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『小さな巨人』が面白い [2017年05月27日(Sat)]
 TBSの日曜日夜9時から放映されてタイル『小さな巨人』という刑事ドラマが人気を博している。今期の連続ドラマは刑事ものが多いが、その中でも群を抜いて面白い。ストーリーも奇抜だし、悪役も含めて演技派の俳優が迫真の表情で演じている。過剰演技と思わせるような目線が気になるが、それもまたこのドラマには必要なのかもしれない。今期の連続ドラマの中では、総合人気度ランキングでは断トツの成績らしい。この日曜日のこの時間枠は、過去にも大ヒットをした半沢直樹や下町ロケットの実績もあるので、視聴率を取りやすいということもあるが、それにしてもこんなに人気があるのはすごいことだ。半沢直樹と下町ロケットに似た設定も人気の理由であろう。

 この『小さな巨人』というオリジナル脚本のドラマが、こんなにも多くの視聴者から指示されるのはどういう訳であろうか。それには深い理由がありそうだ。一つは勧善懲悪という筋書きが安心して見られるということもあるし、最後は正義が勝つという期待感が損なわれないというのが大きな理由であろう。さらには、巨悪に向かう小さな巨人と呼ぶに相応しく、大きくて巨大な権力を持つ組織に敢然と立ち向かう主人公の潔さに、自分が果たせない夢を託しているという側面もあると思われる。警察組織というのは、縦社会である。上司に逆らえば、例え優秀であり多大な功績をあげても、出世が出来ない。実力本位の社会ではないのである。上に逆らわず無難な言動をしていれば、安定した地位と評価を得られる組織でもある。

 ところが、この長谷川博己演じるエリート刑事は、警察のエリート官僚に立ち向かい、正義を押し通そうともがき苦しむ。我々が会社組織の中で感じている閉塞感を、見事に代弁してくれるヒーローなのである。感情移入しないほうが難しいだろう。警視庁捜査第一課長を演じる香川啓之の演技は、過剰な顔面演技で泥臭いという批判がある。確かに、もう沢山だと思わせるような顔面アップ映像には辟易する。しかし、演出家は敢えてあのような過剰演技をさせることで、主人公の清々しい表情と対比させて好感度をアップさせているのではあるまいか。だとしたら、我々視聴者はまんまとその策略に乗っていることになる。

 刑事ものや探偵ものが今期の連続ドラマに多いにも関わらず、軒並み刑事ドラマが安定した視聴率を稼いでいる。今までの刑事ものは、固定ファンがその人気を支えていると思われる。しかし、今までの刑事ドラマと、今回の『小さな巨人』の内容では大きく違っている点がある。巨大組織に対抗するというスタンスは今までも沢山あったが、一線を画す大きな相違部分があるように感じる。推理の仕方に特徴があるのだ。主人公が推理に行き詰った際に、必ず言う台詞がある。それは、犯人の気持ちになって考えてみようという言葉である。このような台詞を毎回主人公に言わせている刑事ドラマは極めて珍しい。実は、このオリジナル脚本を書いている共同執筆者の一人、八津弘幸氏は半沢直樹と下町ロケットの脚本も担当している。台詞そのものが面白いのは当然である。

 半沢直樹と下町ロケットがあんなにも支持を受けたのは、原作の面白さによるのもあったが、それ以上に人気を得たのは、ストーリーのテンポの良さと台詞のユニークさである。今回の『小さな巨人』で特徴的な台詞は、まさに犯人の気持ちになって考えるという視点である。犯人が次にどう動くか、どのような心理で犯罪を起こしたのかを知らないでは、正しい推理は成り立たないし逮捕は出来ない。主人公は、犯人の心理を巧妙に読んでその行動を予測する。犯人にトラップを仕掛けて、見事に的中して犯人を追い詰める。こんな小気味のよい刑事ドラマなのだから人気が出ない訳がない。日本の警察は優秀だと言われている。しかし、年々犯罪検挙率は低下していると言われている。様々な要因はあるものの、もしかすると犯人の心理になり切って推理する刑事が少なくなっていることが、犯罪検挙率の低下を招いているのではなかろうか。

 この『小さな巨人』では、犯人の心理を予想すると同時に、被害者の気持ちに寄り添う主人公が描かれている。ストーカー殺人事件が起きる度に、担当する警官が被害者の気持ちになり切り寄り添っていたなら、悲惨な結果を防げたに違いないと報道されている。近代教育の欠陥でもあるが、高等教育を受ければ受けるほど、人の気持ちを解ろうとしない身勝手で自己中心的な人間になる。警察官僚も含めて、高等教育を受けたエリートが警察官として採用されている。当然、被害者の気持ちを慮ろうとする警察官も少ないし、犯人の気持ちを類推できない警察官が多くなっている。これでは、犯罪を未然に防げないばかりか、犯人の検挙率だって低下するに違いない。『小さな巨人』の主人公のように、日本の警察官たちも被害者の気持ちに寄り添い、犯人の心理を巧妙に読めるようになってほしいものである。武士道でいうところの「惻隠の情」こそが、警察組織全体に必要なのであるまいか。
読後雑感「ブルーエグジット」 [2016年12月23日(Fri)]
 ブルーエグジットとは、直訳すると青い出口になる。ダイビングの専門用語で、水中に潜って海面に浮かび上がる時に、水中から見た海面を割って出るので、青い出口(ブルーエグジット)と呼んでいるらしい。そして、そこから転じて、自分自身の人生や生き方を被らせて、自分の出口の見えない堂々巡りの人生から抜け出す場所をブルーエグジットと呼ぶと言われている。この世の中は、非常に生きづらいものがある。自分らしさや本当の自分を見つけられない人も多い。自分探しの旅の果てに、見つけた本当の自分に出会う出口を、ブルーエグジットと言うのかもしれない。著者の石田衣良さんは、ある身障者の若者が自己成長を遂げて、真の出口を見出す物語を丁寧に描いている。

