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ゴルフは脳科学と心理学NO.2 [2017年05月22日(Mon)]
 ゴルフは脳科学と心理学だという事を、右脳と左脳の調和という観点から説明し、無欲・無心・無我の心が大事だと説いた。それでは、無欲・無心・無我の境地に至る方法について考察してみたい。無欲・無心・無我になるには、どうしたら良いかというと、一番手っ取り早いのは、「禅」である。只管打坐(しかんたざ)と言われているように、ただひたする座禅をして、無心になることである。気をつけなければならないのは、私たちの意識というのは厄介なものであるという点である。例えば、無心になろうとか無欲になろうと思えば、それは有意識である。自分の心を無我にしようとしたら、それは有意識になる。座禅は、悟りを開く為にするのだと思えば、それは無意識ではなくなる。座禅をする目的は、ただひたすら無心で座禅をすることだけである。

 ゴルフにおいても無欲・無心・無我になろうとはせず、無意識でそうなっていることが大事なのである。人間は考える葦であると言ったのは、パスカルである。考えないようにすることが所詮難しいのであり、考えないようにすることが既に無心でなくなる。心理学の分野においても、無心になるというのがどれ程難しいかは、想像に難くないであろう。私たちは、欲がなくなると生きていけない。食欲や性欲、また勉学意欲や向上欲がなくなれば、人間という種は滅びるし、人間の成長は止まってしまう。ゴルフにおいても、向上心がなくなれば上達しない。パラドックスのロジックに追い込まれてしまうのである。この相反する命題を何とかクリアする方法はないのであろうか。

 ひとつの方法は、強欲を捨て去ることである。人間というのは、その時だけ生き方や考え方を変えることは出来ない。普段は強欲な生き方や煩悩に引き込まれるような生活をしていながら、ゴルフの時だけストイックな行動をしようとしても難しいのは当然である。普段からストイックな生き方をすることで、いざという時に強欲や煩悩に翻弄さられなくなる。勿論、完全な無欲の生活をすることは叶わない。そこそこの欲で満足するようにしなければならないであろう。人間の欲は肥大化しやすい。だからこそ、仏教では貪りの心を捨て去ることが大切だと説いている。普段から貪るほどの欲を捨て去るような生活をすることで、ゴルフで失敗を少なくすることが出来ると思われる。

 完全な無心・無我の境地に至ることは出来ないと思うが、無心・無我の境地に近づくことは出来るかもしれない。ゴルフの時に無心に近づけないのは、強欲のせいもあるが、それだけではない。無心になれない原因のひとつが、不安感・恐怖感である。思い出してみてほしい。右サイドがOBゾーンだと言われると、右にスライスしたり逆に左にひっかけたりする。池越えのホールでは、魅入られたように池にボールが吸い込まれる。それは、不安や恐怖からショットが乱れるからである。これも、右脳のせいである。グリーンに近いアプローチショットほど、だふったりトップしたりするのも、不安感からである。自信がないからヘッドアップする。人間は、不安感と恐怖感があり、失敗したイメージを思い浮かべると、その通りに右脳が身体を勝手に動かすものである。

 この不安感・恐怖感を失くすことは困難である。人間の脳は、不安感と恐怖感を持つことでリスクを避けることが可能になり、種を保存してきたのである。不安と恐怖を完全に払しょくすることは極めて難しい。しかし、脳科学的に考察すると、不安と恐怖を減少させる方法がある。幸福感と満足感、または愛で心を満たすことである。そうすれば、不安や恐怖をあまり感じなくさせることが出来るのである。脳内ホルモンの一種である、オキシトシンとセロトニンを多く分泌することで、不安や恐怖から逃れられる。オキシトシンとセロトニンは、純愛や心身の豊かな触れ合いでも増えるし、社会貢献や他人の幸福に大きな寄与をすることで増大する。

