然である。

 そもそも「ゆとり教育」として数年前に掲げた教育方針が間違っていたからと、以前の詰め込み教育に逆戻りしてしまったばかりなのである。あのゆとり教育が何故失敗したのか、本当の理由を知ろうともせず、ただ単に教育水準が低下したからという理由だけで、方針をいとも簡単に変更したのである。文科省のお役人たちが、知識教育から智慧の教育に変更するやり方を考え出せるとは思えないのである。さらに、こういう知識教育から智慧の教育にシフトする方法を、文科省のお役人だけでは考えられないから、外部の教育制度審議会に諮るだろうと思われる。その審議会委員のメンバーもまた、大学教授とか青少年教育の専門家であり、近代教育の弊害をまともに引き受けてきた人たちなのである。やはり、主体性や自発性を持たない人なのだから、それらを身につける方法などを、考え出せるとは到底思えないのである。

 それでは何故、近代教育というものが主体性・自発性・責任性・創造性を育てることが出来なかったのであろうか。江戸時代以前の庶民や武士たちは、主体性・自発性・創造性を豊かに発揮していた。ところが、明治以降近代教育の制度を取り入れてから、知識偏重の教育になったせいもあり、主体性・自発性を発揮できる人間を育てることが出来なくなってしまったのである。ましてや、近代教育は要素還元主義が基本である。つまり、物事や事象を、一つ一つの要素に細分化して考えるという手法を取り入れたのである。当然、全体を見るということを観点がなくなったし、物事や事象を細かく分析して、客観性を持って批評的・批判的に観察するということしか出来なくなったのである。学校教育において、徹底して客観的なものの観方を叩き込まれたのだから、主体性を持てないのは当然である。

 だから、近代教育、とりわけ優秀な高等教育を受けた人ほど、客観的合理性を持つ人間になってしまったのである。この客観的合理性というのが、実に困った人間を創り出す。批判的に観るという癖がついた人間は、主体性や自発性を発揮できないばかりか、身勝手で冷たく、相手の気持ちに共感できなくなり、相手の気持ちになりきって物事を考えることが出来なくなってしまうのである。智慧というのは、客観的合理性の教育では身につかない。客観的合理性、要素還元主義の教育というのは、言い換えると自我人格を育てる教育である。自己を育てるという教育をして来なかったツケが、今ふりかかってしまい、主体性や創造性を発揮出来ない若者を大量に生み出してしまったのである。客観的合理性の教育が不必要だと言うつもりはないが、あまりにもそれにシフトするのは危険である。主体性や創造性を育てる教育、つまりは明治以降に切り捨ててきてしまった、人間教育としての思想哲学教育とも言える、自己を育てる教育こそが、今必要とされているのである。それこそが知識偏向から智慧を育てる教育に変える早道なのであると、教育関係者は心得てほしいものである。
夢を持てない若者 [2014年10月18日(Sat)]
 26歳の北海道大学生が、シリアに渡航してイスラム国の戦闘に加わりたいと企てていたというニュースは、多くの国民に衝撃を与えた。それも、イスラム国の理念や考え方に共感しての行動ではなくて、ただ単に現実から逃避したかっただけだと伝えられている。何かの信念にかられての戦闘員志望ではなく、就職活動に挫折してしまい、夢や希望が見出せないから、悲惨な状況に身を置きたいと願っただけだという。死ぬことに恐怖はなかったとし、戦闘員として誰かを殺したかったとも語っていたという。そんな若者をいさめる大人が周りには誰も居なくて、逆に手助けして渡航させようとした愚か者が居たらしい。実に情けないことである。

 この北大生は、とても優秀な学生だったと言われている。大学を卒業して一旦私企業に就職したが退職して、その後北大に入学したという。おそらく、就職した企業で自分の居る場所がなかったのではないだろうか。何か目的があって北海道大学の理学部に入ったのではないと思われる。現実からの逃避癖は、今始まったことではなくて、以前からあったのではないかと思われるような経歴である。このような夢も希望もなくしてしまった若者は、特異な存在かというと、けっしてそうではない。このように何も深く考えず、この世の中に絶望してしまい、現実から逃げてしまいたいと思う若者が、急増しているという。

