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仕事のミスは何故起きる? [2017年07月18日(Tue)]
 仕事で間違いが起きる場合がある。それは、いろんなケースがあげられるが、殆どはケアレスミスやチェック漏れによるものである。こういう仕事のミスが起きると、管理者・上司は間違いを起こした本人を厳しく叱責することになる。あくまでも、仕事のミスは本人の問題だと考えるからである。ケアレスミスを起こすのは、集中力が足りないからだと責める。管理者は仕事に対する姿勢が悪いからだとか、責任感がないからミスが起きるのだと追及して、今後ミスが起きないように注意を怠らないようにと指導しがちである。確かに間違ってはいないけれど、こういう注意指導の仕方はあまり効果がないことを、会社の上司は知らない場合が多い。

 会社における管理者は男性のケースが多い。そして、その男性の上司は優秀だから出世しているのである。学歴や教養が高くて、仕事も出来る。中には、仕事が出来ないのに上司に対するごますりや迎合だけで出世するケースもあるが、評価が高くて仕事ができる優秀な社員が管理者になる場合が多い。その優秀な上司のエリート社員は、叱り方や指導の仕方がけっして上手ではないケースが少なくない。何故なら、自分を基準にして部下を叱るからである。自分ならばそんなミスなんか起こさないと思っているし、間違いを起こす社員を蔑んでいるからである。ミスを起こした社員の気持ちになり切って考えないし、ミスを起こした社員の心を深く洞察していないのである。ミスが起きたバックグラウンドにも目が行っていないのである。

 ケアレスミスはどんなケースでも起きるものである。何故なら、人間とはケアレスミスを必ず起こす生き物だからだ。どんな人間でも、ミスを絶対に起こさず完璧に仕事をこなすようなことはない。少なからず、ミスは起こすのである。そして、上司たるものは、そのことを先ず認識していなければならない。さらに、ケアレスミスを必要以上に糾弾したり、しつこく責めたりはならない。また、ペナルティを与えてもいけない。人事考課にもケアレスミスを評価の対象にしてはならないのである。勿論、手抜きをしたりわざと指示を無視したりした場合は、厳しい処置が必要だ。しかし、ケアレスミスを皆の前で叱ったり馬鹿にしたりすることは、絶対に避けなければならない。かえって、ミスを続発させるからである。

 仕事でミスを起こすのを管理者たるものは予想しておかなければならない。そして、そのミスをチェックするシステムを作っておかなければならない。一人の社員にすべての責任を負わせるようなことをしてはならないのである。仕事上における失敗の責任は上司たるものが負うべきである。部下が間違いを起こしたとしても、すべての責任は上司にある。それを見抜けなかった上司、ミスのチェックをするシステムを構築できなかった上司にあるのだ。さらには、部下がミスを起こさないように業務を遂行できるように指導できなかった上司にその責任があるのは明白なのである。それなのに、くどくどと部下を叱責するのは、上司として失格だと言っても過言ではない。

 さらに付け加えると、仕事のミスが起きるそもそもの原因は、単なるケアレスミスだけではないのである。社員がケアレスミスを起こす職場の背景や環境に注目すべきである。ケアレスミスを頻繁に起こすような職場は、間違いなく楽しくない職場であるし働き甲斐を感じない職場で、職場の人間関係が極めて悪いケースが殆どである。つまり、社員同士の関係性が悪いのである。職場の社員どうしがお互いに協力し合い支え合うような良好な人間関係が構築されている職場ならば、ミスは殆ど起きない。そして、上司の部下に対する思いやりや慈しみ溢れる言動が日常的にあるなら、部下はミスを起こさない。さらには、部下がミスを起こした際には、すべての責任を上司が背負って、部下をけっして責めない上司ならば部下はミスを起こさない。信頼し敬愛する上司を窮地に陥れたくないと思うから、部下はけっしてミスを起こさないぞと心に強く決意するからである。

 また、職場の人間関係だけでなく、会社の経営哲学または理念がしっかり社員全員に浸透しているならば、ミスは起きにくいものである。企業の経営理念として、『全体最適』の哲学がしっかりと根付いているならば、顧客やクライアントに迷惑をかけるようなミスは起きにくい。経営トップや幹部だけでなく、全社員にそのような哲学がしっかりと認識されていて、仕事を通して社会に対する貢献意識が全社員にあり、全社最適を実践しているならば、ミスは起きにくいのである。勿論、こういう企業は間違いなく繁栄もする。つまり、会社の社員どうしの関係性が悪くて、全社最適でなく個別最適の会社風土があるから、社員のミスが起きるのである。つまり、社員のミスはそんな会社風土を作り上げた経営トップと幹部にその責任があると言えるのである。一部の例外はあるものの、関係性を良好にして全社最適を企業哲学にすれば、ミスは格段に減少し仕事は上手く回るのである。
不寛容社会 [2016年07月09日(Sat)]
 「不寛容社会」という語句が、ネットで最近注目されている。NHKのクローズアップ現代という番組において、日本は不寛容社会になってしまったというセンセーショナルな問題を取り上げたせいだと思われる。熊本地震の際に著名人が支援をしたいとネットで発言したら、多くのネットウヨたちがバッシングして炎上したという事件があったのを記憶している人も多いだろう。少しの間違いや偽善的な行為をした人を許さない風潮が蔓延している。自業自得と言えるが、桝添元知事や野々村元県議などに対する執拗な攻撃は、いささか異常性さえ感じるほどである。

