CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

<< 2017年09月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
ネットで他人を批判したがる人 [2017年07月10日(Mon)]
 ネット上において、自分のSNSやツィッターなどで他人の批判を続けている人がいる。さらに、他人のSNS上においても平気で批判的なコメントを繰り返す、とんでもない輩がいる。政治家やキャリア官僚を批判するのであれば、ある程度常識を逸脱しない範囲なら、許せると思われる。しかし、自分の上司やパートナー、または一般人を批判するのは、あまり頂けない。ましてや、それを匿名でするというのは卑怯である。インターネットというのは、世界中の誰もが見れる場所である。特定の人物をそういう場で批判したり糾弾するというのは、いかがなものであろうか。また、自分の主義主張と違うブログや書き込みに対して、本気で反論するというのも大人気ないように感じる。

 西田敏行が、根も葉もないとんでもない噂を流されたとして、話題になった。アフィリエイトと呼ばれるネット上の広告収入を上げたいからと、まったくのデマを流して逮捕される事件まで起きている。ネットの世界では、フェイクニュースが当たり前のように流れているが、こんなケースは絶対に許せない。大国の大統領もフェイクニュースをツィートする時代だから、ある意味一般化しているのかもしれない。これらは、まだ自分のSNSやHPを利用しているのだから、自己責任ということが言える。しかし、ネット上で流されていることだからと、そのニュースソースの真贋を確かめずに、自分の主義主張に合うからと、他人の批判記事をリンクしてしまうのは如何なものか。また、他人のSNSやブログに対して、無礼な批判コメントを載せてしまうのは、頂けない。

 明らかにその記事や日記が間違っていて、科学的な根拠が世間一般的に定着しているのであって、その記事を書いた人の為に間違いを優しく諭してあげるのであれば、許されると思われる。しかし、物事をどのように認識するのかは人それぞれの価値観や哲学で変わるのだから、自分の価値観や考え方と違うからと、いちいちコメントで否定するというのは如何なものであろうか。その記事と違う自分の意見を述べるのであれば、自分のウェブサイトやSNSで意見を堂々と展開すべきである。他人のSNS上で持論を展開するのはマナー違反である。しかも、記事や日記を書いた人の人格までも攻撃するのは行き過ぎであろう。最近は、そういうとんでもない人間性攻撃が見受けられる。

 インターネットというのは、その匿名制が認められている部分がある。特に、SNSはフェイスブックを除いて、匿名で運営されている。そのせいもあるだろうが、どこのSNSにおいても、『サイト荒らし』が横行している。おかげで、折角楽しんでいたSNSから遠ざかるネットユーザーが多くなっている。何度も個人攻撃のコメントを記入されて、嫌な思いをさせられて、SNSを閉じてしまうのである。コメントを書いている本人は、攻撃するつもりはなくても、考え方や行動を否定されたら、自分の人間性まで否定されたように思うのは当然である。たかがSNSと言っても、それを生きがいにしている人もいるのだから、記事や日記を書けなくなってしまう無念さは、相当に大きいものと言える。

 このように他人のSNSやツィッターに対して、否定したり攻撃したりするようなコメントを書く人は、人格障害(パーソナリティ障害)の傾向が強い。自己愛性の人格障害が疑われる。他人の否定をすることで、自己を正当化しようと無意識下で願うらしい。何よりも、自分の高い評価や賞賛を求める傾向がある。リアルの社会である家庭や職場において、正当な評価を受けられないので、ネットの世界で賞賛を得たいのであろう。だから、他人の記事や日記に嚙みついて、持論を展開して、どうだ自分はすごいだろうと社会にアピールするのである。こういう人は、自分が否定されることを極端に嫌う傾向があるので、自分のSNSでは記事や日記をあまり書かない。差しさわりのない、攻撃されないような日記を書くが、情けないことに論理的で本格的な記事は書けないのである。

 こういう人間は、自分ではヒーローだと思っている。そして万能感が強く、自分はなんでも知っていて、相手の間違いを指摘してあげているんだと思っている。間違った理論をそのままにしていると、社会にとっては悪なんだからほっとけないと、正義感を振りかざしている。実に困った人なのである。このようなネットで他人を批判したがる人間は、実は強烈な自己否定感情の強い人で、他人から愛されていない人である。リアルの世界では、誰からも敬愛されない可哀想な人なのである。もし、自分のSNSの日記に噛みついてきた人間がいたら、まともに相手をしてはならない。リコメで相手に反論するような、無駄なことはしていけないのだ。即ブロックすべきであるし、コメントはすぐに削除しなくてはならない。自己愛性の人格障害は、益々攻撃性が強くなるので、無視するに限るのである。
良い処も悪い処もすべて好きになる [2017年07月07日(Fri)]
 湊かなえという小説家が好きだ。彼女の著作は、ミステリー仕立ての小説が多い。そのせいか、推理小説家だと思っている読者が多い。センセーショナルな傑作ミステリーも多い。映画化された「告白」「白雪姫殺人事件」、テレビ放映された「Lのために」「リバース」など、推理小説として多くの読者やファンから支持されている。さらに、「母性」という重いテーマを扱った小説も、謎解きを楽しむ推理小説としての性格も持っている。NHKBSで放映された「山女日記」もまた、秘密を解き明かす構成になっている。推理小説としての構成にこだわる訳ではないだろうが、ミステリー小説家として世に知られているのは間違いなさそうだ。

 しかし、私は単なるミステリー作家とは見ていない。どちらかというと、ヒューマンドラマの作家だという見方をしている。殺人事件や傷害事件を扱ってはいるが、そのバックグラウンドに存在する人間の深い心理を描いているからである。事件を起こすに至った犯人の心理、その加害者だけでなく被害者の家族など周囲の人々の背景が、克明に描かれている。それも、表層心理だけでなく、深層心理や潜在意識のような部分までも描いているのが特徴的である。小説の根底にあるのは、どうしようもない性(さが)に振り回される人間の愚かさである。だからであろうが、彼女の小説は読後感が爽やかなのは少なく、どちらかというと心にずしんと重しを乗せられるように感じるものが多い。

