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ブログを更新しました。 [2017年09月13日(Wed)]
勉強は誰のためにするのか?そりゃ自分の為ですよ。と言われて育てられてきました。その間違いに気付くのが、もっと早ければ…
http://ischia.ciao.jp/2017/09/13/%e6%95%99%e8%82%b2%e3%81%a8%e3%81%af%e8%aa%b0%e3%81%ae%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ab%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f/
『イスキアの郷しらかわ』を始動する [2017年08月25日(Fri)]
 長年の夢だった『イスキアの郷しらかわ』http://ischia.ciao.jp/をいよいよ指導することにしました。10年以上も前から、森のイスキアのような施設を作りたいと、ライフワークとして取り組んできました。しかしながら、仕事をしているとある程度の収入が確保されていますし、なかなか時間も取れないというのが実情でした。二兎を追うものは一兎も得ずの諺通りで、仕事中心になっていました。ましてや、不退転の決意や背水の陣に自分を追い込まなければ本気になれないというのも当然です。それで、今月末で会社を退社することにしました。もう、この道で進むしかないと自分を崖っぷちに追い込むことにしました。9月からは、『イスキアの郷しらかわ』に専念することにいたしました。

 佐藤初女さんをリスペクトして、『イスキアの郷しらかわ』と名付け、『森のイスキア』にあやかって癒しの施設としてオープンしたいと願っていました。その『森のイスキア』の佐藤初女さんは、昨年の2月に永遠の眠りにつかれました。その後、その遺志をついで森のイスキアを運営される方もいらっしゃらないみたいです。そんな状況ですから、心が疲れ心が折れてしまわれた方が癒される施設が必要とされていると認識しています。少しでも佐藤初女さんのお心に添いたいと思い、『イスキアの郷しらかわ』を始動することにしました。

 イスキアの郷しらかわは、福島県の東白川郡塙町の農村にあります。新幹線なら新白河駅から車で40分、東京から東北自動車道で約4時間くらいです。森のイスキアよりは遥かに近い場所なので、便利だと思います。大阪からは飛行機の便で福島空港へは2時間弱で、空港からは車で約50分です。イスキアの郷しらかわは、グリーンツーリズムを利用したヒーリングプログラムです。農業体験や自然体験を活用しながら、価値観の研修や自己マスタリーを学ぶ研修セミナーです。なお、詳しいことはウェブサイトhttp://ischia.ciao.jp/をご覧ください。

 なお、今までこのサイトでブログをアップしていましたが、今後はこのウェブサイトのブログページhttp://ischia.ciao.jp/%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0/でアップして参ります。今までと同じように、ご覧頂ければありがたいです。よろしくお願いします。
生活習慣病が公的保険制度を破綻させる [2017年08月15日(Tue)]
 健康保険制度と介護保険制度の存続が危うい。さらに、年金保険制度もその存続が危ぶまれている。日本の公的保険制度は、社会的な弱者救済制度でもあり、相互扶助制度として定着している。健康保険料の収入と国からの拠出金以上の医療費が多大に支出されていて、プライマリーバランスが崩れていると言われている。介護保険も同様であり、年々増加する介護サービスの対価支出に対して保険料収入が追い付かない状況が続いている。介護保険料は年々値上げされているし、健康保険料と国からの拠出金はこれから益々増大していくものと推測される。年金も同様であり、疾病等の影響で障害者に認定されて、障害年金を受給する被保険者も増加しているし、病気や障害で離職して年金保険料を納めない国民が増加していることも大きく影響している。

 最近、これらの公的福祉サービス、つまりは社会保障の財政破綻が近い将来に起きるのではないかと、マスコミ界で盛んに言われている。それが2025年問題である。今後このような公的サービスの支払いが激増して行き、2025年頃には保険料収入が追い付かず、公的な財政援助も枯渇してしまい、公的保険制度が破綻してしまうのではないかという危険性が指摘されている。あと8年後には、それが現実化するというものである。各種公的保険制度が破綻する理由は、実に様々な原因がある。超高齢社会という現実もあり、保険料収入不足もあるし、支出額の増加もあげられるし、資金運用が躓くケースもあろう。一番大きな原因は、各種保険による公的サービスを受ける人が増えたことと、受給額が増えたという理由があげられる。とりわけ医療費と介護費の増大は、保険制度の財政基盤を大きく圧迫している。

医療制度や介護福祉制度等の充実発展が、皮肉にもそのサービスを安易に受けようとする人を増加させている。そのサービスの質と量が向上することで、サービスの対価も上昇する。特に医療の高度化がもたらす医療費の増加は半端でない。夢の抗がん剤「オプジーボ」の登場によって、その高価な薬価の影響で医療の高騰が起きつつある。小野薬品に続けと、各薬品会社は高価な抗がん剤の開発に凌ぎを削るに違いない。医療技術も進化を続けていて、今までなら助からなったケースも延命治療が可能になり、医療費の高騰に拍車をかけている。生活習慣病も激増していて、やがて合併症を誘発して重篤な疾患で高度医療を受けて命だけは永らえて、やがて寝たきりになって介護サービスを受けるケースも少なくない。