 ある障碍者とその父親の物語である。ひきこもりを続けていた青年が、ある日突然出かけてバイクの事故を起こす。その事故で半身不随になってしまい、車いすの生活を強いられる。ひきこもりは益々酷くなり、自分の部屋から出ることもなくなってしまう。そんな青年が、ある日珍しく両親と外出し、偶然見つけた店に掲げられたポスターに魅せられる。ブルーエグジットというフレーズが記された、ダイビングのポスターである。しかも、その写真に写っているダイビングをしているモデルは、なんと両足がない。そこから、この青年の自分探しがスタートするのである。

 この物語で語られているのは、この青年の心の成長であるが、同時に父親の心の葛藤と魂の成長でもある。つまり、親子の自己成長の物語でもあり、親子関係の修復がテーマでもある。親というものは、子どもに対して知らず知らずのうちに、自分の思い通りの子ども像を押し付けてしまっている。それは、言わば支配と制御である。親が理想とする人生を子どもに歩ませようとしている。子どもが不幸にならないようにと思う親心で、けっして悪意はない。しかし、結果として子どもはそんな親に対して反発し反抗し、自分らしく生きたいと思いながら、葛藤するのである。そして、その間違いを多くの親子は気付いていないし、親が変わらなければ子は変わることが出来ないのである。

 親のことが心から嫌いな子はいない。しかし、あまりにも過干渉な親を子は毛嫌いする。小さい頃は、親の言うことに対して素直に聞いているが、自我が芽生える少年期には反抗するものである。その反抗期を親があまりにも押さえつけてしまうと、自我人格を確立できない。しかも、自我が正常に育たなければ、やがて確立するであろう自己人格も育たない。親というのは、木の上に立ってじっと見守るように、子に対してそっと愛情をかけてあげるものであり、何もかも親が子に指し示すものではない。子どもがダイビングを経験しながら成長する姿を通して、親がかけるべき本来の愛情を気付き学ぶストーリーが丁寧に描かれている小説である。

 自分とは何なのか?自分が生きる意味とは?そんなことを考えながら、悩み苦しみながら少しずつ心と魂が成長して行く時期が、『青春』であろう。親を思い、時には親に反発し、親を殺したいほど憎み、やがて自分と親は別の人格であり、親の支配と制御から抜け出すことが真の自立と言える。この若者は、不幸にも小さい頃は親の言うとおりの生き方を強いられて、自我も芽生えず自立できなかった。親が望む『よい子』を演じるだけであった。それが、事故によって両足の不自由を抱えることになりながらも、ダイビングを学ぶことで本当の自分を確立できたのではあるまいか。そして、何も口出しせずその成長の姿をじっと見守っている父親を見て、親の有り難さを知り、感謝を言えるほどの親子関係を取り戻せたに違いない。

 この若者は、ひきこもりや交通事故による半身不随という不幸な境遇の中で、たまたま目にしたダイビングのポスターから、自分の出口であるブルーエグジットを見つけ出すことが可能になった。現代において、多くの若者が自分の本当の出口を見つけられず、苦しんでいるに違いない。そんな若者たちへの応援歌として、原作者の石田衣良氏はこの小説を書いたのだろう。多くの若者たちにいろんな経験と学びをしてもらい、自分なりのブルーエグジットを見つけてもらいたいと思った自分がいる。そのためのサポートを、自分なりにしていきたいと強く心に刻んだ。石田衣良さんの小説には、いつも感動させられる。いい小説に出会えたという大きな喜びを感じると共に、作家に深く感謝したい。
映画の楽しみ方 [2015年02月08日(Sun)]
 映画は実に面白いと思う。しかし、世の中には映画そのものを楽しむよりも、映画そのものを批判したり批評したりすることを無上の喜びと感じる人もいるようだ。それも一つの映画の楽しみ方ではあるが、何となくそれでいいんだろうかと不思議に思う自分もいる。何故ならば、映画を批評的に観るということは、良い部分を探すこともあるにはあるだろうが、どちらかというと悪い部分や劣っている部分を探すということである。映画の脚本、演出、演じ方、演技の技能、音楽、洋服、道具、キャスティング、いろんな部分の基準を予め設定し、それに見合うのか見合わないのかを見極めようと真剣に映画を観ている様子を想像したら、実に可哀想だなと思ってしまう。

 映画評論家で映画の批評を飯のタネにしているなら、こういった観方も当然である。アマチュアである私らが、こういうふうに映画を批判的に観たとしたら、そちらに心が持っていかれてしまい、映画を純粋に楽しむことが出来なくなりはしないかと心配してしまうのである。そして、こういう人は映画を観てきた後に、SNSやフェイスブックなどで映画批評を事細かに書き記している。映画を観ている間も、どんな批評を書くかで頭が一杯になっているに違いない。何の為に映画を観ているのか解ったものではない。映画を楽しむという本来の歓びを忘れているとしか思えないのである。

