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ゴルフ場は本当に自然破壊なのか? [2016年08月04日(Thu)]
 ゴルフは自然を破壊し環境に負荷をかけているのだから、すぐに止めなさいよと先日忠告してくれる友人がいた。常日頃FBにゴルフの記事をアップしているのを見て、苦々しく思っていたに違いない。彼は地元で環境保護活動をしている見識の高い人だ。実は私も同じくゴルフが環境破壊をしていると思っていた。だから登山を25年前に始めてからは、どうしても避けられない場合を除いて、ゴルフから遠ざかっていたのである。ビジネス上の付き合いでどうしても避けられない場合だけラウンドしていた。しかし、4年前からゴルフを本格的に再開した。その頃ゴルフを始めたwifeから誘われたからという理由と、自分自身の心境の変化からである。

 ゴルフ場の開発は自然破壊であり、その運営が環境に負荷をかけるというゴルフを続ける後ろめたさを少なからず感じていた。登山を始めた頃には、山に登る度に森林の中にどーんとゴルフ場があるのを見るのがつらかった。青々しく雑草ひとつない芝生は、相当に多くの農薬を使っているのだろうと想像できた。ゴルフ場で働くキャディーさんたちの農薬被害が酷いらしいという、まことしやかな噂もあった。ゴルフは自然破壊の最たるものだという定説は間違いないと思い込んでいたのである。環境保護活動をしている人たちから見たら、ゴルフほど自然を破壊しているものはないと思い、目の敵にしているのも当然であろう。しかし、本当にゴルフは環境や自然を破壊する最悪のものであろうか。そんな疑問を感じたので、公平な目で科学的に検証してみることにした。

 田舎の山林を切り倒して開発されるゴルフ場は、森林破壊と呼ばれても仕方ない。しかし、現在はそんなゴルフ場開発は行われなくなった。ましてや日本で自然保護のために残したい森林は、田舎の山林ではなくてブナなどの広葉樹の自然林である。そんな奥地の自然林をゴルフ場にする計画は絶対にあり得ない。ゴルフ場が展開されるのは、いわゆる里山である。片田舎もしくは都会周辺の里山は、現状どうなっているかというと、殆ど管理されていない。ごく一部を除いて、里山は荒れ放題になっている。ゴルフ場では、その里山が残っているし、しっかり管理されている。しかも、樹木は健康な状態にあるし、芝生も美しい。荒れている里山とは対照的である。

 ゴルフ場にある林には、動植物の多様性が存在する。荒れ放題の里山とは違い、鳥や小動物、そして今は貴重になってしまった植物が豊富に残っている。ゴルフ場に行ったことがない人には解らないだろうが、春から初夏はウグイスやホトトギスの鳴き声が響いている。珍しい植物の花々が咲き誇り、蝶が舞う。農薬が過剰に使用されているのであれば、こんな状況にある訳がない。また、昔は見かけなかったミミズが芝生の上に顔を出す。地中にミミズがいるということは、農薬が少ないという証拠であるし、芝生の中に縦横無尽にミミズが通った穴があるので、降った雨水の水はけがよいので自然の保全に役立っている。

 都会はコンクリートで地表が覆われているので、降った雨などの浸透が出来ない為に、すぐに溢水が起きてしまう。コンクリートの地表で飲み込まれない水は、都会においては低い土地に集まってしまう。ゲリラ豪雨は、洪水を起こすことが多い。都会の近郊にゴルフ場があると、雨水を芝や土の表土から浸透させてくれるし、調整池が水を溜めてくれる。田んぼや畑のような、水の調整機能を持つのである。ましてや、コンクリートの建物やエアコン稼働が原因の都会におけるゲリラ豪雨をゴルフ場は防いでくれる。さらには、何か巨大な災害が起きたときに避難地としての機能も果たしてくれる、有難い存在でもある。豊かな植物や森林が光合成をして、二酸化炭素から新鮮な酸素に変えてくれる。地球温暖化防止に役立っている。