 湊かなえさんがNHKラジオに出演していた際に、何故小説を書くのかということをアナウンサーに訴えていた内容が印象的である。彼女は、現代の人々があまりにも自分の心と向き合っていないということを嘆いていた。つまり、本当の自分を見出していないばかりか、自分の本当の心を見て見ないふりをしているというのである。特に、自分の心の中にある闇をないことにしてしまっていると言うのである。自分のどちらかというと負の部分である、身勝手で自己中心的な自分、自分さえ良ければよいとする自分、欲深い自分、他人への愛よりも自己愛を優先させてしまうマイナスの自己である。それでいて、そんな恥ずかしい自己をないことにしてしまって、善人を演じている人間が実に多いというのである。だから、人間関係でとんでもない目に遭って、悩み苦しんでいるというのである。

 人間とは、善と悪が同居している生き物である。美しい心と醜い心もまた同様である。しかし、残念ながら多くの人々は、自分の心の中に悪や醜い心などのマイナスの自己は存在していないと思い込んでいる。自分の心の中に存在する悪をないことにしてしまい、偽善の生き方をしているのである。自分の悪の心や醜い心をないことにしたほうが、気が楽である。自分の心の闇を認め受け容れると自己否定感が強くなり落ち込むので、受け容れたくないのが人間である。ところが、心の闇を認め受け容れないと、他人を受容できないばかりか寛容になれない。その為に、人間として精神的自立が出来ないばかりか、他の人と良好な人間関係が作れない。当然、嫌われるし誰からも相手にされず孤独になる。

 恥ずかしくて醜い自分、身勝手で自己中な自分、誰も見ていない処では悪の心が表出してしまう自分、これらのマイナスの自己を自ら認めるには、どんなことがあっても揺るがず確かな哲学が必要である。真理に基づく信念のようなものである。殆どの日本人には、確固たる思想哲学が欠如している。欧米人は幼児期の頃から信仰を持つので、宗教哲学を発展させた理念を持つ。毎週訪れる教会では、自分の悪を神父さんや牧師さん相手に懺悔する。自分の悪や醜さを正直に告白することで、自分のマイナスの自己を認め受け容れ、精神的な自立が出来るのである。つまり、アイデンテティーの確立が可能になるのである。ところが日本人には信仰がなく、自己の確立が出来ていないのである。

 湊かなえさんは、そのことを自分の書いた小説によって、多くの読者に気付いてほしいと思っているに違いない。良い処も悪い処もどちらも含めて自分の中にあることを認め受け容れることが出来て初めて、本当にすべての自分のことをまるごと好きになれるのである。そうなれば、多少の苦難困難が自分にもたらされたとしても、乗り越えることが出来るのである。よく、自分のことを好きになりなさいとか、自己肯定感を持ちなさいと説く人がいる。しかし、それは簡単には行かない。自分のマイナスの自己を認め受け容れ、悪や醜さを慈しめるようにならなければ、真の自己肯定感は持ちえないのである。真の自己肯定感は、完全なる自己否定感を体験しなければ、持てないと思ったほうが良い。中途半端な自己否定感や自己肯定感は、人間としての真の自立を阻害してしまうので注意しなければならない。自分の中にある善悪のすべてを好きになれる自己の確立をしたいものである。
自分の中心と繋がる [2017年04月09日(Sun)]
 どんなことがあっても揺るがない自己、臆する事のない自己、勇気や元気を失わない自己を保ちたいと思う。ところが、人間というのは予想もしない事故や事件に出くわしたり、とんでもない目に遭ったりすると、自分を見失ってしまうことが往々にしてあるものだ。また、相手からエネルギーを吸い取って、自分のエネルギー源にする人に出会ってしまうことがある。相手の弱点や至らない点を見つけて、そこに付け込んで自分を優位に立たせて、相手を自分の支配化に置いてコントロールするのである。そうすると、相手のエネルギーを吸い取るばかりか、相手を自分の思い通りの操り人形に出来るのである。その為に、大きな声で怒鳴ったり、恫喝したり暴力を振るったりするか、逆に不機嫌な態度をしたり無視したりして、自分の思い通りに相手を行動させるのである。

 このような人間と四六時中一緒にいると、元気がなくなるばかりか勇気まで失ってしまい、生きる気力をも失ってしまうのである。こういう人間をエネルギーバンパイアとも言うが、この世の中には実に多い。身体的な病気やメンタルの疾病になられた奥様方は、ご自分でも気付かないだろうが、家族にこのエネルギーバンパイアがいる例が非常に多い。それも、一番身近な夫であるケースが殆どである。たまには、逆のケースもない訳ではないが、そういう例はあまり多くない。妻の病気の原因は、9割が夫であると言われているが、まさしくその通りである。エネルギーバンパイアである夫に生きるための気力や元気を、支配され制御されることで吸い取られてしまうのである。

 こんな夫とは1日も早くおさらばするのが賢明なのであるが、子どもたちの将来や親類縁者のことを考えると、離別するのはたやすいことではない。経済的に自立出来なくて、夫の収入に頼りきっていて、仕事や収入を持たないのであれば、別れる決意が出来ないのも当然である。ましてや、外面が良くて会社でも有能で評価が高く、親類縁者からもいい旦那さんだねと言われているならなおさらである。私さえ我慢すればいいんだと、耐え忍び続けるという選択肢を選ぶしかなくなるのである。または、職場の上司にもこのようなエネルギーバンパイアがいるケースがある。自分に従わない部下は辞めさせると公言したり、これみよがしに意地悪をしたりする上司は、始末に負えない。このようなパワハラやモラハラに苦しんでいる社員も少なくない。

