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科学を超える科学の必要性 [2016年03月29日(Tue)]
 世の中では、科学的な考え方を否定した価値観を取り入れる人々が増えてきた。スピリチュアルな考え方や生き方、または信仰を基にした思想哲学を大切にする人々である。それが科学的に正しいことだとはなかなか証明できないし、観念的に正しいことだろうという思いだけで信じている人が殆どであろう。それはそれとして、非科学的な価値観であっても、人々を正しい道にいざなうのであれば、まあ仕方ないかと黙認している人も多いことであろう。ところが、非科学的な根拠に基づいて、人々を惑わしている人もいるのだ。それを、ウェブサイトにていかにもこれしかないというような語調でアップするものだから、まるっきり信じてしまう人も多い。実に困ったものである。

 例えば、スピリチュアルな占いや自己分析、または開運グッズ、疑似科学とも言えるような根拠を基にした装身具などである。勿論、それがプラセボ効果により有効なのだとする程度なら許せるから、とやかく言うことは差し控えたい。しかし、こんな非科学的なものを科学的に正しいと信じ込ませて、多額の代金をせしめているのは実に嘆かわしい。それがいかにも科学的に有効だと思わせるように、訳のわからない言葉で説明しているのを見ると、これは明らかに詐欺だろうなと思わざるを得ない。こんな商売を生業とするのは、所詮いかさまであり、本人もまた騙されているとしてもそんな詐欺の片棒を担ぐ訳だから、けっして許されることではない。

 過去の歴史から見ても、非科学的なものは結局排除されてきたのである。科学的に根拠のないものは、やはりまやかしでしかないのである。それでは、スピリチュアルなもので科学的に説明がつかないものは、すべて正しくないのかというと言い過ぎになる。何故なら、現代の科学では説明できないものもあるからである。その線引きが非常に難しいのである。強いて言えば、スピリチュアルなものでも科学的に今は説明がつかないけれど、徐々に解明されつつあるものについては、信ずるに足ると言えるであろう。例えば、集合無意識や輪廻転生といった事実である。これは、科学的にはいまだ完全解明はされないが、信ずるに足る根拠が存在するからである。

 さらに、今まで宗教の世界でしか信じてこられなかった事柄が、科学の力によって証明されつつあるという事実もある。仏教の「一切空」や「縁起律」の理論が、量子力学や宇宙物理学の世界で解明されようとしているのである。華厳経において、この世は実体がなくすべては縁(関係性)によって実体が存在していると説かれていることが、量子物理学における素粒子の研究で徐々に証明されているのである。観念でしか認識出来なかったことが、科学的真理として解明されるというのは実に不思議なことなのである。現代の科学では証明されないけれど、30年後から50年後には完全に解明されるだろうと思われる事実も少なくないのである。

 それでは、スピリチュアルなもの、または観念的でしかなかったもので正しいものと間違っているものとの区別はどうすればいいかということである。すべてが当てはまるとは言い切れないが、おおよそこんな基準で考慮すると解ると思われる。一つは、金儲けの手段にしているかどうかである。二束三文の作成費で作られたものが異常な高値で販売されている物がある。人々を幸福(幸運)にいざなうというならば、そんな高額に設定する筈がない。また、異常に高い講座代金や高い資料・読本を要求するのも危険だ。それも、何度も講座を受講させて、やがては法外な料金で資格を取得させるというのは、まず論外であろう。二つ目は、危険だと社会を煽りたて、陰謀説で人々を惑わす輩である。例え、真実が含まれているとしても、人々を疑心暗鬼にさせて関係性を分断させるようなやり方は、絶対にしてはいけないのである。それは、悪の手先として利用されているだけだ。

 とは言いながら、スピリチュアルなものや観念的なものであっても正しいものを見抜き、それを生きる糧にして、多くの人々を幸運や幸福に導くことに利用するのであれば、積極的に支持したい。科学とは、本来人々の生活を豊かにしたり幸福な暮らしを実現したりする為にある。そういう科学哲学の観念を念頭に置き、科学を超える科学としての形而上学を基礎にした科学を目指したいものである。アインシュタインが形而上学を忘れた科学は、人々を幸福にすることが出来ないと晩年になって主張していた。科学を超越した科学が、今求められている。宗教と科学の統合は、まさにそういう価値観から生まれている最先端の複雑系科学と言える。人々の真の幸福実現は、科学を超越した科学に委ねられている。
本能と理性 [2014年06月21日(Sat)]
 本能と理性は本来相容れないものであり、相対的なものとして捉えられている。本能に支配されてしまうと理性を失ってしまうし、理性が正常に働いてる場合は本能をある程度抑えることが出来ると考えられている。理性が勝ち過ぎると、実に詰まらない人間に見られたり、精気が感じられなくなったりもする。ましてや、根源的な本能である食欲や性欲がまったくなくなったとしたら、生命の維持や種の保存さえも危うくなるだろう。一方本能が暴走すると、反社会的な行動をしがちになり身勝手な人間だと思われてしまい、社会生活が成り立たなくなる。そこで、多くの人々は本能と理性をバランス良く取りながら生きるべきだと考える。確かに、理性が勝ちすぎてもいけないし、本能に弄ばれるのも良くない。ある程度の折り合いが必要なことは言うまでもない。