 さらにゴルフで右脳によるミスショットを失くす為のもうひとつの方法がある。それは、ゴルフでの失敗の記憶を消し去ることである。これも難しいことであるが、不可能ではない。人間は、大変な失敗や悲しい出来事の記憶ほど、消し去ることが出来ず度々思い出しては苦しむ。同じミスショットを何度もやってしまうのは、右脳に蓄えられたミスショットのイメージを思い出させるからである。何度もOBを繰り返すのは、右脳に残像が残っているからである。この右脳の記憶を左脳に移し替えることが出来たら、ミスを繰り返すことがなくなる。その為に効果的なのは、自分の失敗を多くの人にカミングアウトしたりブログで公開することである。そうすると、自分の失敗を客観的に分析したり洞察したりすることになり、右脳から左脳に記憶を移し替えられる。このように、脳科学と心理学、または仏教哲学を活用することで雑念を失くせれば、ゴルフは格段に向上するに違いない。
ゴルフは脳科学と心理学NO.1 [2017年05月22日(Mon)]
 ゴルフはメンタルスポーツだと言われているが、最近のゴルフは科学的なアプローチによって、ナイスショットする方法が解明されつつある。勿論、基礎体力や技術は必要なのは言うまでもない。しかし、いくら体力・知力や技能があってもゴルフは上手くならない。何故なら、ゴルフのスィングやパッティングは、潜在意識(無意識)の脳によって影響を受けるからである。しかも、人間の無意識脳は、時折わがままになるし暴走する。さらに、心にある不安感や恐怖感がいざという時に身体の微妙な動きを止めてしまう。だから、脳内ホルモンの働きを含めた脳科学と心理学を認識し、右脳を上手にコントロールした人だけが上達しうるのだ。

 実際、脳科学や心理学を知らないくてもゴルフが上手なアマチュアプレーヤーがいる。また、スランプを経験したことのないプロゴルファーだっている。そういう人は、どちらかというと右脳型人間である。あまり左脳を使わないというか、左脳に支配されない人間である。直感型人間と言えばよいかもしれない。アスリート界ではその代表的な人がいる。野球の長嶋選手である。彼は余計なことを考えなかった。来る玉をただ打ち返すだけだった。彼は、左脳にあまり支配されず、右脳を上手に使える天才である。だから、ゴルフもあまり左脳で考えずに、右脳を自由自在に使えたら、間違いなく上達できる。こういうゴルファーはストレスやプレッシャーにも強い。ここ一番という時に、能力を最大限に発揮できる。

 ところが、ゴルフを実際にプレーしている人は、どちらかというと右脳の使い方がけっして上手ではないのである。教養や学識が多いアマチュアプレーヤーが多いので、左脳のほうを使っているケースが多い。潜在意識が支配する右脳を上手く使えないから、スィングやパッティングで失敗する。練習場やパッティンググリーンでは上手く打てるのに、いざラウンドになるとミスを繰り返す。頭の良い人ほど、理論家である。左脳を使ってプレーするので、右脳に支配されてしまうシーンでは失敗しやすいのである。脳科学的で分析すると、バックスィングは右手で引くので、左脳が支配している。バックスィングから切り返す段階から、右脳が支配する。故に、スィングやパッティングにおいて、考えている軌道と違ってしまうのである。特に打球の瞬間に右脳が悪さをするのだ。

 思い出してみてほしい。パッティングで思わず引っかけたり押し出したりする。自分で考えたパッティングのように、手が動かない。無意識で、やってしまうのである。スィングも同じである。無意識で、右肩が下がりすくい打ちをして左に引っかける。真っすぐ打つことを重視するあまり、打つ瞬間に手打ちになりトップしたりソケットしたりすることになる。プロのゴルファーでさえ、優勝を決めるパッティングでは手が動かなくなる。やはり、無意識がそうさせてしまうのである。右脳を上手に使えるゴルファーだけが、トッププレーヤーとして大成できるのである。

 それでは、右脳を上手くコントロールするには、どうすればいいのであろうか。左脳と右脳をバランス良く調和させたり統合させたりする極意はないかというと、ない訳ではない。今まで女子プロゴルフ界で最強のゴルファーは誰かというと、アニカ・ソレンスタムであろう。彼女は、右脳を実に上手くコントロールしていた。スィングする場所を1m四方として、頭の中でそのエリアを線引きする。そして、スィングをするまでは色々と攻略の仕方やスィング軌道とボールの軌道をイメージする。しかし、その1m四方に入ったら、何も考えなかったという。つまり、無心・無我の境地になれたという。彼女の正確無比なショットは、技術もさることながらこのメンタルコントロールに追うところが大きかったと言われている。

 我々のようなアマチュアゴルファーは、右脳をコントロールする為に、無心・無我の境地に至れるかというと、なかなか難しい。今までのプレーを思い出してみれば解るが、ナイスショットやスーパーショットをした時というのは、殆どが無心になれた時である。スポーツの世界では、ZONEとも言う。欲もあるし、不安や恐怖感を捨て去ることが出来ないのが、我々凡人である。先ずは、強欲を捨て去ること、そして不安感や恐怖感を捨て去ることが肝心である。言うはたやすいが、実際に行動をするのは難しい。しかし、この強欲を捨てて、不安感と恐怖感を捨てることが出来なければ、いつまでも右脳のいたずらから脱却できないのである。右脳を上手にコントロール出来たら、驚くほどナイスショットが続くであろう。無心・無欲・無我の境地でゴルフプレーをしてみたいものである。
遊びの達人は仕事も一流 [2016年10月06日(Thu)]
 古典落語に『百年目』という名作がある。元々は上方落語だったという説が有力で、米朝、小南などの名人が演じたが、江戸落語としては円生や志ん生が演じていた。志ん朝の百年目もいいが、私は馬生の演じる百年目が好きである。筋書は、以下のようなものである。ある大店の番頭が芸妓を集めて、向島の土手で花見に興じている。扇子を顔に被って芸妓を追い掛け回すのであるが、間違ってある旦那を捕まえる。扇子を取ったら、その旦那が自分の店のご主人様と解り青くなる。思わず言ったセリフが、「おひさしぶりです。ご無沙汰していました」