 このようにエネルギーバンパイアに元気を吸い取られたり、つらいことや苦しいこと、または悲惨な目に遭ったりすると、人間という生き物は生きる活力を失うことが多い。しかしながら、そんな目に遭ったとしても、けっして揺るがず臆することなく、自分自身を見失うことなく、しっかりと人生を歩んでいる人もいる。その違いは、どこから生まれるのであろうか。ただ単に、精神的な強さや逞しさに由来しているだけではあるまい。もっと根源的な人間としての大事な資質を獲得しているからではないかと思われるのである。そういう人は、自分の中心としっかり繋がっていて、どんなことが起きようとも、またどんな目に遭ったとしても、揺るがずに自分をしっかりと保っているのである

 そういうように、自分の中心と繋がっている、または自らの内宇宙と同一化している人は、どのようにしてそれを可能にしているのであろうか。そういう人を見ていると、実に特徴的な部分が見えてくる。それは、普遍的に間違いのない絶対的な価値観を持っているという点である。そして、その価値観に基づいてしっかりと大地に根ざして生きているのである。だから、どんなことがあっても生きるべき道を迷ったりしないし間違うこともないのである。人間本来の生きるべき価値観、またはこの全宇宙と万物、生命体に共通の価値観でもあるのだ。それをしっかりと認識しているかどうかによって、自分の中心と繋がることが出来るかどうかが決まるのである。

 その価値観とは、すべての固体(構成要素)は常に全体に貢献するという考え方であり生き方である。しかも関係性によってそれが保証されているという価値観である。端的に言えば、全体性と関係性によってこの世の中は成り立っているのだから、その価値観に基づいて生きれば、けっして間違いはないという考え方である。この価値観をしっかりと自分の中心部に据えて、その価値観によって生きるべき道を選択さえすれば、いつでも自分の中心と繋がりあえるのである。これこそが、我々がこの全宇宙において、授けられたミッションだと言ってもよい。この価値観を基にして、生きることが出来たなら、エネルギーバンパイアも怖くないし、自分を傷つけるような人にも対抗できる。そして、自分らしく生き生きとした人生を歩むことが可能になるのである。
発達障害は本当に治らないのか? [2017年03月05日(Sun)]
 大人の発達障害が増えているという。発達障害と言っても、いろいろな種類があるし、その症状も様々であり、症状の重いものから軽度のものまで実に幅広い。例えば、自閉症にもまったくコミュニケーションが取れないケースもあれば、高機能自閉症と診断されて自活している人々もいる。ごく普通の生活もしているし学校で勉学できるものの、何となく人間関係がしっくり行かないというような軽度発達障害の例もある。特定の対象にだけ異常な興味を示すアスペルガー症候群と呼ばれる発達障害もある。最近増えているのが、ADHDと呼ばれる「注意欠陥・多動性障害」の大人である。それも優秀な頭脳や学歴を持っているにも関わらず、会社では良好なコミュニケーションが持てず、仕事に支障を来たしている若者がいる。実に困ったケースである。

 これらの広汎性発達障害や高機能自閉症と呼ばれる人々は、親の庇護の元ならば何とか生活は出来る。何となく変わった子どもだなあとか、非常に付き合いにくい若者だなあと思われても、学業はそこそこにこなすし、勉強が出来てテスト結果がいいものだから、見過ごされるケースが殆どである。ところが、学校を卒業していざ民間企業で働きだすと、様々なトラブルを起こすし仕事が上手く出来ないことが多い。発達障害の人たちは勉強はできるが、仕事をこなすことが出来ない。特に、対人関係を上手に調整するのが苦手なので、難しい顧客の営業や管理が出来ないし、トラブルメーカーになることが多い。官公庁だと、多少仕事でトラブルを起こしても免職させられることはないから、長続きしやすい。民間企業においては、トラブルメーカーは居場所がなくなる。

 発達障害は先天的な脳の器質障害だと言われている。脳の器質障害によって脳内の神経伝達物質が正常に分泌されなかったり、脳の先天的な損傷により情報伝達が正常に行われなかったりする。だから、例えば一度に二つ以上の行動が出来ず、不器用さを露呈することがある。さらに、人の気持ちを斟酌したり、相手の思いを想像したりするのが極めて苦手なので、人間関係の破たんを生じしやすい。端的に言うと、場の空気が読めないのである。また、複雑で微妙な駆け引きを必要とされるような交渉事は困難である。まさに、相手の微妙な心の変化を読まなくてはならない、恋愛のようなことは苦手になるであろう。稀に、結婚してから相手の発達障害に気付くケースも少なくない。

 この発達障害は、先天的な脳の器質障害であるから、医療的な治療によって改善することはあまりない。薬物治療も例外を除いて該当しないし、精神分析療法や認知行動療法などでも多大な効果を表すことは稀である。現代の医療レベルでは、ある程度症状を軽減することはあっても、劇的な改善は残念ながら見込めない。とすれば、この発達障害はどうにもならず、家庭に引きこもって、親の経済的援助や公的扶助を受けるしかないのであろうか。一部のNPO法人や福祉法人は、発達障がい者の支援に乗り出している。作業所を開設し、就労支援をしたり生活支援をしたりしている。これも、ある程度の効果はもたらすが、一般企業で働けるほどの就労レベルには追い付かないのが実情である。

