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『イスキアの郷しらかわ』を始動する [2017年08月25日(Fri)]
 長年の夢だった『イスキアの郷しらかわ』http://ischia.ciao.jp/をいよいよ指導することにしました。10年以上も前から、森のイスキアのような施設を作りたいと、ライフワークとして取り組んできました。しかしながら、仕事をしているとある程度の収入が確保されていますし、なかなか時間も取れないというのが実情でした。二兎を追うものは一兎も得ずの諺通りで、仕事中心になっていました。ましてや、不退転の決意や背水の陣に自分を追い込まなければ本気になれないというのも当然です。それで、今月末で会社を退社することにしました。もう、この道で進むしかないと自分を崖っぷちに追い込むことにしました。9月からは、『イスキアの郷しらかわ』に専念することにいたしました。

 佐藤初女さんをリスペクトして、『イスキアの郷しらかわ』と名付け、『森のイスキア』にあやかって癒しの施設としてオープンしたいと願っていました。その『森のイスキア』の佐藤初女さんは、昨年の2月に永遠の眠りにつかれました。その後、その遺志をついで森のイスキアを運営される方もいらっしゃらないみたいです。そんな状況ですから、心が疲れ心が折れてしまわれた方が癒される施設が必要とされていると認識しています。少しでも佐藤初女さんのお心に添いたいと思い、『イスキアの郷しらかわ』を始動することにしました。

 イスキアの郷しらかわは、福島県の東白川郡塙町の農村にあります。新幹線なら新白河駅から車で40分、東京から東北自動車道で約4時間くらいです。森のイスキアよりは遥かに近い場所なので、便利だと思います。大阪からは飛行機の便で福島空港へは2時間弱で、空港からは車で約50分です。イスキアの郷しらかわは、グリーンツーリズムを利用したヒーリングプログラムです。農業体験や自然体験を活用しながら、価値観の研修や自己マスタリーを学ぶ研修セミナーです。なお、詳しいことはウェブサイトhttp://ischia.ciao.jp/をご覧ください。

 なお、今までこのサイトでブログをアップしていましたが、今後はこのウェブサイトのブログページhttp://ischia.ciao.jp/%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0/でアップして参ります。今までと同じように、ご覧頂ければありがたいです。よろしくお願いします。
障がい者なんて不必要だ? [2016年07月29日(Fri)]
 7月26日の未明に起きた、あまりにも残忍な無差別殺人事件は、多くの人々を震撼させた。施設を辞めさせられた腹いせもあったらしいが、この犯人は、「この世に障がい者なんていらないんだ」とも嘯いていたと漏れ聞く。そして、今回はあえて重複障がい者を狙ったという。これが真実だとすれば、障がい者施設で働いていたにも関わらず、どうしてこんな低劣な価値観を持ってしまったのかと呆れるばかりだ。何故こんなにも低い価値観の人間に成り下がってしまったのか、親もそして学校でも、しっかりとした人間教育をしてこなかったのかと悔やむことしきりである。

 障がい者は社会の役に立たない存在だから、そして障がい者のために多くの税金を使うのはもったいない。故に障がい者はこの世に不必要だと思っているのはこの犯人だけではないような気がする。障がい者や介護老人は、特定の施設に生活するケースが多い。社会の中に当たり前に存在せず、目にしたり関わったりすることが少ない。だから、殆どの人は障がい者の方々と心から触れ合ったり話し合ったりする経験をしない。心の交流がないのだから、不要な人達だなんて不遜な考えになるのも仕方ない気がする。私は、十数年に渡り障がい者の方々と、不十分ながら交流してきた。障がい者の方たちは、けっして無用な人達ではないことを、身を持って知っているのだ。

 人間を超越した偉大なる宇宙の創造主が、この世に存在する意味のないものを生み出す訳がない。この世には障がい者の方々も含めたいろんな生物多様性を持った存在が必要なのではなかろうか。この生物多様性があるからこそ、我々人類は多くの気付きや学びをすることが出来るし、それは障がい者の方々も同じである。米国では、障がい者の方々や様々なハンディキャップを持たれた方々を「チャレンジド」と呼ぶ人が多数存在する。この世に生まれた意味が、ハンディキャップを持たない人々よりも、より大きなチャレンジをすることが可能だという意味である。

 我々だって、よくよく観察すれば不完全なところが多数存在する。いたらない点や身勝手で自己中心的な貧しい心を持っている。今回犠牲になられた重度の知的障がい者の方々が、本当に純粋で清らかな心を持っていて、けっして他人を傷つけようとはしないことを知っている。そんな姿を見て、我々は自分の至らなさに気付き反省することもある。障がい者の方々こそ、この世に存在する意味があるのであり、けっしてなくなってはならない貴重な存在であると確信している。