 ニュースなどが取り上げるソースも、著名人が漢字の読み間違いや言い間違いなどをしたことを取り上げるケースが多い。クレーマーと呼ばれる人々が、学校にいちゃもんをつけたり店員などを頭ごなしに怒鳴りつけたりしている姿を見るにつけ、不寛容社会なんだなと納得する自分がいる。日本人というのは、もう少し寛容性がある人種だと思っていたが、そうではないようだ。そして、その不寛容性が益々酷くなっていると多くの市民が感じているのも確かだし、これからどんどん不寛容社会が広がっていくと思っている人が多いのではなかろうか。

 どうして、日本人はこんなにも不寛容になったのであろうか。ある脳科学者は、人間が正義感を振りかざしている時にドーパミンが出るので、悪い事をした人をネットで糾弾する事で、自分は正義の味方だと自己満足しているのではないかという推論を展開していた。悪い事をした人を批判しないでいること自体が悪だと思い込むらしい。この推論が正しいのなら、快楽のために不寛容になっているという結論になる。ドーパミンという快楽の脳内ホルモンに支配されているというのは、とても情けないような気もする。

 脳科学的心理学的にもう少し不寛容性について推察してみよう。他人を許せないというのは根源的な部分での自分自身に対する自己肯定観が乏しいということの裏返しでもあるようだ。不寛容さは、脳の前頭前野部分が未発達によるものだと言われている。さらに、寛容性を持てないのは扁桃体という大脳辺縁系の部分が肥大化しているからではないかと推測されている。さらには、脳内ホルモンで言うとオキシトシンという安心感をもたらす脳内ホルモンが不足しているから、不安感が強くなり安定した自分自身を保てなくなり、他人に対する攻撃性が増してしまうのかもしれない。

 最近増加していると言われている愛着障害(アタッチメント・ディスオーダー)と広汎性発達障害、さらには自己愛性の障害である人格障害の急増も、このオキシトシン不足による影響かもしれない。また、アンケート結果では、この社会において満たされない思いを抱いている人が過半数を超えているという。これは、セロトニン不足を推論させている。現代人は、セロトニンとオキシトシンが不足していて、様々な精神的な障害を抱えているだけでなく、不寛容性を強く持っているのではなかろうか。

 さて、それではこの不寛容性をどのようにして解消していけばいいのだろうか。セロトニンを正常に分泌させるには、腸内細菌を正常にすることも必要なので、食事などの生活習慣の改善が先ず必要である。オキシトシンとセロトニンという脳内ホルモンは、家族関係、夫婦関係、恋人関係、職場の人間関係、等が深まり安定しているとたくさん分泌される。関係性の稀薄化が不寛容社会を生み出したとも言える。つまり、関係性を改善してそれを豊かにして行けば、不寛容さが解消されると推測できる。関係性の希薄化が不寛容社会を蔓延させているのであるから、不寛容社会を解決するキーワードは、「関係性」にあると言えよう。
JKビジネスにはまる少女たち [2016年06月07日(Tue)]
 JKビジネスと呼ばれる性風俗が流行しているらしい。何となくいかがわしい感じがしないJKビジネスという呼び方も悪いと思うが、無邪気な女子高校生の多くがこのJKビジネスにはまってしまうと言われている。女子高校生を対象にしたアンケートで、周りの生徒にJKビジネスをしている人がいるかと問うと、なんと9%の女子高校生が居ると答えているという。その対象者を複数の人が答えるケースもあることを考慮しても、実に数パーセントの女子高校生がJKビジネスに染まっていることになる。以前、援助交際と呼ばれる高校生売春が流行したことがあるが、洒落た言葉に騙されている気がする。

 このJKビジネスという呼び方からすると、女子高校生が新しいビジネスモデルを考案して起業したかのように誤解されるが、実は立派な性風俗産業である。勿論、最初から性交渉を女子高校生に強いるようなことはしない。最初は、男性に対してガラス越しに折り紙をして見せることから始まるらしい。それから、男性の持ち込んだ折り紙で希望の折り紙をする、さらには一緒に珈琲を飲むというように次第にエスカレートするという。さらには肩もみをしたり、マッサージをさせたり、添い寝をしたりと次第にハードな内容になる。中には、何もしないからと騙され、カラオケルームに連れ込まれレイプされる悲惨なケースもあるという。

 どうしてこんな馬鹿なことに女子高校生が引き込まれるのかというと、巧妙な誘いと高額なアルバイト料に釣られるからと言われている。最初は1,500円から2,000円くらいの時給から始まり、やがてこのサービスをすると5,000円、これをすると10,000円追加するよと甘い言葉に誘われて、自分の身を切り売りしてしまう。やがては、彼女らの心は麻痺をしてしまい、最後は売春婦のような末路になるという。なんと悲惨なことであろうか。17歳〜18歳のいたいけな少女が、お金の為に自分の尊厳を踏みにじるような人生に身を持ち崩すのである。こんなJKビジネスを利用する大人の男性にも責任があるが、こんなビジネスに騙される女子高校生も情けない。

 驚くことであるが、JKビジネスに身を持ち崩した女子高校生たちは、罪悪感がないという。相手も喜んでくれるし幸福観を感じてくれる。自分も相手の喜びに貢献できるし、金銭的な報酬を得られて、貧しい家計にも援助になっている。誰にも迷惑かけている訳じゃないし、どうして非難されるのか不思議だと主張している。この主張は、今から20年前に「援助交際」という言葉で女子高校生の売春が話題になった時にも、同じ主張が展開されたのである。その時に、正しい価値観を基礎にして、整然とした理論により反論できる大人が居なかった。実に情けないことに、現在も正しく反論できる大人は極めて少ないのだ。