 ところが最近、この発達障害が食事療法によって改善されつつあるという朗報がもたらされている。発達障害の人たちの食生活は、どちらかというと乱れている。ドーパミンなどの分泌障害もあることから、食べ物の嗜好が偏りやすい。高い糖分と脂質の食物を食べたがる。ジャンクフード、スナック菓子、ファストフード、炭酸飲料、肉、牛乳と乳製品、ケーキ、チョコレート、パンなどを好む。逆に、野菜、伝統的和食、豆類、発酵食品、魚などは摂取したがらない。味の強いものを食べたがるし、味の薄い和食は摂りたがらない。どういう効果をもたらすかというと、腸内環境が最悪になる。腸内細菌(腸内フローラ)はが育たないし、悪玉菌が蔓延る。また、人工的な食品添加物などにより、重金属が体内に蓄積される。最悪の状況になっていると言えよう。

 正しい食生活にすると、腸内環境は改善され身体に有害な重金属は排泄される。そうすると、脳内神経伝達物質である脳内ホルモンが正常に分泌されるという。脳内ホルモンが正常に分泌され神経伝達が正常に働くと、発達障害の症状が劇的に改善されるというのである。実は、この正しい食生活は、うつ病やパニック障害にも効果があることが判明されつつある。もちろん、食事療法だけで発達障害が完治する訳ではない。この食事療法に加えて、土いじりをする農業体験、トレッキングなど自然体験などを適宜取り入れることで、効果が倍増すると言われている。最近、精神障がい者や発達障がい者に対する支援に、農業体験を取り入れる福祉施設が増えてきた。是非、食事療法も加えてみてはどうだろうか。
相模原福祉施設の殺人事件の犯人像 [2017年03月02日(Thu)]
 相模原津久井の福祉施設で起きた、悲惨な殺人事件の犯人に対する精神鑑定結果が出たという。多くの精神医学者はすでに予想していた結果ではあるが、自己愛性のパーソナリティ障害とその他の人格障害との複合的な人格障害だとの鑑定結果が示された。したがって、精神喪失の状態ではなく犯罪の要件に該当することから、正式に犯罪として立件されることになったという。自己愛性のパーソナリティ障害というのは、一般の方々にとっては初めて耳にする障害名かもしれない。そもそも、人格障害という概念がまだ一般化していない。しかし、この自己愛性のパーソナリティを含めた人格障害の人は、想像以上に多い。おそらく、1割から2割の人たちは人格障害ではないかと指摘する専門家が少なくない。

 この自己愛性のパーソナリティ障害というのはどのような障害かというと、こんな症状を示すことが多い。まずは、強烈な万能感を示すことが多い。自分は、他より優れていてどんなことも出来るし、賞賛されるべき存在だと思い込む。自分と対比して他の人々は、実に愚かであり何も知らない存在だと蔑む。だから、自分は特別な存在であり、世の中から賞賛と高い評価を得るべきだと思う。そして、その賞賛のために平気で嘘をつく。自分は著名な人といかにも親しいとか、名誉・地位ある人や富豪と知り合いや友達だとうそぶく。評価のある人と知人だということで、自分の評価も高いのだと勘違いしている。職場や地域で何よりも評価や地位にこだわる。

 自己愛性のパーソナリティは、とても危険な人なのかというとそうではない。確かに、相模原事件のような危険な人格を作り出すこともあるが、全部が全部危険な行動をする訳ではない。障害の強弱もあるし、実に様々な症状を表出させる。相模原事件の犯人は、複合の人格障害だということなので、反社会性の人格障害や妄想性の人格障害、境界性の人格障害などの傾向を示していたものと思われる。自己愛性の人格障害は、強く現れる時もあれば弱い時期もある。強く表出した際には、境界性の人格障害の症状を示すケースが少ないとも言われている。この境界性のパーソナリティ障害の人は実に扱いにくい場合が多い。反社会性のパーソナリティ障害は、犯罪のような危険な行動を平気でする例が多い。

 自己愛性のパーソナリティ障害が強く出たと思われる歴史上の人物は、ヒットラーやムッソリーニ、またはスターリンと言われている。自分を過大評価すると共に、自分に対抗する人たちを徹底して蹴落として、抹殺した。自分に反抗する者を粛清しているどこかの国のトップも同じである。ある大国の大統領やある国の首相も、自分を批判するマスコミを徹底して弾圧しているところを見ると、自己愛性のパーソナリティ障害があるのかもしれない。こういう人物は、権力に対して異常な執着をする。自分の人間としての評価が、地位や名誉によると思い込んでいるから、自分の名誉や地位を脅かす存在を許せないのである。こういう人の部下や同僚になったら怖い。この人の能力や技術を凌駕しようものなら、徹底して貶められてしまう。

 この自己愛性のパーソナリティ障害を起こす原因は、脳の器質障害にあると言われている。前頭前野の発達が遅れているというか退化していると言われている。生まれつきなのか後天的なのか、解明されていないが乳幼児期の子育てに影響しているのではないかと見られている。特に、小さい頃に保護者から虐待されていた子や見放されていた子が、自己愛性のパーソナリティ障害になりやすいと言われている。ヒットラーやムッソリーニは、父親から虐待のような仕打ちを受けていた。この相模原事件の犯人は、虐待を受けていたとは言えないような家庭環境らしい。父親は教師をしていたし、母親もかなり教養が高かったらしい。裕福でもあったろうし、一見すると愛情不足だったとは思えそうもない。