 さらに、障がい者の方たちは自分たちの抱えたハンディキャップを認め受け容れて健気に生きていらっしゃる。私たちはそういう姿に心を打たれ、自分の勇気を奮い立たすことだってあるのだ。または、知的障がい者の方々が、自分のインナーチャイルドを素直に悪びれず、なんの躊躇もせずに見せてくれる姿を見るに付け、なんと自分は自分を偽って生きているんだろうと反省することが多々ある。知的障がい者の方々は、偽善的な行動をあまりしない。それに比べて、私たちがいかに偽善的な行為をしていて、いい人間を演じていることに恥ずかしさを覚える。

 このように、障がい者の方々がいるからこそ、私たちは自分の至らなさや未熟さを思い知らされるのである。そして、障がい者の方たちと我々が交流することで、彼らもまた多くの気付きや学びをしていると思う。私たちもまた、心に大きな障害を抱えていることを彼らはしっかりと見抜いているのである。そのことを彼らは態度には出さないで、私たちを温かく迎えてくれているのだ。このような事実を、我々はしっかりと受け止め、二度とこのような悲惨な事件が起きない様に、子どもたちに障がい者との交流の場を提供し、教育をしっかりしていかなければならない。
ノーブレス・オブリージュ [2015年12月31日(Thu)]
 ノーブレス・オブリージュという言葉を生まれて初めて知った。こういう仏語があることを知っている日本人は非常に少ないと思われるし、普段から使う人はいないことだろう。このフレーズを知ったのは、ラグビーの日本代表五郎丸選手に関するネット記事によってである。五郎丸選手は、他の選手と同じようにハードな練習と試合をこなしたうえに、マスコミの取材やTV出演にも快く応じている。かなりのハードスケジュールなのに、いつも笑顔で応対していて、好感が持てる。一方で、身体的かつ精神的な疲労を心配しているファンもいる。どうしてあんなにも無理をしているのかという問いに対して、ヤマハ発動機のラグビー部清宮監督は、彼がノーブレス・オブリージュを実践しているのではとコメントしたのである。

 ノーブレス・オブリージュという言葉は、フランスの貴族のような高貴で財産にも恵まれた人々は、市民に対して貢献する義務を負うというのが本来の意味であった。それが転じて、社会的にも才能的にも恵まれて、経済的に豊な人々は社会に奉仕する責任と義務があるという意味になったと言われている。ライオンズクラブやロータリークラブ、JCの社会奉仕活動などは、この精神をいかんなく発揮していると思われる。つまり、五郎丸選手は自分達が大好きなラグビーを続けられるのは、ファンがあってのことだし、国民の多くの支持があるからこそである。社会に対して、ラグビーの素晴らしさを喧伝する役目を負うのは当然だとする考え方なのである。

 五郎丸選手も素晴らしい精神を持っていると思うが、それをノーブレス・オブリージュという言葉を用いて評価している清宮監督もまた、見事な見識を持っていると言わざるを得ない。ご存知のように、あれほど図体がでかくてファイティングスピリットに富むラグビー選手であるが、ノーサイドの笛が鳴ると同時にお互いの健闘を称えあい、何年来の旧友のごとく抱き合ってお互いの友情を高めあう。何時見ても、あの潔さには感動を覚える。さらには、ラグビーというスポーツは完全なチームプレーによって成り立つ。だからこそ、『ワンフォアオール・オールフォアワン』という言葉に代表されるように、自分中心のプレーは非難されるし、そんな選手は淘汰されるのである。

 そして、ラグビー選手というのが、ノーブレス・オブリージュという言葉を心に秘めて社会活動を実践しているということを新たに知り、ラグビーというスポーツとラグビー選手が益々好きにならざるを得ない。野球界には、このような社会奉仕活動をしている選手もいるが、多数派とは言えない。サッカー界でも社会貢献活動をしている者がいない訳ではないが、少数であるし義務的な活動になっている。他のスポーツ界では、この五郎丸選手のように、自ら進んで犠牲的な精神を持って社会貢献的な活動をしている例は少ない。やはり、ノーブレス・オブリージュの精神が浸透していないのかもしれない。

 ノーブレス・オブリージュという考え方は、ある意味においては社会的に批判されるかもしれない。つまり、持てるものが持てないものに対する施しではないのか、上位目線からの自己満足に過ぎないのではないかという批判である。単なる偽善行為ではないかというのである。社会奉仕活動というとそんなふうに誤解されることが多いのも確かである。しかしながら、どんなに少なくても自分の貴重な時間や労力、そして財産を費やして人々の為に貢献しているという事実は否定できない。それが、何回も何十日も続き、結果何十年も続いたとしたらどうだろうか。例え最初は偽善であったとしても、行動そのものが自らの精神を変え、心や魂も浄化させずにはおかないであろう。だからこそ、古来よりノーブレス・オブリージュという精神が廃れずに続いてきたのである。