 このようなJKビジネスがはびこるのは、卑劣なアイデアでビジネスを展開する大人がいるからであり、利用する馬鹿な大人の男がいるからである。純真な女子高校生を食い物にする、愚劣な大人は許せない。しかし、こんなにも簡単に騙されて、自分の尊厳や大切な身体と精神をだいなしにしてまで、お金のために我が身を売るというのも情けない。どうして、女子高校生たちはこんなにもあっけらかんと春を売るのであろうか。その答えは、実は家庭にあるのだ。こんなことをする女子高校生の家庭における、家族というコミュニティは崩壊しているのである。つまり、家族関係が希薄であり、親子関係や親たちの夫婦関係が破綻しているのである。だから、娘たちは寂しさを抱えて生きているのである。その寂しさを埋めるために、JKビジネスに身を投じてしまうという側面もあろう。

 JKビジネスに対して警鐘を鳴らしている清永 奈穂さん(安心安全教育協会 理事)も、まったく同じことをおっしゃっている。JKビジネスに身を落としている女子高校生の殆どが、家族に問題を抱えているという。家族の絆、つまり関係性が切れているのである。家族の関係性が豊かで深ければ、けっして自分の身を滅ぼすような危険なことをすることはない。何故なら、家族の関係性があれば、自分の両親や家族が悲しむようなことをする訳がないのだ。言い換えると、援助交際やJKビジネスが隆盛するような社会が存在するのは、家族というコミュニティが崩壊しているからに他ならない。家族どうしの関係性を大切にするような社会を作りたいものである。
家族ノカタチ〜結婚したくない男〜 [2016年02月23日(Tue)]
 TBSテレビで日曜夜に放映している「家族ノカタチ」というドラマが面白い。SMAPの香取慎吾が、結婚したくない男を好演している。一方、バツイチで独身を楽しみながらも、何か物足りなさを感じている女性を上野樹里が演じている。世の中では、結婚したくない若い男性が急増しているらしいが、まさしくその典型とも言える男性が主人公である。勿論、このドラマでは上野樹理と香取慎吾がやがて恋に落ちるのであろうが、見ものなのは香取慎吾がどのようにして、心境の変化を迎えるのかという点であろう。また、あれほど嫌っていた結婚という制度を何故受け入れるのか、実に興味深い。また、香取の父親役である西田敏行との親子の関わりから、家族というもののあり方を深く考えさせるドラマである。

 このドラマで香取慎吾が演じる主人公は、なにしろ1人で居るのがいいらしい。ロフト付きの贅沢なマンションで、誰にも気兼ねすることなく邪魔されずに、のんびりとオフの時間を過ごすのが望みだという。他の人と暮らすことがストレスなので、いくら愛する伴侶と言っても自分の生活に入って来て欲しくないと言う。勿論、それは実の父親であっても同じだ。社会の中で多くの男性もまた同じように、一人暮らしを志向していると聞く。つまり、結婚したがらない男性が増えているというのだ。私らのように還暦世代の人間には、到底理解できない生き方である。当然のように結婚して、当たり前のように子を産み育て上げた。そういうことを望まずに、ひとり暮らしを将来に渡って貫くというのだから驚きだ。

 世の中の男性たちは、何故結婚したがらないのであろうか。一つ目の理由にはドラマの主人公のように、誰かと一緒に暮らすのが煩わしいということであろう。気楽な生活がいいみたいだ。二つ目には、結婚生活に対する不安や恐怖感があるらしい。結婚生活というのは、ある意味自分の殆どを相手にさらけ出し委ねるということになる。逆に言えば、相手の良いところも悪い所も含めて受け容れて許すということでもある。揺るぎない自己肯定感を持つとか、自分をまるごと受け入れ愛することが出来なければ、あるがままの相手を愛することは不可能である。つまり、精神的に未熟な若い男性が多いから、結婚したがらない男性が増えたのではないだろうか。

 最近の若い男性は、恋愛に対して臆病らしい。自分に自信が持てないとか、相手に対する寛容性や受容性がないからだと思われる。さらには、女性から見て魅力的な男性も少なくなったと思われる。精神的な幼稚さと価値観の低さを見抜かれているからだと思われる。いくら最新のファッションで着飾ったり、高い教養や学歴と高収入を確保したりしても、人間性が低劣だったら、女性は伴侶に選ばない。このように、結婚できない男や結婚したがらない男がこれから益々増えてくれば、少子高齢化社会は益々加速化される。日本という国家の存亡に関わる重大事である。子孫がいなくなれば、国家は消滅するからである。

 こんなにも情けない若い男性を大量に作り出してしまったのは、日本の教育に原因があろう。学校においても家庭においても、知識・知能・技能の教育に重きを起き過ぎて、人間教育をないがしろにしたのである。かのアインシュタインは、哲学や形而上学を無視した科学偏重社会は、人間を不幸にすると説いた。まさしく日本の文科省は思想や哲学の教育なんて、学校教育には無用の長物だと主張している。そして、その結果として身勝手で自己中心的な若者を大量に作り出し、家族、地域社会、国家というコミュニティを崩壊させた。そして、結婚するカップルが激減し、家族というかたちも破壊されている。

