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裏山で剪定作業 [2013年11月30日(Sat)]
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 例年、裏山の梅の木の剪定は9月頃に行っていますが、今年は何かと行事が重なって実施が遅れてしまいました。
 傍に植えているイロハモミジやイチョウの葉も色づき、イチョウは散り始めています。次の写真は、剪定作業中に脚立の上から撮ったものです。
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Posted by katakago at 16:37
来年の万葉植物カレンダー [2013年11月25日(Mon)]
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 来年の万葉植物カレンダーが出来あがりました。企画・制作はつらつら椿株式会社(代表 岡本三千代さん)で、植物の写真は私が自前の植物園で撮影したもの(素人写真ではありますが)を使用していただいているもので、今回で4年目となります。
 各月の植物と万葉歌を掲載しておきます。

1月 すぎ スギ(すぎ科)
 古の 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は来ぬらし (I-1814)
2月 つばき ヤブツバキ(つばき科)
 三諸は 人の守る山 本辺には あしび花咲き 末辺には 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く子守る山 (L-3222)
3月 つぎね ヒトリシズカ(せんりょう科)
 つぎねふ 山背道を 他夫の 馬より行くに 己夫し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背 (L-3314)
4月 なし ナシ(ばら科)
 梨棗 きみにあは継ぎ 延ふ葛の 後にも逢はむと あふひ花咲く (O-3834)
5月 あふち センダン(せんだん科)
 ほととぎす 楝の枝に 行きて居ば 花は散らむな 玉と見るまで (P-3913)
6月 ねぶ ネムノキ(まめ科)
 昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ (G-1461)
7月 わすれぐさ ヤブカンゾウ(ゆり科)
 忘れ草 我が下紐に 付けたれど 醜の醜草 言にしありけり (C-727)
8月 たはみづら ヒルムシロ(ひるむしろ科)
 安波をろの をろ田に生はる たはみづら 引かばぬるぬる 我を言な絶え (M-3501)
9月 いちし ヒガンバナ(ひがんばな科)
 道の辺の いちしの花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻は (J-2480)
10月 ぬばたま ヒオウギ(あやめ科)
 居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも (A-89)
11月 やますげ ジャノヒゲ(ゆり科)
 山菅の 実成らぬことを 我に寄そり 言はれし君は 誰とか寝らむ (C-564)
12月 むろのき ネズ(ひのき科)
 磯の上に 根延ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか (B-448)


 2014年万葉植物カレンダーは、つらつらつばき株式会社(TEL:06-7501-7503)で販売しています(私の所にも若干の手持ちはありますが)。
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Posted by katakago at 11:10
飛鳥京跡苑池の第8次調査現地説明会 [2013年11月24日(Sun)]
 11月21日(木)の朝刊には、「飛鳥京 五角池に曲線の島」(朝日新聞)、「日本庭園の元祖? 全容解明 奈良・飛鳥京跡苑池の南池」(日経新聞)の見出しの記事が出ていました(いずれも社会面)。この飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村、7世紀後半の遺跡)は、1999年に見つかり、これまでに南北二つの人工池や噴水用石造物が出土しています。2010年度より、史跡・名勝飛鳥京跡苑池の保存整備・活用事業が始まっており、現在、苑池の整備復元にむけた発掘調査(第8次)が行われています。
 今日はその現地説明会があり、明日香村まで出かけて来ました。今回の説明場所は南池(南北約55m、東西約65m)の発掘現場で、橿原考古学研究所の発掘担当者から準備されたパネル(写真掲載)前で説明を聴きました。五角形の池の中に、東西約32m、南北約15m、高さ1.3mの中島が確認され、松の根も見つかっています。池の中で見つかった柱の上下の色の違い(写真参照)より、水深は約30cmであったとみられています。南池の南東の高台上では、掘立柱建物が2棟検出されており、苑池を上から眺めるための施設であったと考えられています。
 この飛鳥京跡苑池は、宮殿に付属する庭園として造られており、飛鳥時代の天皇が饗宴や祭祀を行う際に使用された特別な施設と考えられています(現地説明会資料より)。
 