 日本人は、人知れず徳を積むことこそが本当の美徳だとする考え方を持つ。欧米人のように、人前でも堂々とした態度で社会奉仕活動に勤しむことを好まない。どうしても偽善だと非難されるのを嫌う体質があるのだろう。しかし、人に知られようと知られまいと、非難されようと賞賛されようとも、そんなことは関係ないような気がする。困った人々を救い、人々の幸福の為に寄与し、人々が喜ぶ笑顔を見たいと思うのが、人間本来の生き方ではないだろうか。テロ行為だって、自分が社会から虐げられ見捨てられ不幸のどん底にあると思い、現世では幸福になることを諦めた人々が実施しているのである。こういう人々が救われて、人並みな幸福を手に入れられたらテロは根絶するに違いない。全世界の人々がノーブレス・オブリージユを実践し、恵まれない人々を救えたら、平和で幸福な社会が実現できると確信している。
新年の夢「イスキアの郷」 [2014年01月01日(Wed)]
 平成26年の耀かしい年の初めにあたり、今年実現したい夢について語ろうと思う。それはずっと以前から何時かは実現したいと思い続けた夢で、ライフワークと取り組んでいることである。弘前の岩木山の麓に、森のイスキアという施設がある。佐藤初女さんという齢90歳近い素敵な女性が、運営している小さな宿泊施設である。苦しい人生に疲れ果ててもう生きて行くことが出来ないと絶望した人々がその施設を訪れて、初女さんの握ったおむすびを食べたとたんに、思わず涙が溢れてきてまた生きたいと思い直すことが出来るという。何度かその施設を訪れて、初女さんの料理をご馳走になり、話もさせて頂いたことがある。素敵な施設で、料理も素晴らしい。そんな施設を、自分もこの地域に作るという夢である。

 佐藤初女さんは、カウンセラーでもないしセラピストでもない。だから、話をして癒そうなんてことはしないし、生きるためのアドバイスをする訳でもない。強いて言えば、ただの料理人である。それも、手の込んだ豪華な料理を作る訳ではなく、ごく普通の田舎料理である。しかし、その料理は人生に絶望した人々を再び生き返らせることが出来る、魔法の料理である。彼女の握ったおむすびだって、梅干を入れたどこにもある単なるおにぎりなのであるが、一度食べたらその魅力の虜になってしまう。何故なら、そのおむすびや料理に込められた初女さんのひとつひとつの心尽くしの手仕事が、食べた人を感動させるからである。そして、何を語りかける訳でもなく、相手の話を黙って聞いてくれるのが、初女さんである。

 初女さんの口癖は、「面倒くさいと言うことが大嫌い」である。つまり、ひとつの料理に対して、とことん心を込めて調理をする。ピーラーやフードプロセッサーなどの便利な道具は一切使用しない。簡単に出来る道具を使うと、出来た料理に心が込めにくいからではないかと思う。作る料理に対して、決して手抜きはしない。これでもかこれでもかと、手を尽くす。食材を慈しんで、一番美味しくなるような調理をする。食材と対話しながら、どうしたら食べる人に幸福を感じてもらえるかを思いながら調理するという。料理の基本は愛だと確信している。料理が人を感動させるのは、作る人の愛を感じるからではないだろうか。私も、そんな料理を作りたいと思っている。

 少しでも初女さんに近づきたいものだと、ずっと思ってきた。だから、365日台所に立って料理の腕を磨いてきた。毎日、佐藤初女さんのような料理を作りたいと努力したつもりである。しかし、まだまだ彼女の足元にも及ばない。でも、何とかおむすびのコツは掴んだ気がする。初女さんは、おむすびを握るときに、お米が息を出来るようにむすぶという。しかし、けっしておむすびが柔らかい訳ではなく、形が崩れることはない。そういうおむすびを握る人は、なかなかいない。このようなおむすびを握るには、それこそ手塩にかけてじっくりと時間をかけて握らなければならない。普通なら、ひとつのおむすびを握るのに1分もかからない。しかし、本当に美味しいおむすびを作るには、握る時に力を込め過ぎないように、そっと柔らかく握り5分くらいかけてじっくり作りあげる。そうすると、お米が息の出来るようになるし、口にほおばった時にお米がぱらぱらとほどける。