 これから乱開発などによりゴルフ場が出来るようなことはないだろうが、自然を破壊するような新たなゴルフ場開発は困る。しかし、現在稼働しているゴルフ場は、自然保護や災害防止に寄与しているのだから、何とか残したいものである。もし、ゴルフ場が経営難になって放棄されたら、自然は荒れてしまうし折角の豊かな自然がなくなってしまう。都会近くのゴルフ場が閉鎖されたら、人工的な建造物が林立しかねない。現在、ゴルフ年齢が高齢化してしまい、利用者減少に悩んでいるゴルフ場が少なくない。自然保護や環境保全の為にも、多くの人々にゴルフ場を利用してほしいものである。ゴルフ場が自然破壊だなんて、感覚的に言うのは控えてほしものである。しっかりしたエビデンス(科学的根拠)に基づいた理論展開を望んでいる。
山に登るということは死ぬこと [2015年02月11日(Wed)]
 先ず持って、御嶽山の噴火に際して、不幸にして亡くなられた方々とそのご家族に対して、慎んで哀悼の意を表したい。それから、話を進めることにする。

 さて、事故にあった直後には情報が錯綜したり遠慮があったりして、なかなか伝わらなかった噴火直後の登山者の行動だが、ここに来て少しずつその行動が明らかになってきた。そして、自分の生命を守れたのか守れなかったのかの分岐点が、どこにあったのかも少しずつ判明してきた。想像していた通りであるが、噴火直後に『これは危険だぞ!』と直感して、急いで避難したり安全な所に身を隠したりした人は助かったみたいである。しかし、噴火したことをたいした危険性がないと思い込んだり、自分には被害が及んだりしないだろうと思い込んでしまった人は、結果として犠牲になってしまったようである。残念なことに、避難もせずに噴火の様子をスマホの動画に収めたりカメラ撮影したりしていた人は、帰らぬ人となってしまったとの報道がされている。悔やんでも悔やみきれないものがある。

 また、噴火した後に灰や小石が飛んできて危険性を感じた人は、とっさに機転を利かしてザックを頭に載せて噴石の直撃を避けたし、大きな岩の陰に隠れて難を逃れたらしい。さらに、いつもヘルメットを常備していた登山者は大切な頭部を守れたし、登山小屋にはヘルメットが常備されていることを知っていた人は、駆け込んで貸してもらったという。驚くことに、天気や景色がいつもと違うなと気付いて、警戒しながら登っていた人もいたみたいである。御嶽山が危険性のある火山だと認識せずに登っていた人と比較すると、雲泥の差があろう。このように、御嶽山が危険な山であるし、登山というものがいつも危険と隣り合わせだと認識していたかどうかが、生命を守れたかどうかの分岐点になったとすれば、登山を安易なレジャーだと考える人がいる限り、今後も同じような被災事故が発生することであろう。

 そもそも登山という行為は、様々な危険を孕んでいる。こういった火山噴火の被害もあるし、遭難することだって考えられるのは勿論だし、危険動物に遭遇する危険もある。風雨や雷に出合うこともあるし、病気が発症すれば助からないことも多い。このように、山というのは様々な危険に満ちた世界なのである。だから古より、山に登るというのは『死ぬことなり』という概念が生まれてきたのである。登山が修行の一種だということもあろうが、山に分け入るということは、一旦死ぬことだという考え方が敷衍されてきたのである。その証拠に、修験者や修行する人々は、死に装束である白い服を着て信仰の山に登拝する。また、山に登ると、三途の川とか賽の河原と表示され、積み石が置かれた場所を目にすることが多い。または、地獄谷とか浄土山、浄土平と表示されている場所も少なくない。つまり、山とはあの世であり死後の世界なのである。

 さらに、山は墓場だという概念も存在する。『人生いたるところ青山あり』という諺があるように、山というのは墓地という考え方がある。青山という地名はそれこそ墓地そのものだから付いた地名でもあろう。全国各地に、はやまと読む、葉山、端山、羽山、麓山という地名や山名があるが、墓地を意味するのはいうまでもない。このように、山というのは人生の終末を迎える場所でもあるのだ。だから、山に行くということは死にに行くと同義語であることは、容易に想像できる。ましてや、富士山詣でや御嶽山詣で、飯豊山や月山、鳥海山の登拝は、昔はそれこそ命がけであった。死ぬ覚悟で登ったのである。だからこそ、自分の生命を神に預け、生きて帰れるかどうかは、自分の霊魂の清浄さ次第であり、禊でもあったのである。そんな覚悟がないと山には登れなかったのだ。