 自己愛性のパーソナリティ障害も含めて、パーソナリティ障害を引き起こす原因は、保護者からの愛情不足だと言われている。それも、母親からの豊かな母性愛、言い換えると無条件の愛が乏しかった幼児期が影響しているらしい。逆に、母性愛が少なくて父性愛(条件付きの愛)が強過ぎると、パーソナリティ障害が起きやすい。母親というのは、夫から豊かな愛情と支配され過ぎない立場を与えられていないと、子どもに豊かな母性愛を注げないものである。相模原事件の犯人は、教師である父親から強過ぎる父性愛を受けていたのではないかと思われる。母親は、夫からの強過ぎる支配とハラスメントに、精神を病んでいたのではないかと想像する。母性愛を発揮できなかったのであろう。19人も殺めたのであるから、その行為は許せないが、彼の家庭環境は実に可哀想だったと思われる。彼のような不幸なモンスターをこれ以上生み出したくないものである。
逃げ恥ブームに潜む若者の心理 [2016年12月26日(Mon)]
 逃げるは恥だが、役に立つというTVドラマがブームになり、逃げロスという現象まで引き起こしているらしい。この手の恋愛TVドラマには興味がないが、あまりにも騒がれているので今まで放映された総集編と最終回を視てみた。なるほど、通常の恋愛ドラマとは違った魅力があった。新垣結衣の可愛さも捨てがたいし、星野源の感情表現を抑えたいかにも頼りげのない仕草と表情が見事である。ドラマの筋書きもよく出来ているし、時折加えられている森山みくりの妄想シーンも微妙なスパイスとして、ドラマを盛り立てている。それにしても、このドラマがどうしてこんなにも若者たちに熱狂的に支持されたのであろうか。多くの若者たちが、深い共感をもってこのドラマを受け容れたと思われるが、その理由に迫りたい。

 現代の若者たちは、総じて恋愛下手である。そんなことはない、上手に異性との付き合いをしているし、肉体的にも結ばれている関係にあると反論するかもしれない。しかし、それは単なる異性とのお付き合いであり、結婚を前提とした恋愛ではない。あくまでも、友達の一人としてであり、ただ寂しさを埋め合うような関係でしかない。本当に好きな人とは、恋愛に発展できず、告白することさえできない。そんなに好きでもない異性には、平気で身を任せられるが、大好きで結婚したいなと思っている人とは、深い関係にはなれないみたいである。実に不思議なことであるが、どうでも良いと思える人としか、安心して付き合えないというのである。これでは、結婚できる訳がない。

本来、恋愛というのは、相手の良い処も悪い処も全部許して受け容れて、人間全体を愛するということである。しかし、今の若者は本当の自己開示が出来ない。自分の駄目な処や恥ずかしい部分、みっともない自分を見せられないのである。性交渉をするというのは、自分のすべてを見せなければならない。自分でも自信のない処や恥ずかしい部分までも、相手の目にさらすことになる。どうでも良いと思えるような相手には平気ですべてを見せられるが、大好きな人に嫌われてしまうかもしれないという深層心理が働いて、自己開示をためらってしまうのであろう。我々のような還暦を迎えた世代には、到底理解できないロジックであるが、これが恋愛下手に陥っている若者たちの心理らしい。

 どうして自分のすべてをさらけ出せないかというと、自己否定感が強いからである。自分の嫌な処、駄目な部分、恥ずかしい箇所、マイナスの自己を、自分で認めることが出来ず、ないことにしてしまっているからである。自分の良い処だけを出すようにして、良い人間を演じているのである。確かに、職場や公的な場所で駄目な処を敢えてさらけ出す必要はないが、恋愛の対象者にまで自己開示が難しいとしたら、恋愛に踏み切れないのは当然である。本当の自分が知られてしまったら嫌われるかもしれないという恐怖感から、自己開示が出来ないのであろう。言い換えると、自己承認力や自己肯定感が不足しているから、あるがままの自分を見せられないのだと想像できる。

 逃げるが恥の主人公二人は、まさに自己承認力や自己肯定感が不足している。だから、恋愛に対して臆病だし、結婚願望がありながら恋に踏み切れないのである。相手のことを好いていながら、嫌われることを恐れるあまり告白できない。年配の視聴者は観ていて、非常に歯がゆい思いをするだろうが、若い人達はあの臆病な二人に感情移入するに違いない。若い人達の多くが、このように自己否定感を強く持っているが故に、結婚しない若者が増えて少子化が進んでいるなら、由々しき大問題である。これでは、益々少子高齢化が進んでしまう。どうしてこんなにも自己否定感の強い若者が増えたかというと、やはり教育の影響であろう。自我を克服して、本当の自己を確立させる教育をしてこなかったツケを、今支払わされていると思われる。

 アイデンテティーの確立と一般的に呼ばれる、真の自己確立をしている人は、この日本社会には1割にも満たないと主張する心理学の専門家が多い。特に若者たちは、行き過ぎた競争社会に置かれていて、思想哲学を排除された教育、形而上学を否定された価値観を植え付けられているのだから、真の自己確立が出来る訳がない。逃げ恥の主人公は、たまたま契約結婚(偽装結婚)という形を取ることで、恋愛に発展した。あのようなプロセスをたどることが出来たとしたら、自分も恋愛をして結婚できるかもしれないと安心した若者たちが逃げ恥のファンになったと思われる。こんな偽装結婚から恋愛になんてことが、現実的に起きる訳がない。婚活をするのなら、真の自己確立が必要なんだと気付いてほしいものである。逃げ恥のようなドラマ鑑賞で、自己満足するもんじゃないよ。
ストイックに生きるには [2016年12月14日(Wed)]
 プロ野球の大谷選手やイチロー選手は、ストイックな生き方によって、世界でも一流の肉体と精神を獲得し、持続発展させている。この世には、欲望をそそられるものが沢山存在する。酒、タバコ、ギャンブル、ゲーム、美食、ジャンクフード、甘味飲料水、AV、セックス産業、ドラッグ、等々である。私たちの欲望を満たしてくれるこれらのものは、望めば簡単に手に入る。ストレスフルなこの社会においては、欲望を満たしてストレス解消させてくれるこれらがある意味必要であろう。これらの欲望を満たす行為を、節度ある程度に抑えることが出来るなら、身を滅ぼすケースは少ない。しかし、欲望は肥大化する。依存症になり自分自身の肉体と精神の破滅、そして経済的な破綻を招く例も少なくない。中には、覚醒剤や麻薬までにも手を出す人もいる。こうなると、一生をだいなしにしてしまうことになる。

