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アンズの花 [2012年03月31日(Sat)]
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サクランボに続きアンズが開花しました(3/26には蕾の写真を掲載)。昨年は果実を6月下旬に収穫しました(関連記事2011.6.21)。

 万葉歌にも詠まれているスモモは、蕾が少しふくらんできた品種もありますが、開花は4月中旬ごろからと思われます。
Posted by katakago at 10:58
ハス池の掃除 [2012年03月30日(Fri)]
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  サクラの開花のニュースが聞かれるようになりました。花ハスのレンコン植え付けは、その頃がよいとされています。そこで、新しいレンコンの植え付け作業の前に、ハス池の清掃を行いました。枯れたハスの葉を取り除き、発生した藻を網ですくい上げて取り除きました。昨年はポット植えの苗を池に置床していましたが、今年はレンコンを直接池の底土に植える予定です。
 ハスの花は、6月下旬から7月いっぱいは楽しめるものと思っています。
Posted by katakago at 16:40
アセビ(馬酔木) [2012年03月29日(Thu)]
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 植物園内に、アセビ(つつじ科)を数か所に植えています。写真は、山の斜面に植えているもので、多数の白色、つぼ型の花を付けています。アセビの葉は有毒(アセボトキシンを含む)で、馬が食べると苦しむので馬酔木の字があてられています。
万葉歌では、あしび(原文は、馬酔・馬酔木・安志妣などと表記)として詠まれています。

【歌】 我が背子に 我が恋ふらくは 奥山の あしびの花の 今盛りなり (I-1903)
【口語訳】 あなたを わたしが恋しく思うことは 奥山の あしびの花のように 今やまっ盛りです
 「奥山のあしびの花」は、「今盛りなり」にかかる比喩の序詞で、「奥山」と限定したのは人知れずひそかに思うさまを表そうとしたものとみられています(『萬葉集釈注』ほか)。

 もう一首あしびが詠まれた歌をあげておきます。
【歌】 磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに (大伯皇女 A-166)
【口語訳】 磯のほとりに 生えているあしびを 折りたいが お見せする相手のあなたが いるわけではないのに
 題詞によれば、大津皇子の遺体を葛城の二上山に移葬した時に、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が悲しんで作られた歌です。大津皇子の死については、昨年(12/17)の磐余池現地見学会の記事に書いています。『日本書紀』によれば、大伯皇女が、斎宮の任を終えて明日香の都に帰ってきたのは、朱鳥元年(686)十一月十六日(太陽暦の十二月九日)で、弟の大津皇子の刑死があってから約1カ月半後のことです(但し、移葬の時期についての記録は無い)。アセビは、夏に翌春の蕾をつけ、花は早春から晩春にかけて咲きます。そこで、この歌が詠まれたのは、皇女が帰京した翌年の春かとみられています。
 大伯皇女はこの時もう一首の歌を詠んでいます。
【歌】 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む (A-165)
【口語訳】 この世の 人であるわたしは 明日からは 二上山を 弟として眺めるのか

 次の写真は夕日が沈む二上山(右側の雄岳と雌岳)です。雄岳の頂に大津皇子の墓があり、お彼岸の日には、太陽は雄岳と雌岳の間に沈むそうです(撮影場所は橿原ロイヤルホテル、時期は、2010.5.1)。

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Posted by katakago at 19:40
ヤマアイの花 [2012年03月28日(Wed)]
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ヤマアイ(とうだいぐさ科)の花が咲いています(写真背後の赤いものは落ちたヤブツバキの花)。この植物は、7年ほど前に、万葉集のある講座でご一緒した方から頂いたものです。ヤマアイはわが国では最も古い染料植物の一つで、葉を乾燥して搗きだした汁を用いると藍色に染まるとのことです。
 
 万葉歌で、やまあゐ(原文は山藍と表記)が詠まれたものは次の一首のみです。
【歌】 しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただひとり い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の ひとりか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく (H-1742)
【口語訳】 (しなでる) 片足羽川の 朱塗りの 大橋の上を 紅染めの 赤裳の裾を引き 山藍で 染めた服を着て ただひとり 渡っているあの児は (若草の) 夫(つま)があるのだろうか (橿の実の) ひとりで寝ているのだろうか 問い尋ねて みたいあの児の 家もわからないことよ

 高橋連虫麻呂歌集から採られています。題詞には、河内の大橋をひとり行くおとめを見て作った歌とあります。朱(赤色顔料べんがら、酸化第二鉄)塗りの橋、紅染めの赤裳、山藍で摺り染めにした青い衣が詠まれ、現実の風景というよりは、絵画的な性格のものとして理解しようとする研究者がおられます。犬養孝先生はその著書『万葉の歌人高橋虫麻呂』で、「虫麻呂という人は、空想を駆使して美的構築をする」と書かれ、この歌について、「実はこの橋の上に女の人は居ないのかもしれない。(中略) 虫麻呂が頭の中で作り出した夢の女性であるかもしれない」(万葉浮世絵の構図)と、述べられています。

