ハス池の掃除 [2012年03月30日(Fri)]
サクラの開花のニュースが聞かれるようになりました。花ハスのレンコン植え付けは、その頃がよいとされています。そこで、新しいレンコンの植え付け作業の前に、ハス池の清掃を行いました。枯れたハスの葉を取り除き、発生した藻を網ですくい上げて取り除きました。昨年はポット植えの苗を池に置床していましたが、今年はレンコンを直接池の底土に植える予定です。 ハスの花は、6月下旬から7月いっぱいは楽しめるものと思っています。
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アセビ(馬酔木) [2012年03月29日(Thu)]
植物園内に、アセビ(つつじ科)を数か所に植えています。写真は、山の斜面に植えているもので、多数の白色、つぼ型の花を付けています。アセビの葉は有毒(アセボトキシンを含む)で、馬が食べると苦しむので馬酔木の字があてられています。 万葉歌では、あしび(原文は、馬酔・馬酔木・安志妣などと表記)として詠まれています。
【歌】 我が背子に 我が恋ふらくは 奥山の あしびの花の 今盛りなり (I-1903) 【口語訳】 あなたを わたしが恋しく思うことは 奥山の あしびの花のように 今やまっ盛りです 「奥山のあしびの花」は、「今盛りなり」にかかる比喩の序詞で、「奥山」と限定したのは人知れずひそかに思うさまを表そうとしたものとみられています(『萬葉集釈注』ほか)。
もう一首あしびが詠まれた歌をあげておきます。 【歌】 磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに (大伯皇女 A-166) 【口語訳】 磯のほとりに 生えているあしびを 折りたいが お見せする相手のあなたが いるわけではないのに 題詞によれば、大津皇子の遺体を葛城の二上山に移葬した時に、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が悲しんで作られた歌です。大津皇子の死については、昨年(12/17)の磐余池現地見学会の記事に書いています。『日本書紀』によれば、大伯皇女が、斎宮の任を終えて明日香の都に帰ってきたのは、朱鳥元年(686)十一月十六日(太陽暦の十二月九日)で、弟の大津皇子の刑死があってから約1カ月半後のことです(但し、移葬の時期についての記録は無い)。アセビは、夏に翌春の蕾をつけ、花は早春から晩春にかけて咲きます。そこで、この歌が詠まれたのは、皇女が帰京した翌年の春かとみられています。 大伯皇女はこの時もう一首の歌を詠んでいます。 【歌】 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む (A-165) 【口語訳】 この世の 人であるわたしは 明日からは 二上山を 弟として眺めるのか
次の写真は夕日が沈む二上山(右側の雄岳と雌岳)です。雄岳の頂に大津皇子の墓があり、お彼岸の日には、太陽は雄岳と雌岳の間に沈むそうです(撮影場所は橿原ロイヤルホテル、時期は、2010.5.1)。
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katakago
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ヤマアイの花 [2012年03月28日(Wed)]
ヤマアイ(とうだいぐさ科)の花が咲いています(写真背後の赤いものは落ちたヤブツバキの花)。この植物は、7年ほど前に、万葉集のある講座でご一緒した方から頂いたものです。ヤマアイはわが国では最も古い染料植物の一つで、葉を乾燥して搗きだした汁を用いると藍色に染まるとのことです。 万葉歌で、やまあゐ(原文は山藍と表記)が詠まれたものは次の一首のみです。 【歌】 しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただひとり い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の ひとりか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく (H-1742) 【口語訳】 (しなでる) 片足羽川の 朱塗りの 大橋の上を 紅染めの 赤裳の裾を引き 山藍で 染めた服を着て ただひとり 渡っているあの児は (若草の) 夫(つま)があるのだろうか (橿の実の) ひとりで寝ているのだろうか 問い尋ねて みたいあの児の 家もわからないことよ