 さて、びっくりしたのは番頭だけではありません。旦那も、遊びのひとつも知らないと思っていた、普段硬いばかりの番頭が、こんな粋な遊びをしていたことが信じられません。芸者さんと一緒に顔を隠して踊る番頭の姿は、実に洒落ていて真似できないほどに上手だったのである。旦那に内緒にして遊んでいた番頭は、叱られて罰を与えられるに違いないと怯えている。翌朝、旦那に呼び出された番頭は、神妙な面持ちで旦那と対峙する。そうすると、以外にも叱られるのではなくて、誉められる始末。無粋だと思っていた番頭がこんなにも粋な遊びが出来て、しかも帳簿を確認してみると、遊びの為にお店の経営が悪くなっているどころか、収益も増やしていると解り、番頭を見直したと言う。来年には、お店を持たせたいとも言われた。

 その際に、旦那は番頭にこんなことを言うのである。「いいんだよ、番頭さん。遊びをしない商売人は、いざという時に商売の切っ先が鈍ってしまう。だから、商売人は遊びにお金を使わないといけない」と番頭を諭す。さらに、こんな話もするのである。「南天竺に栴檀という立派な木があり、その下にナンエン草という雑草が生えていた。そのナンエン草が邪魔だからとむしりとってしまったら、なんと栴檀も枯れてしまった。栴檀はナンエン草を肥やしにして、ナンエン草は栴檀が下ろす露で生育している。栴檀とナンエン草はお互いになくてはならない存在であった。栴檀のだんとナンエン草のナンを取り、店の主人をだんなんと呼んだのが旦那の始まり。私が栴檀なら番頭さんあなたがナンエン草だ。お店では、番頭さんが栴檀なら若い店員たちがナンエン草なのだから、若い店員に露を下ろすつもりで、優しく接すると同時に面倒を見てやってほしい」と説教するのである。

 昔は、小唄端唄や都都逸を歌ったり、ちょっとした踊りを披露したり出来ないと、いくらお金を積んでも花柳界では相手にされなかった。つまり、粋でお洒落な感覚を持ち合わせないと、一流の遊び人にはなれなかったのである。そのように、豊かな感性やイマジネーションを持たなければ遊びの達人にはなれなかったのである。当然、そういうキレキレの感覚を持っている商売人は、商売でも成功したのは当然である。ましてや、部下にも配慮が出来たので、手足となって動く部下たちも喜んで上司の為に働くであろう。現代においては、花柳界で遊ぶ人はめっきり少なくなったと思うが、何らかの趣味・スポーツ・芸術の世界でも一流の商売人は、間違いなく経営の達人でもある。商売の切っ先を磨くには、遊びで達人になるのが早道なのかもしれない。

 一般のビジネスマンでも、遊びさえ満足にできないような人は、仕事もあまり期待できないケースが多いような気がする。偏見だと言われるかもしれないが、人間には遊びが必要だし、その遊びが洗練されていてファッショナブルで粋ならば、仕事に生かされない筈がない。私の周りにいるビジネスマンで、趣味・スポーツ・芸術などで洗練された遊び方をしていて、それなりに上手な人はおしなべて器用であるし、仕事も卒なくこなす人が多い。何をやっても上手な人は、仕事も上手く行く。特に、ゴルフなどのように運動センスとメンタルの柔軟さを要求されるようなスポーツ趣味は、仕事にも生かされるような気がする。

