富士山の入山料と世界遺産
[2013年07月27日(Sat)]
「一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」とは富士登山を言い表した惹句で、確かに言いえて妙である。私も一度は富士山に登ったが、余程のことがない限り二度目はないだろうと思う。やはり富士山はいろんな意味で日本一。不二の山と言えるように他にはないただ一つの山であり、高さと共にその秀麗な山容は、他に比較する山がないほど美しい。しかし、実際に登ってみると、荒涼とした登山道には見るべき花々や樹木もない。景色だって、これぞという大パノラマが広がる訳でもない。やはり、富士山は登るべき山ではなく、眺める山だと思う。そして、富士山は観光登山の対象ではなく、信仰登山の対象であるべきなのかもしれない。
その富士山が世界遺産に登録されたことで、富士山の登山客は確実に増えることだろう。登山をすべき魅力は少ないが、世界遺産というだけで一度は登ってみたいと思う観光客が気軽な気持ちで登るに違いない。しかし、富士山はそんなに甘くはない。実際に高山病に苦しんだり、体力がなくて断念したりする登山者も多い。怪我人や病人も数多く発生している。観光気分で、スニーカーやジーンズ姿で登るなんて無謀である。最近の山ガール・山ボーイのブームもあってか、登山の経験もなくていきなり富士山に登る馬鹿者も多いと聞く。トレランの対象として富士山を選び、弾丸登山と称して登る愚か者も多いと聞く。登ってみて始めて、その厳しさを味わうことになろう。いい加減な気持ちで登って欲しくない山である。
さて、その富士山の登山に対して、入山料を徴収することになるらしい。今夏は、あくまでも試行として、入山料1,000円を強制ではなくて協力金として頂くことになったという。その入山料収入を環境保護や登山道整備に役立てるらしい。この入山料徴収については、喧々諤々の論争が巻き起こっている。賛否両論が様々な媒体を通して繰り広げられている。そもそも、富士山が世界遺産に登録されたのは、あくまでも条件付きである。条件が整備されなければ、登録が取り消されることになるという報道はあまりされていない。今回の世界遺産登録は、文化遺産としての登録であり、信仰や芸術的価値としてのその文化を守るための措置が取られなければ、何年か後には登録が取り消されるのである。
世界遺産としての登録をこれからも続けていくには、富士山の自然環境保護や安全な信仰登山が出来るための様々な整備が必要で、当然その費用を賄わなければならない。その費用を入山料を徴収して宛てるというのは、利用者の費用負担という面から見たら正しい気がする。問題なのは、物見遊山で増える観光登山者である。世界遺産登録により鰻上りに増える観光登山者をどう減らすかが課題である。登山者の急増は自然破壊にもろに繋がる。し尿処理や廃棄物の問題、食事提供に伴う二酸化炭素排出の問題や登山者のマナー低下問題、そして登山道の整備が追い付かずに事故多発の恐れもある。富士講に代表される信仰登山の文化をどのように守るべきなのか、悩ましい課題が突きつけられている。
セブンイヤーズインチベットという映画の中で、西洋の登山家に対してチベットの女性はいみじくもこんなふうに語っている。『あなたたちは、頂上を極めることが目的で山を登るが、私たちは自我を捨てることが生きる目的なんです』ときっぱり言い切っている。本来、富士山に登る意味は、自らの穢れた自我を捨てて、真の自己を確立することにある。単なる頂上を極めるためや、友達や会社の人に自慢するという自己満足のために登るべきではないのである。富士山に登るというのは、もっと大切な意味があるのだ。
そもそも日本に登山という文化が栄えたのは、信仰や修行の対象として『山』が最適であったからである。山には神々や仏が住み、そこに謙虚な気持ちで訪ね、自分自身にある穢れた自我を脱ぎ捨てて、本来の浄らかな自己に生まれ変わる為に山に登ったのであろう。したがって、山に登るということは禊(みそぎ)であり、一度死んで生まれ変わる場所なのである。だから、信仰の山には登山道に賽の河原と呼ばれる場所があったり、白い死に装束で登ったりするのだ。富士山が世界遺産登録されたのは、山岳信仰という文化が栄えたところだからという理由である。ならば単なる観光登山だけではなくて、本来の山岳信仰という意味を深く考えて、自分自身の穢れを落とす為に、「六根清浄」と唱えながら厳かに登りたいものである。