 そもそも生活習慣病とは、自らの生活習慣に問題があって発症する疾病である。すべてがそうだとは言えないが、殆どの生活習慣病は予防できるのだ。正しい食生活と適度な運動と休養、さらにはストレス解消の努力を怠らずに生活していれば、生活習慣病は防げる。それが自堕落な生活や、煙草・過度のアルコール・ジャンクフード・過度の糖分や塩分そして脂質、ファストフードや多量の添加物が入った食物等の摂取等によって生活習慣病を発症しているケースが実に多い。なるべくしてなっている生活習慣病なのである。ある意味、自殺行為とも言える。生活習慣病になった自業自得のような人々を公的保険で援助するというのは、きちんとした生活習慣を実行している人にとっては許せない行為であろう。

 病院の外来待合室をのぞき見すると、多くの生活習慣病の患者さんが診察の時間待ちをしたり、投薬を待っていたりする姿を見かける。自らの生活習慣を見直して、病気を快癒させようなんて思って努力している人はあまり見かけない。生活習慣病の予防努力はせず、安易にクスリを飲んで症状を抑えようとする。西洋医学の薬は、あくまでも症状を抑える薬剤なのだから、完全治癒は見込めない。特に、生活習慣病の薬は飲み続ければならないし、どんどん強い薬になっていく。さらに薬の副作用により飲む薬は増えていく。そして、生活習慣病は悪化して行き、合併症も出てしまい、ついには寝たきりになり介護サービスを受けるようになる。これでは、2025年問題が起きるのは当たり前である。

 先天的な異常によって、高血圧や糖尿病などを発症するケースは仕方ない。しかし、自分の生活習慣によって引き起こされた生活習慣病に手厚い医療や介護のサービスをすることを、抜本的に見直す時期に来ているのではあるまいか。何らかのペナルティや保険料の自己負担に差を付けなければ、真面目に生活習慣病の予防に努めている人がやりきれない。自堕落な生活をしている人の為に、高い保険料や税金を支払わされるのは納得いかない。2025年問題を真剣に考えて、そのリスクを回避するには、官民一体となり生活習慣病の予防に努めなければならない。今までのように、生活習慣病になるのは仕方ないという考え方を根本的に改める時期に来ていると言えよう。公的保険制度を破綻させないためには、これしか方法がないだろう。
仕事のミスは何故起きる? [2017年07月18日(Tue)]
 仕事で間違いが起きる場合がある。それは、いろんなケースがあげられるが、殆どはケアレスミスやチェック漏れによるものである。こういう仕事のミスが起きると、管理者・上司は間違いを起こした本人を厳しく叱責することになる。あくまでも、仕事のミスは本人の問題だと考えるからである。ケアレスミスを起こすのは、集中力が足りないからだと責める。管理者は仕事に対する姿勢が悪いからだとか、責任感がないからミスが起きるのだと追及して、今後ミスが起きないように注意を怠らないようにと指導しがちである。確かに間違ってはいないけれど、こういう注意指導の仕方はあまり効果がないことを、会社の上司は知らない場合が多い。

 会社における管理者は男性のケースが多い。そして、その男性の上司は優秀だから出世しているのである。学歴や教養が高くて、仕事も出来る。中には、仕事が出来ないのに上司に対するごますりや迎合だけで出世するケースもあるが、評価が高くて仕事ができる優秀な社員が管理者になる場合が多い。その優秀な上司のエリート社員は、叱り方や指導の仕方がけっして上手ではないケースが少なくない。何故なら、自分を基準にして部下を叱るからである。自分ならばそんなミスなんか起こさないと思っているし、間違いを起こす社員を蔑んでいるからである。ミスを起こした社員の気持ちになり切って考えないし、ミスを起こした社員の心を深く洞察していないのである。ミスが起きたバックグラウンドにも目が行っていないのである。

 ケアレスミスはどんなケースでも起きるものである。何故なら、人間とはケアレスミスを必ず起こす生き物だからだ。どんな人間でも、ミスを絶対に起こさず完璧に仕事をこなすようなことはない。少なからず、ミスは起こすのである。そして、上司たるものは、そのことを先ず認識していなければならない。さらに、ケアレスミスを必要以上に糾弾したり、しつこく責めたりはならない。また、ペナルティを与えてもいけない。人事考課にもケアレスミスを評価の対象にしてはならないのである。勿論、手抜きをしたりわざと指示を無視したりした場合は、厳しい処置が必要だ。しかし、ケアレスミスを皆の前で叱ったり馬鹿にしたりすることは、絶対に避けなければならない。かえって、ミスを続発させるからである。

 仕事でミスを起こすのを管理者たるものは予想しておかなければならない。そして、そのミスをチェックするシステムを作っておかなければならない。一人の社員にすべての責任を負わせるようなことをしてはならないのである。仕事上における失敗の責任は上司たるものが負うべきである。部下が間違いを起こしたとしても、すべての責任は上司にある。それを見抜けなかった上司、ミスのチェックをするシステムを構築できなかった上司にあるのだ。さらには、部下がミスを起こさないように業務を遂行できるように指導できなかった上司にその責任があるのは明白なのである。それなのに、くどくどと部下を叱責するのは、上司として失格だと言っても過言ではない。