 飛鳥京跡苑池は、今後平城京の東院庭園のように整備復元されるようです。

 現地説明会会場(説明開始の10時前には大勢の方が来られていました)
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 南池の全景(右後方は甘樫丘)
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 説明パネル
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 パネル前で担当者から説明
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 南池の中に作られた中島で見つかった松の根(写真中央の係員のいる処)
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 池の中から見つかった2本の柱(柱の途中で変色)
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 出土した須恵器類
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 苑池のイメージ図(橿原考古学研究所作成のパネルより)
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Posted by katakago at 18:06
カニと温泉の一泊旅行 [2013年11月22日(Fri)]
 日本海のカニ漁の解禁にあわせ、旅行会社のツアーのチラシが目立つようになりました。先日、ジパング倶楽部の企画旅行で京都府京丹後市丹後町間人に出かけて来ました。以前に日帰りのバス旅行で訪れたことがありますが、その時味わったカニをもう一度食するのと、温泉もゆったり楽しめるように一泊しました。この地の目玉は間人ガニ(たいざがに)です。間人ガニは、京都府の最北端経ケ崎の沖合を漁場として間人(たいざ)港に水揚げされるズワイガニに与えられた名前です(緑色のタグが目印)。夕食は間人ガニのフルコース(カニ刺し・茹でガニ・炭火焼・甲羅蒸し・カニみそスープ・カニすき・カニ雑炊)を賞味しました。
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 ところで、地名の間人(たいざ)に関しては、次のような伝説・伝承があります。丹後町古代の里資料館の展示図録には、『丹後旧事記』や『間人濫觴記録』(弘化三年)などの文書から、次のように紹介されています。6世紀末、仏教に対する立場の違い、皇位継承問題をめぐって蘇我氏・物部氏の争いが生じた時、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇の皇女で用明天皇の皇后)は乱をのがれて、この大浜の里に逃れる。その乱もおさまり大和へ帰るが、この皇后の名をつけて、間人と名づける。読み方は、「はしひと」と呼ぶのは恐れ多いということより、大浜の里を退座したということで「たいざ」と名づけた、とあります(『記紀』には見られませんが)。

 丹後町間人の立岩(写真左)と穴穂部間人皇后と聖徳太子母子像(写真右)
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 立岩は周囲1km、高さ20mの柱状節理の安山岩で、丹後を代表する絶景の一つとされる。


 京丹後市網野町網野および浅茂川には浦島伝承が伝わっています。写真は浅茂川港に隣接する小さな丘にある嶋児神社(小さな祠ですが)。 
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 なお、浦島伝説は、今回訪れていませんが、与謝郡伊根町本庄に伝わるものが起源が最も古いといわれ、この地の宇良神社には浦島の絵巻物といわれるものが残っているそうです。
 『日本書紀』雄略天皇二十二年条に、「秋七月に、丹波国余社郡(よざのこほり)管川の人水江浦島子(みづのえのうらのしまこ)、舟に乗りて釣し、遂に大亀を得たり。便ち女(をとめ)に化為(な)る。是に浦島子、感(め)でて婦にし、相逐ひて海に入り、蓬萊山(とこよのくに)に到り、仙衆に歴(めぐ)り覩(み)る。語は別巻に在り」とあります。また、『丹後国風土記逸文』与謝の郡の条に、筒川の嶼子(しまこ)として出て来ます(これ、謂ゆる水江の浦の嶼子という者なり)。

 『万葉集』巻九には、題詞に「水江の浦の嶋子を詠む歌」とある高橋虫麻呂の長歌と短歌が載せられています(H-1740,1741)。ただし、虫麻呂の歌では場所が住吉、時期は春であり、丹後の国の伝説では亀の姿で現れた神女を、最初から神女の姿で舟に乗っていて出会ったかのような表現となっています。『萬葉集全歌講義』によれば、「恐らくはもとの形を知っていながら、虫麻呂は、天平時代の貴族の嗜好にあわせてあらためたのであろう」とあります。
Posted by katakago at 14:40
マユミの実 [2013年11月19日(Tue)]
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 マユミ(にしきぎ科)の実がはじけて、中から赤い種が見えるようになりました。万葉歌には、眞弓(弓を褒めた語)のほか、弓材として適している植物の檀が詠まれています。次の歌は植物の檀が詠まれたものです(巻七の比喩歌に分類)。
【歌】南淵の 細川山に 立つ檀 弓束巻くまで 人に知らえじ (F-1330)
【口語訳】 南淵の 細川山に 立つ檀の木 弓に出来あがるまで 人に知られないようにしようね
 この歌では檀は恋する女性の比喩で、解説は次のURLに載せています。
      ↓
 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/231