 料理は人の心を癒す力を持つ。ただし、その料理が独りよがりでなく、奇をてらったりせず、自己主張し過ぎたりせず、食べる人の心に響く美味しさと愛が溢れるものという条件が付く。初女さんの料理は、どこにでもある家庭料理であるが、とんでもない力を持つ。私も、心疲れた人々を癒すことが出来るような料理を提供できる施設を、作りたいと思っている。今年は、いよいよその施設「イスキアの郷しらかわ」の設立準備をスタートする年だと思っている。還暦を迎えるこの年であるが、これからの人生はイスキアの郷の設立運営に捧げようと思っている。今、多くの人々がメンタルを病んでいる。それらの方々が社会復帰出来るように、サポートするのが私の務めだと思っている。イスキアの郷プロジェクト始動の時期が、今やってきた。自分自身の決意を後押しするために、この場でコミットメントすることにしよう。
ボランティアと偽善 [2013年12月31日(Tue)]
 ボランティアをしている方なら、どうしても一度はこのボランティアと偽善という、相反するジレンマに捉われてしまうことが多いのではなかろうか。元々、ボランティアは崇高な理念に基づいた行動であり、偽善の気持ちがあるなら、もはやボランティアとは呼べない筈である。しかしながら、実際にボランティアを活動している人には、自己満足的な気持ちがまったくないと言い切れないのも事実である。ましてや、最初から期待していないものの、ボランティアを受けた人からの感謝の気持ちが嬉しくて、ボランティアを続けるモチベーションになっている人もかなりいるだろう。または、求められたり誉められたりすることが、ボランティアをする動機になることだってあるに違いない。つまり、何らかの見返りを求めてボランティアをしているということである。ということは、偽善的なボランティアを知らず知らずのうちに続けている人は、結構いるかもしれないということだ。

 実はある時、自分のボランティア活動なんて偽善であり自己満足でしかないのではと悩み苦しんだことがある。それは、あるエッセイストの作品を朗読しているラジオ番組を聴いた時である。そのエッセイストとは、田口ランディ女史である。彼女は、ある障がい者の方の訪問支援ボランティアをしていたらしいが、ある時その支援は自分本位の身勝手なものであり、単なる押し付けにしか過ぎず、要支援者の方は迷惑このうえないのではないかと思ったらしい。そして、そのことを気付いてからは、二度とボランティアで訪問することが出来なかったとエッセイに記していた。この朗読を聴いて、私は後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受けてしまった。自分もそれまで障がい者の方の外出支援や相談支援をしていたのだが、同じように自分の支援活動も偽善で自己満足に過ぎないのではないかと気付いたからである。

 その後数週間に渡り悩み苦しみ、うつ状態まで追い込まれたが、幸いにもあることをきっかけにして自分を取り戻すことが出来て、その後もずっとボランティアを続けている。そして、ボランティアの真の目的を学んで認識することが出来て、今でもボランティアによっていろんな気付きや学びをさせてもらっている。何故、ボランティアが偽善的になるのかというと、おそらくボランティアの真の目的を認識出来ずに、ボランティアそのものが目的化してしまっているからではなかろうか。ボランティアが目的そのものではなく、社会的な変革を実現する為の、単なる手段というかツールなのである。しかし、ともすれば多くのボランティアたちは、ボランティアをすることが目的になってしまっているような気がして仕方ない。だから、心から喜びを感じながらボランティアに取り組んでいる人が、極めて少ないのではなかろうか。

 それではボランティアの正しい目的とは何であろうか。それを一言で言えば、コミュニティルネッサンスではないかと思う。つまり、現在崩壊してしまったコミュニティを復活させて、人間本来の生き方を復興させることである。言い換えると、コミュニティの再生による人間復興、ルネッサンスである。地域のコミュニティだけでなく、家庭というコミュニティ、組織や企業というコミュニティ、または国家というコミュニティが崩壊してしまったと言っても過言ではない。本来あるべきお互いの関係性が豊かな社会が崩壊して、自分さえ良ければいいのだという、行き過ぎた競争社会になってしまい、共生という生き方が出来なくなったのが、まさに現代である。だから、福祉、介護、医療、年金、教育と様々な場面で、問題が起きていて解決の糸口さえ見出だせない状況が続いているのである。