 このように、我々の煩悩というのは始末に負えないほどに燃え盛るケースが少なくない。したがって、仏教では四苦八苦のうちのひとつ五蘊盛苦(ごうんじょうく)と言って、自分の裡にある燃え盛る煩悩により苦が生じると説いている。必要以上の欲望である、貪り(むさぼり)の心を捨てなさいとも教えている。古来より、この欲望を鎮めるために山岳修行をしたり滝行をしたり、さらにはお寺に籠もり一汁一菜の粗末な食事をしながら修行してきたのである。しかし、我々現代人は、なかなかストイックな生き方が出来ない。美味しい食べ物・飲み物などが周りには沢山あるし、欲望をそそられる遊びや娯楽がいつでも手に入るからである。

 それでは、現代人がストイックな生き方をするのは絶対に無理なのであろうか。私たちが欲望から解放されることは出来ないのであろうか。確かにストイックな生き方をしている人は、ごく少数しかいない。おそらく、現代人が100%禁欲生活をするというのは無理だと思われる。仙人になれば可能であろうが、我々のような凡人がカスミを食べて生きるなんてことは出来そうもない。心理学的に推察すると、完全にストイックな生き方をすると、うつ状態になったり意欲をなくしたりして、正常な日常生活に支障を来たすことになりかねない。だから、人間は完全な禁欲ではなく、何かひとつくらいは楽しいことや快いことをするのではないだろうか。つまり、ガス抜きみたいなものであり、躁的防衛と定義されている。

 しかしながら、そのような快楽行動をすることは、両刃の剣でもある。折角ストイックな生き方をしようとしているのに、過度の飲食によって肥満になり健康被害を起こすとか、過剰飲酒によりアルコール依存症になるとか、ギャンブル依存症などになる可能性もある。たった一つの快楽であっても、過度の欲望を引き出す怖れもある。とすれば、どんなことをすればストイックな生き方が可能になるのであろうか。先ずは、あまり快楽ホルモンであるドーパミンが分泌しないものであろう。しかも、飽きのこないもので、身体と精神の負担にならず、楽しいと感じるものという難しい条件が付く。奥の深いもので、精神の鍛錬にもなり、自己成長につながるものなら、なお良いだろう。

 そんな良いものは、おいそれとはないかもしれない。さらに、その楽しいことが経済的な負担が少なく、ずっと続けられるものがいい。しかも肉体的にも精神的にも健康になるものなら願ったり叶ったりである。例えば、ジョギングや散歩がいいと思う人もいるだろう。確かにこれはある程度ストレス解消になるが、完全に思考の停止が出来ないということもあり、ストレスを手離すことが出来ない。ストレス解消方法として最近特に注目されている「マインドフルネス」には不似合いである。マインドフルネスとしていいのは、瞑想や座禅、写経や読経、真言を唱える等と言える。しかし、残念ながらこれらは楽しくないから長く続かないように思われる。

 厳しい登山やロッククライミングなどもよい。これはマインドフルネスとして最適だろう。古来より、危険で厳しい山岳修行が好まれたのは、ストイックな生き方をするのに最適だったからかもしれない。自分も、鎖場が続く山やハードな登り方が求められる山が大好きだ。自分の肉体と精神の限界に挑戦するような登山を好む。ただし最近は、より身近に楽しめるゴルフにはまっている。ゴルフはメンタルトレーニングとしても最適だ。強欲を出すと、逆にこっぴどくやっつけられる。高齢者でも楽しめるし、平日のゴルフなら経済的な負担も少ない。おかげで、酒、タバコ、過飲暴食、買い物、ギャンブルなどの欲望に負けることなく、ある程度のストイックな生活が出来ているように感じる。完全なストイックではなく、緩いストイックな生き方を楽しむほうがいい。
児童虐待が起きる背景 [2016年12月06日(Tue)]
 事件の陰に女あり、とはよく世間で言われている言葉である。男性が起こした事件のバックグラウンドに、少なからず女性が関与しているという意味であろう。それだけ、女性の魅力に抗うことが出来ない男性がいるという証しでもある。一方、社会を賑わしている児童虐待事件においては、例え主犯が母親であっても、その背景には必ずと言っていいほど問題になる男性の存在があるみたいである。女性が起こした虐待事件の陰には、男性が関与しているケースが実に多いことに驚く。勿論、複雑な家庭事情がある訳だから、男性だけが悪い訳ではない。しかし、そこに関わっている男性がもう少し母親に対する態度や育児に対する姿勢を変えてくれたとしたら、虐待事件は起きなかったであろう。実に残念なことである。

 さて、虐待事件が起きてしまう背景であるが、両親揃っているケースでも一人親の場合でも、男性の存在が重要な鍵を握っているケースが少なくない。シングルマザーの世帯に問題の男性が張り込んで、一緒になって虐待をする例が実に多い。両親がいる場合でも、育児に父親がしっかり向き合って、しかも母親の育児のフォローをしているケースでは児童虐待が起きるのはごく稀である。そして、夫が妻を心から敬愛し、妻も夫を同じように全幅の信頼を寄せている場合は、児童虐待が起きないのである。誰か近くで心身共に母親をサポートしてくれる存在や、深く愛してくれる異性がいたとしたら、母親は子どもに対して豊かな愛情を注ぐことができる。自分が心から愛されていると実感している母親は、児童虐待に走ることはない。虐待事件が起きると、その当事者である親だけが責められることが多いが、その背景に注目して対応すべきと考える。