Posted by katakago at 11:30
水たぎつ吉野宮滝ウォーク(11/17 万葉の大和路を歩く会) [2013年11月18日(Mon)]
 昨日(11/17)は、「万葉の大和路を歩く会」の第426回目の歩く会(吉野宮滝)が開催され参加しました。以前にも書きましたが、吉野は万葉集を学び始めて最初に訪れた故地です。退職後関西に戻ってからも吉野へは何度か訪れていますが、今回のコースは、49年前の学生時代に初めて参加した犬養先生の万葉旅行の時とほぼ同じで、その時の追体験ともなる小旅行でした。
 近鉄吉野駅(集合10:00)→ 金峯山寺蔵王堂 → 桜本坊(ここで昼食)→ 稚児松地蔵 → 喜佐谷・・・象の小川 → 桜木神社 → 宮滝 → (バス) → 近鉄大和上市駅(到着17:00頃)
 今回の講師は影山尚之先生(武庫川女子大学教授)で、コースのポイント毎で解説をしていただきました。

 このコースで足元を注意しなければならないのは、稚児松地蔵から喜佐谷を下って行く所ですが、今回不安材料が一つありました。3日前に三輪山登拝した際に、下山を急いだためか(用意されていた竹の杖は使用したが)左膝を痛め前日まで様子を見ていました。最終的には、膝にサポーターを着用しステッキを準備して出かけることにした次第です。案の定、喜佐谷を下る道は濡れており滑り易くなっていましたが、ここではステッキが役立ちました。幸いにも足を引きずることもなく全行程を無事終えることが出来ました。以下スナップ写真と万葉歌をいくつか掲載します。
 
 紅葉し始めた木々を眺めながら山道を登る(ロープウェイには乗らずに)
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 桜本坊では影山先生による昼食前の小レクチャー
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 稚児松地蔵を目指して午後のウォーク開始
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 途中(吉野山弓場)で一休みと解説、金峯山寺蔵王堂を遠望
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 象谷(喜佐谷、きさだに)の途中で一休みと解説
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【歌】 昔見し 象の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも (大伴旅人 B-316)
【口語訳】 昔見た 象(きさ)の小川を 今見ると いちだんとすがすがしく なってきたことよ

 桜木神社境内で影山先生による説明の様子(神木のスギは樹齢7〜800年とも言われる)
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 境内にある山部赤人の万葉歌碑
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【歌】 み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも (E-924)
【口語訳】 み吉野の 象山(きさやま)の谷間の 梢には こんなにもいっぱい鳴き騒いでいる 鳥の声々よ

 柴橋から吉野川下流を望む
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【歌】 山高み 白木綿花に 落ち激つ 滝の河内は 見れど飽かぬかも (笠金村 E-909)
【口語訳】 山が高くて 白木綿花のように 激しく渦巻き流れる 滝の河内は 見飽きることがない
【歌】 皆人の 恋ふるみ吉野 今日見れば うべも恋ひけり 山川清み (F-1131)
【口語訳】 皆の人が 慕う吉野に 今日来てみると 慕うのも無理はない 山も川も清いから

 宮滝付近の吉野川大岩盤に降りて影山先生の解説を聴く
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【歌】 馬並めて み吉野川を 見まく欲り うち越え来てそ 滝に遊びつる (F-1104)
【口語訳】 馬を連ねて み吉野川が 見たくなり 山を越えて来て 滝に清遊した

 同じ場所での49年前の記念写真(昭和39年7月の犬養先生の万葉旅行で)
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 この時は10〜20代の学生が90名ほど参加しました。現在ではこのような若者の参加の光景は全く見られなくなってしまい残念です。


吉野宮滝万葉旅行の関連記事は次のURLに載せています。
       ↓
 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/233
Posted by katakago at 17:35
大神神社の酒まつりと三輪山登拝(11/14) [2013年11月15日(Fri)]
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 昨日は大神神社で醸造安全祈願祭(酒まつり)が行われました。先月、橿原考古学研究所付属博物館の秋季特別展「美酒発掘」を見に行った折、この「酒まつり」の開催を知り出かけて来ました。新酒の仕込みを迎えるこの時期の恒例の行事だそうです。