 映画はひとつの芸術であり、しかも私達に気付きや学びをさせて自己成長を手助けしてくれる手段でもある。映画の技術や出来栄えなんて、私たちにとってはたいした意味を持ち得ない。一方、エターティンメントの一つだから、私たちにとことん楽しみを提供させてくれるだけでいいとする意見もある。だとしても、映画の出来具合を細かい所まで、チェックする必要はないだろう。インターネットが発達した現代だから、日本人の皆が総批評家になって映画の批評をすべきだと説くネット評論家もいるかもしれない。しかし、こういう映画の観方をしていたのでは、映画そのものの大切な主題を見逃してしまうかもしれないし、感動できないかもしれない。実にもったいないではないだろうか。

 映画の楽しみ方は人それぞれだから、どのように観たっていいじゃないかという人も多いに違いない。しかしながら、映画を企画して作り上げた映画人たちの強い想いというものはあろうかと思う。映画をひとつの娯楽として純粋に楽しんでもらいたいということと、映画を観て何かを考えるきっかけにするとか、何かの気付きや学びをすることでより豊かな人生を獲得して幸せになってもらいたいと思っている映画人も少なくないだろう。そんな願いを込めて映画を真剣に作っている人もいるかとも思う。それなのに、映画のテクニックがどうのこうのという部分にばかり気をとられて感動もせず、映画本来の楽しみ方が出来ないというのは、魂を込めて作った映画製作者達から見たら、残念なことに違いない。

 感動するということは、どういうことだろう。多くの人々は何か素晴らしい体験経験をして、心がうちふるえることが感動だと思っているのではないだろうか。しかし、本当の感動とは少し違うらしい。あいだみつをさんは、「感動とは、感じて動くことなんだよな」と書き記している。天台宗の宗祖である伝教大師最澄も同じことを仰っておられる。ただ心で感じるだけでは不十分で、そのことを身体の動き、または行(ぎょう)として行なわないと、本当の感動ではないと説いているのである。映画を観て、感動するということは感涙したり嗚咽したり、またはその感動を人に伝えたり日記に書いたり、はたまた感動したことを自分の行動規範に取り入れて実践することが、本当の感動であるということらしいのだ。

 映画を観て、その映像技術や演出の巧拙、演技の能力や稚拙さ、キャスティングの間違いなどの粗探しをしていては、感動なんておぼつかないであろう。そうすると、感じて動くということなんて、絶対に出来そうもないのである。映画を観ながら登場人物に感情移入して、登場人物の気持ちになり切って共感したり共鳴したりしなければ、感動することは叶わない。映画にどっぷりと入り込まないと、主人公の感情を共有することが出来ないように思う。こういう共感を何度も繰り返すことで、人は『慈悲』の心を育てていくことが出来るのではなかろうか。相手の悲しみを我がことのように感じる『慈悲』の心を持てない人々が増えているのは、映画やドラマを観る時に第三者として客観的にしかも批評的に観る人が増えたからではなかろうか。だから、映画は純粋に楽しんでほしい。
アナ雪とイスラム国 [2015年02月07日(Sat)]
 ずっと観ようと思いながら延び延びになっていた『アナと雪の女王』を、昨日ようやく鑑賞することが出来た。予想以上に面白かったし、感激に浸る時間を過ごせた。ディズニー映画は、外れが少ないということもあるが、とてもよく出来た映画だと思う。こういう心温まる映画を観ると、このアニメに描かれた世界のように皆がハッピーになれたらいいなと思う。しかし、現実の世界では世界各地において紛争や戦争が続いているし、テロや略奪などが起きている。日本から離れた遠くの地での出来事だと思っていたのに、今度のイスラム国による誘拐と殺戮事件は、我々日本人にとっても中東での紛争が他人事でないということを思い知らされた気がする。アナ雪のようにハッピーエンドを迎えるには、はるか遠い先のように思える。

 アナと雪の女王は、世界中で大きな感動を呼び起こした。何故、こんなにも大きな反響をもたらしたかというと、我々が心から求めている何かを与えてくれたからに違いない。言い換えると、私たちが忘れていた大切な何かを呼び覚ましてくれたからである。エルザが自分自身を取り戻して、自分らしく生きる喜びをレットイットゴーという歌で精一杯表現していたが、あるがままに生きることの大切さを教えてくれていた。さらに人並みな言葉であるが、愛の大切さをも示してくれていた。雪の女王エルザの怒りや憎しみは、周りの世界をすべて雪や氷の世界してしまう。しかし、その凍りついた世界を溶かしたのは、妹であるアナとエルサとの家族愛であり、無償の人類愛でもある。

 怒りや憎しみは次第に増幅する。アナ雪では、怒りや憎しみによる影響を雪と氷の世界として表現している。寒風が吹きすさぶ厳寒の冬である。人々は寒々とした気候の中で、辛い生活を強いられる。現在、シリアやイラクなどの中東では、イスラム国との間で激しい戦闘が続いていて、無限地獄のような殺戮が横行しているが、まさしく雪と氷の世界の有様である。お互いの怒り憎しみは頂点に達していて、報復合戦が行なわれている。怒りという感情は次第に大きくなり、しまいには限りなく巨大になり、収集がつかなくなってしまい、戦いは泥沼化する。その怒りのエネルギーは相手に向かうだけでなく、しまいには自分をも滅ぼすことになるのである。

 仏教においては、『憤りの心は燎原の火の如し』と表現している。怒り憎しみの心というのは、野原の枯れ草に火を放つようなもので、相手も焼き尽くすが自分をも焼き尽くすという意味だと思われる。だから、どんな理由があったとしてもすぐに捨て去ることが肝心であると説いた。太平洋戦争で、日本軍が欧米に向けた怒り憎しみから起こした軍事行動により、日本全土を戦火で焼き尽くしたのは当然の帰結であろう。いっときの怒り憎しみから相手に報復するのは、自分をも滅ぼすことになるので、絶対にしてはならない。イスラムの世界では、目には目を歯には歯をということが言われているが、報復合戦はエスカレートするものなので注意が必要だ。