 それでは、本能と理性とはどのくらいの割合でバランスを取れば良いのであろうか。ある真面目な人は、本能は2割から3割ぐらいで抑えるべきだと言う。ある自由奔放に生きている人間は、本能を極力押さえ込まず、人間はあるがままでいいのだから、理性は2割か3割くらいでいいと主張する。またある人は、バランスの良い生き方は、フィフティフィフティがいいと語る。どの考え方も一理あるようにも感じる。本能は生きるうえである程度必要であるし、理性だって社会に適応するためには必要である。ということなら、やはり本能と理性は半々ずつくらいがいいのだろうか。そうすれば、人間は幸福な人生を送ることが出来るのだろうか。

 暴走しやすい本能を法律や宗教などによって、コントロールしてきた歴史がある。それでも、時折世間では欲望が暴走したかのような事件が頻発する。飛鳥の覚せい剤事件などは、まさに欲望という本能が暴走してしまった一例であろう。覚せい剤を使用しての性行為は、一度経験したら忘れられなくなるらしい。覚せい剤は脳に通常放出される何十倍何百倍の快楽ホルモンと同じ効果を産み出すのだから溜まったものではない。シャブのとりこになってしまったら、なかなか抜け出せない。身を滅ぼすしかない。こういう場合、理性は完全に本能に飲み込まれてしまうのである。最近は、パチンコなどのギャンブル依存症にはまってしまって、個人破産に追い込まれている人間も多いらしい。これも、理性を本能が凌駕してしまっている例であろう。

 それでは、人間という動物は基本的に本能を理性によって押さえ込むことは難しいし、理性と本能をバランスよく生きることが困難なのであろうか。倫理観や道徳観念を子どものうちから厳しく指導教育したとしても、理性は本能によって駆逐されてしまうのであろうか。実に情けない話ではなかろうか。世界における様々な宗教の殆どが、やはりこれらの欲望である本能を抑えるべきだということを説いている。一部の新興宗教に例外はあるものの、おしなべて欲望である本能を押さえ込むことの大切さを力説している。身を滅ぼすことになるからであろう。仏教も「足るを知る」という言葉で欲望を抑えることを説いているし、苦の源が本能により生まれて来るものだとも言っている。四苦八苦の中には、求不得苦や五蘊盛苦という苦しみがあるのだと説いている。

 ところが、仏教の経典の中で唯一欲望さえも肯定しているものがある。「理趣経」と呼ばれる経典である。このお経は非常に誤解を受けやすいので、厳しい修行によって悟りを開いた人でないと、読んではならないという制限があり、唐から持ち帰った弘法大師空海は、門外不出としたらしい。本来は生きるうえでは制限されるべき愛欲という本能さえも、清浄なる菩薩の境地のひとつであるから、あるがままで良いと説いている。言い換えると、人々の幸福を願いその実現の為に愛欲というエネルギーが有効に働くのであれば、それを肯定することもあろうとする考え方である。つまり、本能と理性が統合された生き方こそが、求められるのだと言っているようだ。ということは、本能と理性というものは、お互いに相容れず相対的ものだと考えるのではなく、どちらも必要でありどちらも肯定した生き方をすべきだということである。実に面白いし、こういう考え方で生きるなら、本能の暴走を止めることが出来るに違いない。
神秘性への憧れ [2014年03月20日(Thu)]
 神秘的なものを信じる人と、一方ではそんな非科学的なものは一切認めないとする人がいる。科学的に証明出来ないものは、真実ではないとする考え方は社会一般の良識として定着している。確かに、実際に明らかな物証がなければ、そんなことはあり得ないこととする認識論的な人は、この社会では大多数であろう。元々神秘性を信じる人は、マイノリティであった。しかし今、神秘性に憧れを抱く人間がかなり増えているように感じる。シンクロニシティ(共時性)を信じている人も増えたし、過去世や前世を信じている人も増大しているという。さらには、霊の存在ばかりか神の存在さえもごく普通に信じる人間も少なくないらしい。TVや雑誌でも、神秘性を扱った番組や特集が組まれていることもあり、今ではこの社会でも市民権を得たような気がする。

 さて、どうしてこんなにも神秘性への憧れを持つ人が増えたのであろうか。いろんな見方はあろうが、ひとつには考え方に多様性を持つ人が増えたということも言える。けれども、もう一つの見方として現状に満足出来ずに何らかの救いを求めている人が沢山いるということも言えよう。つまり、職場や家庭、地域において評価されず、求められず愛されず冷遇され、生きていることに喜びを見出せない人々が沢山いるということだと思われる。そして、それらの人々はその原因が社会にこそ問題があると思い、自分の努力では如何ともし難いと考えているのではないだろうか。だから、自分ではどうしようもないという無力感から、神秘的なものに救いを求めていると思われる。