Posted by katakago at 13:16
オキナグサの蕾 [2012年03月27日(Tue)]
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 オキナグサ(きんぽうげ科)が蕾を付けています。万葉歌で、ねつこぐさ(原文は根都古具佐と表記)と詠まれている植物にあてる説があります。開花は来月かと思われます(歌はその時に紹介します)。この株は、昨年(6/2)、篠山市にある山野草の専門店(伴園芸)で購入したものです(2株栽培中)。

 このほか生育過程の様子をいくつか紹介しておきます。
次の写真は、ヒトリシズカ(せんりょう科)で、間もなく白色の穂状の花が咲きます。

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 ムラサキ(むらさき科)の株元から新芽が出てきています。花は6月中旬ごろです。
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 池の中では、アサザ((みつがしわ科)が地下茎をのばし若葉を水面に浮かべています。花は6月以降9月ごろまで楽しめます。
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Posted by katakago at 21:58
サクランボ(暖地桜桃)の花が咲きました [2012年03月26日(Mon)]
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 果樹園に植えているサクランボ(暖地桜桃)の花が咲き始めました。この品種は、栽培している桜の中では一番早く開花します。果実は、昨年は5月中旬から収穫できました(昨年5/11のブログ参照)。

 これに続いて、アンズ(ばら科)の蕾がふくらんできました。IMG_1004s.jpg
Posted by katakago at 18:15
カタクリの花が咲きました [2012年03月25日(Sun)]
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 カタクリ(ゆり科)については、3/11のブログに蕾の写真を掲載しましたが、写真のように花が咲きました。天気の良い日には花びらを反りかえらせて咲いています。

 万葉歌で、かたかご(原文は堅香子と表記)と詠まれている植物が、現在のカタクリとされています。平安時代までは、カタカシと読まれその実体は不明でした。鎌倉時代になって、仙覚がこれまで無訓であった歌に訓点をほどこし(これらを新点歌という)、『万葉集注釈』(仙覚抄)を著しましたが、この中で「かたかご」という読み方を唱え、これが現在のカタクリであるとし、以後定説になっています。『万葉植物事典』(北隆館)によれば、現在でもカタクリのことを、カタコ、カタカゴ、カタカコ、カタコゴ、カタコユリなどと呼ぶ地方があるようです。

 カタクリが詠まれた歌は、大伴家持が越中で詠んだ次の一首のみですが、万葉植物の中でも代表的なものの一つになっています(家持ゆかりの高岡市では市の花になっている)。
【歌】 もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花 (R-4143)
【口語訳】 (もののふの) 群れなす乙女が 汲みさざめく 寺井のほとりの かたかごの花よ 
 『萬葉集全注巻第十九』には、折り取ったかたかごの花を眺めながら、その群生する可憐な花の風情をおとめの群像に配して思い描いた歌、とあります。

 植物園では、株数が限られて群生とはなりませんが、以前、関東に在住の折、栃木県の「みかも山公園」で、カタクリの群落を見たことがあります。花の寿命は短く数日で、花後、さく果をつけ中に数粒の種ができますが、種から開花までには7〜8年位かかるそうです。
Posted by katakago at 13:20
紀伊万葉ウォーク(糸我・白神) [2012年03月24日(Sat)]
 第6回紀伊万葉ウォークの1日目(糸我・白神)に参加してきました。今回のコースは以前から機会があればぜひ出かけたいと考えていた所です。JR紀勢本線紀伊宮原駅で受付後(11:30)、得生寺まで移動し、ここで主催者を代表して村瀬憲夫氏(近畿大学教授)のお話と出発式が行われました(12:05)。
 得生寺境内には、故犬養孝先生揮毫の万葉歌碑が建立されています。
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【歌】 足代過ぎて 糸鹿の山の 桜花 散らずもあらなむ 帰り来るまで (F-1212)
【口語訳】 足代(あて)を過ぎて 糸鹿(いとが)の山の 桜花よ 散らずにあってくれ 帰ってくる時まで
 犬養先生は、その著書『万葉の旅 中』で、「熊野街道は、海南から藤白坂や蕪坂峠を越え有田市宮原町道にでて、有田川を渡り糸我峠を越えて湯浅にむかっている。・・・(中略)・・・ 暖かい気温の紀路の桜はいちはやく峠道に咲いている。歩をはこんでゆく旅人にとっては、異郷の峠に見出した桜はあざやかな心ひかれであったろう」と述べられています。

 糸我王子社横からは、両側が蜜柑畑の峠路をひたすら登って、やっとたどり着いた糸我峠でひと休みです。次の写真は、講師の一人である馬場吉久氏の発声で、先ほどの万葉歌を全員で犬養節で朗唱している様子です。