 ところが今はどうであろうか。登山は完全にレジャー化したりスポーツ化したりしている。ごく普通のスニーカーや普段着で富士山などの高山を登る人や、軽装でたいした非常食も持たずにトレランと称して、走って登り降りするスポーツ登山にはまっている人がいる。山というものは、死と隣りあわせの場所であるから、敬虔な気持ちで登らないと、とんでもない目に遭うという認識がない人が増えてしまった。死ぬような場所であるからこそ、念入りな準備といざという時の行動予想をしてから登るべきである。その認識こそが、一旦死んだことになったとしても、魂が浄化されて生きて帰って来るという本来の信仰登山を可能ならしめるのである。山に登ることは死ぬことなんだという認識をすべての登山者が持つことが出来たら、二度と御嶽山のような悲惨な事故が起きることはないだろう。山に登るときは、自然の偉大さを畏敬し、自然に対して自分は無力であるという認識を持ち、謙虚な態度で山頂を目指したいものである。
人は心、山は哲 [2013年10月24日(Thu)]
 この「人は心、山は哲」という格言は、登山愛好者にはある程度知られているが、一般の人々はあまり聞いたことがないかと思う。登山家岩崎元郎氏が最初に使ったとされている。この言葉に最初出会ったのは、NHKの教育テレビで放映されていた、「中高年の登山学」のテキストの中である。その数年後に、北アルプスのある名峰の山小屋の登山雑誌に岩崎氏が書き込みをしてあるのを、偶然に目にした。それ以来、この格言を非常に気に入ってしまい、自分の座右の銘として重宝させてもらっている。岩崎氏は、この言葉の意味について、多くを語ってはいないようである。講演会でもあまり触れないし、氏の著書でもさらっと簡単に記しているに過ぎないようである。

 岩崎氏がこの格言をどんな意味で使用したのかは知る由もないが、おそらくはこんな意味で用いたのではないかと自分勝手に判断して、使用させてもらっている。毎年、ある公民館の事業として登山教室を企画させてもらっている。勿論、企画者としてだけでなく年間6回の実技の登山にも、登山ガイドとして参加させて頂いている。結構人気の教室で、20名だけの限定人員ということもあり、申し込み当日は朝の5時半から並ぶ人もいるようで、すぐに定員一杯になるそうだ。数年前には、座学もあって公民館において机上講座もあったのだが、皆さん実技を楽しみにしているということで、毎回実技をメーンにして、バスで移動している最中に講座をさせてもらっている。登山で必要な知識についても話をしているが、山の哲学についても「心は哲、山は哲」という表題で話させてもらっている。

 山は哲ということは、山や登山は哲学そのものだという意味だと思うが、何故そうなのであろうか。おそらくそんな事を考えながら山を登る人は、極めて少数者に違いない。そもそも山に登る理由は、殆どの人が趣味として楽しむ為であろうし、眺望や花などの自然を楽しんだり頂上を征服したりするという自己満足の為だと思われる。山が好きで登っているし、身も心も健康になりたいと登っているのだから、山が哲学だなんて余計なお世話だと思う人も多いだろう。確かに、その通りである。山を楽しむだけでいいだろうし、登山に哲学なんて必要ないと思うのも当然だと思う。自分も、若い頃は山が哲学だなんて思うことは一度もなかった。

 ところが、毎年40座から50座の山頂を踏み、30年近く登山に勤しんで還暦を迎えるような年齢になると、不思議なことに山は哲学だという考え方に、いつの間にかなってしまったみたいである。登山道が厳しい数々の山を登り、苦難困難とも言えるような経験を多く積んで行けば行くほど、山はやはり哲学なのだと確信してしまう自分がいる。おそらく、日本の登山が山岳修行から始まったように、山に登るという行為そのものが自分自身の魂の浄化や成長を促していると実感するからではないかと思うのである。登るだけで10時間以上も要するようなハードな山や、登山道の殆どが岩場で鎖場とはしごが連続するような危険と隣り合わせの登山道を登っていると、自分が生きるうえで必要な気付きや学びを山は与えてくれるのである。