 それらの問題を解決するためのひとつの手段が、ボランティアなのである。ボランティアを通して、本来あるべき社会像を見つけ出したり気付いたりするのだ。または、ボランティアをする人とされる人の関係性を深め、お互いの自己確立や精神的自立を実現させる手助けとして利用しているのである。そういうボランティア活動を通して、物や金を求める生き方よりも心豊かな社会の実現を図る生き方こそが、真に価値あるのだと気付くのである。そしてついには、現在の社会的な各種の問題が、自分たちの価値観や哲学に間違いがある為に起きているのだと気付き、やがては社会的イノベーションを実現することを目指すようになる。これこそが、ボランティアがこの世の中に必要な理由だと言えよう。そのことをしっかりと認識しなければ、ボランティアが偽善的になり、自己満足でしかなくなるのである。本来の目的をしっかりと認識したうえで、ボランティアに勤しみたいものである。
公園の草刈と割れ窓理論 [2013年07月10日(Wed)]
 先日、市内一斉清掃が実施され、各家庭から必ず1名のボランティアが出るように指示され、公共の場所の除草や清掃をした。いつも思うのであるが、これは強制だからボランティアではないし、明らかに迷惑そうに清掃する市民の姿を見るに付け、日本人のボランティアスピリットは地に落ちてしまっているなと、悲しくなってしまうのである。ましてや、団地などでは出れない人に、何と6,000円のペナルティーの課金を課しているという。それも、冠婚葬祭だろうと高齢者や要介護者であっても同じだと聞くと、情けない気持ちにさせられる。

 そもそも、市内一斉清掃であるのだから、1家庭1名という縛りを設けることがおかしい。公共の場であるのだから、市民全員が喜んで参加するのが当然だと思うし、本来このような清掃ボランティアは楽しんで行うものである。私はすごく楽しみにしているし、張り切って参加している。以前は、各家庭から夫婦で参加している人たちも多かったが、最近はどちらか1名しか参加していない家庭が殆どである。嘆かわしいものである。以前は子どもたちも参加していたが、ケガを心配してか、参加させる学校もなくなった。ボランティア精神はないに等しい。悲しくなってしまう。

 当日、もっと悲しいことも起きてしまった。自宅近くの公園に至る通路と法面、そして公園の中も除草をするのが毎年の通例になっている。私は、何の抵抗もなく草刈をしていた。それも、個人所有のエンジン付き草刈機を使用しての草刈をしている。勿論、燃料代だって自分持ちである。ところが驚いたことに、私が草刈をしていても、手伝いもせずにボーっと突っ立っている数人の輩がいるのである。当日は湿気も高く、気温も高いから汗だくになってやっている私を見ていて、何も手出しをしない。細かい所やフェンス間際は、草刈機械は出来ないので、手刈りをするしかない。しかし、一切手伝わないで眺めているだけである。

 普段穏やかであると思っている私だが、少し声を荒げて機械で出来ない所をお願いしますと言ってしまった。すると、嫌々ながらの態度で少しは手伝ってくれた。実に嫌な気分である。おそらく、相手はもっと嫌な気持ちになったことであろう。申し訳ないことをしてしまったかもしれない。ところが、もっと嫌な気分にさせられたのである。公園の中を草刈機で刈ろうとしたら、ここはやらないでいいと世話役(班長)が言うのである。えっ、公園は伸びきった雑草で埋め尽くされているのである。これでは、子どもたちも利用出来ない。今回は、自治会で公園は刈らないと決めたから、刈らないでいいのだと言うのである。そして、早々に解散を宣言して皆を帰宅させてしまったのである。

 何故、草刈をしないのかというと、この公園は高台にあって人目に付かない場所にあり、若者や高校生がやってきて、風紀上良くないことをするから、草刈をしないほうがいいと言うのである。確かに、高校生がやってきて花火をしたり、いちゃついているカップルも居たのは確かである。でも、実際に数年前に小学生が火遊びをして、枯れ草に引火してしまい、周りの法面も一面火の海になって、消防車が駆けつける騒ぎになったのも、記憶に新しい。防災面から考えても、草刈をしておくのがいいに決まっている。

 ましてや、割れ窓理論というものがあるのを知らないのかと言いたい。ガラス窓が割れているビルを放置しておくと、益々酷くなり環境も汚くなり、犯罪も増えていくという理論である。環境の悪化を食い止めたり小さな非行を見逃さずに懲罰したりすることで、重大犯罪を防止することが出来るという理論だ。反論もあるが、実際にこの理論を適用して、自転車の盗難を激減した地域もある。環境を悪くしておくと人々の心も荒れるから、先ずは環境をきれいにしようと、環境整備に取り組んで実績を上げている地域も多い。公園をきれいに刈り込んだほうがいいと確信した私は、1人でせっせと公園を草刈してきれいにしたのである。
ボランティアをするうえで必要な価値観は? [2013年01月24日(Thu)]
 ボランティアやNPO活動をしている人たちに、その目的や実施するうえでの価値観について尋ねることがある。すると、その目的やどんな価値観を根拠にして活動しているかを、明確に答えられる人は残念ながら殆ど居ない。多くの人が何となく活動しているとか、好きだからやっていると答える。そんなの当たり前じゃないか、社会や地域の人々の為にやっているんだと、息巻く人もいる。NPO法人の役員にも同じ質問をするが、やはり同じだ。ともすると、ボランティアやNPO活動をすること自体が目的化している場合も多い。目的については、確かに世の為人の為という側面もあるから間違っていないが、正しい価値観を持っているかとなると、極めて怪しい価値観しかないことが多い気がする。