 さらに付け加えると、仕事のミスが起きるそもそもの原因は、単なるケアレスミスだけではないのである。社員がケアレスミスを起こす職場の背景や環境に注目すべきである。ケアレスミスを頻繁に起こすような職場は、間違いなく楽しくない職場であるし働き甲斐を感じない職場で、職場の人間関係が極めて悪いケースが殆どである。つまり、社員同士の関係性が悪いのである。職場の社員どうしがお互いに協力し合い支え合うような良好な人間関係が構築されている職場ならば、ミスは殆ど起きない。そして、上司の部下に対する思いやりや慈しみ溢れる言動が日常的にあるなら、部下はミスを起こさない。さらには、部下がミスを起こした際には、すべての責任を上司が背負って、部下をけっして責めない上司ならば部下はミスを起こさない。信頼し敬愛する上司を窮地に陥れたくないと思うから、部下はけっしてミスを起こさないぞと心に強く決意するからである。

 また、職場の人間関係だけでなく、会社の経営哲学または理念がしっかり社員全員に浸透しているならば、ミスは起きにくいものである。企業の経営理念として、『全体最適』の哲学がしっかりと根付いているならば、顧客やクライアントに迷惑をかけるようなミスは起きにくい。経営トップや幹部だけでなく、全社員にそのような哲学がしっかりと認識されていて、仕事を通して社会に対する貢献意識が全社員にあり、全社最適を実践しているならば、ミスは起きにくいのである。勿論、こういう企業は間違いなく繁栄もする。つまり、会社の社員どうしの関係性が悪くて、全社最適でなく個別最適の会社風土があるから、社員のミスが起きるのである。つまり、社員のミスはそんな会社風土を作り上げた経営トップと幹部にその責任があると言えるのである。一部の例外はあるものの、関係性を良好にして全社最適を企業哲学にすれば、ミスは格段に減少し仕事は上手く回るのである。
ネットで他人を批判したがる人 [2017年07月10日(Mon)]
 ネット上において、自分のSNSやツィッターなどで他人の批判を続けている人がいる。さらに、他人のSNS上においても平気で批判的なコメントを繰り返す、とんでもない輩がいる。政治家やキャリア官僚を批判するのであれば、ある程度常識を逸脱しない範囲なら、許せると思われる。しかし、自分の上司やパートナー、または一般人を批判するのは、あまり頂けない。ましてや、それを匿名でするというのは卑怯である。インターネットというのは、世界中の誰もが見れる場所である。特定の人物をそういう場で批判したり糾弾するというのは、いかがなものであろうか。また、自分の主義主張と違うブログや書き込みに対して、本気で反論するというのも大人気ないように感じる。

 西田敏行が、根も葉もないとんでもない噂を流されたとして、話題になった。アフィリエイトと呼ばれるネット上の広告収入を上げたいからと、まったくのデマを流して逮捕される事件まで起きている。ネットの世界では、フェイクニュースが当たり前のように流れているが、こんなケースは絶対に許せない。大国の大統領もフェイクニュースをツィートする時代だから、ある意味一般化しているのかもしれない。これらは、まだ自分のSNSやHPを利用しているのだから、自己責任ということが言える。しかし、ネット上で流されていることだからと、そのニュースソースの真贋を確かめずに、自分の主義主張に合うからと、他人の批判記事をリンクしてしまうのは如何なものか。また、他人のSNSやブログに対して、無礼な批判コメントを載せてしまうのは、頂けない。

 明らかにその記事や日記が間違っていて、科学的な根拠が世間一般的に定着しているのであって、その記事を書いた人の為に間違いを優しく諭してあげるのであれば、許されると思われる。しかし、物事をどのように認識するのかは人それぞれの価値観や哲学で変わるのだから、自分の価値観や考え方と違うからと、いちいちコメントで否定するというのは如何なものであろうか。その記事と違う自分の意見を述べるのであれば、自分のウェブサイトやSNSで意見を堂々と展開すべきである。他人のSNS上で持論を展開するのはマナー違反である。しかも、記事や日記を書いた人の人格までも攻撃するのは行き過ぎであろう。最近は、そういうとんでもない人間性攻撃が見受けられる。

 インターネットというのは、その匿名制が認められている部分がある。特に、SNSはフェイスブックを除いて、匿名で運営されている。そのせいもあるだろうが、どこのSNSにおいても、『サイト荒らし』が横行している。おかげで、折角楽しんでいたSNSから遠ざかるネットユーザーが多くなっている。何度も個人攻撃のコメントを記入されて、嫌な思いをさせられて、SNSを閉じてしまうのである。コメントを書いている本人は、攻撃するつもりはなくても、考え方や行動を否定されたら、自分の人間性まで否定されたように思うのは当然である。たかがSNSと言っても、それを生きがいにしている人もいるのだから、記事や日記を書けなくなってしまう無念さは、相当に大きいものと言える。