 このような社会に対する閉塞感を感じた多くの人々が、神秘性に救いを求めた過去の事例がある。あの世間を騒がした何とか真理教の事件である。信徒になった多くの若者は、教祖の説法に狂信し、起こした奇跡に狂喜した。教祖のあまりにも神秘的な行動に熱狂したのである。そして、多くの若者はすっかり騙されて、凶悪犯罪まで起こしてしまったのである。どうしてあんなにも簡単に教祖を信じてしまったのかというと、やはり多くの若者が社会に対する閉塞感を抱えていて、現世に対する厭世観を持ったからではなかろうか。まさに、末法思想をそのまま信じて、教祖が説くままに反社会的行動に出てしまったと見ることも出来よう。現在の神秘性に対する憧れブームも、あの教祖が説いた神秘的な説法と基本的には同じだと言えはしまいか。だとすると、かなり危険なものだと言えよう。

 何某真理教に狂信してしまった若者たちは、どちらかというと教養が高く知能も高い。しかしながら、彼らはこの世に対して生きづらさを抱えていたのは間違いないだろう。社会から正当な評価を受けられず、阻害されたり疎まれたりして、行き場を失った若者が、唯一受け入れられ活躍出来る場があの上九一色村だったのではなかろうか。現在、神秘性に救いを求める人々が、同じようにこの世に対する閉塞感を持ち、生きづらさを抱えているとすれば、彼らと同じ道を歩みはしないかと心配になる。神秘的なものをすべて否定するものではないが、盲信することは危険である。現世を見限った原理主義者が、来世に望みをかけて自爆テロリストになる例も多い。第2第3のカルト教団が出てこないとも限らない。

 神秘的なものを狂信している人々は、自分たちはアセンションしつつあると信じ込み、他の多くの人々は救われないと思っているらしい。自分たちは、信じているから次元上昇して救われると本気で信じている。でも、よく考えてみてほしい。もし、神という存在があるとしたら、人々を救われる人と救われない人とに分断するようなことをするだろうか。神や宇宙意思、もしくはサムシンググレートと呼ばれるような存在は、人々をそんなふうに区分けすることをけっして好まない。何故なら、この世に存在する生き物も含めたすべての物質は、関係性によって存在しうるのであるし、常に全体最適を目指すようになっているのである。このシステム思考から外れて、一部の人間だけを救うなんてことを『神』が認める筈がないのである。

 神秘性に憧れることはけっして悪いことではない。しかし、オカルト教団や宗教の原理主義者のように、神秘的なものだけを狂信して、現実に眼を背けるようなことをすべきではない。満たされない自分の現実を憂い、その原因を社会の制度や組織だけに押し付けて、自分の至らなさを反省しないという態度は頂けない。自らの自己を深く省みて、自我から自己への変革を自らの努力により実現させようとする意識が大切ではないだろうか。そのような自己マスタリーを実現させてこそ、真の神秘性を理解できるのであるし、後の人生において神秘的で不思議な出会いや出来事に遭遇することになるのだ。自分の努力なしに、神秘性だけで救われたり社会変革が適ったりすることは、けっしてありえないことを認識すべきだろう。神秘性を、一時手放す勇気を持ちたいものである。
魔物が住むオリンピック [2014年02月19日(Wed)]
 オリンピックには魔物が住むというあまりにもセンセーショナルな見出しが、新聞や雑誌の紙面に踊っている。普段の実力を出し切れば優勝間違いなしと言われていた選手が、平凡な成績に終わることが、オリンピックの舞台においてはしばしば起きる。または、思わぬ転倒や失敗をする選手も続出している。世界選手権やワールドカップなどとは遥かに違った、ものすごいプレッシャーがあるらしい。経験した者でなければ到底解らないであろう大きな不安や恐怖心が心を支配してしまうというのだ。国民や周りの人々の期待が大きければ大きいほど、その巨大なプレッシャーに押しつぶされるのであろう。気の毒なくらいである。

 また、直前になって体調を崩したりケガに見舞われたりする選手が不思議と多いのも、このオリンピックの特徴である。わざと病気になるとかケガをするという選手がいる筈もないであろう。しかし、これだけ病気とケガの選手が続出するということを考えると、やはりオリンピックには魔物が存在するというのもあながち否定できないように感じる。おそらく、極度の緊張感や不安感、そして恐怖感に襲われると人間の筋肉は、思うように動かなくなるのかもしれない。または、プレッシャーが大き過ぎると、自律神経のバランスが崩れてしまい、自己免疫機能の破綻を起こすことで思わぬ病魔が忍び寄るのであろう。そう言えば、サッカーのワールドカップの直前に病気になったりケガをしたり選手も増える傾向にある。

 それでは、すべての選手がそうなってしまうのかというと、けっしてそうではない。実際に、普段どおりの実力をいかんなく発揮して素晴らしい成績を残している選手も少なくない。こういう選手にとっては、オリンピックには女神が住むという気持ちになるのかもしれない。どうやら、オリンピックには魔物と共に女神も同居しているらしい。スポーツコメンテーターの誰かが、こんなことを言っていた。オリンピックに魔物が住んでいる訳ではなくて、自分の心の中に魔物が住んでいるだけなんだと。確かに、魔物にするか女神にするのかは、自分の心が決めるもの。自分の心がどういう状況にあるかで、魔物になるか女神になるかが決まってきそうではある。