 そもそもイスラム国があんなにも残酷なことをしたり残忍な行為をしたりするのは、何故であろうか。その根本原因を理解せずに、イスラム国を鎮圧して破壊すればいいと考えるのはいたって短絡的である。イスラム国は、欧米の軍事産業や石油メジャー、またはユダヤ商人たちが秘密裏に創り出したものだというネット情報もあるみたいだが、荒唐無稽な話である。イスラム国を徹底的に叩いて鎮圧すれば、また第二第三のイスラム国が生まれるに違いない。何故なら、中東の平和が訪れないのは、人々が身も心も豊かな生活を実感していないからである。物質的にも精神的にも満たされた生活が実現し、その豊かな生活が未来にも約束されたとしたら、人々は戦う必要がないのである。富や権力、利権が一部の人達に集中し、明日の生活も成り立つ保障がないような貧しい生活だから、銃を持って立ち上がるしかないのである。

 つまり、中東の人々が物心共に豊かな生活が出来るようにすれば、イスラム国のような組織が生まれることがないのである。そうする為には、グローバルな形での富の再配分と高福祉を実現させなければならない。国際的な経済システムを抜本的に変えて、一部に集中している富を再配分するシステムに変更していかなければならない。言い換えれば、怒り憎しみが起きない世界、愛が充満している世界にすることである。欲というのも怒りと同じように増幅する。だから、欲を肥大化させることのないような国際経済システムの構築こそが必要であろう。怒り憎しみは、愛というエネルギーでしか消し去ることが出来ないのである。アナ雪がそのことを私達に示してくれたのだが、現実は怒りの報復合戦が起きて、雪と氷の世界になっている。世界中の心ある人々の愛で、その氷を溶かしたい。アナと雪の女王のように。
あいだみつをさんの意外な話 [2015年01月17日(Sat)]
 独特な筆遣いと個性的な書体、心温まる文面、魂が揺さぶられるような言葉で、多くのファンを魅了している相田みつをさんは、既に亡くなった今でもその人気が衰えない。実に味わい深いあの筆のタッチと誰にでも読める優しい字は、とても印象的であり、真似しようとしてもなかなか真似の出来ないほど、ある意味完成されたあの字体は私たちをその魅力の虜にする。相田さんが若い頃から、あの字体を目指して日々鍛錬していたのかと、今の今まで思い込んでいたが、実はそうではないことがついこの間判明するに至った。若い頃はあのような字体ではまったくなくて、お手本とも言えるようなきちっとした楷書を書いていたらしい。

 ずっと鑑賞したいと思っていた相田みつを美術館を、ようやく訪ねることが出来たのはつい先日のことである。有楽町駅のすぐ傍にある東京国際フォーラムの地下1階にあるこの美術館は、日々多くの相田みつをファンが訪れる。たまたまその日その時間に行ったのであるが、そこでその日その時間に、そこの館長で氏の長男である相田一人館長のトークショーが開かれていたのである。そのトークショーはいつも開催されている訳ではなく、たまたまその日その時間にしか聞けなかったトークショーで、実に不思議な巡り合わせだったのである。そのトークショーで語られていた内容が、若い頃の相田みつをさんが書家を目指していて、きちっとした楷書を書いていたという逸話である。

 相田みつをさんは、20代前後の頃、書家を目指して有名な師匠に師事して修業を積んでいたとのこと。当然、書道のコンクールにも応募することもあり、23才の時に全国コンクールに臨書を出展して、見事に第一席を取ったこともあるとのこと。その作品を見せてもらったが、書道のいろはも知らない自分だが、その書の素晴らしさだけはびんびんと感じることが出来た。つまり、相田みつをさんの独特の書体は、一流の書家としても通用するような基礎技術を持っていてこそ生まれた書体なのだと、改めて知ったのである。何とすごいことだと感心した。あの書体はあんな風に最初から崩していた訳ではなく、敢えて理由があって、あのような書体にしたのであろうと思われる。

 さて、そんな素晴らしいテクニックを持った相田みつをさんが、何故あんな書体になったのか不思議である。彼は、こんなふうに言っていたという。どんなに素晴らしく練り上げた技術や天性のデザイン力があったとしても、観る人々を感心させることは出来るが、多くの人々を感動させることは難しい。ましてや、観る人々をその書の虜にするだけでなく、書いてある言葉が心に響いてくれなければ、書く意味がないというような事を言っていたらしい。なるほど、あの書体はそういう意味があったのかと納得した。ピカソも素晴らしい写実的なデッサン力がありながら、あの画風にしたのも同じように意味があったのであろう。

 青年期の相田みつをさんは、誰が見ても誉めそやすような書体で作品を作り上げていた時に、こんな感想を記している。「書をこんなふうに予め決められた通りに書いているのが、苦しくて苦しくて仕方ない。もっと自由にのびのびと描きたい」と、書くことが苦しみだと述べている。おそらく、彼にとって書の決まり事や制約というような枠組みには収まりきれない、ふつふつと湧いてくるような情動に突き動かされる何かがあったのではないかと思われる。それが、自分で工夫しながらあの独特な書体でしか、表現出来えないと確信したように感じる。だから、あんな誰が見ても上手だとは思えないが、親しみのある心にどんと響くような書体になったのだろうと思える。