 このように他人のSNSやツィッターに対して、否定したり攻撃したりするようなコメントを書く人は、人格障害(パーソナリティ障害)の傾向が強い。自己愛性の人格障害が疑われる。他人の否定をすることで、自己を正当化しようと無意識下で願うらしい。何よりも、自分の高い評価や賞賛を求める傾向がある。リアルの社会である家庭や職場において、正当な評価を受けられないので、ネットの世界で賞賛を得たいのであろう。だから、他人の記事や日記に嚙みついて、持論を展開して、どうだ自分はすごいだろうと社会にアピールするのである。こういう人は、自分が否定されることを極端に嫌う傾向があるので、自分のSNSでは記事や日記をあまり書かない。差しさわりのない、攻撃されないような日記を書くが、情けないことに論理的で本格的な記事は書けないのである。

 こういう人間は、自分ではヒーローだと思っている。そして万能感が強く、自分はなんでも知っていて、相手の間違いを指摘してあげているんだと思っている。間違った理論をそのままにしていると、社会にとっては悪なんだからほっとけないと、正義感を振りかざしている。実に困った人なのである。このようなネットで他人を批判したがる人間は、実は強烈な自己否定感情の強い人で、他人から愛されていない人である。リアルの世界では、誰からも敬愛されない可哀想な人なのである。もし、自分のSNSの日記に噛みついてきた人間がいたら、まともに相手をしてはならない。リコメで相手に反論するような、無駄なことはしていけないのだ。即ブロックすべきであるし、コメントはすぐに削除しなくてはならない。自己愛性の人格障害は、益々攻撃性が強くなるので、無視するに限るのである。
良い処も悪い処もすべて好きになる [2017年07月07日(Fri)]
 湊かなえという小説家が好きだ。彼女の著作は、ミステリー仕立ての小説が多い。そのせいか、推理小説家だと思っている読者が多い。センセーショナルな傑作ミステリーも多い。映画化された「告白」「白雪姫殺人事件」、テレビ放映された「Lのために」「リバース」など、推理小説として多くの読者やファンから支持されている。さらに、「母性」という重いテーマを扱った小説も、謎解きを楽しむ推理小説としての性格も持っている。NHKBSで放映された「山女日記」もまた、秘密を解き明かす構成になっている。推理小説としての構成にこだわる訳ではないだろうが、ミステリー小説家として世に知られているのは間違いなさそうだ。

 しかし、私は単なるミステリー作家とは見ていない。どちらかというと、ヒューマンドラマの作家だという見方をしている。殺人事件や傷害事件を扱ってはいるが、そのバックグラウンドに存在する人間の深い心理を描いているからである。事件を起こすに至った犯人の心理、その加害者だけでなく被害者の家族など周囲の人々の背景が、克明に描かれている。それも、表層心理だけでなく、深層心理や潜在意識のような部分までも描いているのが特徴的である。小説の根底にあるのは、どうしようもない性(さが)に振り回される人間の愚かさである。だからであろうが、彼女の小説は読後感が爽やかなのは少なく、どちらかというと心にずしんと重しを乗せられるように感じるものが多い。

 湊かなえさんがNHKラジオに出演していた際に、何故小説を書くのかということをアナウンサーに訴えていた内容が印象的である。彼女は、現代の人々があまりにも自分の心と向き合っていないということを嘆いていた。つまり、本当の自分を見出していないばかりか、自分の本当の心を見て見ないふりをしているというのである。特に、自分の心の中にある闇をないことにしてしまっていると言うのである。自分のどちらかというと負の部分である、身勝手で自己中心的な自分、自分さえ良ければよいとする自分、欲深い自分、他人への愛よりも自己愛を優先させてしまうマイナスの自己である。それでいて、そんな恥ずかしい自己をないことにしてしまって、善人を演じている人間が実に多いというのである。だから、人間関係でとんでもない目に遭って、悩み苦しんでいるというのである。

 人間とは、善と悪が同居している生き物である。美しい心と醜い心もまた同様である。しかし、残念ながら多くの人々は、自分の心の中に悪や醜い心などのマイナスの自己は存在していないと思い込んでいる。自分の心の中に存在する悪をないことにしてしまい、偽善の生き方をしているのである。自分の悪の心や醜い心をないことにしたほうが、気が楽である。自分の心の闇を認め受け容れると自己否定感が強くなり落ち込むので、受け容れたくないのが人間である。ところが、心の闇を認め受け容れないと、他人を受容できないばかりか寛容になれない。その為に、人間として精神的自立が出来ないばかりか、他の人と良好な人間関係が作れない。当然、嫌われるし誰からも相手にされず孤独になる。

 恥ずかしくて醜い自分、身勝手で自己中な自分、誰も見ていない処では悪の心が表出してしまう自分、これらのマイナスの自己を自ら認めるには、どんなことがあっても揺るがず確かな哲学が必要である。真理に基づく信念のようなものである。殆どの日本人には、確固たる思想哲学が欠如している。欧米人は幼児期の頃から信仰を持つので、宗教哲学を発展させた理念を持つ。毎週訪れる教会では、自分の悪を神父さんや牧師さん相手に懺悔する。自分の悪や醜さを正直に告白することで、自分のマイナスの自己を認め受け容れ、精神的な自立が出来るのである。つまり、アイデンテティーの確立が可能になるのである。ところが日本人には信仰がなく、自己の確立が出来ていないのである。