 とは言いながら、いくらメンタルトレーニングの高名な先生に依頼して訓練を積んだとしても、やはりオリンピックは特別な舞台。どうしても、心が平穏でいられる筈がない。どうしたら、プレッシャーに負けずに実力が発揮出来るのであろうか。メンタルトレーニング界でよく言われるのは、ZONEに入るということだ。つまり、無我の境地になれたら緊張、不安、恐怖から開放されるという。禅の世界で言えば、ただひたすら座禅をして無になること。そうすれば、自然と身体がスムーズに動き、練習の時と同じように実力が発揮出来るらしいのだ。しかし、この無我の境地というのが難しいのも事実。滅多なことでは、この無になれないのが人間でもある。

 この心を空っぽにすることを最初に人々に教え説いたのは、仏陀である。釈迦が悟りを開こうと瞑想した時に、自分の心を無にされようとしたのだが、心の中に住む魔物が邪魔をしてどうしても適わない。この魔物を心の中から追い払おうと躍起になればなるほど、心を魔物が支配してしまう。魔物を心にはないことにしてしまおうとしても、どうしても駄目だと悟った仏陀は、逆に自分の心の中に魔物が存在することを素直に認め受け容れたということである。そして、その魔物が住む心を持つのが人間であり、その魔物を無くすのではなくて、魔物と共存しながら乗り越えていくという方法を選んだという。そして、心の中の魔物を調伏した釈迦はやがて悟りを開いたと言われている。

 この心の中に住む魔物とはいかなるものであろうか。いろんな言い方があろうとは思うが、この魔物とは宇宙の万物が存在維持する本来のシステムを否定するものではないかと考えるのである。元々、この世の中はひとつのシステムで出来ていて、本来は「空」なのである。つまり実体として存在しないもので無常であり、実体はそれぞれの関係性によって存在して、全体性でもって維持されている。このことは最先端の複雑系科学によって、おおよその所は既に解明されつつある。関係性と全体性を否定する心が魔物と言えはしまいか。この世には陰と陽が存在する。陰がこの魔物とすれば、陽は関係性と全体性を生かすシステム思考である。このシステム思考を認識し強く持つことで、オリンピックに住む魔物を女神に変えることが出来るのではないだろうか。
ニヒリズムを乗り超える [2012年05月25日(Fri)]
 「神は死んだ」という言葉を言ったのはニーチェである。ニヒリズムを言い表した言葉としてあまりにも有名である。このニヒリズムという言葉は、虚無主義と日本語に訳されているが、我々凡人にはいまいち理解しにくい言葉であり、何となく使用しているものの、その本質に迫るほど深い理解を示す人はあまりいない。しかし、今の日本人がニヒリズムに陥っているのは間違いないようである。政治や行政に期待や信頼も出来ないし、日本の経済にも期待できず、何をやっても上手く行かないのではという諦めの感覚に多くの人が支配されてしまっている気がする。

 それじゃ、ニヒリズムを一言で言い表すとしたら、どのような表現がぴったりするだろうか。それは、簡単に言うと『自分の中に信じられる自己がまったくない』ということである。つまり、自分自身を信頼できないし、他人も世間もまったく信頼できないということである。だから、神も仏も信じられないという状況に陥ることであり、くだんの「神が死んだ」という言葉が生まれたのであろう。私たち日本人はおしなべてニヒリズムに陥っているような気がする。

 こんなニヒリズムが横行している現代社会では、誰も努力する気も起きないだろうし、世の中を変えようなんて気にもならないのは当然である。若者は政治から遠ざかり、目の前の楽しいことにだけに没頭するのである。政治や仕事や国の行く末なんてどうでもいいことで、自分にとって今大切なことは、アプリやゲーム、音楽やアーティストのことである。株や為替の変動よりも、AKB48の人気投票の結果が心配なのだ。嘆かわしいが、ニヒリズムというのは、こういうことなのである。

 自分の中に信頼出来る自己がない人間は、何か新たなことにチャレンジすることも出来ないし、他人を信頼することも出来ないから、他人と関係性を持つことが出来なくなる。つまり、正常な結婚や恋愛も出来なくなるのである。勿論、自分の分身である子どもを作ることも出来ない。少子化の一つの原因は、ニヒリズムだと言ってもいいだろう。ニヒリズムが究極になると、自分の命を断つことさえしかねないから恐ろしい。こんなニヒリズムの人間だらけの世の中になると、政治も経済も立ち行かなくなるし、社会は崩壊に向かう。今の日本は、ニヒリズムの人間が急増しているから危険信号が点っていると言える。

 それじゃ、ニヒリズムに一度陥った人間は、二度と自分を信頼することが出来ないのだろうか。自分の中に、信頼出来る自己を確立するということが不可能になってしまい、ニヒリズムを克服できないのであろうか。いや、そうとは言い切れない。ニヒリズムを乗り越えることは可能だし、実際に克服してきた人も存在する。自分次第で、ニヒリズムを超克できるのである。その方法は、実に簡単である。自分の損得や利害を忘れて、人々の幸福実現の為に生きるのだ。人の為世の為にせっせと働くことである。そうすれば、ニヒリズムから脱却できるのだ。