 そもそもボランティアやNPO活動をしている人たちを見ていると、不思議なことに気付く。企業や地域社会からも評価尊敬され、家族からも敬愛される人がボランティアやNPO活動に勤しんでいるのかと思うと、そうではない場合が多いみたいである。どちらかというと、企業や組織の中からはみ出した人が多いし、変わり者として見られる人が多い。また、家族から高い評価をされずに愛されていない人というのも少なくない。勿論、中には企業や組織においても高い評価をされていながら公益活動をしている人もいるし、家族から愛されている人も少数だが存在する。面白いことに、東日本大震災の際に喜んでボランティア活動に取り組んでいた人に、会社の仕事も楽しいかと聞くと、会社の仕事は詰まらないと答えるという。

 会社の仕事は楽しくないけれど、ボランティア活動はすこぶる楽しいと言うのだ。会社の組織そのものがおかしいのか、それとも管理者が悪いのかもしれないが、このように仕事は面白くないがボランティアは楽しいという人が多いのだ。ボランティアやNPO活動をしている人たちに聞くと、会社では精一杯仕事しているのに、正当に評価されないし認めてくれないと愚痴を言う。また、家族からも「好きでやっているんでしょ」と言われて尊敬されていないという。自己犠牲を厭わずに公益活動をしているのに、会社・組織・家族から尊敬されていないというのは、どういう訳であろうか。

 その原因は、NPOやボランティア活動の目的を履き違えているせいか、または正しい価値観を持って活動していないことにあると思われる。NPOやボランティア活動の目的を単なる弱者支援、または社会の問題解決行動や世直しだと思っているようである。活動の基盤となる価値観もまた、犠牲的な活動を伴うような偽善的な行動規範によって作られたものに陥っている場合が多い。これでは、企業や組織、家族から高い評価を受けたり、人々から敬愛されることはけっしてない。このような価値観に基づいた活動は上手く行く筈がないし、ボランティアの真の目的を達成することすら叶わないであろう。

 そもそも、目的と目標というものを混同していることも原因にある。目標を目的だと勘違いしているのである。目標とはあくまでも、目的を完遂するための手段であり、数値化されるものと考えられる。目的はけっして数値化出来ないものであり、もっと崇高なものである。ボランティアの目的は、単なる社会変革や問題解決にある訳ではなく、それはあくまでも目標である。本来の目的は、人々の関係性を豊かにすることと自己の意識革新にあると考える。さらには、ボランティア活動をすることで、この世界の全体性と関係性を深く認識し、システム思考の哲学をこの社会に敷衍させることにあると私は考える。つまり、人々の意識のイノベーションとも言えるだろう。この目的を達成する為には、システム思考の哲学という価値観を持つ必要があるのは勿論である。この価値観を持って初めて、本来のあるべきボランティア活動が出来ると思うのだが、殆どの活動家が持っていないのが非常に残念である。日本のボランティア活動が、なかなか活性化しない原因もここにあると考える。
人の為にと言いながら… [2013年01月21日(Mon)]
 人の為という漢字を一つにすると何と読むんだ?と、先日の朝の連続TVドラマで主人公の女性が、ある引きこもりの男性から言われていた。それに対して、主人公の女性は何も言えずに黙り込むしかなかった。勿論、人の為という漢字を一つにすると『偽り』になる。引きこもりの男性は、人間は所詮人の為と言いながら偽善的行為をしているに過ぎず、自己満足じゃないのかと言いたかったのであろう。確かに、そういうふうに面と向かって言われると反論するのが難しい。ボランティア活動においても、人の為世の為と頑張っている人たちの多くは、意識してやっている訳ではないが、結局は自分自身の為に活動しているのかもしれない。多かれ少なかれ、人間という生き物は偽善者なのかもしれない。

 今から12年くらい前に、自分も偽善者じゃないかと思い悩んだことがある。15年前くらいからボランティア活動やNPO活動を始めていたが、それまで一度もそんなことを考えたことはなかった。しかし、或る日NHKラジオのエッセイを朗読する番組を聴いていて、ボランティアなんて所詮自己満足であり偽善行為以外の何ものではないという考えに支配されてしまったのである。それは、朗読されていた田口ランディさんのエッセイの一節を聴いた時に、そう思ってしまったのだ。頭を後ろから思いっきり殴られたようなショックを受けて、しばらく放心状態になってしまったのである。偽善者たる自分が許せなくなってしまい、何週間か抑うつ状態になってしまったことを覚えている。