高橋連虫麻呂歌集から採られています。題詞には、河内の大橋をひとり行くおとめを見て作った歌とあります。朱(赤色顔料べんがら、酸化第二鉄)塗りの橋、紅染めの赤裳、山藍で摺り染めにした青い衣が詠まれ、現実の風景というよりは、絵画的な性格のものとして理解しようとする研究者がおられます。犬養孝先生はその著書『万葉の歌人高橋虫麻呂』で、「虫麻呂という人は、空想を駆使して美的構築をする」と書かれ、この歌について、「実はこの橋の上に女の人は居ないのかもしれない。(中略) 虫麻呂が頭の中で作り出した夢の女性であるかもしれない」(万葉浮世絵の構図)と、述べられています。
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オキナグサの蕾 [2012年03月27日(Tue)]
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サクランボ(暖地桜桃)の花が咲きました [2012年03月26日(Mon)]
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カタクリの花が咲きました [2012年03月25日(Sun)]
カタクリ(ゆり科)については、3/11のブログに蕾の写真を掲載しましたが、写真のように花が咲きました。天気の良い日には花びらを反りかえらせて咲いています。
万葉歌で、かたかご(原文は堅香子と表記)と詠まれている植物が、現在のカタクリとされています。平安時代までは、カタカシと読まれその実体は不明でした。鎌倉時代になって、仙覚がこれまで無訓であった歌に訓点をほどこし(これらを新点歌という)、『万葉集注釈』(仙覚抄)を著しましたが、この中で「かたかご」という読み方を唱え、これが現在のカタクリであるとし、以後定説になっています。『万葉植物事典』(北隆館)によれば、現在でもカタクリのことを、カタコ、カタカゴ、カタカコ、カタコゴ、カタコユリなどと呼ぶ地方があるようです。
カタクリが詠まれた歌は、大伴家持が越中で詠んだ次の一首のみですが、万葉植物の中でも代表的なものの一つになっています(家持ゆかりの高岡市では市の花になっている)。 【歌】 もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花 (R-4143) 【口語訳】 (もののふの) 群れなす乙女が 汲みさざめく 寺井のほとりの かたかごの花よ 『萬葉集全注巻第十九』には、折り取ったかたかごの花を眺めながら、その群生する可憐な花の風情をおとめの群像に配して思い描いた歌、とあります。
植物園では、株数が限られて群生とはなりませんが、以前、関東に在住の折、栃木県の「みかも山公園」で、カタクリの群落を見たことがあります。花の寿命は短く数日で、花後、さく果をつけ中に数粒の種ができますが、種から開花までには7〜8年位かかるそうです。
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紀伊万葉ウォーク(糸我・白神) [2012年03月24日(Sat)]
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ミツマタの花 [2012年03月22日(Thu)]
ミツマタ(じんちょうげ科)の花が咲き始めました。万葉歌で、さきくさ(原文は三枝と表記)と詠まれている植物をミツマタ(枝が三叉状)とする説があります(『増訂萬葉植物新考』、『萬葉集釈注』など)。 【歌】春されば まづ三枝の 幸くあらば 後にも逢はむ な恋ひそ我妹 (I-1895) 【口語訳】春になると まず咲く三枝(さきくさ)のように 幸(さき)く − 無事でさえあったら あとでも逢えよう そう恋しがるなよおまえ この歌は、左注によれば柿本朝臣人麻呂歌集から採られており、春の相聞の部に載せられています。上二句の「春さればまづ三枝(さきくさ)の」は、第三句「幸(さき)くあらば」を起こす序詞で、『萬葉集全歌講義』では、次のように解説されています。「三枝(サキクサ)」のサキに、動詞「咲く」の連用形「咲き」が掛けられ、さらに「三枝(サキクサ)」のサキが同音の反復で第三句の「幸(サキ)く」に掛けられています。