 児童虐待を脳科学的に考察してみると、実に興味深いものがある。人間は、幸福ホルモンと言われているセロトニンが十分に出ていないと不幸感に支配される。最近になって解明されつつあるオキシトシンという安心ホルモンが充足されていないと、不安感が強くなり母性を発揮できないという。児童虐待を起こす母親は、このセロトニンとオキシトシンが不足していて、本来の母性を発揮できないのではないかと推測されている。セロトニンを分泌するのには、十分なオキシトシンが必要だということもあり、このオキシトシンが児童虐待の発生に大きく影響しているのではないかとみられている。実際に測定したという統計データはないが、児童虐待をしている母親にオキシトシンというホルモンが不足しているのは間違いないようである。

 このオキシトシンという安心ホルモンは、人に褒められたり感謝されたりする行為を重ねると多く出るらしい。芸術や映画での感動やスポーツでも分泌量が増えると言われている。さらに多くオキシトシンが分泌されるのは、スキンシップ、抱擁やハグ、キスや性行為に影響を受けた時と言われている。特に、大好きな異性とのスキンシップや愛の営みによって、オキシトシンの十分な量が分泌されるという。それも、快楽だけを求め合うような営みではあまり分泌せず、お互いに愛を与え合うような触れ合いや抱擁こそが分泌量の増加に効果があるという。そして、身近な男性から虐げられたり、暴力を奮われたりしている母親は、オキシトシン不足から子どもに対する博愛感情を喪失してしまう。児童虐待が起きる背景には男性の存在が深く関係しているという根拠がここにある。すべての虐待事件が、オキシトシンの不足によるものとは言えないが、色濃く影響しているは間違いないだろう。

 オキシトシンの分泌は、乳幼児期における養育環境が影響しているとも言われている。乳幼児期に養育者がスキンシップを密にして、愛情豊かに育てられたケースでは、オキシトシンが正常に分泌できる大人に育つ。さらに、母親とのスキンシップ、不安や恐怖感を感じるような経験を殆どなく、安心感をずっと持ち続けられる養育環境を経た人間は、大人になってもオキシトシンが分泌しやすい。両親の夫婦仲がすこぶる良くて、母親が安心して我が子に母性を注げた養育環境を過ごした子どもは、オキシトシンが出やすい。その反対に、養育者から愛情を受けられず、抱きしめられたりハグされたりせず、放置されて育てられた子どもたちは、大人になってから十分なオキシトシンが分泌されない。ということは、虐待を受けた子どもは大人になって、自分が受けたように虐待を繰り返すようなケースになりやすいということである。この虐待という負の連鎖をどこかで断ち切ることが喫緊の課題であると言える。虐待をしている親には、愛が溢れるような周りの対応が望まれる。
病気で気付く健康の大切さ [2016年10月02日(Sun)]
 絶対に病気にはならないという自信が、無残にも打ち砕かれた。それも、自分はストレスに強いので、ストレスが原因の病気には絶対になる筈がないと普段嘯いていたので、ストレス性の疾病になったというショックは余計に大きかった。帯状疱疹というストレスが要因とされる病気が、9月の初めに発症した。最初は、右胸にチクチクという痛みがあり、ゴルフのやり過ぎによる筋肉痛かと思っていた。それも筋肉内部ではなくて、皮膚の部分に痛みを覚えていたから、もしかすると帯状疱疹かもしれないかとふと思いながら、まさかそんな筈はないと高を括っていたのである。

 ところが、数日後に右胸の数か所に発赤が現れたから大変。早速、総合病院の皮膚科を受診した。予想通り、帯状疱疹の確定診断を受けて、抗ウィルス剤と痛み止め、そしてステロイドと化膿止めの軟膏をもらった。5日間の投薬により、ウィルスの封じ込めに成功し、疱疹は何とか収まった。しかし、痛みは弱まったものの、まだチクチクとする痛みは3週間後も続いている。早い対応だから、何とか軽い症状で収まったと思われるが、帯状疱疹の痛みは最盛期には夜も眠れないぐらいの痛みに悩まされた。今では、ゴルフが出来るぐらいまで回復して、ほっと胸をなで下ろしている。

 帯状疱疹を侮ってはならない。重症化すると、痛みに耐えきれずに入院治療が必要になる。実際に入院して、神経ブロックの注射を受けている人もいる。この病気は、子どもの頃に罹患した水疱瘡のヘルペスウィルスが、治癒後も体内に残留していて、自己免疫力が低下した時に発症する。免疫力を大きく低下させるような急激な多重ストレスや悪性腫瘍などが出来た時に、帯状疱疹になると言われている。健康な体力と精神性があれば、ヘルペスウィルスを抑え込んでいるが、過大なストレスなどにより免疫力が低下すると、ヘルペスウィルスが暴れだして、帯状疱疹が発症するのである。治癒後にも、神経節に沿った激しい神経痛が数か月も続く例が少なくない。

 普段から自分でもストレス耐性は強いと感じていた。会社の人たちもストレスに負けるなんてことがある筈がないと思っているし、普段の生活態度や習慣をよく知っている看護師のwifeが一番驚いたと思う。帯状疱疹から一番遠くにあると思っていた人間が、その病気になったのだから、自分も含めて周りの人たちも青天の霹靂といった具合なのである。実に不思議な出来事であったのだが、帯状疱疹になったのは間違いないし、やはり自分も普通の人間であったと言わざるを得ない。免疫力の高まるようなバランス良い食生活をしていたし、身体に悪いと言われるカップ麺、ファストフード、化学調味料や添加物の入った食物、ジャンクフードの類は一切食べなかった。適度の運動もしたし、ストレス解消もしていた。しかし、紛れもなく帯状疱疹になったのである。

 でも、よくよく考えてみると、必ず原因はすべて自分にあると気付くのである。世の中に完全とか絶対にということはないのである。どこかに、ほころびやゆらぎは存在する。ましてや、自分は絶対に病気にはならないなんて、思い上がっている人間には天罰が下るものだ。謙虚さや奥ゆかしさを忘れた人間は、苦難困難に見舞われる。病気や事故は、何かを気付いたり学んだりする為に、自分自身で起こしていると言われているが、まさしく今回の帯状疱疹は、天の施しであるに違いない。だから、この経験は実に有難いことであるし、この病気から学ぶべきことがおおいにあったと言うべきであろう。