 人は、誰からか頼りにされ求められ、感謝されることで生きている喜びを感じるものである。自分の物質的な豊かさや欲望を満たしたとしても、そんな幸福感はあっという間に冷めてしまうものだ。ましてや、そういう欲望は次第に肥大化してしまい、留まることを知らないから永遠に満たされることがない。でも、他人から感謝される幸福感は、ずっと続く。そして、他人から自分が愛され肯定されることで、大きな自己肯定感が醸成される。そして、信頼出来る自己を確立できるのだ。つまり、価値観の変革が必要なのである。そうすればニヒリズムは克服できて、死んだ神は生き還るに違いない。
自他一如 [2012年05月09日(Wed)]
 東北地方に未曾有の震災が起き、そして福島県で原発事故が発生し、今こそ人々の結びつきを深めようということで、「絆」という言葉があらゆる場面で使われている。この言葉が大切だともてはやされるということは、今の時代には人々の絆が希薄になっているという裏返しではないだろうか。つまり、本来人々の間にあるべき「絆」が薄らいでいるというこである。

 元々、人間と人間の間には深い関係性が存在している。切っても切れない深い縁が存在しているし、その縁によって様々な結果が起きていると言われている。お釈迦様は、それを縁起律として説明しているが、常人がこの縁起律を理解するのはとても難しいと、ご自身もおっしゃっている。「空」の理論と共に、これを理解するのは甚だ難しい。この理論は、頭で理解するのはかなり難しく、実感・体感するものだとも言われてきた。

 この「空」と「縁起」という理論は今、欧米のノーベル賞を受賞するような優秀な科学者たちがおしなべて注目している理論である。何故なら、最先端の科学を突き詰めていくと、「空」と「縁起」の理論が正しいという結論に導かれるしかないからだという。欧米の科学者たちは、お釈迦様はどうしてこの理論を2,000年も前に知りえたのだろうかと、不思議がっているのである。なんと、科学と仏教が統合されようとしているのである。

 さて、縁起律を理解するのが難しいというのは、「集合無意識」という概念や「一念三千論」というような理論が、客観的合理性で物事を考える癖がこびりついている私たちには到底認識出来得ないからであろう。しかし、縁起律という理論が科学的に真実だとすれば、「自他一如」という観念もまた単なる生きるべき指針ではなくて、科学的に真実なのである。このような認識に立たなければ、他人との良好な関係性は持ち得ないし、人間として正しい生き方も出来ないのではないかと思えるのである。

 「私」の中に「あなた」が存在して、「あなた」の中にも「私」が存在し、私とあなたは一体であるという「自他一如」を心から認識出来たならば、世の中に争いは存在しなくなる。戦争や紛争のない、平和な世の中になるに違いない。勿論、「絆」なんて言葉さえ、必要でなくなる。元々人間は皆ひとつなのであるから、他を愛することは自分を愛することになるし、他を傷付けるということは自分を傷付けることでもある。さらに、この他というのは人間だけでなく、他の動物や一木一草などの植物、そして鉱物も含まれる。つまり、自然と人間もまた一体なのである。

 この大震災と原発事故により、私たちは多くのことを学んだ。人は人によって支えられて生きているし、自然と私たちは一体のものであり、自然を制御出来るなんて考えは甘い考えであり間違いであったということである。自然を傷付けるということは、自分を傷付けることになる。自然と人間は一如なのだから、自然と共に生きなければならないということである。私たち人間は、「自他一如」という考え方を、この震災と原発事故により、深く再認識させられたと言えよう。これからの時代は、「自他一如で生きなさい」と地球という生き物「ガイア」が私たちに教えてくれたのかもしれない。
お寺がなくなってしまう! [2011年03月02日(Wed)]
 昨夜のNHKTVクローズアップ現代で、お寺さんがなくなってしまうという、実に衝撃的な話題を扱っていた。都市部で葬儀社がプロデュースする納骨堂の人気が高まり、お寺で葬儀をしてお墓に納骨する人が、著しく減少しているらしい。当然、檀家は減少してしまい、お寺を経営的に維持するのが難しくなっているとのこと。それでなくても、住職の後継者がいないのだから、益々お寺の数が減少していくのではないかと思われる。

 そもそも、今の時代において日本の仏教は儀式だけのものになってしまっている。本来の信仰としての対象になっていないような気がする。お葬式や法事の為のお寺さんであり、信仰のためのお寺の機能は、なくなっている例が非常に多くなっている。本来の信仰の機能を残しているお寺が圧倒的に少ない状況だ。ましてや、昔の日本のような生活に密着したようなお寺は、殆どない状況だ。ここ白河には沢山のお寺が残っているが、一部のお寺では本来の機能を取り戻そうと、真剣に取り組んでいる。