 さてさて、この落語では最後に旦那はどうしても合点が行かないと番頭に尋ねる。あの桜の土手で出会ったときに、番頭さんは確か「おひさしぶりです。ご無沙汰していました」と言ったね。あの日は、朝にも挨拶と会話を交わした筈だが、どうしてお久しぶりだなんて言ったのだいと問い詰める。番頭は「へいっ、一番出会っちゃいけない人と出会ってしまい、もうおしまいだと思ったので、これは出会ったが最後百年目だと思ったからです」
ビギナーズラック [2014年12月21日(Sun)]
 初心者が予想もしない好結果を生み出してしまうことを、ビギナーズラックという。おそらく、何も考えず無心無欲で事に臨んだおかげで、不思議な力を発揮出来るのではないかと思われる。スポーツや娯楽・ギャンブルの世界でたまたま起きることがある。しかし、スポーツにおいては、簡単な動作で出来るものならいざ知らず、高度な技術を要求されるようなスポーツでは、まずあり得ない。ことゴルフにおいては、世界で通用するような余程の高度な運動神経を持って居れば別だが、99%ビギナーズラックが起きることはないであろう。それだけ、ゴルフというのは難しいスポーツなのである。だからこそ、ゴルフというのはかなりのトレーニングを積まなければ、コースに出てはいけないと言われているのだ。

 ところが、最近の若者たちはいとも簡単にコースに出たがる。それも2〜3回練習場に行って、しかもまともに前に飛ばないのにも関わらずラウンドに出てしまうみたいである。その証拠に、ビギナーがいる組がいる為にちっとも進まず、後ろの組のカートが数珠繋ぎに渋滞してしまうケースにちょくちょくお目にかかる。後ろで見ている組のメンバーたちがイライラして待っている姿は実にお気の毒。そんなケースを見ているゴルフファンは多いのではないだろうか。今は、キャディさんが付いていないセルフプレーが多いせいか、注意する人もいないものだから、スロープレイを平気でする初心者ゴルファーが非常に多いのである。

 私がゴルフを始めたのは、今から30年以上前である。その頃は庶民にもゴルフブームが浸透し始まったばかりで、まだまだゴルフは紳士のスポーツだという認識が強かった。したがって、マナーやエチケットも厳しくて、スロープレイなんかしたらキャディさんに叱られるだけでなく、一緒のプレーヤーの顰蹙を買ったものである。その為、ある程度の距離前にボールが飛んで、OBを出さない程度に曲がらないショットをしなければ、コースに出ては行けないときつく指導を受けたものである。だから、毎日毎日昼夜問わず練習場に通い、これなら大丈夫だと太鼓判をもらってから、コースデビューをしたものである。私の初ラウンドは、62と58でトータル120、それ以後このスコアーより悪かったことは一度もない。

 その当時ゴルフを手ほどきしてくれた職場の先輩は、非常に厳しい人であり、120くらいでラウンドしなければゴルフ場にデビューしてはならないんだと、忠告してくれたのである。さらに、マナーやエチケットにも厳しくて、ルールも叩き込まれた。だから、今でもファストプレイが身に付いていて、構えたらすぐに打つ癖が抜けない。アドレスしてから、何度何度も素振りをして、それでもまたアドレスし直してようやくショットをする姿を見ていると、苦笑してしまう自分がいる。さらに、前の人が打ってからようやくクラブを選び始まる姿を見るにつけ、紳士のスポーツも地に堕ちたとがっかりするばかりである。

 つい先日行ったゴルフ場のゴルファーは酷かった。前をラウンドしていたのは男女2名の組だったが、クラブは1セットしか積んでいないという有様。たぶん、男性用のクラブセットを2人で共用したものと思われる。だから、2人で交互に打つのだが、クラブを共有しているから、いちいちクラブを届けたり届けられたりしながら進む。右と左にボールがある場合は、どういう具合になるか想像できよう。さらにパターも1本しかないから、グリーン上でもスロープレイになるのは当然。呆れて物が言えない。そして、どちらも初心者だから、ショットが飛ばないし曲がる。こんなゴルファーが平然とラウンドするというのは信じられないことである。

 我々の世代は、親や職場の先輩たちから厳しく言われてきたのは、人様に迷惑をかけちゃいかんという教訓である。だから常に周りの人々の気持ちを慮るのは勿論、自分がされたら嫌なことを、人様に対してやってはいけないと、しつこく教えられてきたのである。スロープレイで迷惑をかけるなんて、ゴルファーとして、または人間として絶対にしちゃいけないことなのである。それを平気でやるようなゴルファーは、紳士のスポーツであるゴルフをする資格がそもそもないのである。ゴルフにビギナーズラックはないのだ。だから、120前後でラウンドする自信が出来るまで練習を積まなければ、初心者はゴルフ場に行ってはならないのである。そして、彼らを連れて行く先輩も、このことを厳守するのが人生の師としての心得としなければならない。
ゴルフ天国の白河地域 [2013年09月18日(Wed)]
 一時人気が低迷していたゴルフが、最近人気が出てきたらしい。バブル全盛期には、なかなかゴルフ場の予約さえ取れなかったくらい人気があったのに、バブル崩壊後の景気後退と共に人気もなくなってしまったようだ。ところが、最近のゴルフ場は結構混んでいるようだ。若者のゴルフ人口も急増してゴルフ人気を支えているし、女性ゴルファーも多くなっている。そして、かつてゴルフ人気を支えていたビジネスマンが定年を迎えて、健康維持の為にまたゴルフを再開する人が増えてきたらしい。それも、パートナーを伴ってゴルフ場に戻ってきたのである。今、ゴルフ場に行くと仲睦まじく楽しむシニア夫婦が沢山いるし、どう見ても恋人と思われる若い女性を伴いゴルフを楽しむ中年男性が多い。