 このように社会に絶望し、現実逃避をする若者がいる理由は、夢や希望を持てないような社会だからであり、けっして若者にその責任はないと主張する人たちがいる。日本においては政治や行政に期待出来ないし、かといって経済にも希望が持てないと主張する人々は少なくない。いくら頑張っても、報われない社会だから夢が持てないのだと思っているのである。確かに、そういう側面があるのは否めない。しかし、だからといって現実から逃避してしまうのは、あまりにも短絡的ではないだろうか。今の社会が間違っていると思うなら、政治を改革したり経済をイノベートしたりする努力をすることが必要であろう。1人の力ではどうしようもないというなら、同じ意識の人々のネットワークを組織して社会を変革する気概を持ってほしいものである。

 5年か6年に一度の頻度で、高校生の意識調査国際比較をしている。そのアンケート結果において、米国、韓国、中国の高校生と比較すると、日本の高校生だけが極めて異常な数値を示す項目がある。それは、自己肯定感と難題や課題に対するチャレンジ精神についての調査項目である。他の国の高校生は、自己肯定感と難題課題にチャレンジしようとする意識が軒並み7割から9割と高いが、日本の高校生だけが1割から2割と、異常に低い結果を示している。つまり、日本の高校生は難題課題に立ち向かう精神が低くて、現実の問題から逃避する傾向にあるということが判明しているのである。これでは、社会を変革しようなんて思えないのも当然である。

 このアンケート結果から見えてくるのは、今の若者は自己肯定感が異常に低い為に、目の前に難題課題が現れると、それを解決しようとは思わず、現実から逃避してしまう傾向にあるということである。イスラム国へ戦闘員として行こうとした北大生は特異な存在ではなくて、このような現実逃避をしてしまう若者は、他にも多数存在するのである。当然、夢とか希望などというものは、彼らには無縁のものなのだ。これは、社会に原因があるのではなく、若者自身にあると言わねばならない。しかし、社会そのものに問題はないものの、こんなにも自己肯定感の低い若者を生み出した責任は、私たち大人にあるのは間違いない。自己否定感が強い若者を生み出した原因は、やはり教育の欠陥であろう。

 自己肯定感が強くて、難題課題にチャレンジする精神性を持ち、自分の力で道を切り開く勇気を持つような青少年を育てるような教育をしてこなかった責任は、私たち大人にある。学校教育ばかりでなく家庭教育においても人間として何のために生まれて何のために生きるのかという根源的な思想哲学を教え導くことを、まったくしてこなかったのである。学校教育においては、あえて思想哲学の教育を避けてきたのだ。イスラム国に向かおうとした北大生もまた、形而上学を排除した知識偏重の教育の犠牲者なのかもしれない。知識や技能だけの教育がどれほどの危険性を生むのか、この実例が如実に示している。夢を持ち得ない若者をこれ以上生み出さない為に、思想哲学をしっかりと教育したいものである。
愛国心とナショナリズム [2014年02月14日(Fri)]
 愛国心という言葉から連想されたり同義語として誤解されたりするのが、ナショナリズムという言葉である。ナショナリズムというと、国家主義や国粋主義と訳されているが、愛国心がナショナリズムの高揚の為に利用されてきたという歴史があることも否定できない。その為なのか、愛国心という言葉が軍国主義や帝国主義につながるからと、教育現場では長い期間疎まれてきたのも事実である。特に日本教職員組合いわゆる日教組は、愛国心の教育を教育現場に持ち込むことを頑なに拒んできたし、君が代の斉唱や国旗の掲揚にも反対してきた。愛国心がナショナリズムと結びつくことを怖れた為と言われている。