 江戸時代までのお寺は、まだ民衆に寄り添った活動をしていた。お坊さんは、人々の悩みや苦しみの相談相手になっていた。つまり、民衆のカウンセリングをしてくれていたのだ。困ったことがあると、何でも相談に乗ってくれて、その解決の交渉さえしてくれていたのだ。または、寺子屋と呼ばれる教育機関でもあり、公民館の機能や子どもたちの遊び場としての機能も有していたようだ。私が小さい頃は、住職が紙芝居や幻灯機を見せてくれて、現在の児童クラブのような役割も果たしていてくれたものだ。

 それが、いつの間にか収益があがることしか、お寺がしなくなってしまったような気がする。お布施がもらえるような葬式や法事はするが、人々を救い癒すような活動をしていない。また、戒名を高いお金で売るようになっている。本来は、故人の社会貢献やお寺への貢献の大きさで戒名が決まる筈であるが、出した金額によって戒名が立派かどうかを決めているのである。完全に、営利事業になっているのだ。人々のお寺離れが進んでいると嘆いているお坊さんが多いが、そもそも自分たちに問題があるように思えて仕方ない。

 そんな状況の中、こんなお寺があるとTVで紹介されていた。住職が街に出て、人々を自転車に乗って訪ね、いろいろな相談に乗っているお寺があるというのだ。悩みや苦しみを聞いてあげて、傾聴と共感をしてあげているという。勿論、仏教の教えを取り入れて、対応策や解決策のアドバイスもしてくれている。その住職はインタビューに答えて、こんなことを言っていた。「今、世の中は無縁社会と言われ、縁がなくなっていて人々の絆がなくなっている。だからこそ、仏教が本来果たす役割が求められているチャンスなんだと思う」と笑顔で前向きな発言をしている。最近は、このお寺さんの檀家が増えているという。

 また、自殺予防のための活動をしているお寺さんのネットワークも紹介されていた。まったく何の得にもならない活動に取り組むお坊さんたちに賛同して、浄財を寄付する人が増えているらしい。このように、お坊さんたちが本来のお寺の機能を果たしていることは、喜ばしいことである。そもそも、まともな法話やお説教が出来る僧侶が少なくなってしまっているのが情けない。今、深く仏教について勉学をして、庶民が理解できるような言葉で概念化して伝える能力を持っている僧侶が少ないような気がする。お寺がなくなってしまっているのは、今の世の中の仏教離れが原因なのではない。お寺が存続するかどうかは、僧侶自身の意識改革にかかっていて、本来のお寺の機能を取り戻すかどうかに命運が握られているに違いない。
パワースポット [2010年10月13日(Wed)]
 先日、長野県の善光寺と戸隠神社にお参りしてきた。勿論、登山のついでに行ったのであるが、以前から行きたいと思っていた所だ。牛に引かれて善光寺というフレーズで有名な古刹であり、そのご本尊さまは秘仏として誰も拝んだことがないという。今年はご開帳の年に当たり、特に参拝客が多かったという。もう既にご開帳の時期は過ぎていたが、多くの参拝客で賑わっていた。一方、戸隠神社もまた由緒のある神社で、天の岩戸の伝説ゆかりの神社としてつとに有名である。ここも人の波でごった返しの様相を呈していた。

 どちらも有名な観光地であるから、参拝客や観光客が多いのも頷けるが、富に若い女性が多いのには驚いた。最近の神社仏閣には、うら若き女性の姿が多いのに驚く。観光客気分ではなくて、真剣にお参りしているのである。善光寺のおじさんガイドが、盛んに説明していたが、善光寺はパワースポットだというのだ。勿論、戸隠神社も有名なパワースポットらしい。由緒のある神社仏閣だからお参りしているのではなくて、著名なパワースポットだからお参りしているというのだ。若い女性たちにとって、パワースポット巡りがブームらしい。

 女性誌やスピリチュアル系の本では、パワースポットに行くと、心が浄化されたり癒されたり、またはパワーがみなぎるというような記述が盛んにされているらしいのだ。人から酷い目にあったり苛められたりして、生き辛さを抱えて生活している女性たちは、こぞってパワースポットと呼ばれる神社仏閣に行くのである。どうにかして現状を打破したいと、または打ち破れそうな甘い期待を抱いて、パワースポットを訪れるのである。確かにその時は、エネルギーが満たされて心が癒されたような気がして、満足して帰るのであるが、しばらくするとまた同じ状況に陥るのが常である。

 何故かというと、彼女たちがパワースポットというものを誤解しているからである。雑誌やスピリチュアル系の本、またはマスコミやTV界も悪いのであろうが、パワースポットを誤って紹介しているせいもある。パワースポットというのは、人間にパワーをもたらす場所ではない筈である。それじゃ、パワースポットとは何かと言うと、そこに行くと人智を越えた存在と人間が繋がれるということではないだろうか。つまり、何か目に見えない偉大な存在、言い換えれば宇宙の偉大な意思とでもいうべきものと繋がり、本来自分の内に秘めたエネルギーの源泉と繋がり、そこから無尽蔵にエネルギーを引き出すことが出来る場所、それがパワースポットではないかと思うのである。

