愛国心とナショナリズム
[2014年02月14日(Fri)]
愛国心という言葉から連想されたり同義語として誤解されたりするのが、ナショナリズムという言葉である。ナショナリズムというと、国家主義や国粋主義と訳されているが、愛国心がナショナリズムの高揚の為に利用されてきたという歴史があることも否定できない。その為なのか、愛国心という言葉が軍国主義や帝国主義につながるからと、教育現場では長い期間疎まれてきたのも事実である。特に日本教職員組合いわゆる日教組は、愛国心の教育を教育現場に持ち込むことを頑なに拒んできたし、君が代の斉唱や国旗の掲揚にも反対してきた。愛国心がナショナリズムと結びつくことを怖れた為と言われている。
このような歴史があるせいか、愛国心という言葉に対して、平和主義を尊ぶ人たちは拒否反応を覚えることが多い。確かに、戦前戦中は愛国心という言葉を、国家に対する忠誠心を国民に醸成する為に利用していた事実があり、愛国心という言葉を口に出すのが憚れる気がしてならない。だから、安部政権も愛国心という言葉よりも郷土愛というような言葉に置き換えて、国会答弁をしている。そこまで気遣いをしないと、やれタカ派だの右翼だのと非難されるからであろうが、愛国心という言葉はそんなに危うい言葉なのであろうか。西欧の人々に限らず世界中の人たちは、誰憚ることなく愛国心という言葉を使っている。どうして、日本人だけが愛国心という言葉を忌み嫌うのか、とんと解らない。
お隣の中国や韓国は、学校教育で徹底した愛国心の教育を行うらしい。しかも、反日のネガティブキャンペーンも含めて実施して、偏った歴史観の教育もされていると言われている。このような愛国心の教育も、ちょっと頂けない気がするが、日本の教育現場で愛国心について学ぶ機会をすべて排除するというのは、もっと頂けない。何故なら、国を愛する心を待たせないようにして、自分たちの過去の歴史を全否定することで、子どもたちに自己否定感を大きく醸成させてしまう危険があるからだ。実際、世界各国の中で愛国心を持たない比率が一番高いのが日本であり、子どもたちの自己否定感情が高いのもトップクラスである。それがすべてイコールではないとしても、大きく影響しているのは間違いないだろう。
自己否定感が低いのは、勿論愛国心がないことがすべての原因ではない。自我(エゴ)の克服を成し遂げて、真の自己確立という正常な精神発達をしていないからである。だとしても、自我を克服して自己確立をする際に必要なのは、自己を愛する心である。どんなに嫌な自己や恥ずかしい自己であっても、そんな自己も含めてすべて受け容れて認めて、それでも自分なのだとまるごと愛する心が必要なのである。日本における過去の侵略の歴史(違った歴史観もあるが省略するので了解願いたい)を、ことさらに自虐的に取り扱い、これでもかこれでもかと日本と日本人を苛め抜くような記述は、子どもたちに日本という国と日本人を嫌いにさせないだろうか。
それでも、日本人は世界平和に最大限の貢献をして、多くの恵まれない発展途上国に援助の手を差し伸べて、立派な日本人が海外でも活躍しているという歴史を教えることが、大切ではなかろうか。そして、過去の悲惨な歴史を乗り越えて頑張る日本や日本人のことに脚光を当てて、日本や日本人って素晴らしいなと思ってもらうことのほうが大事だと思う。そうして、日本や日本人が好きになり、やがては日本人である自分が好きになることの大切さをも学ぶことになろう。だから、愛国心ということを教えることは、何ら恥じることはないし、おおいに誇れる日本だと鼓舞してもいいと思う。
今の日本人は、愛国心もないばかりか、自己愛もそうだし、家族愛や愛社精神もなくなったと言われている。だから、自己愛の障害である人格障害も急増しているように感じられる。素直に、自分を愛し、家族を心から愛し、自分の会社を敬愛することをしたいものである。その為の第一歩として、自分の国を素直に愛する心を育む教育をしてもいいのではないだろうか。教育基本法に、国(郷土)を愛する心を育てる教育をしていくと宣言したのは、素晴らしいことだと思う。しかし、それがナショナリズムと結びつけるとか、権力者の体制維持、または過剰な戦力維持の道具として使われることのないように、切に願うと共に、そうならないように監視していく必要があることも付け加えたい。