 そのエッセイの一節とは、こんな内容だった気がする。田口ランディさんは、ある身体障がい者の方をお世話するボランティアをしていた。定期的に障がい者のご自宅を訪問されて、身の回りのお世話をしていたのだが、或る日気付いたらしい。こんなふうにさも支援の為にと、障がい者の方の為にお世話をさせてもらっているが、支援してもらっている相手は、本当にこの支援を有難いと思っているのであろうか。もしかして、迷惑しているのではないだろうか。支援の為と言いながら、実は親切の押し売りであり、自分自身の自己満足の為にしているだけで、偽善行為ではないだろうかと。田口ランディさんは、そう思った時から、自分自身が情けなく恥ずかしくて二度とボランティアに行けなくなったと記している。

 この文章を朗読しているのを聴いて、まさしく自分も自己満足であり偽善者であることを認識させられたのである。そして、自分自身が嫌になってしまい、しばらくの期間抑うつ状態に陥った。しかし不思議なことに、ラジオで傷付いた心が偶然にもラジオによって癒される。ラジオで流れてきたある歌を聴いて、自分自身を取り戻すのである。その歌は、永井龍雲の『鳥のようなもの』だ。♪あなたはあなたのままでいい、示された道を行く。すべては天の計らい。♪という歌詞に私は救われる。この歌を聴いて、涙が止めどなく流れ落ちたことを忘れない。自分の恥ずべき嫌らしい自己や身勝手で自己中心的なマイナスの自己も含めて自分なのだから、それを認め受け容れなさいということを、この歌で教えてもらった気がする。あるがままの自分を認め受け容れることを学んだのだ。

 人間というものは、自分の中に存在するマイナスの自己を認めることを避けようとする。誰にでも無意識において身勝手で自己中心的な自己があるし、それをないことにして偽善的に振舞っている自分自身がいる。つまり無意識で『良い人』を演じている自分がいるのだ。それを認めてしまうと、自分自身が嫌になりこの世から自分を消してしまいたくなる。だから、そのマイナスの自己を認めることを避けているのである。しかし、人間はそのマイナスの自己があることを認め受け容れて、完全に自己否定するという過程を経ないと、真の自己を確立出来ないのであろう。そして、自分のマイナスの自己を認めてこそ、世の中に対して謙虚で素直に生きられるのだ。さらにそうすることで、周りの人々の持つ嫌らしいマイナスの自己に対しても、寛容であり受容できる自分になるのだ。そのことを学ぶ為に、私たちはボランティアやNPO活動をしているのかもしれない。
看護学生のためのボランティア講座 [2012年07月21日(Sat)]
「皆さんたちは、自分のことが大好きですか?」という質問から始めるのが私の講座の恒例となっている。とある公的病院の高等看護学院において、看護学生の為のボランティア講座を今年も実施した。この質問に対して、「イエス」と答える人は殆どいない。また、自分のすべてのことを愛せますか?という質問に対しても、「はい」と元気よく手をあげる人も皆無である。これは何の為の質問かというと、自分に対する自己肯定感をみる質問である。いろんな中学校や高校の生徒にも同じ質問をするのだが、やはり同じように「ハイ」と答える子どもたちは皆無と言っていい。今の若者には、自己肯定感がないようである。自己肯定感なんてなくても、生活においては別に困らないだろうと思われるが、そのように単純なものではない筈である。

 先ず、自分の中に信頼出来る自己を確立していなければ、人を信頼することは出来ないのである。マイナスの自己を含めて、すべての自分を大好きでなければ、心から人を好きになれない。自分の嫌な部分もすべて含んだ自己を愛せなければ、どんな人をも愛することは不可能なのだ。だから、あなたのこの部分は好きだけれど、またはこのような人になるなら愛せるけれど、今の君は好きになれないし愛せない、ということになるのである。これでは、本当の愛は育めない。だから、今の若者は自分のすべてをさらけ出して、相手に飛び込むことも出来ないのである。たとえ、一時的な恋愛感情は持てるが、長続きはしないし、結婚してもいずれ破綻するのである。

 それじゃ、自己肯定感を自分の自己のなかに育成するにはどうしたらいいかということだが、単純な答えはない。自己同一性の確立が必要なのだが、先生にも親にも、そして他の大人たちにもそれを教える人もいないから難しい。となれば、自分で学ぶしかないのだが、本を読んだから理解できるものでもない。やはり、宗教、ボランティア、そして仕事を通して学ぶしかないのだ。しかし、仕事においては教えてくれる上司もいないから無理だろうし、自己同一性を教えてくれる宗教者に巡り会う確立はもっと低い。だとすれば、ボランティアを経験して自ら学ぶしかなくなってしまう。