 湊かなえさんは、そのことを自分の書いた小説によって、多くの読者に気付いてほしいと思っているに違いない。良い処も悪い処もどちらも含めて自分の中にあることを認め受け容れることが出来て初めて、本当にすべての自分のことをまるごと好きになれるのである。そうなれば、多少の苦難困難が自分にもたらされたとしても、乗り越えることが出来るのである。よく、自分のことを好きになりなさいとか、自己肯定感を持ちなさいと説く人がいる。しかし、それは簡単には行かない。自分のマイナスの自己を認め受け容れ、悪や醜さを慈しめるようにならなければ、真の自己肯定感は持ちえないのである。真の自己肯定感は、完全なる自己否定感を体験しなければ、持てないと思ったほうが良い。中途半端な自己否定感や自己肯定感は、人間としての真の自立を阻害してしまうので注意しなければならない。自分の中にある善悪のすべてを好きになれる自己の確立をしたいものである。
『小さな巨人』が面白い [2017年05月27日(Sat)]
 TBSの日曜日夜9時から放映されてタイル『小さな巨人』という刑事ドラマが人気を博している。今期の連続ドラマは刑事ものが多いが、その中でも群を抜いて面白い。ストーリーも奇抜だし、悪役も含めて演技派の俳優が迫真の表情で演じている。過剰演技と思わせるような目線が気になるが、それもまたこのドラマには必要なのかもしれない。今期の連続ドラマの中では、総合人気度ランキングでは断トツの成績らしい。この日曜日のこの時間枠は、過去にも大ヒットをした半沢直樹や下町ロケットの実績もあるので、視聴率を取りやすいということもあるが、それにしてもこんなに人気があるのはすごいことだ。半沢直樹と下町ロケットに似た設定も人気の理由であろう。

 この『小さな巨人』というオリジナル脚本のドラマが、こんなにも多くの視聴者から指示されるのはどういう訳であろうか。それには深い理由がありそうだ。一つは勧善懲悪という筋書きが安心して見られるということもあるし、最後は正義が勝つという期待感が損なわれないというのが大きな理由であろう。さらには、巨悪に向かう小さな巨人と呼ぶに相応しく、大きくて巨大な権力を持つ組織に敢然と立ち向かう主人公の潔さに、自分が果たせない夢を託しているという側面もあると思われる。警察組織というのは、縦社会である。上司に逆らえば、例え優秀であり多大な功績をあげても、出世が出来ない。実力本位の社会ではないのである。上に逆らわず無難な言動をしていれば、安定した地位と評価を得られる組織でもある。

 ところが、この長谷川博己演じるエリート刑事は、警察のエリート官僚に立ち向かい、正義を押し通そうともがき苦しむ。我々が会社組織の中で感じている閉塞感を、見事に代弁してくれるヒーローなのである。感情移入しないほうが難しいだろう。警視庁捜査第一課長を演じる香川啓之の演技は、過剰な顔面演技で泥臭いという批判がある。確かに、もう沢山だと思わせるような顔面アップ映像には辟易する。しかし、演出家は敢えてあのような過剰演技をさせることで、主人公の清々しい表情と対比させて好感度をアップさせているのではあるまいか。だとしたら、我々視聴者はまんまとその策略に乗っていることになる。

 刑事ものや探偵ものが今期の連続ドラマに多いにも関わらず、軒並み刑事ドラマが安定した視聴率を稼いでいる。今までの刑事ものは、固定ファンがその人気を支えていると思われる。しかし、今までの刑事ドラマと、今回の『小さな巨人』の内容では大きく違っている点がある。巨大組織に対抗するというスタンスは今までも沢山あったが、一線を画す大きな相違部分があるように感じる。推理の仕方に特徴があるのだ。主人公が推理に行き詰った際に、必ず言う台詞がある。それは、犯人の気持ちになって考えてみようという言葉である。このような台詞を毎回主人公に言わせている刑事ドラマは極めて珍しい。実は、このオリジナル脚本を書いている共同執筆者の一人、八津弘幸氏は半沢直樹と下町ロケットの脚本も担当している。台詞そのものが面白いのは当然である。

 半沢直樹と下町ロケットがあんなにも支持を受けたのは、原作の面白さによるのもあったが、それ以上に人気を得たのは、ストーリーのテンポの良さと台詞のユニークさである。今回の『小さな巨人』で特徴的な台詞は、まさに犯人の気持ちになって考えるという視点である。犯人が次にどう動くか、どのような心理で犯罪を起こしたのかを知らないでは、正しい推理は成り立たないし逮捕は出来ない。主人公は、犯人の心理を巧妙に読んでその行動を予測する。犯人にトラップを仕掛けて、見事に的中して犯人を追い詰める。こんな小気味のよい刑事ドラマなのだから人気が出ない訳がない。日本の警察は優秀だと言われている。しかし、年々犯罪検挙率は低下していると言われている。様々な要因はあるものの、もしかすると犯人の心理になり切って推理する刑事が少なくなっていることが、犯罪検挙率の低下を招いているのではなかろうか。