 ゴルフのプレー費が安くなったし、以前は認められなかった2名パーティーを受け入れるゴルフ場が増えたという事情もあろう。ここ白河地方には、リーズナブルな料金で楽しめるゴルフ場が多数散在している。福島県の県南地方には、ゴルフ場が元々多かったが、以前は名門と呼ばれる高級志向のゴルフ場が殆どで、パブリック的なゴルフ場が少なかった。当然、メンバー以外は平日でも1万円以上のプレー費がかかるし、土曜日曜ともなれば、1万5千円から2万円もプレー費が求められていた。しかも、昼食代は別請求であったので、大変な出費になっていた。だから、我々庶民には月に1回のゴルフさえ楽しめないくらい、敷居の高い遊びだったのである。

 ところが、最近は価格破壊の波がゴルフ場にも及んでいて、ここ白河地方に散在するゴルフ場では、一部の高級ゴルフ場を除くと、平日なら4,000円から6,000円のプレー費、土日でも6,000円から8,000円程度のプレー費で楽しめるのである。それが殆ど30分もあれば行ける便利な場所にあるし、栃木県の北部にあるゴルフ場もまた同じくらいのプレー費であり、やはり30分もあれば行けるような距離に多数立地している。バブル崩壊やリーマンショックの為に、多くのゴルフ場が倒産や廃業をしてしまい、全国規模のリゾート会社が安く買い取って、パブリックゴルフ場的な運営をしているらしい。勿論、キャディーは付かないセルフプレーではあるが、仲間やパートナーどうしなのだから、考え方によっては他人が入らないほうが楽しめるということも言えよう。だから、ここ白河地方はゴルフ好きにとっては、たまらない魅力一杯の地域なのである。ゴルフを楽しまないのは、もったいないのである。

 さらに、ここ白河地方は冬でもあまり雪が降らないので、冬季間もクローズしないという利点もある。そして、冬季間はプレー費がさらにリーズナブルになるというおまけまで付いてくるのである。元々ここ白河地域のゴルフ場は、自然が豊かである。自然の景観を利用して作られたゴルフ場が多い。ほとんどがバブルの全盛期に作られたゴルフ場なので、かなり贅沢に造成されている。フェアーウェイが広いし、なかなか戦略的にも楽しめるコース作りになっている。都会周辺に作られた狭苦しいゴルフ場とは違うので、伸び伸びとした自然景観を満喫できる。おまけに温泉まで付いているゴルフ場もあるし、近くに日帰り温泉も多いので、ゴルフと温泉を両方楽しめる恩恵も受けることが出来る。ここ白河に都会から移住したり二地域居住しているゴルフ好き人間にとっては、まさにゴルフ天国と言えよう。
遊びの達人は仕事も出来る [2012年12月11日(Tue)]
 世の中には遊びの上手い奴と下手な奴がいる。中には、一度も遊んだことがないという堅物もいる。仕事一筋だったり家庭一筋を貫いたりして、一切遊びに手を染めたことがないという御仁もいらっしゃる。それはそれでその人の生き方だから、とやかく言う必要はない。けれども、例外はあるにしても、世の中で一流と呼ばれる人物はおしなべて遊び上手が多いのはどういう訳であろうか。この道一筋と呼ばれるような達人もまた、違う世界で一流の遊び人であることが多いのである。一方、遊び下手の人間は、人間が薄っぺらで魅力が少なくて、人から好かれることがないように感じるのである。実に不思議なことである。

 昔の経営者や大店の旦那と大番頭たちは、遊びの達人であったように思う。社会がおおらかであったということもあるが、花柳界における遊びを極めていたように思える。中には、花柳界の遊びに没頭するあまり家業を放り投げてしまう若旦那もいたが、たいていの大旦那たちは、節度をわきまえて遊びと家業を両立させていた。勿論、仕事の接待に利用することもあったが、商売抜きで自分がおおいに楽しんでいることも多かったらしい。そして、このような旦那や経営者たちは、仕事に対してもバイタリティ溢れる姿勢を貫いて、成功を収めているのである。