 このような歴史があるせいか、愛国心という言葉に対して、平和主義を尊ぶ人たちは拒否反応を覚えることが多い。確かに、戦前戦中は愛国心という言葉を、国家に対する忠誠心を国民に醸成する為に利用していた事実があり、愛国心という言葉を口に出すのが憚れる気がしてならない。だから、安部政権も愛国心という言葉よりも郷土愛というような言葉に置き換えて、国会答弁をしている。そこまで気遣いをしないと、やれタカ派だの右翼だのと非難されるからであろうが、愛国心という言葉はそんなに危うい言葉なのであろうか。西欧の人々に限らず世界中の人たちは、誰憚ることなく愛国心という言葉を使っている。どうして、日本人だけが愛国心という言葉を忌み嫌うのか、とんと解らない。

 お隣の中国や韓国は、学校教育で徹底した愛国心の教育を行うらしい。しかも、反日のネガティブキャンペーンも含めて実施して、偏った歴史観の教育もされていると言われている。このような愛国心の教育も、ちょっと頂けない気がするが、日本の教育現場で愛国心について学ぶ機会をすべて排除するというのは、もっと頂けない。何故なら、国を愛する心を待たせないようにして、自分たちの過去の歴史を全否定することで、子どもたちに自己否定感を大きく醸成させてしまう危険があるからだ。実際、世界各国の中で愛国心を持たない比率が一番高いのが日本であり、子どもたちの自己否定感情が高いのもトップクラスである。それがすべてイコールではないとしても、大きく影響しているのは間違いないだろう。

 自己否定感が低いのは、勿論愛国心がないことがすべての原因ではない。自我(エゴ)の克服を成し遂げて、真の自己確立という正常な精神発達をしていないからである。だとしても、自我を克服して自己確立をする際に必要なのは、自己を愛する心である。どんなに嫌な自己や恥ずかしい自己であっても、そんな自己も含めてすべて受け容れて認めて、それでも自分なのだとまるごと愛する心が必要なのである。日本における過去の侵略の歴史(違った歴史観もあるが省略するので了解願いたい)を、ことさらに自虐的に取り扱い、これでもかこれでもかと日本と日本人を苛め抜くような記述は、子どもたちに日本という国と日本人を嫌いにさせないだろうか。

 それでも、日本人は世界平和に最大限の貢献をして、多くの恵まれない発展途上国に援助の手を差し伸べて、立派な日本人が海外でも活躍しているという歴史を教えることが、大切ではなかろうか。そして、過去の悲惨な歴史を乗り越えて頑張る日本や日本人のことに脚光を当てて、日本や日本人って素晴らしいなと思ってもらうことのほうが大事だと思う。そうして、日本や日本人が好きになり、やがては日本人である自分が好きになることの大切さをも学ぶことになろう。だから、愛国心ということを教えることは、何ら恥じることはないし、おおいに誇れる日本だと鼓舞してもいいと思う。

 今の日本人は、愛国心もないばかりか、自己愛もそうだし、家族愛や愛社精神もなくなったと言われている。だから、自己愛の障害である人格障害も急増しているように感じられる。素直に、自分を愛し、家族を心から愛し、自分の会社を敬愛することをしたいものである。その為の第一歩として、自分の国を素直に愛する心を育む教育をしてもいいのではないだろうか。教育基本法に、国(郷土)を愛する心を育てる教育をしていくと宣言したのは、素晴らしいことだと思う。しかし、それがナショナリズムと結びつけるとか、権力者の体制維持、または過剰な戦力維持の道具として使われることのないように、切に願うと共に、そうならないように監視していく必要があることも付け加えたい。
教育者としての使命と役割 [2013年08月15日(Thu)]
 学校教育とか家庭教育、社員教育であろうと、教育をする者としてのその使命と役割が重大であるとは、誰しも共通の認識だろうと思われる。しかしながら、その重大な使命と役割が何であるのか、正確に認識している教育者は殆どいないのではないだろうか。何故なら、それらの教育を受ける者たちの殆どが、学ぶことに対してけっして能動的とは言えない態度であり、学ぶことの楽しさを味わっているとは思えないからである。それ故に、教育効果があまりにも低いばかりか、誤った教育に対する考え方が蔓延し、社会への悪い影響を与えているように感じる。あまりにも自己本位で、責任感もなく自主性と主体性のない、自分のことしか見えず目の前の欲望に押し流される人間が、あまりにも多いのは、教育の不備や失敗によるものだと確信する。