 大神神社と酒造りの関係については、『日本書紀』崇神天皇八年条に次のような記事があります。「八年の夏四月の庚子の朔にして乙卯に、高橋邑の人活日(いくひ)を以ちて大神(おほみわ)の掌酒(さかびと)とす。冬十二月の丙申の朔にして乙卯に、天皇、大田田根子を以ちて大神を祭らしめたまふ。是の日に、活日自ら神酒(みき)を奉げ、天皇に献る。仍りて歌(うたよみ)して曰く、此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久 といふ。如此歌して神宮に宴す。」 

 拝殿には、新しい大きな「志るしの杉玉」(直径1.5m、重さ150kg)が飾られていました(前日に取り付けられたそうです)。
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 10時30分に始まる神事の前から境内では樽酒がふるまわれていました。
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 神事の様子は拝殿前から見学しました。宮司の祝詞奏上に続き神楽が奏されました。
 神楽に先立ち神酒が供えられます。
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 四人の巫女が杉の葉を持って「うま酒みわの舞」を奉納
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 『日本書紀』崇神天皇条に出てくる歌謡の歌碑(揮毫は故和田嘉寿男先生) 
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【歌】 此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久 (15)
【口語訳】 この神酒は私が醸造した神酒ではありません。倭国を造られた大物主の醸造された神酒です。幾世までも久しく栄えませ、栄えませ
「酒まつり」の神事で奏される神楽「うま酒みわの舞」は、この歌を神楽としたものと言われています。

 活日(いくひ)神社(大神神社の摂社)
大物主に奉げる酒造りを命じられた高橋邑の活日を祀る(杜氏の祖先神として酒造関係者の信仰が篤い)
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 神事が終わってから、大神神社の神体山である三輪山に登拝しました。山の辺の道にはこれまで何度か訪れ大神神社にも立ち寄っていましたが、三輪山にも一度登ってみたいと思っていました。狭井神社(大神の荒魂を祀る)で申し込み、三輪山参拝証の襷を掛けて登拝しました。標高467.1mの山で上り下り約4km、往復2時間程でした。途中(364.5m)に中津磐座と頂上に奥津磐座がありました(山中での写真撮影は禁止されています)。最近パワースポットとしても注目されているのか、若い女性の登拝者も目立ちました。
 なお、三輪山山麓の「山ノ神遺跡」からは、酒の神を祀る祭儀に用いられたと推定されるミニチュア土器も出土しています。関連記事は次のURLに掲載しています。
    ↓
 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/714


Posted by katakago at 13:14
ミカンの収穫が始まりました [2013年11月13日(Wed)]
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 果樹園では、クリ・カキに続きミカンが収穫できるようになりました。早生の温州ミカンから始まり、デコポン・八朔・オレンジ系ミカン・甘夏柑等がこれからです。
 収穫した一部は子供たちにも送ってやりましたが、生食の他、スロージューサーで100%果汁のジュースにもしてみました。
 スロージューサーの関連記事は下記のURLに載せています。
        ↓
 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/533

Posted by katakago at 13:50
尺八定期演奏会に出演(11/10) [2013年11月11日(Mon)]
 昨日(11/10)、兵庫県立芸術文化センター(阪急中ホール)で都之雨社の定期演奏会があり、全員による「千鳥の曲」の演奏に参加しました。プログラムの表紙には昨年の写真が載せられています(私は後列右端)。
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 一昨年の都之雨社創立90年の演奏会で、「八千代獅子」を全員暗譜で演奏したのに続き、今回は、「千鳥の曲」を全員で暗譜で演奏しました(尺八34名、箏は本手6名、替手3名)。十数分ほどの曲を覚えるのに、年初から300回以上練習してきました。このような機会が設定されないと1曲をこれほど練習することは無かったと思います。来年の日程も決まっており(10/5)、これからまた新たな挑戦が始まります。

 安政2年(1855)に吉沢検校によって作曲された「千鳥の曲」について、プログラムから下記に転載しておきます。
 江戸時代において三味線中心の地歌の世界に対し、箏の復権を目指し幕末に「古今組」と呼ばれる作品(千鳥の曲・春の曲・夏の曲・秋の曲・冬の曲)を作曲しました。これらの曲には雅楽の調絃から発想を得て新しく古今調子を考案し、優雅な旋律を作曲されました。前歌に「古今和歌集」、後歌に「金葉和歌集」から千鳥を歌った和歌を用い、手事では波や千鳥の鳴き声を象徴的に描写する方法が用いられています。