 相田みつをさんの言葉は、私たちに勇気や元気を与えてくれることもあるし、逆に私たちの至らなさや甘さを指摘して𠮟ってくれているように感じることもある。相田みつをさんの言葉は、基本的には相田さん自身に対して発せられた言葉である。しかしながら、観る人の心にそっくり当てはまるのが心憎い。はっと気付かせられる名言が並ぶ。けっしてメッセージ的ではないが、私たちを鼓舞したり叱咤したりしてくれるのである。だからこそファンが多いのであろう。あの不思議な魅力ある書体が生まれた理由も解って、益々相田みつをさん自身とあの書が大好きになったように感じる。これからもずっと相田みつをさんの言葉に励まされ続けることだろう。感謝である。
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大河ドラマ「花燃ゆ」 [2014年12月31日(Wed)]
 来年の大河ドラマ、「花燃ゆ」が始まる。山口県の萩を舞台に、吉田松陰の末妹杉文と松下村塾の塾生たちの人間ドラマを描く。主人公の杉文を演じるのは井上真央、その夫となるのが久坂玄瑞演じる東出昌大である。NHKらしく、キャストは豪華な俳優陣が彩る。大河ドラマの視聴率は年々低落傾向を見せている。豪華キャストとものものしいセットを駆使して、高視聴率を狙ったNHKの看板ドラマではあるが、若者たちには受け入れられていない。最近は、若者向けを狙って人気の俳優を配置する例が多いが、それでも視聴率は低迷している。なにしろ、題材が歴史ものなので、歴史が好きな者には堪えられないが、興味がない視聴者には詰まらないと思われる。今回の題材も地味であるから、おそらく低視聴率だろう。例年は視聴する私も、今回に限り観たいとは絶対に思わない。

 その理由は、今回の大河ドラマはNHK側が自主的に選んだものではなくて、時の権力者が無理やり選ばせたと言われているからである。噂によると、こういう事情らしい。昨年の大河ドラマ「八重の桜」で、幕末の戊辰戦争とそれに至る歴史を、会津の視点で描いた。当然、会津は幕末の権力闘争の被害者であるから、長州の権謀術策によりみすみす朝敵にされて、戊辰戦争で悲惨な結末を迎える姿を放映された。元々会津藩は、親王派であった。それなのに、長州の謀略によって、天皇に敵対する存在にさせられたのである。そういった事情をドラマの中で正直に描いたことにより、長州は悪役として描かれたのである。このドラマを見た山口県の県民はさぞやがっかりしたに違いない。苦情がNHKにも相当舞い込んだという。

 さて、それを観ていた山口県出身の超大物政治家が、幕末の長州人を主人公にした大河ドラマを放映するように圧力をかけたという話がまことしやかに流れている。NHKは公共放送ながら、その運営は独立していなくてはならない。それが例え一国の首相による要請であったとしても、天下のNHKが簡単に屈してはならない。おそらく、NHKの予算を握っている総務省を通じて相当のプレッシャーをかけたのではないかと噂されている。今回は「八重の桜」での長州の悪役ぶりを払拭する為に、「花燃ゆ」が企画されたという次第である。これが真実だとしたら、大変なことである。公共放送法で規定されている政治的中立の違反になるからだ。一国の総理大臣なら、公共放送にさえ注文をつけられるというのなら、国民をどのようにも思想教育できるということになる。

 そもそも長州の政治家というのは、幕末時代から政治的工作を得意としてきた。会津を朝敵にさせてしまったというのもそうだが、明治の時代になっても権力闘争に長けていた。代表的な政治家として、山県有朋があげられる。山県は、それこそ権力欲、金銭欲の権化のような存在で、すこぶる評判が悪い。日本近代政治において初めて汚職をしたのは彼で、陸軍を私物化したと言われるほど、強固な長州閥を作った。権力にも異常なほど執着したし、愛人を重用したという逸話も残っている。金銭欲も相当酷くて、有名な椿山荘も彼が政治力を利用して作って私物化したらしい。近代教育を無理やり取り入れたのも彼で、おかげで日本の教育は、彼のような低い価値観の日本人を大勢生み出すのに役に立ってしまった。

 日本の政治と軍部を権力闘争によって握ってきたのは、旧長州人であろう。山口県出身の首相経験者が多いのは、優秀な政治家が多かったからではないような気がする。政治の世界というのは、魑魅魍魎が跋扈する。権力闘争に長けたものが、政治のトップに立つ。しかも、金と権力を握っている者が、政治の実権を握るのである。残念ながら、そういう人間は、権力を握るためにはどんなことでもするのである。義を志した会津人と相容れないのは当然かもしれない。今後、「花燃ゆ」がどんなドラマになっていくか解らないが、これ以上国家権力が圧力をかけて、長州を取りたてて美化していくような内容にすることはしないでほしい。NHKもそんな圧力に屈することのないよう、放送の独立を保って欲しいものである。
永遠の0、もう一つのテーマ [2014年12月19日(Fri)]
 永遠の0は本当に名作だと思う。特攻という愚かな作戦を通して、命の大切さを訴えている点においても秀逸であるが、筆者はそれ以外にも様々なテーマを訴えたかったのであろうと、前回のブログでも紹介した。しかし、もう一つ描きたかった大切なテーマがあることを、見逃してはならないと思う。それは、人間として生きる上で、とても大事な「絆」である。言い換えると、「関係性」である。人々は、関係性によって生かされているし、関係性をないがしろにすれば、生きることが不自由になるし命が途絶えかねないということを、悲惨な太平洋戦争を通して作者は描きたかったのではあるまいか。