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ラジオウォーク(奈良公園・高畑の道) [2012年03月20日(Tue)]
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ヨメナの若芽 [2012年03月14日(Wed)]
ビオトープ池の堤で、ヨメナ(きく科)の若芽が出ていました。ヨメナの花と万葉歌(A-221)は昨年7/17のブログに掲載しています(ヒガンバナと一緒の写真は9/30)が、ここでは春の若菜摘みの歌を載せておきます。なお、ヨメナは、万葉歌では、うはぎ(原文は宇波疑・菟芽子と表記)として詠まれています。
【歌】 春日野に 煙立つ見ゆ 娘子らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも (I-1879) 【口語訳】 春日野(かすがの)に 煙が立っている 乙女たちが 春野のうはぎを 摘んで煮ているのであろう
当時、春に娘たちが野で若菜を摘み、その場で煮て一緒に食べる習俗があったようです。『萬葉集全歌講義』には、春に萌え出た若菜の生命力を摂取して健康を祈る風習、とあります。
若菜摘みのことは、巻十六の竹取翁の歌(3791)の題詞にも、春三月、翁が丘に登って遠望し、若い女たちが羹(あつもの)を煮ているのに行き合わせた、と記されています。
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at 17:23
バスツアー(月ヶ瀬梅林とお水取り) [2012年03月12日(Mon)]
旅行会社のバスツアーで「月ヶ瀬梅林と東大寺お水取り」があり、これにも申し込んでいました。お水取りは3/2に朝日カルチャーセンター(中之島教室)の現地講座でも参加しましたが(3/4のブログ参照)、今日(3/12)はより大きな「籠たいまつ」が上がるとのことで再び見に行きました(今回のツアーにはお堂内での見学はなし)。
ツアーの第一目的地の月ヶ瀬は関西では梅の名所として知られていますが、今年は開花が遅れているようでした。写真はようやく咲き始めた白梅です。添乗員によると、梅林全体では開花がまだ三分咲き程度との情報でツアーをキャンセルした方も多かったようです。おかげで車内はゆったり過ごせましたが。
今日はお水取りの日程の中でも特別な日(籠たいまつが上がり、深夜に境内の若狭井から水が汲みあげられ本尊に供えられる)で、前回(3/2)より多数の参詣者が二月堂下の境内を埋めていました。たいまつが上がる3時間以上も前から、寒風の中配られた夜食を立って食べながら開始を待っていました。例年この日は3万人ぐらい来られるとのことですが、今日は少し少なかったようです。
東日本大震災から一年が過ぎましたが、大地震が発生した時この二月堂で修二会が行われていました。それ以来、東大寺としても被災された方への独自の支援活動を行って来ているとのことです。今回の修二会でも亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、被災された方の安寧と被災地の復興を祈願しているとのことでした。たいまつを待つ間、我々も一緒にお祈りさせていただきました。
前回見学できた場所も、今日は招待者しか入れませんでした。また、順番を待つ多くの方も見れるようにと、たいまつが2本上がる毎に警察官の指示により場所を移動することになり、写真もゆっくり撮れませんでした。
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at 22:48
カタクリの蕾 [2012年03月11日(Sun)]
今朝裏山の植物園を巡回中に、カタクリが2株蕾を付けているのを見つけました。裏山には数ケ所に分散してカタクリの球根を植えています。この場所は例年一番早く咲き始めるところですが、いつもより少し早いようです。数は多くありませんが、これから4月初旬にかけて花が見られるものと思っています。
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at 13:38
葛城氏とヤマト政権 [2012年03月06日(Tue)]
「5世紀史の謎を探る − 葛城氏とヤマト政権 −」と題して、朝日カルチャーセンター芦屋教室で講演会があり参加しました(3/5)。
日本書紀の受講者有志で、気候が良くなったら「葛城古道」を歩く計画があり、また、『万葉集』に、葛城襲津彦の名を詠み込んだ歌もあることより、今回の講演は興味がありました。