Posted by katakago at 16:07
式年遷宮の伊勢神宮を訪ねて(11/9) [2013年11月11日(Mon)]
 この週末は行事が続きました。11月9日(土)は、毎日文化センターで受講している「万葉の講座」の半期に一度の現地講座で、講師の市瀬先生の案内で伊勢神宮を訪ねました。

 伊勢の国に関し、万葉歌では、持統天皇が天武天皇崩御後8年目の御斎会の夜の夢の中で詠んだと題詞に書かれた次ぎの歌があります。
【歌】 明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も なみたる波に 塩気のみ かをれる国に うまこり あやにともしき 高照らす 日の皇子 (A-162)
【口語訳】 飛鳥の 清御原の宮で 天下を お治めになった (やすみしし) わが大君の (高照らす) 日の御子である先帝は どのように お思いになってか (神風の) 伊勢の国は 沖の藻も なびいている波に 潮の香が 立ちこめている国に (うまこり) たまらないほどお逢いしたい (高照らす) 日の御子
 壬申の乱(672年)に際し、大海人皇子(後の天武天皇)は伊勢の神風に援けられ勝利を得た。大海人皇子の挙兵後吉野から伊勢路を経た時の行路には、妃の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)も夫大海人皇子に従っており、「神風の伊勢の国」はそこからの連想があったとみられています(岩波文庫『万葉集(一)』)。
 「神風の」は伊勢にかかる枕詞で、伊勢の大神のいます国で、風の激しい国であるところからかかるとされる。記紀歌謡中の久米歌(記13、紀8,78)のほか、垂仁紀25年条の伊勢神宮の起源を伝える記事や、『伊勢国風土記逸文』にも見え、万葉以前から伊勢に冠する賞辞として用いられたとみられています(『萬葉集全歌講義』)。

 今回訪問の伊勢神宮は、万葉以前の『古事記』、『日本書紀』、『伊勢国風土記逸文』の世界です。日帰りで巡ったのは次のルートです。
五十鈴川駅集合(11:00)→(バス)→伊勢神宮内宮参拝(11:30)・おかげ横丁で昼食→猿田彦神社・佐瑠女神社参拝(13:40)→(徒歩)→月讀宮参拝→(バス)→伊勢神宮外宮参拝・せんぐう館見学→伊勢市駅(16:30)

 伊勢神宮は、天照大神を祀る皇大神宮(内宮)と、食事等を司る豊受大神を祀る豊受大神宮(外宮)の両正宮、さらには別宮、摂社・末社、所管社の計125社の総称で、今年は62回目の式年遷宮が行われました(新正殿に御神体を移す遷御の儀は10/2に内宮、10/5に外宮で行われた)。この二十年に一度の式年遷宮では、宮処(御敷地)を改め、古例のままに御社殿や神宝をはじめ一切が一新されます(全てを清らかにあらためることにより、国も人も共に若返るとされる)。

 『日本書紀』垂仁天皇二十五年条に、「天照大神を豊耜入姫命より離ちまつり、倭姫命に託けたまふ。爰に倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の筱幡に詣り、更に還りて近江国に入り、東美濃を廻り、伊勢国に至る。時に天照大神、倭姫命に誨へて曰はく、『この神風の伊勢国は、則ち常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。是の国に居らむと欲ふ』とのたまふ。故、大神の教の随に、其の祠を伊勢国に立て、因りて斎宮を五十鈴川の上に興てたまふ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。」とあります。

 以下訪問場所の写真を掲載しました。

 内宮の宇治橋鳥居(宇治橋では大勢の参拝者が列をなしていました)
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 五十鈴川御手洗場
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 真新しい正宮へ参拝 
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 遷御が終わった後のこれまでの正宮(20年経つとかなり傷みが目立ちます)
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 内宮前のおかげ横丁(大勢の人ごみの中昼食場所を求めて散策) 
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 皇大神宮別宮月讀宮(市瀬先生による説明の様子)
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 『日本書紀』神代巻第五段の正文では、月讀尊は伊奘諾尊・伊奘冉尊二神から天照大神に次いで生まれたとある。
 月讀宮以下四別宮(左から伊佐奈弥宮、伊佐奈岐宮、月讀宮、月讀荒御魂宮)
現在隣の敷地で新しい建物が建設中でした。
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 外宮(豊受大神宮)参拝(写真手前がこれまでの正宮、奥が新正宮)
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 新しい正宮へ参拝  
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 遷御後のこれまでの正宮(奥まで見通せるようになっていました)
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 最後に訪ねた「せんぐう館」では、神宮と式年遷宮について分かりやすく展示されていました。また館内に、外宮正殿東側の四分の一部分が原寸大で再現されていました。今回時間の都合で立ち寄れなかった「神宮徴古館」も機会があれば見学したい所です。