 つまり、自分がいかに未熟な存在であり、人間として謙虚さや素直さが足りず、自我(エゴ)や煩悩というようなものに毒されている存在であるという実感を、山から嫌というほど与えられるのである。何故、そんな気分になるかというと、私たちは下界にいると自分自身と向き合う時間が持てないのだが、山を黙々と登っていると、知らず知らずのうちに自分自身と謙虚な心で対話出来るからではないだろうか。日本で山岳修行がどうして栄えたのかというと、身体的な苦難を経験することが悟りを開くのに近道だと、修行者や修験者が体感したからではないだろうか。六根清浄という言葉が示す通り、自分自身に身についた余計な物(煩悩やエゴ)を磨き削いで、本来の研ぎ澄まされた自己を確立出来るのではないかと思うのである。「人は心、山は哲」だという実感を持てたら、もっと山の楽しみが増えるし、自分の大きな成長が実現するに違いない。
山好き人間は善人か否か [2013年09月16日(Mon)]
 山登りをする人間は善人である。というのは一昔前に言われていたことである。山登りをする人間は、見知らぬ他人でも挨拶するし、何かあれば助け合うし、山で出会った人に対して親切な行動をするからであろう。確かに、自然が大変厳しい山の中において、一旦事故や事件が起きると、自分の危険や負担を顧みず人助けをしてくれる登山者は多い。または、靴の損傷や傷病が起きた際には、見ず知らずの他人が親身になって対応してくれる。山小屋では、傷薬や飲み薬、食べ物を分け与えてくれる登山者が多い。やはり、登山者というのは善人なのであろうか。それとも、一般社会と同じように善人も居れば悪人もいるのであろうか。

 山岳小説を好んで書いた新田次郎や山岳を舞台にした推理小説を得意とした梓林太郎の小説の中には、登山家の犯人が登場する。直木賞を受賞した高村薫のマークスの山という傑作小説には、5人の極悪人が重要な登場人物として描かれている。梓林太郎も言っているが、山登りをする人たちがすべて善人かというとそうではないらしい。やはり、登山者には善人もいると悪人もいるということだろう。しかし面白いことに、登山をする人は自分のことを善人だと思う人が圧倒的に多いと思われる。他人から見ると、けっしてそうは思えないが、自分はいたって善人だと信じている向きは多い気がする。私から見ると、とても善人には思えないのだが、私の回りにいる山好きの人々は、自分が良い人だと思い込んでいる節があるのだ。

 私がよく知っている大きな会社に勤める人々で作った登山同好会に所属している人々は、どういう訳か仕事で低い評価を受けている人たちが多い。会社内では、とても困った人たちでもある。あまりにも自己中心的で、遊びになると一生懸命になるが、こと仕事の場面になると、消極的らしいのだ。当然仕事中心ではなくて、登山などの趣味が中心になっている。職場で評価も低いから管理職になれない人が多い。また、地域の登山同好会に所属する人や、山岳会に所属する人々も、職場では変人としてみなされている場合が多いようだ。勿論、例外の人もいるし皆から慕われる人もいる。しかし、登山をする人は、職場を含む一般社会においては、どうも組織内で浮いている人が多い気がする。実際に話してみても、こだわりが強いし、傲慢さが感じられる気がする。

 昔から山男や山女は、こだわりが強く頑固な人が多いと言われている。確かに、謙虚さや素直さという面では、山男山女はどう見たって少ないように感じる。勿論、親切さや面倒見の良さという点では山好きの人のほうが圧倒的に多いが、それもまた押し付けというか押し売りのような親切さを発揮する場合が多い。だから、山好きの人間は人々から嫌われることが多いのではないだろうか。そして、山好き同士以外は付き合いにくいと感じることが多い気がする。なにしろ、山好きの人々の話を聞いていると、自分の山歴を自慢する人が多いのである。自分はどこそこの山に登ったとか、短時間で登ったとかを自慢する話が、頂上での他のグループの会話から漏れ聞こえるのである。それだけ山男山女は、自己顕示欲が強いということが言えよう。

 だから山好きが善人でなくて悪人が多いという結論にはならない。やはり、善か悪かという二者択一ということなら善人が多い気がする。ただし、間違いなく言えるのは、山好き人間は変わり者が多いし、アクが強いということであろう。私も山好きであるから、変人の一人だと言えよう。おそらく、一般社会において自分の居場所や活躍出来る場があまりなく、何となく生きずらさを感じている人が、山にはまるのではないかと思うのである。なにしろ山は、どんな人も快く迎えてくれるし、どんな変人も受け容れてもらえる場なのである。下界では誰にも相手にされないが、山は自分をまるごと認めてくれる存在なのだ。