 結婚したい男性も多い筈だと思う人も多いに違いない。各市町村では集団見合いが開かれ盛況だ。TV番組で、お見合い番組の申し込みが多いという。しかし、こういう結婚したがる男性は少数なのである。しかも、結婚したがる男性の殆どが、自分の欲望を満たす為だったり自分の生活を豊かにする為だったり、または自分の生活をサポートしてもらう為に結婚を望んでいるのである。結婚とは、本来何かを求める為のものではない。与える愛であるべきなのに、何かを求めるための結婚をしたがるのだから情けない。相手を誰よりも幸福にしたいと思わずに、自分が幸福になりたいと結婚を望むのだから、やがて破綻するのも仕方ない。家族ノカタチというドラマを観て、結婚の本来のあり方というものをよく考えて欲しいものだ。
性善説と性悪説正しいのはどっち? [2016年01月10日(Sun)]
 人は生まれつき善なのか悪なのか、古来よりその論争が続いており、その確定した結論はいまだに出ていない。性善説の代表的な論客は、かの著名な思想家である孟子である。一方、性悪説を主張したのはご存知の通り、やはり中国の思想家荀子である。どちらの主張もそれぞれなるほどと思えるし、結論から言うと人間とは善人にもなるし悪人にもなりうるということだから、同じようなことを言っているとも言える。しかしながら、生まれつき赤ん坊は欲望・煩悩を発揮するから悪人だという説と、生まれてきた赤ん坊は純真無垢なのだから善人だとする説では、大きく違っているとも言えよう。この論争が赤ん坊を対象にしてではなくて、人間の本質または根源的に、そしてスピリチュアルに判断して、人間は善か悪かと問うたら果たしてどうであろうか。

 人間は生まれて来る際に、根源的な欲望なり煩悩なりを持って生まれて来るが、それは人間の本質なのだろうか。そうではないのだと考えているのは、きっと私だけではないような気がする。最先端の脳科学で解ってきたことであるが、人間が脳内に本来持っているメンタルモデルは、欲望に支配されてしまうそれではないらしいのである。そして、自分の利害や損得を考えて行動するようなメンタルモデルではないと言うから驚きだ。つまり、生まれつき人間という存在は、自分だけの欲望を満たすためだけに生きるというメンタルモデルは持って生まれているのではないというのである。自分のためだけでなく、人々の幸せや豊かさの為に奉仕したり貢献したりするように生まれているというのである。

 赤ちゃんから幼児期にかけて、多くの人は母親によって育てられる。そこで、最初の人為的なメンタルモデルが作られる。こういう言葉がけがなされる。「それは危ないよ、自分の害になってしまう、けっして自分の得にならない」というような言葉で、自分の身を守る術を教えられるのである。これは、危険な社会で生きて行くためには必要な処世術であり、けっして悪意で持って教え込んでいる訳ではない。けれども、結果としてこの教えが強く脳に叩き込まれてしまうと、自分の利害や損得で行動するというメンタルモデルが作られてしまうのである。すると、自分が得することしかしないし、自分を犠牲にしてしまうことを極端に避けてしまうというメンタルモデルが形作られてしまうのである。

 一方で多くの子育てのケースにおいて、こういうメンタルモデルも人為的に作られる。自分の損得や利害だけで生きて、自分勝手で自己中心的な生き方をすると、人々から見離され蔑まされ孤独になってしまう。だから、少なくても人前では自分の身勝手で自己中心的な生き方を見せずに、人々の対して優しさを示して『良い人』を演じるんだよ、と教えるのである。それは、だいたいにおいて父親が処世術として示すことが多い。これが、心理学的にいう仮面(ペルソナ)を被った自分である。本当は自分にとって得になることしかしたくないのに、嫌われたくないから無理して良い人を演じ続けるのである。

 ところが、これらの人為的メンタルモデルが作られる以前に、既に人間には素晴らしいメンタルモデルが作られているのである。その素晴らしい片鱗を時折、人間の行動の中に顔を覘かせる。例えば、こういったケースである。3.11の震災時、南三陸町の役場職員である遠藤美希さんは、自分の命が危険だと知りながら、緊急避難放送の部屋に止まり、津波がやってくるという危険を放送し続けた。これは、誰からも指示されたり命令されたりした訳ではない。自らの意思で自分の命を犠牲にして、多くの町民の命を守るために活躍したのである。いざとなれば、人間にはこのように自分を犠牲にしてでも全体に貢献したり奉仕したりするようにするメンタルモデルが存在しているということである。

 このような素晴らしいメンタルモデル(価値観)は、実は生まれ付き誰でも持っているのである。何故ならば、人間の細胞には自己組織性があり、自分の細胞単体の生命を犠牲にしてでも常に細胞全体(人間全体)を守るために貢献しているという事実が判明したからである。さらには、細胞たちはそれぞれが連携し合って、お互いの共存関係によって成り立っていることが解ったのである。つまり、人間の細胞には全体性があり、関係性によって成り立っているということが科学的事実として認定されたのである。実は、これはすべての生命体全部にあることが解ったし、植物などの細胞にも存在していることが判明したのである。であるから、細胞学的に観ると、人間は性善説ということになる。最先端の複雑系科学は、人間は性善説だということを証明しているのである。
人生の目的 [2015年10月28日(Wed)]
 あなたの人生の目的は何ですか?と問われて、抽象的な言葉で概念化して答えられる人は、どれだけいることであろうか。または、あなたが人生を歩むにあたり、どんな価値観をよりどころとしているのでしょうか?と質問されて、私はこういう価値観を基にして、人生を歩んでいますと言語概念化が出来る人は、そんなに多いとは思えない。ともすると、人生の目的なんかなくても立派に生きていけるし、困らない。人生の価値観なんて不要だし、今までそんな価値観なんて考えたこともない。そんなふうに嘯いて、人生の目的や価値観に対して、まったく何も考えないし、考えたくもないと思っている人が殆どではないだろうか。