Posted by katakago at 15:52
万葉の道を歩く第8回講演会ー万葉の花 [2013年11月08日(Fri)]
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 昨日(11/7)大阪府立大学で「万葉の道を歩く」の第8回目の講演会があり出かけて来ました。今回は、廣川晶輝先生(甲南大学教授)が「万葉の花」と題して講演されました。私設の万葉植物園を開設し、ブログで四季折々の植物の写真を発信していますので、この演題には興味がありました。講演では大変わかりやすく解説していただいた歌の一部を載せておきます。
1.挽歌に詠まれた遺愛の花
万葉第三期・四期の歌人の挽歌には、遺愛の花(下記の歌では太字で表記)が詠まれたものがあります。

【歌】 妹が見 の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに (D-798)
 山上憶良の日本挽歌の5首ある反歌の一つで、左注には「筑前国守山上憶良上(たてまつ)る」とあり、大伴旅人の妻を失った立場に同情し、旅人になり代って詠み、献上したことがうかがわれます。

【歌】 妹として 二人作り 我が山斎は 木高く繁く なりにけるかも (B-452)
【歌】 我妹子が 植ゑの木 見るごとに 心むせつつ 涙し流る (B-453)
 大伴旅人(大宰府で妻を亡くした)が大宰府での任を終え、奈良の都へ帰還した時に詠んだ亡妻挽歌。

【歌】 秋さらば 見つつ偲へと 妹が植ゑ やどのなでしこ 咲きにけるかも (B-464)
 題詞には、「大伴宿禰家持が亡(す)ぎにし妾(をみなめ)を悲傷して作る歌」とあり、庭に咲く遺愛の花(なでしこ)を愛おしい存在として歌に詠みこまれています。
 なお、講演では、上記の歌ではいずれも、「妹が見」、「二人作り」、「我妹子が植え」、「妹が植ゑ」と、直接経験の過去を表す「」が用いられていることが指摘されていました。

2.相聞歌に詠まれた花と恋ごころ
【歌】 朝咲き 夕は消ぬる 月草の 消ぬべき恋も 我はするかも (I-2291)
 月草はツユクサで、朝には咲いて夕方にはしぼんでしまう月草のように、身も心も消えてしまいそうな切ない恋が詠われています。

【歌】 恋ふる日の 日長くしあれば 我が園の 韓藍の花の 色に出でにけり (I-2278)
 韓藍はケイトウで、恋しく思う(愛しい男性が来ないので)日が重なったので、色鮮やかなあの韓藍の花のように、私の恋心が表に出てしまった、と詠まれています。「恋ふる」は、相手が眼前にいないために惹き起こされる感情を表す語で、『万葉集』の原文表記が「孤悲」と表記される例が30例ほどあるようです。




Posted by katakago at 15:47
妻の植物画 [2013年11月07日(Thu)]
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 昨日から来週11日まで、川西市立ギャラリーかわにし(阪急川西能勢口駅舎1階)で、朝日カルチャーセンター川西の植物画教室’ラパン・ブラン’の第3回ボタニカルアート展が開催中です。
 妻はこちらのカルチャーセンターでは水墨画とともに植物画の教室にも通っており、私が7年前に自費出版した本『手づくり万葉植物園の四季』の挿絵(ハギ・カタクリ・ヤマユリ・ヒガンバナ・サネカズラ)を描いてくれました。今回の展示では4点を出品させてもらっており、うち秋の画材2点の写真を載せておきます。
 クリ(ぶな科)
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 アケビ(あけび科)
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Posted by katakago at 20:02
ノジギクが咲き始めました [2013年11月05日(Tue)]
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 この時期咲く花もわずかとなりましたが、ノジギク(きく科)が咲き始めました。万葉歌で、ももよぐさ(原文は母々餘具佐と表記)と詠まれている植物にノジギクを充てる説があります。歌の解説は下記のURLに載せています。
         ↓
 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/225