 この『小さな巨人』では、犯人の心理を予想すると同時に、被害者の気持ちに寄り添う主人公が描かれている。ストーカー殺人事件が起きる度に、担当する警官が被害者の気持ちになり切り寄り添っていたなら、悲惨な結果を防げたに違いないと報道されている。近代教育の欠陥でもあるが、高等教育を受ければ受けるほど、人の気持ちを解ろうとしない身勝手で自己中心的な人間になる。警察官僚も含めて、高等教育を受けたエリートが警察官として採用されている。当然、被害者の気持ちを慮ろうとする警察官も少ないし、犯人の気持ちを類推できない警察官が多くなっている。これでは、犯罪を未然に防げないばかりか、犯人の検挙率だって低下するに違いない。『小さな巨人』の主人公のように、日本の警察官たちも被害者の気持ちに寄り添い、犯人の心理を巧妙に読めるようになってほしいものである。武士道でいうところの「惻隠の情」こそが、警察組織全体に必要なのであるまいか。
ゴルフは脳科学と心理学NO.2 [2017年05月22日(Mon)]
 ゴルフは脳科学と心理学だという事を、右脳と左脳の調和という観点から説明し、無欲・無心・無我の心が大事だと説いた。それでは、無欲・無心・無我の境地に至る方法について考察してみたい。無欲・無心・無我になるには、どうしたら良いかというと、一番手っ取り早いのは、「禅」である。只管打坐(しかんたざ)と言われているように、ただひたする座禅をして、無心になることである。気をつけなければならないのは、私たちの意識というのは厄介なものであるという点である。例えば、無心になろうとか無欲になろうと思えば、それは有意識である。自分の心を無我にしようとしたら、それは有意識になる。座禅は、悟りを開く為にするのだと思えば、それは無意識ではなくなる。座禅をする目的は、ただひたすら無心で座禅をすることだけである。

 ゴルフにおいても無欲・無心・無我になろうとはせず、無意識でそうなっていることが大事なのである。人間は考える葦であると言ったのは、パスカルである。考えないようにすることが所詮難しいのであり、考えないようにすることが既に無心でなくなる。心理学の分野においても、無心になるというのがどれ程難しいかは、想像に難くないであろう。私たちは、欲がなくなると生きていけない。食欲や性欲、また勉学意欲や向上欲がなくなれば、人間という種は滅びるし、人間の成長は止まってしまう。ゴルフにおいても、向上心がなくなれば上達しない。パラドックスのロジックに追い込まれてしまうのである。この相反する命題を何とかクリアする方法はないのであろうか。

 ひとつの方法は、強欲を捨て去ることである。人間というのは、その時だけ生き方や考え方を変えることは出来ない。普段は強欲な生き方や煩悩に引き込まれるような生活をしていながら、ゴルフの時だけストイックな行動をしようとしても難しいのは当然である。普段からストイックな生き方をすることで、いざという時に強欲や煩悩に翻弄さられなくなる。勿論、完全な無欲の生活をすることは叶わない。そこそこの欲で満足するようにしなければならないであろう。人間の欲は肥大化しやすい。だからこそ、仏教では貪りの心を捨て去ることが大切だと説いている。普段から貪るほどの欲を捨て去るような生活をすることで、ゴルフで失敗を少なくすることが出来ると思われる。

 完全な無心・無我の境地に至ることは出来ないと思うが、無心・無我の境地に近づくことは出来るかもしれない。ゴルフの時に無心に近づけないのは、強欲のせいもあるが、それだけではない。無心になれない原因のひとつが、不安感・恐怖感である。思い出してみてほしい。右サイドがOBゾーンだと言われると、右にスライスしたり逆に左にひっかけたりする。池越えのホールでは、魅入られたように池にボールが吸い込まれる。それは、不安や恐怖からショットが乱れるからである。これも、右脳のせいである。グリーンに近いアプローチショットほど、だふったりトップしたりするのも、不安感からである。自信がないからヘッドアップする。人間は、不安感と恐怖感があり、失敗したイメージを思い浮かべると、その通りに右脳が身体を勝手に動かすものである。

 この不安感・恐怖感を失くすことは困難である。人間の脳は、不安感と恐怖感を持つことでリスクを避けることが可能になり、種を保存してきたのである。不安と恐怖を完全に払しょくすることは極めて難しい。しかし、脳科学的に考察すると、不安と恐怖を減少させる方法がある。幸福感と満足感、または愛で心を満たすことである。そうすれば、不安や恐怖をあまり感じなくさせることが出来るのである。脳内ホルモンの一種である、オキシトシンとセロトニンを多く分泌することで、不安や恐怖から逃れられる。オキシトシンとセロトニンは、純愛や心身の豊かな触れ合いでも増えるし、社会貢献や他人の幸福に大きな寄与をすることで増大する。