 確かに、人生の目的や価値観なんてなくても、生きることは可能である。ただ漫然と生きるならば、という条件は付くとしても。しかし、しっかりとした目的がある人と、何も目的もなく生きる人では、その人生の行き着く所はおおいに違ってくる。何故ならば、目的がなく海図もない航海と同じだからだ。またしっかりした価値観のない人生は、コンパス(羅針盤)のない航海と同様の結果をもたらす。そんな航海は、どこかに迷い込んでしまい、難破したり座礁したりするに違いない。人生も、しっかりとした目的や価値観を持たないと、迷ったり挫折や失敗を繰り返したり、心身疾病やケガをすることになるであろう。または、年老いてから認知症になるかもしれない。

 この人生の目的について有吉佐和子さんが経験したエピソードが、とても興味深いので紹介したい。有吉佐和子さんと言えば、紀ノ川、花岡青洲の妻、恍惚の人などの代表作で知られる女流人気作家である。歴史小説や社会問題を鋭く抉る小説で、一時代を築いた著名なベストセラー作家だ。その彼女が一時期、まったく小説が書けなくなったという有名な話がある。ある日から、有吉さんは小説がまったく書けなくなってしまったのである。題材、モチーフ、登場人物、粗筋、すべてが思い浮かばなくなってしまったという。それまでは、湯水の如く書く題材が湧いて出てきていたのに、何も考えられなくなったということらしい。もうこれで自分の小説家としての人生は、終焉を迎えざるを得ないのかという瀬戸際まで追い詰められてしまい、生きる気力さえ失いかけて自宅に閉じこもる日々が続いていたという。

 ある時、そのことを聞き付けた知人が会いにきて、こんなことを言ったという。「有吉さん、あなたね、小説が書けなくなった原因は、小説を書く目的を見失ったからだよ」と優しく諭すように言ったという。それを素直な気持ちで聞いた有吉さんは、頭の後ろを殴られたくらいの衝撃を受けたらしい。確かに、自分が小説を書く目的を見失ってしまったから、書けなくなったのだと気付いたのである。それで、改めて自分が何のために小説を書くべきなのだろうと考えたらしい。その時ふと思いついたのは、自分もこれから高齢者になろうとしているが、老人になると仕事もなくなり生きる気力も少なくなって、充実した生き方が出来なくなるケースが多い。自分が書いた小説を読んだ高齢者の方々が、自分の生きる希望や夢を再発見し、自分達がまた生き生きとした残りの人生を歩めるようになったとしたら、自分が小説を書く意味が出てくると気付いたのである。

 そのことを気付いて、自分が小説を書く目的はこれだと確信したらしい。高齢者を主人公にした小説を書いて、この小説を読んだ高齢者の方々が自分の人生を見つめなおし、老人の人生もまた素晴らしいなと思えるような気持ちになってもらいたいと強く思ったとのこと。そう思ったとたん、あれほど小説を書けなくて苦しんでいたのに、不思議なことに次から次へと題材やモチーフ、登場人物、ストーリーが思い浮かんで、書きたい小説がどんどん生まれてきたという。そして、生まれたのが「恍惚の人」などの老人を主人公にした名作の数々なのである。

 このことから導き出される結論は、人生の目的や価値観などという面倒なことはなくても生きては行けるとしても、社会に対して大きな成果を生み出したり貢献したりするには、しっかりした目的が必要だということ。しかも、その目的を確立する為には、基礎となる正しい価値観が伴わなくてはならないということだろう。有吉さんが小説を書く目的を見出したことで、小説家として復活できたように、我々も社会に何か大きな足跡を残すとか、多くの人々の幸福に寄与することをする為には、しっかりした人生の目的、それも正しい価値観に基づいた目的を持つことが必要だということである。このことを肝に銘じて、人生の目的を言語概念化したいものである。
若者があいまい言葉を使う意味 [2015年09月26日(Sat)]
 「〜とか、〜ぽい、〜かも、〜みたいな、〜っていうか、〜的には、〜という感じ」というような言葉をあいまい言葉というらしい。若者たちが好んで使うという。このあいまい言葉は、10代や20代だけでなく、最近は30代の大人も使うようになったと言われている。こんな言葉をビジネスシーンでも平気で若者が使用しているのを見るにつけ、情けなくて仕方ない気持ちになる。こんな言い回しが通用するというのも不思議だし、若者どうしならいざしらず、大人に対してもこういう失礼な言い方をするなんて、許せない気がする。それだけ、年を取ったということかもしれないが、正しい日本語を使えない若者が可哀想でもある。

 TVで、日本語は時代のうつろいに伴い変化して行くものだから、あいまい言葉もいいんじゃないですか、と著名な国語の予備校講師が言っていたが、違和感を持ってしまった。確かに、微妙な言い回しであるあいまい言葉を使うことで、他人と余計な軋轢を避けることが出来るというメリットもある。友達から嫌われたくないという気持ちも解る。勿論、言葉というのは時代と共に変遷している。それは、人々の意識が変わり、文化習慣が様変わりし、言いやすい発音や言い回しになるのも当然である。しかし、あいまい言葉はそういう時代が要求した言葉の変遷とは、まるっきり違うものだと思えて仕方がないのである。