 秋の七種(ななくさ)では、今でもススキの穂(をばな)の他にフジバカマやキキョウ(次の写真)、カワラナデシコも咲いています。
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Posted by katakago at 10:07
明日香の万葉文化館を訪ねて [2013年11月04日(Mon)]
 今年は和銅六年(713)に風土記編纂の命が出て1300年目にあたります。奈良県立万葉文化館では、統一テーマ「風土記1300年記念」と銘打って、3回のシリーズで講演会(万葉古代学講座)が予定されており、昨日(11/3)はその一回目があり出かけて来ました。
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 今回の演題は「出雲国風土記と古事記」で、井上さやか氏(万葉文化館主任研究員)が講演されました。先月「飛鳥を愛する会」で島根県を訪れたこともあり、この演題に興味がありました。
 『続日本紀』元明天皇和銅六年五月二日条に、「畿内と七道との諸国の郡(こほり)・郷(さと)の名は、好(よ)き字を着けしむ。その郡の内に生(な)れる、銀・銅・彩色・草木・禽(とり)・獣・魚・虫等の物は、具(つぶさ)に色目を録し、土地の沃塉(よくせき)、山川原野の名号の所由(しょいう)、また古老の相伝ふる旧聞・異事は、史籍に載して言上せしむ。」とあります。
 『出雲国風土記』は現存する5つの内の一つで唯一の完本とされる。九郡。郷は六十二とあり、その郡や郷の名の謂れに関連して多くの神が登場します。その一例として、総記には、「出雲と号くる所以は、八束水臣津野命(やつかみずおみづのみこと)、詔りたまひしく、『八雲立つ』と詔りたまひき。故れ、八雲立つ出雲と云ふ」とあります。今回の講演では56の神名が挙げられました。
 意宇郡(おうのこほり)母理郷(もりのさと)の個所で登場する所造天下大神大穴持命(あめのしたつくりまししおほかみおほなもちのみこと)は、『古事記』上巻では、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)の五世孫である大国主神(おほくにぬしのかみ)の五つある亦の名の一つとして、大穴牟遅神(おほあなむぢのかみ)が出て来ます。他の三つは、葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)・八千矛神(やちほこのかみ)・宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)です。なお、『古事記』で語られる稲羽素兎神話や八千矛神神話などの出雲神話は、『日本書紀』には出てきません。

 万葉文化館の前庭の木々も大分紅葉が見られるようになりました(写真左手前はヤマボウシ(みずき科)。
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Posted by katakago at 10:41
第65回正倉院展 [2013年11月02日(Sat)]
 奈良国立博物館では先月26日から正倉院展が開催中です。会期は今月11日までと短く、また今月は行事も多く何時出かけようかと思っていましたが、昨日(11/1)夕方に奈良まで行って来ました。この日は午後から茨木市クリエイトセンターで市瀬先生(梅花女子大学教授)の講座(久邇京遷都と橘諸兄)があり、これが終わってからです。先月の奈良学文化講座(10/12)で橘諸兄の故地を巡るイベントに参加したので、この日の講座には関心がありました。

 正倉院展は会期が短いのですが会期中は無休で、金・土・日・祝日・振り替え休日は午後7時までやっています。午後5時半から入館のオータムレイト券は300円安くなっており、5時過ぎに到着したところ既に行列が出来ていました。
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 昼間の時間帯に比べ、団体客もなく比較的ゆったりと見ることが出来ましたが、ポスターにも掲載されている「漆金薄絵盤(香印坐)」をまじかに見るには20分ほど並ぶ必要がありました。
 今回出品されているなかで、楽器類(和琴・尺八・横笛)が目につきました。檜和琴(ひのきのわごん)は、長さ156cmで6絃の琴(和琴と呼ばれる)で、槽の形や絃数が中国の琴(きん)や新羅琴(しらぎごと)とは異なるものです。槽の頭部が玳瑁(たいまい)・螺鈿(らでん)等で華麗に装飾されたされた品です。尺八は長さ40.7cmで、マダケの三節ある材が用いられ、孔は6箇のものです(現在の尺八とは長さも指孔の数も異なる)。宝庫には、このほか玉製・石製・象牙製の尺八も伝わっています。横笛(おうてき)は長さ39.2cmでトウチク属の材が用いられています。奈良時代には尺八や横笛は唐楽(唐から伝来した舞踊を伴う音楽)の楽器として広まり、寺院音楽における主要な楽器であったようです。

なお、尺八の歴史に関する関連記事は次のURLに載せています。
      ↓
 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/713


Posted by katakago at 10:44
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