 帯状疱疹の原因について、さらに調べてみた。紫外線や身体的な疲れも、原因になることを知った。紫外線が免疫細胞に強く働き、免疫力を低下させるらしい。はたと思い当たった。そう言えば、今年は例年にないくらいに真夏の強い日差しを浴びて、ゴルフを何度もラウンドした。なるほど、ゴルフによる紫外線と疲れが、ボディーブローのようにじわじわと身体を苛めていたのである。それが、秋の訪れと共に出てきたに違いない。絶対に病気にならないという自分の思い上がりが、自分の身体を苛め過ぎたのである。いたわりが足りなかったと反省すると共に、健康の大切さを噛みしめている。まだまだ続くチクチクとした痛みに対して、敢えて傷み止めの薬を飲まずにいる。自分の未熟さを反省するために、あるがままの痛みを受け容れている。
良い人は長生きできない? [2016年09月11日(Sun)]
 こんなに良い人なのに何故?という事例に出会うことがある。誰からも好かれ、皆から慕われる素晴らしい人間性を持ち、そして高い能力を持ち仕事も出来て、長生きして活躍してほしいと思うような人が、不治の病に侵されて帰らぬ人となるケースが意外と多い。一方では昔から『憎まれっ子世にはばかる』と言われるように、人々からおおいに嫌われ、身勝手で自己中心的な性格で、仕事も出来ず周りに迷惑を掛け続けるような人間が、まさしく長生きしている例が多い。こういう嫌われ者は、家族からも嫌われているし、見放されてしまい孤独な生活になりながらも、しぶとく生きているケースも少なくない。良い人は、幸福な人生を歩んでいる筈なのに、どうして短命なのであろうか。

 つい先日も、命にかかわるような病気やケガに見舞われるのは、自分自身の学びの為にわざわざ自分が起こしているんだと言ったら、それを聞いた知人が猛烈に反発していた。私が尊敬していたその人は、誰からも好かれて立派な人格を持って、非の打ちどころのない人なので、学びなんか必要ない筈だと言う。その人は、若いのにガンで亡くなったが、大好きな人だったらしい。確かに、このような例があるのだが、学びや気づき、自己成長なんて必要がないような人が、残念ながら亡くなってしまうケースがあるのは確かである。脳梗塞を発病しても、まったく反省することなく煙草を吸い続け大酒を飲んで、家族に迷惑を掛けながらしぶとく長生きする人間もいる。おかしいと思うのは、当然である。

 人の人生というのは不思議なものである。因果応報という法則が当てはまらないケースが沢山ある。本当に立派な人格を持ち会社にも家族にも多大な貢献をしている人が、あっけなく人生の終焉を迎えるのはどういう訳だろうか。そういうケースは、無理して善人を演じているだけの、単なる偽善者ではないかという人がいる。けっして、そうではない。善人であろうと意識しているだけでは、立派な人格だと多くの人から尊敬されることはない。根っからの善人なのである。とすれば、どうして善人なのに不治の大病や再起できないほどの大ケガをするのであろうか。それは、人間の闇と光の部分をどのようにして生きるのかという点にあるような気がする。

 人間は誰でも、闇と光の部分を持つ。陰と陽とも言えるし、善と悪、正と邪、などとも表現されるし、マイナスの自己とプラスの自己と言われることもある。良い人は、陰と陽のうち、陽の部分を表に出しているのは間違いなさそうだ。当然、悪を出さずに善を、邪を仕舞い込み正を、醜を見せずに美を見せて生きている。だから、人々から好かれ信頼され、尊敬されるのであろう。こういう人は、周りの人々とも良い関係を作るので、本来ならストレスもないから健康で長生き出来る筈である。しかし、こういう人は意外と短命な例が多い。実に不思議なことであるが、良い人が長生きできない例が多いのも事実である。

 さて、皆から好かれ尊敬されるような人格と人間性を持っている「良い人」でも健康で長生きする人がいる。代表的な人物として、松下幸之助氏、本田宗一郎氏、井深大氏は経済界で著名な人たちで長生きしたと言える。尊敬するマザーテレサ女史は長生きしたと言えるし、ガンジーも暗殺されなければ、長寿を全うしたに違いない。つまり、良い人はすべて短命ではなく長生きする人もいるのだ。それでは何が違うのかというと、それは自分の「陰」の部分を深く認識していたかどうかという点であろう。光と闇のうち、闇の部分も自分の心にあるということをしっかりと認識していた数少ない人間だけが、良い人でも長生きできるのである。

 人は、ともすると自分の中に闇は存在せず光の部分しかないと勘違いしやすいものである。または、闇の部分が自分にはないのだと頑なに拒否して、闇の部分を自分の心の奥深い処に隠して生きる。これでは、いつも無理して生きることになる。自分のマイナスの自己をないものとして生きるのは辛いのである。何故なら、自分の中にあるマイナスの自己は、間違いなく存在しているし、そのマイナスの自己を認めず生きるのは、自分自身を否定するということでもあるのだ。自分のマイナスの自己である闇の部分が、自分にはあると認め受け容れて、許し、そしてその闇を慰めることが人間として成長するには必要なのである。この心の境地に達するには、相当に大きな試練が必要なのも事実である。自分の本当の心を気づくには、その試練において傷つき倒れ、二度と這い上がれないくらいに叩きのめされて、そこから這い上がってきた人間だけが、長生きできるのである。尊敬する佐藤初女さんも、大きな試練を乗り越えて、長寿であった。
| 次へ
プロフィール

Naturalさんの画像
リンク集
http://blog.canpan.info/inakagurasi/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/inakagurasi/index2_0.xml