 さらに、その関係性というものが、人間の人智さえも越えた不思議な何かによっても、支えられているということを、人々に知らしめたかったように感じるのである。そもそも、人々は関係性なくしては生きていけない。多くの人々によって、物質的にも肉体的にも、そして精神的にも支えられているし、逆に相手を支えてもいる。つまり、人間はお互いに支えあっている存在であり、どちらかが一方的に支えているという関係はありえない。そして、それは目に見えない物質を超えた尊い何かによっても支えられているし、人間はその中のほんのごく一部でしかなく、その巨大なシステムの中で生かされている存在である。そんなことも、作者は訴えたかったような気がする。

 あれほど拒み続けていた特攻を、最後には潔く自ら選択した主人公のその理由がラストシーンで明らかにされる。そして、彼の生き方というべきか、様々な人々への慈愛溢れる行為と、自分を自らの命を賭けて守ってくれた人への恩義が、複雑に絡み合いながら物語の伏線を作り上げていく。そして、それらが不思議と何らかの糸で結ばれていたかのように、物語を感動的に繋げて行くのである。作者は実に見事なストリーテラーだと思えるし、もしくは筆者もまた大きな何か(サムシンググレート)の力によって、こういう素敵な物語を書かされていたのではないかと思えて仕方ないのである。

 世界に誇るべき古典の傑作もまた同じように、作者に対して何かの大きな力が働いて、ペンが勝手に動いたと言っている例が多い。エミリー・ブロンテの唯一の長編小説「嵐が丘」も、何か強迫観念みたいなものがふつふつと湧き出て、生まれた傑作だと言われている。日本の後世に残る名作と呼ばれる作品の数々のうち、自分の力ではない何かに導かれるように書いたと作者が後述するケースが多い。このように、不思議なことであるが、世に誇る傑作と呼ばれるような小説は、自分の力以外の何かの手助けを受けて誕生する場合が多い。「永遠の0」という小説もまた、そんな作品のひとつではないだろうか。

 何故、そんな不思議なことが起きるかというと、この世に起きるすべてのことが、何らかの法則によって支配されているというか、大きなシステムに基づいているからではなかろうか。そもそも、素粒子レベルの量子力学に基づいて物質を分析すると、すべてはそれぞれの素粒子単体では、物質の元になる原子核や原子を形作ることが出来ないということが判明している。つまり、クォークは点粒子であり、物体として表すことが出来ずに、何らかの関係性を作り出す点粒子であるヒッグス粒子やゲージ粒子の力を借りて、原子核や原子として成り立つと考えられている。つまり、この世の物質は『関係性』により成り立っているのである。当然、人間の身体も関係性によって組成されているし、細胞もまた関係性に基づいて活動していることが分子生物学的にも判明しつつある。宇宙物理学的に観ても、すべての天体もまた同じように関係性で成り立っているのである。

 このように、この世に存在するものすべてが、不思議な関係性や縁によって組成され活動しているのだから、当然我々人間もまた関係性や縁を大事にして生きていかなければならない。そして、人間はいつも個人最適を目指すのではなく、常に全体最適を目指す生き方をしなければならないのは当然である。「永遠の0」という小説を、全体性と関係性という観点から読み解くと、実に理にかなった理論に基づいているし、まさにこのようなテーマを描いているからこそ、細胞レベルで人々に大きな感動を与えたのではあるまいか。そして、題名の「永遠の0」における永遠という言葉は、私たちの生命は肉体が滅びても、その人間の生き様や魂レベルで見ると、けっして滅びることのない「永遠」の存在であるという意味であろう。「永遠の0」という小説が、永遠に読み継がれる物語になってほしいものだ。
「永遠の0」映画と読書を愉しむ [2014年12月19日(Fri)]
 書棚にありながら、なかなか読めなかった「永遠の0」、そして以前から観たかった映画「永遠の0」をDVDでようやく楽しむことが出来た。勿論、映画を見てから小説を読むのは面白くないから、原作本を先に読むのは当たり前。映画もなかなか良く出来ていたと思うが、原作本は、本当に素晴らしいと思う。今までになく大量に文庫本が売れ、大ベストセラーになったらしいが、至極当然だ。本を読んで感動したと、いとも簡単に使うことが多いが、こんなにも深く考えさせられて共感した本に出会ったのは、しばらくぶりの気がする。実に考えさせられるテーマが見え隠れする。こんなにも戦争とその当時の軍人の苦悩を、リアリティ豊かに描いた作品も珍しいように思う。

 この映画と本の一貫したテーマは、やはり命の大切さであろう。自らの為でなく愛する者たちを守る為にこそ自分の命を永らえたいと、戦争という大きな渦の中で翻弄されながらも、自分を見失わなかった主人公の生き様に深く共感するものがある。そして、特攻隊員は自ら志願したと伝えられていたが、実はそうせざるを得ない状況に追い込まれていただけであり、泣く泣く志願していたという事実が明らかにされる。特攻を無理やりに強いた、実に卑劣な高級軍人たちの愚かさも描かれている。特攻隊員の勇ましい手記に隠された真実の気持ちを読み取ることが出来なかったマスコミの愚かさもまた浮き彫りにされている。