 そして、傲慢で頑固な人が山でいろんな学びや気付きを与えられ、厳しい登山における苦難困難を乗り越えることで、少しずつ自己成長するように思う。だからこそ、昔の人々は山岳修行をしたのに違いない。なにしろ、傲慢さを捨てなければ山で遭難し、命を失い兼ねないのだ。自然の厳しさの中で、自分の弱さや小ささや駄目な所を思い知るという点において、登山は真の自己の確立に向かう近道なのかもしれない。山の達人と言われるような人は、けっして自己主張しないし傲慢さが感じられない。ということでは、山好きは将来は善人になれる可能性があるということだろう。私も傲慢さを捨てて謙虚になれるよう、山岳修行のような厳しい登山を続けたいものだ。
富士山の入山料と世界遺産 [2013年07月27日(Sat)]
 「一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」とは富士登山を言い表した惹句で、確かに言いえて妙である。私も一度は富士山に登ったが、余程のことがない限り二度目はないだろうと思う。やはり富士山はいろんな意味で日本一。不二の山と言えるように他にはないただ一つの山であり、高さと共にその秀麗な山容は、他に比較する山がないほど美しい。しかし、実際に登ってみると、荒涼とした登山道には見るべき花々や樹木もない。景色だって、これぞという大パノラマが広がる訳でもない。やはり、富士山は登るべき山ではなく、眺める山だと思う。そして、富士山は観光登山の対象ではなく、信仰登山の対象であるべきなのかもしれない。

その富士山が世界遺産に登録されたことで、富士山の登山客は確実に増えることだろう。登山をすべき魅力は少ないが、世界遺産というだけで一度は登ってみたいと思う観光客が気軽な気持ちで登るに違いない。しかし、富士山はそんなに甘くはない。実際に高山病に苦しんだり、体力がなくて断念したりする登山者も多い。怪我人や病人も数多く発生している。観光気分で、スニーカーやジーンズ姿で登るなんて無謀である。最近の山ガール・山ボーイのブームもあってか、登山の経験もなくていきなり富士山に登る馬鹿者も多いと聞く。トレランの対象として富士山を選び、弾丸登山と称して登る愚か者も多いと聞く。登ってみて始めて、その厳しさを味わうことになろう。いい加減な気持ちで登って欲しくない山である。

 さて、その富士山の登山に対して、入山料を徴収することになるらしい。今夏は、あくまでも試行として、入山料1,000円を強制ではなくて協力金として頂くことになったという。その入山料収入を環境保護や登山道整備に役立てるらしい。この入山料徴収については、喧々諤々の論争が巻き起こっている。賛否両論が様々な媒体を通して繰り広げられている。そもそも、富士山が世界遺産に登録されたのは、あくまでも条件付きである。条件が整備されなければ、登録が取り消されることになるという報道はあまりされていない。今回の世界遺産登録は、文化遺産としての登録であり、信仰や芸術的価値としてのその文化を守るための措置が取られなければ、何年か後には登録が取り消されるのである。

 世界遺産としての登録をこれからも続けていくには、富士山の自然環境保護や安全な信仰登山が出来るための様々な整備が必要で、当然その費用を賄わなければならない。その費用を入山料を徴収して宛てるというのは、利用者の費用負担という面から見たら正しい気がする。問題なのは、物見遊山で増える観光登山者である。世界遺産登録により鰻上りに増える観光登山者をどう減らすかが課題である。登山者の急増は自然破壊にもろに繋がる。し尿処理や廃棄物の問題、食事提供に伴う二酸化炭素排出の問題や登山者のマナー低下問題、そして登山道の整備が追い付かずに事故多発の恐れもある。富士講に代表される信仰登山の文化をどのように守るべきなのか、悩ましい課題が突きつけられている。

 セブンイヤーズインチベットという映画の中で、西洋の登山家に対してチベットの女性はいみじくもこんなふうに語っている。『あなたたちは、頂上を極めることが目的で山を登るが、私たちは自我を捨てることが生きる目的なんです』ときっぱり言い切っている。本来、富士山に登る意味は、自らの穢れた自我を捨てて、真の自己を確立することにある。単なる頂上を極めるためや、友達や会社の人に自慢するという自己満足のために登るべきではないのである。富士山に登るというのは、もっと大切な意味があるのだ。