 さらにゴルフで右脳によるミスショットを失くす為のもうひとつの方法がある。それは、ゴルフでの失敗の記憶を消し去ることである。これも難しいことであるが、不可能ではない。人間は、大変な失敗や悲しい出来事の記憶ほど、消し去ることが出来ず度々思い出しては苦しむ。同じミスショットを何度もやってしまうのは、右脳に蓄えられたミスショットのイメージを思い出させるからである。何度もOBを繰り返すのは、右脳に残像が残っているからである。この右脳の記憶を左脳に移し替えることが出来たら、ミスを繰り返すことがなくなる。その為に効果的なのは、自分の失敗を多くの人にカミングアウトしたりブログで公開することである。そうすると、自分の失敗を客観的に分析したり洞察したりすることになり、右脳から左脳に記憶を移し替えられる。このように、脳科学と心理学、または仏教哲学を活用することで雑念を失くせれば、ゴルフは格段に向上するに違いない。
ゴルフは脳科学と心理学NO.1 [2017年05月22日(Mon)]
 ゴルフはメンタルスポーツだと言われているが、最近のゴルフは科学的なアプローチによって、ナイスショットする方法が解明されつつある。勿論、基礎体力や技術は必要なのは言うまでもない。しかし、いくら体力・知力や技能があってもゴルフは上手くならない。何故なら、ゴルフのスィングやパッティングは、潜在意識(無意識)の脳によって影響を受けるからである。しかも、人間の無意識脳は、時折わがままになるし暴走する。さらに、心にある不安感や恐怖感がいざという時に身体の微妙な動きを止めてしまう。だから、脳内ホルモンの働きを含めた脳科学と心理学を認識し、右脳を上手にコントロールした人だけが上達しうるのだ。

 実際、脳科学や心理学を知らないくてもゴルフが上手なアマチュアプレーヤーがいる。また、スランプを経験したことのないプロゴルファーだっている。そういう人は、どちらかというと右脳型人間である。あまり左脳を使わないというか、左脳に支配されない人間である。直感型人間と言えばよいかもしれない。アスリート界ではその代表的な人がいる。野球の長嶋選手である。彼は余計なことを考えなかった。来る玉をただ打ち返すだけだった。彼は、左脳にあまり支配されず、右脳を上手に使える天才である。だから、ゴルフもあまり左脳で考えずに、右脳を自由自在に使えたら、間違いなく上達できる。こういうゴルファーはストレスやプレッシャーにも強い。ここ一番という時に、能力を最大限に発揮できる。

 ところが、ゴルフを実際にプレーしている人は、どちらかというと右脳の使い方がけっして上手ではないのである。教養や学識が多いアマチュアプレーヤーが多いので、左脳のほうを使っているケースが多い。潜在意識が支配する右脳を上手く使えないから、スィングやパッティングで失敗する。練習場やパッティンググリーンでは上手く打てるのに、いざラウンドになるとミスを繰り返す。頭の良い人ほど、理論家である。左脳を使ってプレーするので、右脳に支配されてしまうシーンでは失敗しやすいのである。脳科学的で分析すると、バックスィングは右手で引くので、左脳が支配している。バックスィングから切り返す段階から、右脳が支配する。故に、スィングやパッティングにおいて、考えている軌道と違ってしまうのである。特に打球の瞬間に右脳が悪さをするのだ。

 思い出してみてほしい。パッティングで思わず引っかけたり押し出したりする。自分で考えたパッティングのように、手が動かない。無意識で、やってしまうのである。スィングも同じである。無意識で、右肩が下がりすくい打ちをして左に引っかける。真っすぐ打つことを重視するあまり、打つ瞬間に手打ちになりトップしたりソケットしたりすることになる。プロのゴルファーでさえ、優勝を決めるパッティングでは手が動かなくなる。やはり、無意識がそうさせてしまうのである。右脳を上手に使えるゴルファーだけが、トッププレーヤーとして大成できるのである。

 それでは、右脳を上手くコントロールするには、どうすればいいのであろうか。左脳と右脳をバランス良く調和させたり統合させたりする極意はないかというと、ない訳ではない。今まで女子プロゴルフ界で最強のゴルファーは誰かというと、アニカ・ソレンスタムであろう。彼女は、右脳を実に上手くコントロールしていた。スィングする場所を1m四方として、頭の中でそのエリアを線引きする。そして、スィングをするまでは色々と攻略の仕方やスィング軌道とボールの軌道をイメージする。しかし、その1m四方に入ったら、何も考えなかったという。つまり、無心・無我の境地になれたという。彼女の正確無比なショットは、技術もさることながらこのメンタルコントロールに追うところが大きかったと言われている。