 ボランティアから学ぶことは実に多い。しかし、ともするとボランティアをすること自体が目的化してしまい、目的意識を見失うことも多い。コミュニティ・ルネッサンスの実現やソーシアルキャピタルを豊かにすることが本来の目的であり、その為の手段・ツールがボランティアなのであるが、ボランティアをすることで自己満足してしまう人が多い。これでは、行為そのものが偽善化したり、お互いの関係性や全体性を忘れた行動になってしまいがちである。今回は最先端の科学における、システム思考の哲学を交えながら、ボランティアの真の目的について、看護師の卵たちに話をさせてもらった。

 細胞学や大脳生理学的に見ると、ボランティア的行動が人間の身体や脳の、本来の働きそのものだということが、科学的に証明されている。つまり、ボランティアの活動が人間の本来とるべき行動そのものなのだということである。そのことが、最先端の医学でも証明されようとしているし、量子物理学や宇宙工学でもシステム思考として認知されようとしているのである。言ってみれば、人間は本来人の為世の為に生きるということが、持って生まれたDNAにしっかりと組み込まれているのである。そんなことを看護学生に、しっかりと伝えたつもりである。若者たちよ、ボランティアに一歩踏み出そうではないか。
命をかけた防災無線 [2012年03月10日(Sat)]
 明日で震災から1年になる。今でも、大津波による甚大な被害を受けた南三陸町の女性役場職員の勇気ある行動が美談として、語り継がれている。その女性とは、町の危機管理課所属で防災無線担当の遠藤美希さんである。震災直後から、防災無線で津波が来るからと避難を呼びかけて、多くの人命を救ったが、自分は津波に飲まれて一命を落とされたその人である。最後の最後まで逃げずに、防災無線のマイクを手離さなかったその勇気ある行為が、多くの人々の感動を呼んでいるのだ。

 震災の際に多くの人々が、自分の命を犠牲にして救助活動や原発事故の収束に当たった。危険を顧みず、他人の命を守る為に奔走していた彼らの姿がマスコミにより報道されている。先ずは自分の生命を守るのが普通なのに、どうして自分の命まで賭して他人の生命を守ろうとするのであろうか。人間は、自己保存の本能があるにも関らず、何故自分の命を犠牲にしてまで、人々の命を救おうとするのか、不思議だと思う人も多いに違いない。そんな思いに一度もかられたことのない人は、きっと解らないだろうし、解ろうともしないのではないだろうか。

 最近の人体生理学や大脳科学の研究は飛躍的に進んでいて、人間の細胞についての解明がされてきた。人は何故犠牲的な行動をするのか、科学的に考察してみたい。人間の固体における細胞は、約60兆個あると言われている。その細胞を詳しく調べてみると、実に不思議な働きがあることが判明したのである。それは、細胞の自己組織性という働きである。つまり、細胞の一つ一つに、何らかの指示命令がなくても、自己組織を形作る使命をもって全体の為に活動していることが解ったのである。つまり、細胞そのものに「神」が宿っているとも言えるのである。

 細胞の自己組織性には、こんな働きもある。自己犠牲の働きもあるということである。例として、白血球細胞の働きがあげられる。白血球にはご存知のように、リンパ球、単球、顆粒球があるが、それらの白血球細胞が過不足なくバランスを取って、体内に侵入した悪い細菌やウィルスを攻撃して、戦いの後に自分は命を落とすのである。膿となって体外に排出されるのは、白血球の死骸なのである。白血球細胞は自分の命を犠牲にして、全体である臓器や筋肉や人間全体の命を守ってくれているのである。何気なく私たちが命を永らえられるのは、白血球たちのこんなすごい働きがあってこそなのである。生まれながらにして、こんな不思議な働きをするように、DNAが組み込まれているのが私たちの人体と言える。

 とすれば、くだんの防災無線の女性の中にも、自己組織性や全体を守る遺伝子が組み込まれていたと考えられる。そのDNAは、全体である自分の命だけでなく、社会全体の人間の命を守るという使命を持っていたと見るべきであろう。つまり、私たち人間の中には、自分の命を犠牲にしても全体の為に貢献するという、尊い使命を持った細胞が存在していて、本来はそういう生き方をすることが正しいということになる。知の巨人ライプニッツが「神は細部に宿る」と言った意味は、こういうことを指していたのである。人間は、いざという時にそのDNAのスイッチが入り、人々の為に自分を犠牲にすることが出来るのだ。例の女性の美談と感動を社会に生かす為に、私たちはいざという時だけでなく普段からも、人の為世の為に活躍出来る人間になりたいものである。
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