このような歴史があるせいか、愛国心という言葉に対して、平和主義を尊ぶ人たちは拒否反応を覚えることが多い。確かに、戦前戦中は愛国心という言葉を、国家に対する忠誠心を国民に醸成する為に利用していた事実があり、愛国心という言葉を口に出すのが憚れる気がしてならない。だから、安部政権も愛国心という言葉よりも郷土愛というような言葉に置き換えて、国会答弁をしている。そこまで気遣いをしないと、やれタカ派だの右翼だのと非難されるからであろうが、愛国心という言葉はそんなに危うい言葉なのであろうか。西欧の人々に限らず世界中の人たちは、誰憚ることなく愛国心という言葉を使っている。どうして、日本人だけが愛国心という言葉を忌み嫌うのか、とんと解らない。
お隣の中国や韓国は、学校教育で徹底した愛国心の教育を行うらしい。しかも、反日のネガティブキャンペーンも含めて実施して、偏った歴史観の教育もされていると言われている。このような愛国心の教育も、ちょっと頂けない気がするが、日本の教育現場で愛国心について学ぶ機会をすべて排除するというのは、もっと頂けない。何故なら、国を愛する心を待たせないようにして、自分たちの過去の歴史を全否定することで、子どもたちに自己否定感を大きく醸成させてしまう危険があるからだ。実際、世界各国の中で愛国心を持たない比率が一番高いのが日本であり、子どもたちの自己否定感情が高いのもトップクラスである。それがすべてイコールではないとしても、大きく影響しているのは間違いないだろう。
自己否定感が低いのは、勿論愛国心がないことがすべての原因ではない。自我(エゴ)の克服を成し遂げて、真の自己確立という正常な精神発達をしていないからである。だとしても、自我を克服して自己確立をする際に必要なのは、自己を愛する心である。どんなに嫌な自己や恥ずかしい自己であっても、そんな自己も含めてすべて受け容れて認めて、それでも自分なのだとまるごと愛する心が必要なのである。日本における過去の侵略の歴史(違った歴史観もあるが省略するので了解願いたい)を、ことさらに自虐的に取り扱い、これでもかこれでもかと日本と日本人を苛め抜くような記述は、子どもたちに日本という国と日本人を嫌いにさせないだろうか。
それでも、日本人は世界平和に最大限の貢献をして、多くの恵まれない発展途上国に援助の手を差し伸べて、立派な日本人が海外でも活躍しているという歴史を教えることが、大切ではなかろうか。そして、過去の悲惨な歴史を乗り越えて頑張る日本や日本人のことに脚光を当てて、日本や日本人って素晴らしいなと思ってもらうことのほうが大事だと思う。そうして、日本や日本人が好きになり、やがては日本人である自分が好きになることの大切さをも学ぶことになろう。だから、愛国心ということを教えることは、何ら恥じることはないし、おおいに誇れる日本だと鼓舞してもいいと思う。
今の日本人は、愛国心もないばかりか、自己愛もそうだし、家族愛や愛社精神もなくなったと言われている。だから、自己愛の障害である人格障害も急増しているように感じられる。素直に、自分を愛し、家族を心から愛し、自分の会社を敬愛することをしたいものである。その為の第一歩として、自分の国を素直に愛する心を育む教育をしてもいいのではないだろうか。教育基本法に、国(郷土)を愛する心を育てる教育をしていくと宣言したのは、素晴らしいことだと思う。しかし、それがナショナリズムと結びつけるとか、権力者の体制維持、または過剰な戦力維持の道具として使われることのないように、切に願うと共に、そうならないように監視していく必要があることも付け加えたい。
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そして、本来は木々の根っこの部分である形而上学をまずもって教えるべきなのですが、今の文科省のキャリア官僚は形而上学の大切さを知らないばかりか、拒否をしています。そして、国立大学から哲学科は不要だから無くしてしまおうと考えています。困ったものです。教育のイノベーションが必要です。キャリア官僚に任せていたら、この国の行く末は危ういです。市民の力で、政治・教育・経済のイノベーションを断行しなければなりません。お力添いをお願いします。