その万葉歌は、巻十一の次のような、弓に寄せる恋の歌三首の一つです。 【歌】葛城の 襲津彦真弓 荒木にも 頼めや君が 我が名告りけむ (J-2639) 【口語訳】葛城襲津彦の使う真弓の 強い新しい木のように 私を妻として頼りにしてくださるので わたしの名をお洩らしになったのでしょうか (『万葉集全注』による) 『新編日本古典文学全集』では、「恋人の名を他人に打ち明けるのは禁忌なのに、それを破った相手の男に、自分をそれほど頼もしく思ってのことか、と詰問するような語調がある」と解説されています。この歌で、強弓の使い手として名があげられている葛城襲津彦は、『古事記』や『日本書紀』によれば、建内宿禰の子で、仁徳天皇の皇后磐姫の父とされています。
今回の講演会では、文献史学の立場から塚口義信氏(堺女子短期大学名誉学長)が、考古学の立場から白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)が話されました。
まず塚口氏の講演では、『記紀』による系図では、葛城襲津彦の子は、磐媛のほか葦田宿禰(→黒媛(履中天皇の皇后)、→蟻臣)の系統と、玉田宿禰(→円大臣→韓媛(雄略天皇の皇后))の系統の二つが知られる。玉田宿禰や円(つぶら)大臣の名は地名に由来すると考えられ、御所市玉手(小字の一つを「たまんだ」と称した)と、御所市柏原の「ツブラ」の地名より、このあたりを本拠とした可能性を指摘された。付近には、葛城地方最大の前方後円墳として知られる室宮山古墳や掖上鑵子塚古墳などがある。一方、葦田宿禰系の葛城氏については、上牧町に「葦田」の地名が残り、王寺町に「芦田池」があり、この地域は東西を馬見丘陵と片岡山に挟まれた場所で、葦田宿禰の名は、この地名に基づくと考えられた。同様に、蟻(あり)臣についても、大和高田市に「有井」があり(本来の地名は「有」か)、この地名に由来すると考えられ、この系統の葛城氏は、現在の北葛城郡、香芝市、大和高田市に相当する地域と関係があったと推定された。文献資料からは、少なくとも二つの系統の葛城氏の存在を指摘されました。
白石氏の講演では、葛城の地域には北から馬見古墳群の北群、中央群、南群、新庄古墳群、室・国見山古墳群などに見られる、4世紀後半から5世紀後半までの古墳群について解説されました。次の図は、当日配布された白石氏の資料の一部です。出土した円筒埴輪により編年されています。 葛城地域における大型古墳の編年(白石太一郎氏の資料より)
この図により、大王墓に準ずる巨大古墳(墳丘長200m級)は、葛城各地の古墳群に分かれて営まれ、造営時期も少しずつずれていることが指摘されました。これらの巨大古墳(一小地域の首長墓とは考えられない)からは、葛城各地の有力首長たちは、地域的政治連合(葛城連合)を形成し、その連合の盟首には、構成する各有力集団の首長たちが持ち回りでその地位に就いていた、との見解です。 葛城氏がヤマト王権(畿内政権)に影響力を持つようになったのは4世紀後半以降で、当時の東アジア情勢(高句麗の南下、倭国も百済と同盟を結んで朝鮮半島に出兵)と関係しているとの見方です。この時期、大和の勢力(宗教・呪術的性格の強い)に代わって、大阪湾岸の河内・和泉の勢力(以前から王権内部で外交・交易を担当)が王権を掌握することになり、その際葛城氏の勢力が河内政権の最も有力な協力者としての役割を担った、とのお考えでした。
室宮山古墳からは、朝鮮半島南部の伽耶の船形陶質土器が出土し(近年、台風による倒木があり、その根元から)、葛城氏と朝鮮半島の結びつきが指摘されています。『日本書紀』神功皇后摂政五年の条には、新羅を攻撃した葛城襲津彦は、そこから多くの俘人(とりこ)を連れ帰り、この時の俘人が、桑原・佐糜・高宮・忍海の四つの邑に住んでいる漢人(あやひと)の始祖である、と伝えられています(これらの地名は全て葛城氏の勢力圏の中心部に集中)。 なお、お二人とも、室宮山古墳の被葬者は葛城襲津彦と考えられるとのことでした。
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JR東海奈良学文化講座 [2012年03月04日(Sun)]
JR東海奈良学文化講座に初めて参加しました。この講座は東京と奈良で開催されていますが、今回(3/3)は、奈良(桜井市「あるぼ〜る」ホール)で、「天香具山の東、古代磐余の地をゆく ー 茶臼山古墳から等彌神社、安倍文殊院へ」と題して開催されました。参加者は約300名(関東からも)。