 そもそも、何のために教育をするのかという理念さえも誤解している教育者が多いことに驚く。子どもたちに、何のために学ぶのか?と聞くと、自分の為と答える子どもが殆どである。ここからして間違っているのだから、教育の理念などないに等しい。保護者も含めて多くの教育者は、良い高校大学に入って安定した優良企業に就職することを目標にしなさいと子どもたちに言い聞かせ、勉強は自分の為と公言して憚らないのである。これでは、子どもたちが勉強を好きになる筈もないし、勉強の成果などあがることなど期待できないであろう。何故なら、学ぶ本当の目的は他にあるし、なにしろ人間という生き物は、自分の為には頑張れないように出来ているからである。

 という私も小さい頃から、勉強は自分の為にするんだと親や教師から言われて育った。おかげで、勉強が大嫌いでいつも落第すれすれの点数であったが、かろうじて高校を卒業後に私立大学を出て、地元の安定した団体の職員として就職した。当然、自ら勉強する気持ちにもなれず、好きな読書はしたけれど、就職した後も人間として大切な思想哲学の勉強さえしない、まったくのお気楽人間として人生を送っていた。今から思うと、まったく恥ずかしい限りであり、若いときにもう少し勉強すれば良かったと思っても、今さら後の祭である。そんな馬鹿な自分も、我が子の子育てをして行くうちに、教育の真の目的を気付かせられたのである。

 教育は何の為にするかと言えば、周りの人々を幸せにする為である。つまり、全体最適という人間全体の命題を実現する為に、人間は学ぶのである。人の為世の中の為に学ぶのであるから、勉学を怠けてはならないのだ。自分の為だけなら、将来困るのは自分だけだから、自己責任なので勉強しないのも許される。しかし、この世界全体や宇宙全体の為に学ばなければ、自分のせいで社会全体を不幸にするかもしれないのだ。責任が重大なのである。IPS細胞を発見した山中教授が、もし若い頃勉強しなかったら、研究の成果を得られずに、多くの人々を幸福に出来なかったかもしれない。エジソンやビルゲイツが幼少の頃に勉強しなければ、私たちの生活はこんなに便利にはならなかったかもしれない。

 学ぶ目的が明確になれば、子どもたちは生き生きとした勉学態度に変化する。そして、第二弟三の山中教授も出現するであろう。そのような学びに対する考え方、つまりは思想哲学を子どもたちや社員たちにしっかりと伝えるのが、教育者としての使命であり、大きな役割だろうと考える。そして、自ら進んで学ぶ姿勢を持ち、喜びを持って社会のために働くという、自発的で主体性を持ち、しかも自らの責任感をしっかりと持った人間を育てることが、教育者としての大きな使命であり役割でもあると考える。恥ずかしながら齢60近い年齢になった今、勉強が楽しくて仕方がなく、思想哲学の勉強を続けてさせてもらっている。どうしたら多くの人々を混迷の世界から救い出せるか、そして真の幸福を多くの人々にもたらすことが出来るか、浅学菲才の私なので成果はあまりあがらないが、毎日勉学に勤しんでいる。おかげさまで、何の為に学ぶのかという真理を、自分の子どもたちには伝えることが出来たと思う。正しい教育をすることが、人間としての大きな社会貢献なのだと確信している。
父性と母性の役割 [2013年08月07日(Wed)]
 つい先日のTVの討論番組で、父性と母性の役割についてウーマンリブの代表とも言われる著名な元大学教授の女史と、父権復活支持者の評論家諸士が喧々諤々の論争をしていた。民放のテレビで、こういう問題を真面目に討論する機会もないし、なかなか面白い論理を展開していた。女性の権利を主張して、女性一人でも子どもを立派に育てられるとする女史と、やはり父性を発揮する父親が家庭には必要だとする男性の主張は、いつまでも平行線を辿る。そして、どちらもその実例をあげて、自分の説が正しいのだと主張しているのだが、どちらの説も納得し兼ねない気持ちにさせられる。というのは、彼女彼らのあげている実例は、一般論ではなくて特殊な実例をあげているからである。これでは普遍的な理論にはなりえないのではないだろうかと思った次第である。