 映画ではあまり描かれなかったが、原作では旧陸海軍大学校を出た高級軍人たちの愚かさこそが、悲しい特攻を生み出してしまったこと、そして太平洋戦争の悲惨な結果をもたらしたということを描き出している。当時のエリート軍人の実に卑劣な人間性こそが、ガダルカナルやラバウルの悲惨な結果を引き起こしたということも描かれている。彼らは、けっして自らの失敗の責任を取ろうとはしなかったし、自らの命を賭けて部下の兵隊さんや国民を必死で守ろうとはしなかったという事実を明らかにしている。彼らがいつも気にしていたのは、部下の兵隊たちの尊い命ではなく、自分の軍内部での評価と出世だけだったのである。

 さらに原作本の中で筆者は、マスコミに対する猛烈な批判をしている。太平洋戦争時代、軍に恭順な態度を貫いて、嘘八百の記事を書き続けた当時のマスコミが、戦後自分達の反省をすることなく、軍批判の記事を書いていたことも、節操がない態度だと揶揄している。それだけでなく、戦後になってから当時の国民や兵隊さんたちが、軍幹部たちによって心理操作されて、洗脳されていたと報道しているが、それもまったくの嘘だったらしいのだ。特攻隊員たちは軍部によって洗脳されていて、特攻はテロ行為と同等だとマスコミによって思い込まされていた。しかし、それはまったくの間違いで、当時の特攻隊員は極めて理性的で、判断力も高く洗脳されるような低い価値観を持っていなかったのである。マスコミで働く学歴と教養の高い記者たちほど、先入観を持って戦争史を分析しているせいで、こんな過ちを起こしたのであろう。

 このように、筆者である百田尚樹氏は、太平洋戦争の悲惨な特攻を描きながら、本当は現代のキャリア官僚とマスコミ記者たちの愚かさを明らかにしたかったのではあるまいか。太平洋戦争で重要な作戦を立てていたのは、当時の陸海軍大を出た超エリートである参謀たちである。その作戦はことごとく裏目に出て、米国の圧倒的な戦力の前に敗北した。しかし、敗戦は免れなかったとしても、作戦の立て方によってはあたら尊い兵隊さんたちの命を無駄にすることはなかった筈である。各地の戦線で起きた悲惨な玉砕や惨めな敗戦は、参謀たちの無責任で身勝手な人間性によって引き起こされたと総括しているのである。

 旧日本軍の実に愚かな参謀と高級将校たちは、現在のキャリア官僚と同じだと、筆者の百田尚樹は断言している。つまり、国民の平和や幸福なんて本心では願わず、自分の名誉や評価、そして個人利益を求めているキャリア官僚の姿と軍参謀たちを重ねているのである。勿論、当時の旧日本軍の参謀にも立派な軍人もいたし、現在のキャリア官僚にも素晴らしい見識と人格を持った人物も居ない訳ではない。しかし、どちらも圧倒的に少数であるのは間違いない。大新聞を代表とするマスコミの記者たちもしかり。こういう事実を「永遠の0」で、百田尚樹氏は明らかにしたかったのであろう。あんな悲惨な戦争を二度と起こさない為にも、「永遠の0」は読み継がれてほしい名作である。
食わず嫌いと村上春樹 [2013年10月09日(Wed)]
 村上春樹がノーベル賞の候補になっている。毎年、ノーベル賞の発表の時期になると、今年こそ取るのではないかと、マスコミは大騒ぎする。日本の小説家で、国際的に一番著名なのは村上春樹だというのは、間違いないであろう。そんな有名な小説家の作品を、読んだことが私は一度もなかった。つい数ヶ月前までは。読んでみたいとは、ずっと思い続けていたし、かの有名な1Q84という小説だって、ずっと以前から買い求めて本棚にあったにも関わらず、読まずにいたのである。どちらかというと読書好きなほうの人間なのに、不思議なことにどういう訳か村上春樹の本だけは一度も開くことがなかったのである。まるで食わず嫌いのように。

 何故、村上春樹の著作を読む気にならなかったのかというと、彼の本は難解であり高尚し過ぎて、私ごとき単純な頭では到底理解できないのではないのか、または面白くないのではないかと誤解していたのだ。「ノルウェーの森」「カフカの海」「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」等という難解そうな題名を見ただけで、読み上げるまでに何ヶ月もかかりそうな気がする。ましてや、村上春樹の小説は哲学的な比喩表現が多くて、ストーリーも単純で退屈で難解な語句が羅列してあるのだろうと、勝手な想像をしてしまっていたのだ。それが、完全な間違いだったと気づくまで。

 人の思い込みというのは、実に愚かなことだ。そして、食わず嫌いという言葉が文学の世界にもあるのだと、改めて認識することになった。一旦読んでみたら、実に面白くて村上春樹ワールドに、完全に引き込まれてしまったのだ。確かに、哲学的な語句や比喩的な表現が出て来るが、難解というほどではないし、それらの引用した一節もまた魅力的な輝きを放っている。そして、ストーリーの展開も適度に、そしてドラスティックにダイナミックに流れ、読む人を魅了する。こんなにも村上春樹の小説が面白いとは、まさに私にとってはサプライズである。世の中に村上春樹ファンが多いというのは納得する。やはり、彼は天才なのだ。

 とは言いながら、村上春樹の博識ぶりには舌を巻く。相当に多くの体験を積んでいるだろうし、多くの書物を読んでいるばかりか、音楽にも精通している。「1Q84」では、ヤナーチェクのシンフォニエッタという曲が重要な導入部となるし、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、リストの『ル・マンディ・ペイ』という曲が大切な伏線となっている。哲学の引用句も魅力的だし、小説や戯曲の紹介と引用も実に素晴らしい。さらに、最先端の物理学や数学などの科学的知識にも精通している。彼の様々な広い分野における深い造詣には感嘆せざるをえない。