 我々のようなアマチュアゴルファーは、右脳をコントロールする為に、無心・無我の境地に至れるかというと、なかなか難しい。今までのプレーを思い出してみれば解るが、ナイスショットやスーパーショットをした時というのは、殆どが無心になれた時である。スポーツの世界では、ZONEとも言う。欲もあるし、不安や恐怖感を捨て去ることが出来ないのが、我々凡人である。先ずは、強欲を捨て去ること、そして不安感や恐怖感を捨て去ることが肝心である。言うはたやすいが、実際に行動をするのは難しい。しかし、この強欲を捨てて、不安感と恐怖感を捨てることが出来なければ、いつまでも右脳のいたずらから脱却できないのである。右脳を上手にコントロール出来たら、驚くほどナイスショットが続くであろう。無心・無欲・無我の境地でゴルフプレーをしてみたいものである。
先生と呼ばれる人ほど低価値観 [2017年04月30日(Sun)]
 先生と呼ばれる代議士や大臣の不祥事が続発している。医師を目指している名門大学の医学生のレイプ事件が多発している。しかも、千葉大医学部では学生たちだけでなく30歳の研修医もこの卑劣な犯行に加わっていたというショッキングなニュースが報道されている。新潟県では原発避難者の子どもに、担任がいじめを庇うどころか一緒になってその子を「菌」呼ばわりしたという、教師としてあるまじき情けない行為の報道もされている。本来ならば、先生として尊敬されるべき存在なのに、か弱き女性や子どもを心身共に傷つける行為をするなんて考えられない。一人の男性として情けないし、人間としても許される行為でない。こんなにも低レベルの人格を持った教養高き人物が、日本にこんなに存在するなんて信じられない。

 先生というのは本来、人々が一目も二目を置く、尊敬されるべき存在である。医師、教師、議員、弁護士、芸術家、文芸家など、高学歴で教養の高い人が先生と呼ばれる。当然、高い人格も要求されるし、地域の名士として各界で活躍している。少なくなくても、明治から昭和の初期くらいまでは、このような先生が不祥事を起こすようなことは極めて稀であった。人々から信頼される高邁な人格と高い価値観を持っていた。当然、職業としての社会貢献だけでなく、地域社会でも大きな貢献をしていて、人々が憧れるような存在だった。ところが昭和の戦前戦後から昭和後期と平成になると、先生と呼ばれる人たちは以前とは違った低い価値観に支配されるようになり、尊敬されるような先生が極めて少なくなったのである。

 しかも、先生と呼ばれるような人のほうが低学歴で教養のない人よりも、低レベルの思想哲学を持つようになったのである。そもそも思想哲学というものを持ちえない先生が多いような気がする。その証拠に、人生の正しい目的を持ちえない先生が増えている。または、正しい理念や使命感を持ちえない先生が急増している。真理(法理)に基づいた思想哲学を持てない人は、正しい人生の目的を持ちえない。明治初期に日本にやってきた欧米人は、当時の日本人の高い価値観に驚き、人間として信頼して尊敬した。ところが、現代の日本の政治家・高級官僚・経済人は、欧米人から尊敬されないばかりか軽蔑さえされている。形而上学的観点を持てず、自分の損得や自国の利益しか考えない日本人を心の中で馬鹿にしていると言われている。

 何故、日本人はこんなにも価値観が低レベルになり、正しい思想哲学を持てなくなったのであろうか。それも、先生と呼ばれる高学歴で教養の高い人ほどその傾向が強いというのは不思議である。それは、教育の貧困が招いたと言える。確かに、日本人の学力は世界でも有数のレベルにある。しかし、先生と称される人の思想哲学は貧弱であり、ましてや形而上学的な考え方を持った人物は皆無に近い。明治維新以降の近代教育によって、形而上学を完全に排除して、客観的合理性に基づいた科学万能主義を取り入れたからである。おかげで自分さえ良ければいい、自分の利益と幸福だけを追い求める、非常に低劣な価値観に支配されたのである。高等教育を多く受けた人ほど、低レベルの価値観を持つのは、ある意味当然なのかもしれない。

 勿論、先生と呼ばれる人でも立派な価値観を持ち、人々の幸福と豊かさに貢献している人も少なくない。そういう人は、親から正しい思想哲学をしっかりと教え導かれた人である。近代教育に毒されなかった人もいるのだ。そういう人が、ノーベル賞などを受賞する、大きな社会貢献をする科学者であり、教育者である。アインシュタインが、科学を志すものは形而上学の視点に立って研究すべきだと唱えていた。まさしく、先生と呼ばれる人は形而上学的な認識を持つ必要がある。欧米の人文科学や自然科学の研究界で行き詰った時に、京都学派と呼ばれる西田幾多郎先生が説いた仏教哲学を学ぶことにより、救われたという歴史がある。科学の研究発展とその社会利用には、形而上学的な視点が欠かせないのである。

 古くは新渡戸稲造が、「武士道」を著して、世界に衝撃を与えた。あの武士道の中で注目されるべきものが、『惻隠の情』である。弱くて小さき者、敗者の心に共感し、けっして勝者のおごりを持ってはならないと説いた。か弱きもの小さきものに対する、限りない敬愛と慈悲の心こそが、社会的強者や勝利者に必要なものだと説いている。今回の医師と医学生によるレイプ事件や大臣の舌禍事件は、彼らにこの惻隠の情を教え導く本当の師がいたとしたら、起きなかったであろう。先生と呼ばれる者なら、まずは新渡戸稲造の『武士道』を読んで、惻隠の情を身に付けてほしいものである。日本の学校教育に、このような武士道の心や形而上学を復活させてはどうだろうか。人間として恥ずべきこんな行為を、二度と起こさせないためにも。
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