 何故、遊び上手な人は仕事で成功するのであろうか。昔の人は、それを実に上手い言葉で言い表している。『商売人は遊びをしないと、いざという時の商売の切っ先が鈍る』と表現している。なるほど、言いえて妙である。だいたいにおいて、仕事だろうと遊びだろうと、何ごとにも一所懸命になれる人は、必ず結果を残せる。やはり、生きる気力というか元気溢れる姿勢が、何ごとに対しても成功させてしまうように思う。遊びを楽しめて上手にこなせるような人は、仕事だって卒なくこなすし、大きな成果を残すのである。

 人間は、基本的に遊びが必要なのだと思う。人間は遊びによって、心に余裕が生まれるし、感性や想像力、または創造性が養われるように感じる。遊ぶことによって、人間としての幅が出来るというか、豊かな人間性が育まれる。さらに大事な事は、遊びをすることで『思考』の支配から逃れられるという点である。人間はともすると、怖れ、不安、恐怖、憎しみ、憤りというような感情を伴う思考の呪縛に捉われる。そうすると、その思考の呪縛から逃れることが出来ず、四六時中それらの思考に支配されてしまい、豊かな想像力を働かせたり直感を閃かせたりすることが出来なくなるのである。だからこそ、遊びに専念して、思考から一時的にでも離れる必要があるのだ。

 仕事をするうえで一番大事なのは、実は鋭い直感だと思う。勿論、経験や知識、そして技術や能力も必要であるが、経営者や管理者にとってそれ以上必要なのは、鋭くそして過ちのない直感ではないだろうか。その直感を働かせるには、心を無にしなければならない。所謂仏教における禅の世界である。座禅をするのは、心を無にする為である。でも我々のような凡人は、座禅を組んでも心を無にすることは出来ない。何か好きなことに没頭することのほうが、心を無にすることが出来るように思う。スポーツの世界でZONEに入るように、目の前の遊びに夢中になることで心をZONEに近い状態に出来そうである。だからこそ、一流になるには遊びが必要なのではないかと思うのである。さあ、遊びに磨きをかけて、思考から離れることで直感を鋭くしようではないか。
女性芸能人は年上男性がお好き? [2010年10月16日(Sat)]
 何と34歳も年上の男性とお泊りデートと報じられたAKB48の秋元才加といい、16歳年上のHIROと熱愛報道された上戸綾など、女性芸能人たちの年の差カップルは目白押しの様相である。どうしてこうも、年上の男性がおおもてなのだろうか。また、こういった年の差カップルは、例外もあるが沢尻エリカや辺見えみりのように破局を迎えることも多い。AKB48の秋元の場合、恋愛感情はなかったというが、人間として魅力を感じていたのは間違いないだろう。若くていい女が、何故もこうも年上の男性に惹かれ、そして別れるのか不思議でならない思いを持つのは私だけではない筈。

 魅力ある若い男性が居ないからだという人もいる。草食系男性と呼ばれるような、頼りない若者には眼もくれないのかもしれない。確かに、肉食系男性と呼ばれるように逞しくて頼りがいのあるナイスガイは、若者の中に見出しにくいのも現実である。美しく着飾ることにだけ長けて、中身の薄っぺらな若者に愛想尽かしをしている構図は容易に想像がつく。とは言いながら、中には肉食系の男性だっているし、誠実で中身のしっかりしている若者だっている筈である。なのに、女性芸能人が年上の、しかも父親の年齢に近いような男性を選択するという傾向は、どうも腑に落ちないのである。

 うら若き女性芸能人だけでなく、世の中の若い女性たちもまた、父親のような年齢差のある男性に惹かれる傾向があるみたいである。もしかすると、彼女らは父親のような男性を求めているのではないかという仮説が、ふと頭に思い浮かんだのである。そういう考え方をすると、何もかもすっと腑に落ちるのである。今の時代、家庭の中に父親という存在が希薄になっている。シングルマザーの世帯も急増しているし、仮に父親が居たとしてもその存在は極めて影が薄い。つまり、頼りがいがあり、いざと言う時に敢然と立ち上がり自分たちを守ってくれるような、理想とする父親が家庭に存在しないのである。どちらかというと、母性と父性の両方を発揮した、過干渉の母親に育てられる若者が増えているような気がする。

 そのように育てられた女性たちは、いつも不安や恐怖感でいっぱいである。優しくて頼りがいがあり、暖かく自分を見守ってくれるような年上の男性に惹かれるのも無理はない。そういう理想の年上の男性が目の前に現れたとしたら、無意識のうちに父親の代わりとして好きになるのも当然かもしれない。最初は父親の代わりだったのが、いつの間にか恋愛感情だと思い込むのは当然の成り行きだと言えよう。そして、かくして世の中に年の差カップルが数多く誕生するのである。これは、不自然なことである。父親からの愛情に飢えていて、その代替者としての恋人を選ぶのだから、上手く行く筈がない。