 そもそも日本に登山という文化が栄えたのは、信仰や修行の対象として『山』が最適であったからである。山には神々や仏が住み、そこに謙虚な気持ちで訪ね、自分自身にある穢れた自我を脱ぎ捨てて、本来の浄らかな自己に生まれ変わる為に山に登ったのであろう。したがって、山に登るということは禊(みそぎ)であり、一度死んで生まれ変わる場所なのである。だから、信仰の山には登山道に賽の河原と呼ばれる場所があったり、白い死に装束で登ったりするのだ。富士山が世界遺産登録されたのは、山岳信仰という文化が栄えたところだからという理由である。ならば単なる観光登山だけではなくて、本来の山岳信仰という意味を深く考えて、自分自身の穢れを落とす為に、「六根清浄」と唱えながら厳かに登りたいものである。
いざ冬山へ那須三本槍岳 [2012年03月05日(Mon)]
IMGP0964.jpg 那須連峰の最高峰、三本槍岳にマウントジーンズスキー場から登りました。今シーズンから山スキーデビューして、先月一度三本槍岳にチャレンジしたのですが、天気が悪くて猛烈な吹雪に遭い、途中で断念してきました。今回は天気にも恵まれて、眺めも最高でした。ただ、天気が良すぎて紫外線が強くて、顔と首が雪焼けしてしまい、真っ赤になりヒリヒリして大変な目に遭いました。しばらくぶりのスキーだったので、太ももの筋肉が疲労して途中で足がつってしまいました(笑い)トレーニング不足です。また行きたくなりました。
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 ここ白河から那須のマウントジーンズスキー場までは、約30分程度で行けます。そのスキー場からゴンドラリフトで一気に冬山登山口まで。そこから三本槍岳はゆっくりと歩いて約3時間。ここ白河は、冬山登山に行くのも便利です。会津の冬山へも近いですし、安達太良山や吾妻山へもアクセスが近いです。さらに、蔵王や月山へも便利です。
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庚申山とコウシンソウ [2011年06月28日(Tue)]
栃木県日光市、群馬県との境界にある「庚申山」は、全国的にも著名な庚申講の山です。同時に、ここにしか咲かない「コウシンソウ」の山としても有名です。この時期にしか咲かないということもあり、沢山の登山者が訪れます。この日も、多くの登山者で賑わいました。

 コウシンソウは、ムシトリスミレの一種で食虫植物です。ほんに小さくて可愛い姿で、なかなか見つけられない花です。ここにありますよ、と言われて初めて見つけられるくらいの小さな花です。花の大きさは1センチもなく、高さも3センチくらいです。 この花は岸壁の、水が滴るような環境(湿気のある岸壁で涼しい場所)にしか生息しないようです。

 こういう小さな花は、マクロで撮影するのが難しいし、岸壁に咲いているので三脚も使い難く、この花姿を上手に撮影した画像にはなかなかお目にかかれません。余程熟練した人が、マクロレンズを装着したデジイチでもないと撮影できないと思います。でも、最近はコンデジでも1cmマクロが撮れる機種が出てきて可能になりました。1cmマクロが撮影できるペンタックスとリコーのコンデジがありますが、今回はリコーのCX-4を使用してみました。

 この庚申山に登るには、登り4時間近くかかるのですが、折りたたみ自転車を使用しましたので、下山が楽でした。1時間くらいかかる林道(4キロ)があります。ずっとこの花が見たくて、ここ5、6年狙っていて、やっと天気に恵まれて撮影できました。
山ガール [2010年08月21日(Sat)]
 ひと昔前なら、登山をこよなく愛する人間を、山男または山女と呼んでいた。しかし、現在も男はそのままの呼び方なのだが、女性は『山ガール』と言うらしい。そして、何と言っても昔と違うのはそのファッションである。山スカと言われる、巻きスカートを履いて登る女性が増えたのだ。勿論、スカートの下はストッキングや生足というわけにはいかない。高機能の登山用タイツを履いているのだ。私もそのタイツを愛用しているし、そのうえに短パンを履いているから同じような格好でもある。