その富士山が世界遺産に登録されたことで、富士山の登山客は確実に増えることだろう。登山をすべき魅力は少ないが、世界遺産というだけで一度は登ってみたいと思う観光客が気軽な気持ちで登るに違いない。しかし、富士山はそんなに甘くはない。実際に高山病に苦しんだり、体力がなくて断念したりする登山者も多い。怪我人や病人も数多く発生している。観光気分で、スニーカーやジーンズ姿で登るなんて無謀である。最近の山ガール・山ボーイのブームもあってか、登山の経験もなくていきなり富士山に登る馬鹿者も多いと聞く。トレランの対象として富士山を選び、弾丸登山と称して登る愚か者も多いと聞く。登ってみて始めて、その厳しさを味わうことになろう。いい加減な気持ちで登って欲しくない山である。
さて、その富士山の登山に対して、入山料を徴収することになるらしい。今夏は、あくまでも試行として、入山料1,000円を強制ではなくて協力金として頂くことになったという。その入山料収入を環境保護や登山道整備に役立てるらしい。この入山料徴収については、喧々諤々の論争が巻き起こっている。賛否両論が様々な媒体を通して繰り広げられている。そもそも、富士山が世界遺産に登録されたのは、あくまでも条件付きである。条件が整備されなければ、登録が取り消されることになるという報道はあまりされていない。今回の世界遺産登録は、文化遺産としての登録であり、信仰や芸術的価値としてのその文化を守るための措置が取られなければ、何年か後には登録が取り消されるのである。
世界遺産としての登録をこれからも続けていくには、富士山の自然環境保護や安全な信仰登山が出来るための様々な整備が必要で、当然その費用を賄わなければならない。その費用を入山料を徴収して宛てるというのは、利用者の費用負担という面から見たら正しい気がする。問題なのは、物見遊山で増える観光登山者である。世界遺産登録により鰻上りに増える観光登山者をどう減らすかが課題である。登山者の急増は自然破壊にもろに繋がる。し尿処理や廃棄物の問題、食事提供に伴う二酸化炭素排出の問題や登山者のマナー低下問題、そして登山道の整備が追い付かずに事故多発の恐れもある。富士講に代表される信仰登山の文化をどのように守るべきなのか、悩ましい課題が突きつけられている。
セブンイヤーズインチベットという映画の中で、西洋の登山家に対してチベットの女性はいみじくもこんなふうに語っている。『あなたたちは、頂上を極めることが目的で山を登るが、私たちは自我を捨てることが生きる目的なんです』ときっぱり言い切っている。本来、富士山に登る意味は、自らの穢れた自我を捨てて、真の自己を確立することにある。単なる頂上を極めるためや、友達や会社の人に自慢するという自己満足のために登るべきではないのである。富士山に登るというのは、もっと大切な意味があるのだ。
そもそも日本に登山という文化が栄えたのは、信仰や修行の対象として『山』が最適であったからである。山には神々や仏が住み、そこに謙虚な気持ちで訪ね、自分自身にある穢れた自我を脱ぎ捨てて、本来の浄らかな自己に生まれ変わる為に山に登ったのであろう。したがって、山に登るということは禊(みそぎ)であり、一度死んで生まれ変わる場所なのである。だから、信仰の山には登山道に賽の河原と呼ばれる場所があったり、白い死に装束で登ったりするのだ。富士山が世界遺産登録されたのは、山岳信仰という文化が栄えたところだからという理由である。ならば単なる観光登山だけではなくて、本来の山岳信仰という意味を深く考えて、自分自身の穢れを落とす為に、「六根清浄」と唱えながら厳かに登りたいものである。
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