 そういう年の差カップルの恋人時代や新婚時期は蜜月の状況であるから、父親のように何もかも許し受け容れてくれる関係でいられるが、結婚してしばらく経つとその関係も終わりを告げる。優しかった男性も、何かと女性に対して口やかましく言うようになるし、自分の支配下に置きたがる。そもそも、女性はそういう男性を求めていないのだから、急激に愛も冷めて、夢から覚めるように、男性から遠ざかるようになるのである。こうなってくると、男のほうは悲惨である。何故、自分が急に疎んじられているのか理由を知る由もないので、エリカ様の旦那のように、未練たっぷりな行動をするのである。情けない話である。

 本来、同じような年齢のカップルのほうが自然である。そして、父親代わりの男性でなく、似通った年齢の恋人を選ぶべきであろう。そのうえで、不完全な自分たちをお互いに磨きあい成長していくことが、恋愛の本質なんだろうと思う。一方的に癒されたいとか優しくされたいと思うのは、不健全な関係だと思われる。一方的に愛情を注ぐのではなく、お互いに愛を与え合う関係でありたいものである。そんな関係を築けたとしたら、年の差カップルでも上手く行くし、父親のような男性ではない相手と恋人関係を築けて、末永く付き合えるのではないだろうか。愛は本来、双方向なのだから。
横浜・鎌倉プチ旅行NO.2 [2010年03月30日(Tue)]
 鎌倉をぶらぶらするのが好きだ。お寺や仏像を眺めるのも好きなのだが、それ以上にそれぞれの季節に咲く花を鑑賞するのも好きである。先日プチ旅行した時は、既に梅の花は散っていたし、桜にはまだ早かった。しかし、桜も咲き始めていたし、花桃も一部咲いていて、ミツマタやトサミズキも満開を迎えていた。大きな十一面観音で有名な長谷寺であるが、咲き誇る花も美しい。おしなべて、鎌倉のお寺の境内には花が多い。その季節の花を愛でるために訪れる訪問者が多い。私が何度も鎌倉を訪れるのは、花に出逢うためだ。何度も訪れているので、どの季節にどんな花が咲くかは、もうしっかりとインプットされている。

 ところで、鎌倉に行く度に思うことがある。ご存知のように、鎌倉には文化人や知識人が住んでいる。また、著名な経済人や芸術家も永住している。一般庶民が住むには、土地が高くて手が出ない。そして、彼らは鎌倉という文化性の高い場所を、住処として選んだのであろう。しかし、住んでしまったものの失敗したなと思う人も多いのではないだろうか。何故なら、土日や祝日になると、観光客や若者たちが大勢訪れて、喧騒となるのである。車は多くやってきて渋滞してしまい、遅々として進まない。鎌倉で生活している人は、こんな状況を苦々しく思っているに違いない。観光地というものは、住むところではない。たまに別荘として利用するならいいが、こんな喧騒な場所には住みたくない。軽井沢や那須なども、土日になると煩くて仕方ないという。鎌倉や軽井沢は観光地として訪れる所であり、住むところではないのだ。ここ白河は、住むところとしては恵まれているなとつくづく思う。



鎌倉・横浜プチ旅行NO.1 [2010年03月30日(Tue)]
 今は、便利でお得な切符があるので、ちょっとした旅行も気軽に行けるようになった。ましてや、ホテルの予約もネットの利用で格安に出来る。今回利用した切符は、ツーデー切符という格安チケットである。大人の休日倶楽部ミドルの会員ならば、二日間JR東日本の一定区間を乗り放題になるという企画だ。白河からは、伊豆の伊東までも行けるし、越後湯沢や上田までも行ける。千葉・湘南・奥多摩も乗り放題である。しかも青春18切符と違い、特急券を買えば特急や新幹線も乗れるという優れものなのだ。

 今回、ずっと行きたかった横浜鶴見にある曹洞宗大本山「総持寺」に行こうと思い立ったので、早速出かけたのである。ついでに、大好きな鎌倉も歩きたかったのもある。残念ながら、桜には少し早かったようであるが、映画も見て美味しいものも食べれたので、大満足である。なにしろ、往復新幹線を使ったのに9,440円で往復できた。何度も乗り降りしたので、正規の料金なら14,000円くらいかかったろうから、5,000円ほど浮いた勘定になる。ここ白河は、このようなJR東日本のとくとく切符の恩恵を受けやすい地域だと言える。