 村上春樹ファンは彼の小説の魅力について、様々な観点から語っている。それらの魅力はもっともなことで、まったく同感である。その中でも、やはり一番の魅力はその深い精神性ではないかと思われる。しかし、かといって読者への押し付けでもないし、オカルト的でもないし、過度にスピリチュアルな面もない。絶妙のバランスを保持しながら、奥深い精神世界をさらっと描いているのが、実に好ましいのだ。ともすれば、科学的にみればあり得ないと完全否定され非難されるような世界を、あたかも現実に起きうると錯覚させてしまうほどリアルに、そして現実性を帯びながら、巧妙な筆致で描き出す。

 想像するに、村上春樹はこの混沌とした現代において、形而上学こそが必要不可欠であり、この乱れた世の中を何とか再生するには、人々が確固とした思想哲学を持つ必要があると訴えたいのではなかろうか。そして、その中心となる哲学は、システム思考を中心としたものではないかと思う。全体最適と関係性を重視した生き方こそが、人々の全体の幸福実現の為に必要ではないだろうかというメッセージを小説に込めている気がするのだ。その為には、真の自己確立が前提となるから、自身の深い自己と向き合う著作が多いのであろう。こんなにも面白い小説を発表してくれる村上春樹に感謝したい。自らの食わず嫌いを恥じながら。
半沢直樹と韓流ドラマ [2013年08月06日(Tue)]
 半沢直樹というTBSのドラマが面白い。そして、最近のドラマにしては珍しく20%超えの視聴率を出している。主演堺雅人の演技力や原作脚本の面白さ、または過度にも見える演出の妙もあると思われるが、こんなにも高い視聴率を叩き出しているのは不思議である。単純に面白いドラマだからという理由もあろうが、それだけではない何かしらの理由がありそうに思うのである。そもそも、最近の日本のドラマの傾向を見ると、トレンディードラマが多いし、恋愛物が主流になっている。または、この世の理不尽さを描いていて、気が滅入るようなドラマも多い。銀行内部の権力闘争などという、こんなにもお堅い内容のドラマが高視聴率を稼ぐというのは、何らかの意味があるのかもしれない。

 NHKならこういうお堅いテーマのドラマを放映することもあるだろう。まだまだNHKには硬派のプロデューサーやディレクターが残っているし、視聴率にあまり縛られないから、社会問題を鋭く描くような題材のドラマも作られる。しかしながら、そういうドラマの視聴率はおしなべて低迷するのが落ちである。ところが、今回の半沢直樹のドラマは初回から高視聴率を上げていて、それがずっと続いているのだ。どんなマジックを使ったというのであろうか。このように社会問題を鋭く抉り出すようなドラマで、しかも勧善懲悪というように単純な社会派ドラマが人気だというのは、視聴者である市民の意識が変化しつつあるということなのだろうか。

 一方、韓流ドラマも根強い人気が続いている。面白いことに、ある統計調査によると、韓流ドラマをよく観る人は、低所得の人が多いらしい。反対に米国や日本のドラマを観る人は、対照的に高所得の人が多いという。そういえば、うちのwifeも韓流ドラマにはまっている。まだ現役で看護師の仕事をしているが、勿論、高所得者層とは言えない。それじゃ、何故低所得層が韓流ドラマにはまるのであろうか。想像するに、自分が社会的に不遇な状況に追い込まれているのは、社会的不正義がまかり通っているからであり、勧善懲悪や最後に正義が勝つというドラマに、自分を投影させて自己満足しているのではないかと思うのである。つまり、現実は正義感など通用しないから、せめて虚構の世界だけでも満足したいと思う人々が、ドラマの人気を支えているという考え方である。

 半沢直樹というドラマも、銀行内部に巣食う悪に対して敢然と立ち向かう正義の使徒としての主人公が、自分たちの鬱屈した思いを代弁しているから、人気があるのかもしれない。思えば、富や権力を握れない人々の怨恨や復讐心が正義感というものへと発展しているという、ニーチェの説いているルサンチマンという考え方と共通しているような気もする。とは言いながら、あの半沢直樹の復讐劇というか反撃は痛快であるし、最後に正義が勝つというベタ的な韓国のドラマもまた痛快な気持ちにさせてくれるのは間違いない。という私もまた、低所得者層というか権力と富を握れなかった人々と同じだからそう感じるのかもしれないが。

 それでは、半沢直樹や韓流ドラマで描く正義感はルサンチマンに過ぎないから、たいして意味を持たないし諦めるしかないというニヒリズムに陥るしかないのであろうか。いやけっしてそうではないと、確信している自分がいる。やはり、巨悪を憎みそれに敢然と対峙し、正義を貫き通す倫理観は必要だろうと思うのである。半沢直樹というドラマは、悪に立ち向かう勇気を私たちに与えてくれている。そして、最後に正義が勝つという安心感も根付かせてくれると思う。さらに、これだけ半沢直樹や韓流ドラマに人気があるというのは、やはりこの世に正義を求めている人々がまだ沢山いて、けっして諦めていない証しだと思いたい。神はけっして死んでいないし、この世からニヒリズムが淘汰されようとする前兆だと信じて疑わない人々も多いに違いない。私たちの意識が変われば、世の中は必ず変わる。半沢直樹のようなドラマがこれからも沢山作られて、私たちの心の底に眠る正義感を呼び覚ましてほしいものである。いつか悪は滅び、頑張れば報われるという社会にしたい。
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