 だから、そのパワースポットに行けば、誰でも宇宙の意思と繋がり、自分の中心部と繋がることが出来ると思うのは浅薄な考えである。そうなる為には、度重なる努力が必要であり、自分自身を浄化させなければならない。つまり、厳しい試練や難行苦行が必要なのである。少なくても昔は、不便な所にあった神社や仏閣に、何日も歩いてお参りしていた。お伊勢参りなんて、何ヶ月もかけてお参りしたのである。そうやって苦労を重ねて、身を削るような思いをしてお参りしたからこそ、パワースポットと繋がることが出来て、ご利益がもたらされたのである。ところが今は、すぐそばまで車で行き、数分歩いてお参りできるのである。これでは、所詮繋がるのは無理である。

 善光寺や戸隠神社参りにも、ツアーに申し込めば、観光バスでたいした苦労もせずにお参りできる。実に気軽に参拝できるのであるから、便利である。しかし、その便利さがパワースポットの本来の機能を損なわせていると、気付くものもいないのは皮肉である。そういう私も、車で善光寺近くの駐車場に乗りつけた一人である。でも、翌日に高妻山という2,300メートルを越える山に登り、往復10時間もの歩行をして、くたくたになってから戸隠神社をお参りしてきた。少しは、修行らしきものを経験してきての参拝だから、神々しき存在と繋がることが出来たのかもしれない。何故なら、そんな登山をしてきて5時間運転して深夜に帰宅したにも関わらず、翌日はけろっとして元気に仕事をしているからである。パワースポットは、確かに存在するらしい。
新車の厄祓い祈祷 [2010年09月22日(Wed)]
 縁起を担ぐかどうかは別にして、新車が納車されると、神社などで厄祓いをするという人は結構多いのではないだろうか。一方、そんなことをしても、神様が事故に遭わないようにする力なんてないのだから、無駄だという人も中にはいるだろう。神社で無事故祈願をしてもらったのに、何度も事故に遭ったから、もうしないという人もいる。事故を起こすか起こさないかは、自分次第なのだから、神様や仏様にお願いすること自体がおかしいのだと言う人もいる。考え方は千差万別である。でも、無事故祈願をするかどうかは、何となく気になるところである。

 という私は、無事故祈願をするについては積極派である。今まで新車が納車されると、先ずは近くの神社に行って、お祓いをしてもらうのが慣わしだった。でも、今まで小さな事故は何度もあるし、wifeは廃車にするような事故に遭ったこともある。しかし、考えようであるが、身体を怪我したことはないので、軽く済んだのは神社でお祓いしたからだという思いもある。白河のような田舎では、多くの人が無事故祈願をするのが通例で、信心深いという地域柄があるのかもしれない。

 さて今回、新車が納車されたので、無事故祈願をしようと思ったのだが、単身赴任先の会津では、どこで受けようかと迷ったのである。今までは神社でしていたから、近くの神社で無事故祈願を受けようとしたのだが、馴染みのない神社ばかり。生まれ故郷の町には、超有名な神社があるが、何となく気が進まない。先年火災に遭い、本殿が焼け落ちたのだ。神様が、火事という災難から自分の住まいである社殿を守れなかったのは、どうも納得がいかない。変な理屈だが、そう思えたのだから仕方ない。(笑い)

 それで、いろいろと考えを巡らせていたら、毎日通勤している途中に自動車の無事故祈祷で有名なお寺があったことを思いついたのである。早速、ネットで調べて電話をしてみた。そして、仕事が終わって6時頃から祈祷をしてもらえないかと聞いたら、護摩炊きをするので時間外はしない。どうしてもというなら、予約が必要だという。9時から5時までの時間なら何時でも受け付けますとの返事。仕方なく、代休の時間をもらって4時に行って、先ほど電話した者だと言ったら、本日は会議があって出来ないと言うのだ。そりゃないよ、さっきどうして言ってくれなかったのか。しかも、僧侶の姿を拝見したら、どうも抱いていたイメージと違うのだ。こりゃ駄目だと感じて、退散することにした。

 さて、困ったことになった。どこに無事故の祈祷を依頼すればいいだろうと考えたら、思いついたのである。そうだ、実家の菩提寺があったではないかと。このお寺は、曹洞宗の長福寺と言って、住職はまだ若いが勉強家であり、立派な見識と人格を持っていらっしゃる。告別式や法事の度に、素晴らしい法話を聞かせて頂いている。謙虚さと慎み深さを持っていて、けっして法外なお布施を要求したりもしない。気持ちですから、出来る範囲で布施をお包みくださいと言ってくれている。あの住職に依頼しようと電話して、駄目もとで朝の7時からのご祈祷を依頼したら、快く引き受けて頂いたのである。

 翌日の6時50分に境内に車を入れると、既に御祈祷の用意がしてあった。住職は穏やかで親しみの持てる笑顔で迎えてくれたのである。早速、曹洞宗の儀式に則り無事故祈祷が始まった。最初、車のボンネットに浄めた水を含ませた筆で、何かの字を書いた。おそらく凡字の一種だろう。般若心経を詠んだ後、大般若経の要約らしきものを取り出した。何をするかと思いきや、車のドアのすべてを開けてくださいと言うのだ。大般若経をパラパラとめくり、大般若経を唱えながら、ドアから中に大般若経をかざして厄祓いをするのである。すべてのドアからその動作を繰り返してくれたのである。今まで、こんなにも丁寧に、しかも個別に厄祓いをしてもらったことはないので、大変感激した。田舎の小さな無名のお寺さんだからこそのメリットだと思う。