 若者がこのあいまい言葉を使っている理由は、前述したように、他人とのトラブルを避けるとか、断定しないことで他人との関係を良好に保つという効果を狙ったものとも言える。他人と自分の違いをあまりはっきりさせないことで、自分が皆から嫌われたり無視されたりすることを、無意識で避けるという意識もあろう。それだけ、今の若者たちは他人との軋轢を避けたいという意識が強いのかもしれない。それは、異常に孤独を怖れるという現代の若者の特徴なのであろう。いじめやしかとを学校で嫌というほど見聞きしてきた経験から導き出された処世術なのかもしれない。自分自身を守るために、無意識のうちに使用しているように思える。

 こういうあいまい言葉を若者が使う背景について、もう少し掘り下げて考えてみたい。若者たちに限らず、ビジネスシーンにおいて、自分の意思や意向についてはっきりとコミットメントするビジネスマンや役員は、今極めて少ない。あいまい言葉まではいかなくても、微妙なニュアンスで逃げてしまい、はっきりと断言して自らの責任を取るような態度をする人がいないのである。会議や打ち合わせをすると、自らの意見を積極的に述べる社員は皆無である。誰かが発言するのを待っていて、その意見に迎合するか批判的意見を述べるのが常である。意見を言うほうも、恐々とした態度で断定する言葉を避けて、そうではないかと…語尾を弱めて消え入りそうに言う。何故なら、自分の意見の欠点を指摘されたり批判されたりするのを怖れているからだ。これではまともな会議になる筈もない。

 何故、そんなふうにコミットメントが出来ないかというと、アイデンテティの確立がされていないからである。つまり、自我人格(エゴ)を克服して、真の自己人格(エコ)を確立出来ていないからだ。本来、人間発達の段階において、本能的な欲求を心のよりどころとしている自我がまず芽生えて、その自我を自らが認め受け入れおおいに恥じ、その自我を超越して人間らしい自己が目覚めるのである。ところが、日本人の殆どがこの正常な人間発達の段階を経ていないのである。自我という自分をさらけ出すことを恐れ、ペルソナ(仮面)を被って、良い人間を無理に演じているのである。人に嫌われることや軽蔑されることを極端に避けて、ペルソナで他人を欺いて、いい人間のふりをしてだけなのである。

 当然、そんな仮面を被った偽善者だということは誰でも見抜いてしまう。何故ならば、自分も偽善者であるし、相手の心の中に、自分と同じ身勝手で自己中な自己を発見するからである。そういう嫌な自己を発見した相手とも、見てみないふりをして付き合うしかないのである。真のアイデンテティを確立していない人間は、自分らしさや個性を押し隠して、皆と同じようなキャラクターしか出せない。個性的だねとか変わった人だねと言われるのを極端に嫌うからだ。だから、自分の意見をコミットメントできないのである。自分の進むべき道や自分の確かな価値観をコミットメントできない人間が、正しい人生のベクトルや道を見つけられないのは当然の帰結と言わざるを得ない。あいまい言葉を使い続けているうちは、自己の確立なんておぼつかない。だから、あいまい言葉は使ってはいけないし、これを言葉の文化として後世に残すようなことは避けなければならないのである。
情けない若者の労働観 [2015年08月16日(Sun)]
 若者を対象にした勤労意識や労働観について、電通がアンケート調査を実施した結果を見て、とても驚いた。多くの若者が低レベルの価値観に基づいて、嫌々ながら仕事をしているというし、仕事をする目的が単なる収入を得るため、または趣味や遊びに使うお金を稼ぐためという、非常に情けない答えをしているからである。まさか、こんな酷い価値観に基づいて仕事をしている若者がかくも多数存在しているとは思ってもいなかったが、実際には若者だけでなく、中高年も同じような価値観で仕事をしているのかもしれない。実に情けないものである。だから、日本を代表する企業が、次から次と赤字経営に転落するのかもしれない。

 アンケート結果は次の通りである。18〜29歳の働く上での不満は「給料やボーナスが低い」(50.4%)、「有給休暇が取りづらい」(23.8%)、「仕事がマンネリ化している」 (17.6%)が上位に来ているという。働く目的は「安定した収入のため」(69.3%)、「趣味や遊びに使うお金を稼ぐため」(36.5%)、「将来(就労期間中)の生 活資金のため」(30.5%)といった項目が上位に並んだらしい。働くことへの意識については、18〜29歳の約4割が「働くのは当たり前だと思う」(39.1%)と答えた一方、「できれば働きたくない」(28.7%)も約3割に上った。仕事に対する価値観でも「仕事はお金のためと割り切りたい」(40.4%)と答えている。唖然としてしまい、声も出ない。

 若い勤労者の約3割近くが、できれば働きたくないと答えている。じゃ、働かないでどうやって暮らしていくのか。ずっと親に寄生して生活するというのだろうか。ましてや、収入のためだけに仕事をするというのは、如何なものか。仕事はお金のためと割り切りたいと思う若者が4割以上いるというのは、情けなくて仕方ない。これでは、仕事が楽しくないばかりか、苦痛だろうと思われる。こんな低いクォリティの価値観だから、ちょっと嫌な上司・同僚と一緒になったり大変な仕事を押し付けられたりすると、メンタル疾病になって休職に追い込まれるのかもしれない。こんな低劣な価値観なら、仕事がまともに出来ないのは当たり前であろう。