 シャツもおおいに変化している。山シャツというと、チェック柄が主流であったが、今は花柄や大胆なデザインのものも増えた。街の中をそのまま歩いても、登山用のシャツだとわからないようなものが多い。ノースフェース、フォックスファイヤー、モンベルといったアウトドア用品のメーカーは競い合って、若い女性向けのデザイン製品を発表している。実に様変わりしていて、ひと昔前とは隔世の感がある。しかし、これらのデザイン変更は、女性だけに限ったことで、男性物は旧態以前としたデザインであり、ファッションセンスのかけらもない。

 つい先日も丹沢山系の塔ノ岳に登ったのだが、実に多くの山ガールに出会った。さすがに東北地方の山々では、まだ山ガールはほんの少数しか見かけないが、関東の著名な山々には山ガールが大挙して登っている。若い女性が山に興味を持ってくれるのは嬉しいし、山が賑わいを見せてくれているのも喜ばしいことだ。しかし、たいした経験や技術もなくて大変な山を安易に選ぶというのは、困ったものである。穂高連峰や剣岳、そして槍ヶ岳といった厳しい山に、初心者が登るケースが多いという。当然、遭難にあう場合も多々ある。

 そもそも山ガールと呼ばれる若い女性たちが何故山に惹かれるのかというと、半分以上の人々はファッション感覚の延長のように見受けられる。山ガールという、雑誌に掲載されているかなり格好いいファッションを自分も真似てみたいという単純な理由から、登山を始める者が多いと聞く。それも人生の中のひとつの楽しみなのであるから、とやかく言うつもりはない。そのうちに、ブームが終わればすぐに飽きることだろう。しかし、困るのは自分の技量もわきまえず、映画やTVで取り上げられた山だからと、危険な山に簡単チャレンジすることである。登山は命がけのスポーツであり、危険と隣り合わせであり、そしてすべては自己責任で完結させるプロセスなんだと認識してほしいものである。

 とは言いながらも、真面目に登山に取り組んでいる山ガールも沢山見受けられるようになったのも事実である。普段からトレーニングを積んで、ボルダリングで岩場の訓練をしながら、着実に技術と体力を身につけている女性もいる。勿論、こういう若い女性は何のために登るのかという、山の哲学をも学んでいるに違いない。自己中心的な態度をし放題で、山で大騒ぎしているオジサンたちより、数倍も山を愛しているように思う。こういう女性たちは、けっして山で遭難することはないだろう。

 「山は哲、人は心」と言ったのは岩崎元郎氏である。山を登るというのは、人生そのものだと思う。山を登りながら、哲学するのが私は好きだ。自分は何者なのか、何のために生まれてきたのか、自分は何をすべきなのかを、黙々と登りながら思惟するのが常である。古来より山岳修行をしてきた行者に見習い、登山は自ら仏性を得るための苦行難行だと思っている。まともな山ガールならば、そういう意味も少しは解かってくれそうな気がする。それにつけても、どうして男の山シャツはチェック柄しかないのであろうか。大きめの花柄のシャツを着て、山で皆に見せびらかしたい誘惑を抱き続けている。それを着て、『山ボーイ』と呼ばれてみたい私なのである。(笑い)
山の遭難事故に思う [2010年08月10日(Tue)]
 最近、山岳遭難事故が多発している。記憶に新しいものでは、山梨県のヘリコプター墜落事故につながる滑落事故、そしてその後の読売新聞記者の遭難事故と相次いだ。それぞれ尊い生命が失われた不幸な出来事である。犠牲者の方々には哀悼の意を表したい。そのうえで、敢えて申し上げれば、遭難事故に遭うのは、やはり山を甘くみていたせいではないだろうか。装備にしろ技能や経験にしろ、果たして十分な準備をしていたのだろうかという思いである。または、慎重さが足りなかったのではないかという懸念が思い起こされる。

 このような遭難事故が起きると、責任の所在がどこにあるのかという議論になる。リーダーは状況判断が正しかったのか、またはガイドは果たすべき任務を忠実に守ったのか、無理な計画をしなかったのか、そして読売新聞の記者の場合は、会社や上司の責任も問われた。こういった、事後の責任のなすり合いのような議論には、違和感を覚えてならない。本来、登山というのは誰かの責任で行うのではない。あくまでも、自己責任で行うべきものであろう。