 母親だけで立派に育てた実例としてあげられたのは、芸能人や偉人たちである。また、父親の立派な父性が立派な子どもに成長させたという実例も、偉人や芸能人である。そもそも立派な人間というのは、社会的に認められた芸能人や偉人だけであろうか。これらの人々は、世の中のほんのごく一部であり、大多数の人々はこの理論に当てはまらないのは当然である。ごくほんの一部がそうであるから、すべての人間がそうだという論理は、いささか乱暴過ぎるであろう。ましてや、偉人や芸能人の大多数は、何らかの鬱屈した人格や感情を抱えていて、それが成功へと導いた陰の原動力になったということは否めないだろう。とすれば、やはり特殊な例をあげて一般論として定着させるには、相当無理があると思うのである。

 女性一人の子育てでも、母性と父性を共に上手に発揮して成功している例は少なくない。しかし、それはあくまでも表面上のことである。その子どもの心の内面に迫ると、実は多くの問題課題を抱えていて、実に生きずらい人生を送っていることが少なくない。何故なら、そもそも母性と父性というのは相反するものであり、1人の人間の中に両立させたとしても、その母性と父性を受け取る子どもに取っては、どちらの母親が本当の母親なのか、微妙な迷いや不安が生じるのである。やはり、両親のどちらかが母性を演じ、片方が父性を演じるほうが、子どもは納得しやすいのだ。勿論、男性が母性を発揮してもいいし、女性が父性を発揮してもいいだろう。こと子どもの心にしてみれば、1人の人間が両方発揮するというのには相当無理があると思われる。

 そもそも母性と父性というのは何であろうか。父性は条件付の愛であり、母性は無条件の愛と言われている。または、仏教的に言えば母性は慈悲や情であり、父性は智慧や理であろう。つまりは、どちらにも相反することであるから、大人してみれば両立は可能であるが、子どもにしたら迷いが生じるのであろう。間違いなく言えることは、子どもに取って先ず必要なのは母性(無条件の愛)であり、それが満たされて初めて父性(条件付の愛)を受け容れることが出来るのである。この順序を間違えると、子どもは一生苦しむことになるのである。つまり、最初に父性を発揮して育てられた子どもは、自我を克服出来ずに、自己の確立がなかなか出来ずに、真のアイデンティを持てなくなるのである。実は、現代における大多数の人々は、このアイデンティの確立が出来ずに大人になっているのである。それは、とりもなおさず母性と父性が正しく発揮されずに育てられているという証左でもあろう。

 さて、それでは何故そんな状況に陥っているかと言えば、一番問題があるのは父親である。たとえ二人親だったとしても、父親が正しい父性(条件付愛)を発揮出来ていないからである。子どもに気に入られようと、妙に子どもにおもねるというかご機嫌取りに終始して、しつけが出来ていないのである。当然、母親は安心して母性を発揮出来ずに、しつけである父性を最初に発揮することになる。さらに、子どもに対して思想哲学を教えるのは、やはり父性(理)であるから父親である男性の役目であるが、自分自身のしっかりした哲学を持ちえていない父親であるから、世の中の理(ことわり)を教えられないのである。父性と母性の役割を、親たちはしっかりと勉強しなおして、正しい子育てをしてもらいたものである。特に、男性諸君は父性の何たるかをしっかりと学んで子育てしてほしいものだ。
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