 ましてや、アンケートでも3割以上の若者が、価値観を共有できる人と一緒に仕事がしたいと答えている。一旦会社に入社したら、上司や同僚を自分で選べないのは当然だろうに。人間として大きな成長をする為には、価値観の違う人たちと仕事を一緒にするのが一番確かだと思うが、それを拒否したいというのだから、驚きである。仕事というのは、一人前の人間として自己成長をするために避けて通れないものであり、ましてや辛い仕事や苦難困難を強いられる仕事をやり遂げるからこそ、働き甲斐や生きがいを見出せるのである。難しい上司や部下と出会うとか、難癖をつけるような顧客を担当して、自分が磨かれてその人間性が耀くのである。

 若者だけでなく、今の日本人はどうしてこんなにも酷い勤労意識や労働観を持つようになったのであろうか。その根本的な原因は、すべて近代教育の欠陥にあると確信する。近代教育は、個人の権利を何よりも大事にすることを教える。個人の自由・平等を保障し、基本的人権を認める日本国憲法だから、それは認められて当然である。しかし、この個人の権利をあまりにも強く意識させる教育をすると、全体を見失うし、人間相互の関係性を損なう。つまり、人間は本来全体最適を目指すべきなのに、個人最適を第一義的に目指してしまい、全体がどうなろうと構わないという、間違った価値観を植えつけたのだ。こうなると、社会全体や企業に貢献しようとする人間を育てることが出来ないのだ。

 人間は、本来は家庭、企業、地域社会、国、国際社会といったコミュニティに貢献するように生まれてくる。このようなコミュニティはそもそも有機体であり、自己組織性があると言われている。ということは、人間はこのコミュニティの中で全体性と関係性を発揮して、そのコミュニティの繁栄のために力を尽くすように生きているのである。ところが、このコミュニティに貢献するという気持ちが薄らいでしまうと、そのコミュニティは内部崩壊を起こすのである。夫婦関係や親子関係が破綻して家庭崩壊するのは、これが原因であり、地域共同体が崩壊したと言われる所以は、これが要因となっている。企業が倒産するのも、同じ原因である。このアンケート結果を真摯に捉えて、若者も含めた人々の勤労意識や労働観を正しく導くための価値観教育を、文科省は目指すべきであろう。
間が悪い人 [2015年07月25日(Sat)]
 世の中には、何をやってもタイミングが悪いというのか、どんなケースでも満足の行くような結果を出せない人がいる。そういう人は、普通の人と比較すると、何かがずれているというのか、何をやっても上手く行かないのである。そういう人を、総称して『間が悪い人』と呼ぶことが多い。私の周りにも、そのように間が悪い人が沢山いる。こういう人は、何が悪いとか、能力が劣っているとかいう訳ではないのに、不思議なことにどうしても拙いことが起きることが多いのである。おそらく本人も原因が解らず、困っているだろうが運がないなあと思っていることだろう。

 そういう間が悪い人というのは、何をやっても結果が思わしくないことが多い。タイミングが悪いせいなのか、フライングみたいなことをしたり、時期を失したりして後手に回ることが多い。物事というのは、ベストタイミングというものがある訳で、その時期を上手く見極めないと、物事は上手く進まないのである。そのタイミングをどうしても外してしまう傾向がある人は、どういう訳か何度もそういうことを繰り返すのである。実に不思議なことであるが、非常に不器用でもあるのだ。周りから見ていると、何であのタイミングでするのかと、危なっかしいのであるが、本人はまったく気付いていないのである。

 さて、そういう間が悪い人は、何が原因でそうなっているのであろうか。タイミングをずらしてしまうとか、適確な選択肢を選べないというのは、何に由来しているのかを知りたいに違いない。こういう間が悪い人に共通なことは、まずは不器用でありさらには決断力がないというのか、何かを実施する際に迷ってしまうことが多い。つまり、一旦こうと決めたら、何が何でもやり遂げるという決断力と実行力があまり感じられないのである。そして、本人の自主性や自発性、さらには責任感や主体性も持ち得ないケースが殆どである。どんな結果になろうとも、すべての責任は自分で取るという強い決意が感じられないのも特徴的である。

 おそらくこのように間が悪い人というのは、単に運が悪いということだけではなく、本人のメンタルモデルに原因がありそうである。ここでいうメンタルモデルというのは、単なる思考の癖とか性格という意味だけでなく、もっと根源的な本人の生きる上での価値観や、思想哲学的な言動のパラダイムを含んでいる。だからこそ、間違ったタイミングや選択肢を取ってしまうという致命的な誤りを何度も繰り返すのであろう。そして、こういう間が悪い人に限って、その根本的な原因を追究することなく、ただ単に運が悪いとか周りの人々や環境のせいにしてしまっているのである。

 こういう間が悪い人は、人生を送る中で変な人と出会い苦労する。それは恋人だったり配偶者だったりするし、会社の上司や同僚、または嫌な部下だったりもする。恋人ならば別れれば済むのだが、配偶者になってしまえば簡単に離婚する訳にはいかない。会社の上司や同僚も自分で選べないし、部下だって基本的には会社が押し当てられるだけである。何故、こんな変な人と自分は巡り会う運命なんだろうと自分を呪うかもしれないが、それもこれもすべて自分のメンタルモデルが引き起こしているとするなら、自分の悲運を恨んでだけいられない。自分のメンタルモデルを変革すれば、劇的に運命は好転するのだから、運命を嘆いてはいられない。