 総持寺は禅宗らしく、華美なところがなくて簡素であるが重厚な雰囲気を漂わしている。荘厳な趣も感じる名刹である。元々石川県にあったらしいが、火災により被災したのをきっかけに鶴見に移転したという。しんと静まり返った建物の中は、まさに禅の修行道場と言える。永平寺に行ったときに受けたのと同じ印象を受けた。先ず目に飛び込んできたのは次の言葉である。

道元禅師のお言葉であるが、実に含蓄がある名言だと思う。最近、特に思うのは都会の街中で見かける人々の顔が実に険しいということ。それだけ、人生に対して必死なのだと思うが、もう少し肩の力を抜いて生きるのも大切だし、相手に対して優しい顔をしたいものだ。

建物を渡り廊下や地下通路でつないであり、修行僧が内部を案内してくれる。とても親切であるが、見学者に説明するのも修行のひとつなのであろう。所々、たどたどしいところもあったが、若い雲水の真摯な姿勢は好感が持てた。この総持寺における名物と言えば、大きな大黒様である。暗くてよく見えないのが残念だったが、立派なものだった。次回は鎌倉紀行を掲載したい。
すごい農家民宿見つけました! [2010年03月23日(Tue)]
 最近トレンドになっている農家民宿ですが、白河の近くにこんな素晴らしい農家民宿があったとは、まったく知りませんでした。本日、無理を言って取材しさせてもらいました。福島県東白川郡の塙町という山里にある民宿で、『四季彩菜工房』と言います。新白河駅から、車で約50分の所です。新白河駅からバスに35分乗れば棚倉駅に着き、そこからは送迎してくれるみたいです。今日も一組のお客様がいらしてました。

 ここの素晴らしい所は、先ず食材です。殆どが自分の畑で取れた、農薬と化学肥料不使用の野菜です。米も同じく、農薬と化学肥料をまったく使いません。ですから、安全安心な食材で作った食事です。お肉とか魚は滅多に出ませんが、なにしろ素材そのものが美味しい新鮮な野菜や果物が食べれます。なによりのご馳走です。都会からいらした方たちにとって、普段は食べれない贅沢な食材です。なにしろ、米も野菜も甘みが違いますし、味がとても濃いのです。これは、土が健康な証拠です。

 そして、この農家民宿のコンセプトは、『食の安全と癒し』です。食事も素晴らしいのですが、ここの自然とご主人が利用者に癒しを提供してくれるようです。都会の喧騒から離れて豊かな自然に抱かれると、それだけで皆さん癒されるとおっしゃいますとのこと。目立った観光施設もないしレジャー施設もないけれど、都会にはない非日常性がたっぷりと味わうことが出来ます。夜になると真っ暗になる環境は星空を眺めるのに最高です。庭にダンボールを敷いて仰向けに寝転んで夜空を眺めると、まさしく星が降ってくると言います。何もないことが、ここの一番魅力だと力説しています。

 とは言いながら、沢山の自然体験や農業体験メニューがあるそうです。安全安心の田んぼや畑で農業体験、近くの山で山菜採りや竹の子採り、石釜でピザ造りやパン作り、近くの渓流でヤマメ釣り、近所の散策や蛍鑑賞、etcたくさんあります。のんびりと読書するもよし、CDやレコードを持ち込んで、ものすごい音響セット(音響マニアなら垂涎の的)で音楽鑑賞もお勧めです。そして、夕食後はだんらんです。ご主人は、夜遅くまで悩み相談をしてくれるみたいです。その人柄のせいか、自然と悩みや苦しみを打ち明けると言います。なにしろ、お客様の8割が女性のお客様で、健康のための食事や生活習慣病予防のアドバイスもしてくれるようです。勿論、メンタルヘルスも。まさに『癒しの宿』です。

 ご主人は、都会から移り住んでの新規農業就労者を支援したいと言ってます。大規模農業ではなくて、コンパクトな農業で経営できる方法があるんだと言います。大規模になると、どうしても大型機械や土地などの初期投資が大きくなり、採算が取れなくなるらしいです。コンパクトでありながらも、消費者が望む生産物を付加価値を高めて、流通経費をかけずに販売する方法で経営が成り立つらしいです。勿論、加工することも視野に入れたり、このような農家民宿を併設するのも有効です。今までの農業の概念から脱皮することが大切だと力説しています。

 私も、将来このような農家民宿を経営したいと思いました。ライフワークとして以前から温めている夢があります。佐藤初女さん「森のイスキア」のような施設を白河にも作るという夢です。都会の生活に疲れ果てて、生きる気力を失ってしまった方々に、豊かな自然と心温まる料理でおもてなしをする施設を作りたいと思っていました。まさしく、四季彩菜工房はそんな空間でもあります。また、自分の夢が具体化に一歩近づいた気がします。
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