 そもそも、こういった儀式を行うのは、何も神様や仏様がある種の力を働かせて、無事故を起こさないようにしている訳ではない。これは一種の自分自身に対するアファーメーションやコミットメントであり、これだけの儀式を起こったのだから、事故は起きる筈はないし、大丈夫だという自己暗示なのである。つまり、無意識(潜在意識)に対して、事故に遭わないという、暗示をかけるのである。そうすると、深層無意識が事故を回避する行動を自然と取るのである。だから、昔から言うではないか、『信じる者は救われる』と。念じるとか拝むという行為は、自分の無意識に働きかける行為である。したがって、儀式は仰々しいほうが、ご利益はあるということになる。今回の御祈祷は、そういう意味では大変なご利益があるに違いない。住職に対しておおいに感謝したい。
仏都会津 [2010年09月08日(Wed)]
 仏都会津と呼ばれるほど、会津には素晴らしい仏像が多い。何故かというと、古刹名刹が多いからである。福島県内の他の地域に比して、その数は特に多い。それは、天台宗の最澄と並び称される名僧徳一(とくいつ)の功績によるものだ。奈良仏教の退廃ぶりを嘆き、東北地方に理想の仏教を広めようと、会津にやってきたという。彼の布教活動は、会津一円に留まらず、県内は勿論、宮城県や茨城県などにも及んでいる。恵日寺(えにちじ)という、今は無き壮大な寺院を足がかりにして、会津盆地に数多の寺を建立した。それらの寺に配置されたご本尊の仏像の数々が、今に残されているのであろう。

先日、しばらくぶりにそれらの仏像を尋ね歩いてみた。とみに著名な仏像は、湯川村勝常寺(しょうじょうじ)の国宝薬師如来三尊像である。両側に日光菩薩と月光菩薩を従えた薬師如来坐像は、その堂々とした威容を誇る。その鋭い目は、煩悩を射すくめるような眼差しをしていて、見る者を畏怖させる。この寺には、徳一和尚の坐像も現存している。ラーメンや蔵の街として著名な喜多方市には、国指定の重要文化財、願成寺(がんじょうじ)の阿弥陀三尊像がある。この阿弥陀如来は、会津大仏として地域の人々に親しまれている。両脇侍の観音菩薩と勢至菩薩も立派である。下の写真がそれであるが、光背には無数の仏像が彫られていて見事である。

会津坂下町には、上宇内の薬師如来像と立木観音と呼ばれる千手観音像がある。どちらも著名な仏像である。上宇内の薬師如来像は、勝常寺のそれと違い優しい眼差しをしている。立木観音は、その名の通り、生えたままの立ち木をそのまま彫り上げた仏像で、今でも根っ子はそのままだという。高さ8メートルの巨大な仏像は、人々の心の拠り所として崇められてきたのであろう。他にも、中田観音や鳥追い観音と呼ばれる『ころり三観音』等多くの仏像がある。休日にこうした仏像巡りもいいものである。白河から2時間弱で行けるから、日帰りでこれらの仏像を拝観できる。

私がこれらの仏像に惹かれるようになったのは、心理学を独学で勉強するようになってからである。宗教哲学と心理学はリンクしているし、仏像の存在は私たちに人生をどう生きるべきかを、如実に示してくれているように思えるからである。薬師如来が人々に説いているのは、人間のあるべき姿、つまりは理想の生き方を求める生き方である。逆に、阿弥陀如来はあるがままの貴方でいいのですよ、と受容と寛容を説いている。どちらも人間の生き方に関する大切な考え方である。芥川賞作家で僧侶の玄有宗久氏は、二つの仏像が示す生き方のどちらに偏らず、中間くらいが人間として望ましい生き方ではないかと言っている。確かに、言いえて妙である。

薬師如来と阿弥陀如来を、私はこんなふうに捉えても良いように思える。薬師如来は条件付きの愛であるから父性愛であり、阿弥陀如来は無条件の愛であるから母性愛である。どちらも子育てには欠かせないし、バランスの取れたそれらの愛により、子どもは健全に育つ。この関係は、不動明王と愛染明王にも当てはまる。父性愛である不動明王と母性愛を表す愛染明王という図式である。どちらの愛も担保された子育てが、子どもを心身ともに健やかに育む。今の世の中は、どちらかというと愛染明王や阿弥陀如来のようなお母さんが少なくなり、不動明王や薬師如来のような母親が多くなっているように思う。それは、父親がしっかりと不動明王と薬師如来のような父性愛を発揮していないからである。薬師如来と不動明王は、我が身を呈して、毅然として家族を守る父親像とも重なる。昔は、仏像を通して人間のあるべき姿を、会津の人々は学んでいたのであろう。だからこそ、数多くの傑出した人物を世に送り出してきたに違いない。そんなことを思い浮かべながら、仏都会津の仏像を拝んでいた。
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