 それでは、メンタルモデルをどのように変革できたら、「間が悪い人」を卒業できるのであろうか。マサチューセッツ工科大学(MIT)の上級講師であるペーター・センゲ氏は、メンタルモデルの変革はこのようにしなさいと助言している。氏は複雑系科学に根ざしたシステム思考の哲学を推奨しているが、簡単に言えば「全体性と関係性」を根幹にした価値観・思想・哲学を持つことだと論じている。人間は、どうしても自我の欲求に惑わされる。つまり、自分の損得や利害を優先させて物事を進めてしまうのだ。しかし、世の中の仕組みや法則は、常に全体最適を目指しているし、関係性によってそれが保証されているのである。それが最先端の科学により真実だと証明されている。私たち人間も、個別最適でなくて全体最適(人類全体の幸福追求)を目指して行動すべきなのである。その為に、他人との関係性を大切にして生きていくことが求められている。このような生き方が無理せず当たり前のように出来たならば、嫌な人とも出会わないし、間が悪い生き方からも解放されるのである。
結婚しない若者たちに苦言を呈する [2015年07月19日(Sun)]
 回りの男性を見回すと、独身男性が非常に多いことに驚く。会社の中でも、約3割から4割の男性社員が独身である。中にはバツが付いている社員もいるが、一度も結婚をしたことがない人が多い。ご近所でも独身の男性が多く目に付くし、子どもがまだ独身だと嘆いている友達も多い。それも40代や50代の独身が多いのである。20代の後半や30代前半なら、まだ本人の意思で独身を貫いているということもある。しかし、30代後半から40代の独身諸氏は、結婚願望がない訳ではないらしい。どちらというと、強いみたいなのだが、残念ながら良縁に恵まれだけのようだ。

 そういう男性は、職業もしっかりしているし収入だって人並みにある。勿論、中には例外もあって定職も持たずに親に寄生しているような男性もいるにはいるが、学歴や教養だって申し分なく、何不自由ない生活をしているのに、結婚できない男性が結構いるのである。実に不思議なことである。内閣府の調査によると、55%の若者が出会いのチャンスがないと答えているが、本当にそうであろうか。確かに、異性に対して積極的な態度を取れないという点はあるが、職場にだって異性との恋愛機会だってあるし、スポーツジムや趣味の世界でも出会いはあるみたいである。それなのに、恋愛に発展しないのはどういう訳だろう。

 独身男性が多いという理由は、どうやら女性側にありそうである。女性が恋愛や結婚を望まない理由のひとつに、驚くことが挙げられるという。結婚しても、女性にとって何のメリットもないからというのである。つまり、家事育児は女性に押し付けられ、さらに夫の面倒までみなくてはならない。好きな仕事や趣味までも制限され、自由に出歩けないし様々な行動が制限されてしまう。そんな人生を送るくらいなら、好き勝手に生きられる人生のほうが得だというのである。自分の結婚観が、損か得かで考えているという。実に情けない限りである。確かに、女性の自立という点では、今の男性の価値観からすると、結婚するとかなりの部分で制限されるのは間違いない。だとしても、あまりにも短絡的ではないかと思えるのである。

 そもそも、恋愛とか結婚というのは、何のためにするのであろうか。子どもを生み育てて、次代を担う人材や子孫を残すという大切な使命もあろう。皆が皆、独身を貫き通して子孫を残さなければ、たちどころに人類は滅ぶのである。しかし、恋愛や結婚、そして子育てをする真の理由は、人類学的、または形而上学的に考えれば、そんな低い価値観によるものではない筈である。人生を歩む中で、恋愛や結婚を経験するのは、もっと深い意味があるに違いない。神と呼ばれる存在があるとするなら、子孫を残すためだけに人間に男性と女性を作ったとは思えないからである。何かしら、人間そのものが存在する根源的な意味とリンクするとしか考えられないのである。

 この世界は、多様性によって成り立っているというパラダイムがある。この世にはまったく同じ植物・動物・モノ・組織・システム等々が存在しない。それは、それぞれの違いを深く認識し、美醜、善悪、愛憎、正邪等の相反する価値を自己に内包していることを悟り、それをこの世に生かしていくことが必要だからであろう。これらの多様性を認識するためには、人間として様々な人々と出会い、深く付き合い、関わり合い、多くの気付きと学び合いをして、自己成長しなくてはならない。そして、この学びを深く出来る機会がビジネスの場である。仕事というフィールドで出会う上司・同僚・部下との関わり合いから深く学べる。だが、それ以上に深い学びができる場がある。それが、異性との付き合い、とりわけ夫婦という関係である。この関係ほど、自己成長を促すものは他にない。

 夫婦関係というのは、実に難しい。お互いの自我が激しくぶつかる。だからこそ、お互いの嫌な自己を自分の自己に見つけ、激しい恨みや憎しみを感じるのである。そういう悲しく辛い経験を何度も何度も積み上げながら、自分の中にそのマイナスの自己を発見できるのである。そして、その嫌らしく恥ずかしく認めたくないマイナスの自己を自分の中に発見し認め受け容れることで、「真の自己」を確立していくものなのである。それは夫婦関係だけでなく、親子関係においても同じである。異性と恋愛せず結婚せず子育てもしないのであれば、人間として不完全なままに生きていくことになろう。真の自己を確立した人間ほど、大きな社会貢献をしていける。だとすれば、おおいに人は恋愛をするべきであろう。全体に貢献することが人間の存在する意味でもあるからである。
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