午前の部は、井上さやか氏(万葉古代学研究所主任研究員)が、「万葉の磐余 ー ”心の系譜”で読み解く」のタイトルで講演されました。昨年末、磐余の池跡の推定地で堤跡が発掘され話題になりましたが、考古学の立場からではなく文学の立場から、まず、『万葉集』に載せられている、大津皇子が処刑される時に、磐余の池の堤で涙を流して作られた歌(*)をとりあげ、磐余の地について解説され、次いで『古事記』、『日本書紀』で「いはれ」の地に宮を置いた天皇の記事にもふれられました(「いはれ」は、記では伊波禮、紀では磐余と表記)。 (*)【歌】百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (B-416) 【口語訳】(百伝ふ)磐余の池に 泣いている鴨を 今日だけ見て 死んで行くのか (この歌の関連ブログは昨年12/17に掲載)
午後は、齊藤純氏(天理大学文学部教授)の案内で、次のコースを巡りました(約4時間)。 会場→等彌神社→上之宮遺跡→談山神社一の鳥居→上宮寺・春日神社→メスリ山古墳→安倍寺跡→安倍文殊院→石寸(いわれ)山口神社→若櫻神社→桜井駅 各所での説明は人数が多いためFMラジオで聴きました。写真は、桜井茶臼山古墳(4世紀初頭の大型前方後円墳)で説明を聴いている様子です。 上宮寺は、聖徳太子が斑鳩宮に移る前に居られた上宮(かみつみや/じょうぐう)とする説があるようです(本居宣長ほか)。その後上宮寺は、神仏分離以前は隣接する春日神社の神宮寺であったようです。春日神社の境内には、『万葉集』に載せられている、聖徳太子が竜田山の死人を見て悲しんで作られた歌の歌碑が建てられています。【歌】家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ (B-415) 【口語訳】家にいたら 妻の手を枕とするだろうに (草枕) 旅に出て倒れている この旅人は哀れだ
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二月堂修二会(お水取り) [2012年03月04日(Sun)]
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雪の日のタチバナ [2012年03月01日(Thu)]
タチバナの花と万葉歌は、昨年5/24のブログに掲載していますが、今回は今年三度目の雪が降った時(2/27)の写真を掲載します。先に掲載した万葉歌は、 【歌】橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木 (聖武天皇 E-1009) 【口語訳】橘は 実まで花まで その葉まで 枝に霜が置いてもいよいよ栄える木であるぞ 左注には、葛城王・佐為王らが皇族の地位を辞退して、母方の姓橘氏を継ぐことが認証された時、太上天皇(元正)・聖武天皇・光明皇后がお揃いで皇后の宮においでになり、宴会をして、そこで橘を祝う歌をおつくりになった、とあります。
葛城王らの母は県犬養宿禰三千代で(父は美努王)、後に離婚して藤原不比等の後妻となり(光明子はその間の子)、夫亡き後も後宮で影響力を発揮しました。 『続日本紀』聖武天皇の天平八年(736)11月11日条には、葛城王らが皇族の地位を辞退し橘姓を継ぐことを願い出た上表文の内容が記されています。その中には次のようなことが書かれています。県犬養宿禰三千代は、和同元年(708)11月、元正天皇からその忠誠を賞され、橘を浮かべた杯を賜り、橘宿禰と称することになりました。その時の勅には、「橘は果物の中でも最高のもので、人々の好むものである。枝は霜雪にもめげず繁茂し、葉は寒暑にあっても凋まない。光沢は珠玉とも競うほどである。金や銀に交じり合っても、それに劣らず美しい。このような橘にちなんで汝の姓として橘宿禰を与えよう」とあります。
これにより、葛城王は橘宿禰諸兄を名のり、その後大納言を経て、右大臣、左大臣となり、聖武天皇の恭仁京遷都にも関わりました。『万葉集』にも8首の歌を残しています。
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万葉植物園の現地講座 [2012年03月01日(Thu)]
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