 確かに、旅行会社が企画した登山であれば、多少の責任はツアーの主催者にもある。けれども、そういった場合でも、参加するかどうかは自分で判断するのであり、無理やり連れて行かれた訳ではない。あくまでも、自主的に参加したのだから、当然それで遭難したとしても、最終的には自分が責任を持たなくてはならない。それを、企画したツアー会社が悪いだの、ガイドの判断が悪いだのと責めるのは筋違いに思えてならない。その場での最終決断は、自分がするのである。自分の体力は自分で見極めるしかない。ましてや、初めて会った人の力量や体力なんて、誰が判断しようというのだ。

 登山には危険がつきものである。いつ生命を落とす危険に遭遇するかは解からない。嵐などの天候不順、熊や毒蛇の脅威、極端な寒さや暑さで体調が悪くなることもある。雷に打たれる危険性もあるし、有毒ガスにやれることもある。勿論、滑落や迷うという危険は、高くて険しい山なら、非常に高いものがある。だから、登山とは死と隣り合わせなんだと言っても過言ではない。しかし、自分が今回の登山で死ぬかもしれないと、十分な覚悟を持って登山に行く人は少ないであろう。自分だけは大丈夫だと思っている人が殆どである。

 昔の登山者(修験者)は、山に分け入ることは一度死ぬことだと覚悟していたのである。その証拠に、白装束という死者が着るような服装に身を包んで登っていた。今でも、霊峰月山などの出羽三山や、御嶽山、大峰山などでは白装束で登る人々が多い。「六根清浄、懺悔、懺悔」と唱えながら登る。山に行くことは死ぬことなんだと心得ていたのである。山の名前からして、釈迦ケ岳、大菩薩嶺、薬師岳、地蔵岳、阿弥陀岳などの仏教に縁のあるものが多い。山に行っている人は解かるが、登山道の途中に賽の河原と呼ばれる場所がある。つまり、そこからはもう黄泉の国だということである。

 このように、自分がいつ死ぬか解からないと覚悟している人は、山で一度死んだとしても生き返って戻れるように、常日頃から自分自身を磨いていたのである。特に、体力だけでなく精神力を鍛錬していたように思う。魂というか霊的な部分も磨き抜いていたからこそ、危険も予知できたし、いろんな危険を避ける術を身につけていたと思われる。ところが、例え危険な山であっても、今の登山はレジャーなのだ。自分自身の鍛錬の場ではなくて、あくまでも楽しむ場なのである。山に住む仏や神々が、そんな風潮を戒めるためにお灸を据えているのかもしれない。私は、山に登る度にこう思う。山に登るというのは一旦死ぬことであり、自分自身が禊ぎを受ける場に入るのだと。そういう覚悟と謙虚さこそが、今、登山者に求められているのではないだろうか。
憧れの山形朝日連峰 [2010年08月01日(Sun)]

 東北の名だたる山の中で、唯一制覇していなかったのが山形朝日連峰である。この山は、奥深い場所にあって、しかもアプローチが長いうえに、山小屋は寝具と食事の提供がないので自前で用意しなければならない。したがって、初心者でも誰でも簡単に登れる山ではない。当然、私もなかなか機会に恵まれなくて、登れないでいた。

 たまたま先週の土日、まあまあの天気予報だったので、思い切って登ることにした。当初、どうせ食事と寝袋を持参するなら、テント泊をやってみようと企画していた。ところが、役場に問い合わせたら、テント泊は認めていないという。最近は、環境負荷が大きいからと、テント設営を認めない山が増えている。仕方なく、大朝日小屋に1泊する登山計画を組んだ。

 結果から言えば、これで正解だった。シェラフ・マットと1泊2日の食料やガスコンロ・コッフェルなどをザックに詰め込むと、相当な重量になる。ここにテントの重さが加われば、厳しかったと思われる。重い荷物を背負って、朝日鉱泉から小朝日岳を経由して登るタフなコースは、登るだけで8時間半もかかってしまった。朝3時半に白河を出発しての強行軍だから、かなり疲れた。

 それでも、天は我々に味方してくれて、天気予報では曇りだったのに晴れてくれて、大朝日岳の雄姿や小朝日岳、そして中岳、西朝日岳の山並みをくっきりと見せてくれたのだ。また、朝日連峰は高山植物花々が咲き乱れる山である。おかげで、多くの花にも会えて、幸せ気分を満喫した山旅だった。それにしても、朝日連峰はいい山である。今度は、秋の紅葉時期にも行ってみたいと思った。

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