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 峠付近では、まだ咲いている桜を見かけませんでしたが、峠から施無畏寺(せむいじ、明恵上人創建)付近まで下ってきた辺りで、ヤマザクラが咲いているのを見つけました。赤みがかった若葉とともに白い花をつけていました。

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 施無畏寺から栖原(すはら)海岸に降りてきたところに、次の歌碑が建てられていました。
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【歌】 湯羅の崎 潮干にけらし 白神の 磯の浦廻を あへて漕ぐなり (H-1671)
【口語訳】 湯羅の崎辺も 潮が引いているだろう この白神の 磯の浦辺を 苦労して漕いでいる

 日帰り参加者は湯浅駅で解散しました(15:30くらい)。宿泊すれば、夜の交流会にも出れたのですが、明日は自治会期末総会に出席のためやむなく帰途に着きました。
Posted by katakago at 20:02
モモの花 [2012年03月23日(Fri)]
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 モモ(ばら科)の花が咲き始めました。以前に八重の花桃を植えていましたが、木下正俊先生から、万葉の桃は一重の花がふさわしいとの指摘をいただき、今は一重の花桃も植えています(写真は3/22)。

 モモを詠んだ万葉歌としては、次に示す大伴家持の歌が有名です。
【歌】 春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子 (R-4139)
【口語訳】 春の園は まるで一面紅色に照り輝いている その桃の花の樹の下まで照り映える道に つと出で立っているおとめよ (『萬葉集全注』より)

 題詞には、天平勝宝二年(750)三月一日(太陽暦の4月15日)の夕方、春苑の桃李(とうり)の花を眺めて作った二首とあり、これはその一首目で、二首目はスモモが詠まれています(こちらの歌はスモモの花が咲く来月に紹介します)。家持にとって、この時期は越中で四度目に迎えた春です。

 この歌の解釈で、「紅にほふ」を終止形(二句切れ)とみるか、あるいは「桃の花」に続く連体形(三句切れ)とみるかについては、両論が半ばしているようです。ここでは「二句切れ」説の『萬葉集全注』による口語訳を示しています。二句切れ説については、昨年夏、TSUBAICHIで開催された坂本信幸先生の講演でも取り上げられていました(7/30ブログ参照)。
 
 なお、この歌の「娘子」は、シルクロードを通って我が国に伝わった正倉院御物「鳥毛立女屏風」などの「樹下美人図」を連想させることは、多くの人に指摘されています(中西進著『大伴家持4』、青木生子著『萬葉集全注巻第十九』ほか)。 
Posted by katakago at 20:11
ミツマタの花 [2012年03月22日(Thu)]
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 ミツマタ(じんちょうげ科)の花が咲き始めました。万葉歌で、さきくさ(原文は三枝と表記)と詠まれている植物をミツマタ(枝が三叉状)とする説があります(『増訂萬葉植物新考』、『萬葉集釈注』など)。
【歌】春されば まづ三枝の 幸くあらば 後にも逢はむ な恋ひそ我妹 (I-1895)
【口語訳】春になると まず咲く三枝(さきくさ)のように 幸(さき)く − 無事でさえあったら あとでも逢えよう そう恋しがるなよおまえ
 この歌は、左注によれば柿本朝臣人麻呂歌集から採られており、春の相聞の部に載せられています。上二句の「春さればまづ三枝(さきくさ)の」は、第三句「幸(さき)くあらば」を起こす序詞で、『萬葉集全歌講義』では、次のように解説されています。「三枝(サキクサ)」のサキに、動詞「咲く」の連用形「咲き」が掛けられ、さらに「三枝(サキクサ)」のサキが同音の反復で第三句の「幸(サキ)く」に掛けられています。 
Posted by katakago at 19:47
ウメの香 [2012年03月21日(Wed)]
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 ウメの花と万葉歌は3/7のブログでも紹介していますが、数多く詠まれたウメの歌の中で、香を詠んだものは次の一首のみです。
【歌】 梅の花 香をかぐはしみ 遠けども 心もしのに 君をしそ思ふ (市原王 S-4500)
【口語訳】 梅の花の 香りが慕わしさに 遠く離れていますが 心は絶えず あなたを思っております
 天平宝字二年(758)二月に、中臣清麻呂(式部省の次官)の家で宴が催された時の歌(15首のうちの一首)です。『萬葉集釈注』によれば、宴に参加した人が、拙宅から貴宅までは遠い道のりだけれども、物ともせず息せき切って参上しましたと述べて、感謝と敬意の念をうたうのは、当時の宴歌の作法の一つとされ、この歌では、主人の庭園の梅のかぐわしさ(主人清麻呂の人柄のゆかしさを象徴)を通して、恋歌仕立てを凝らしながら婉曲に主人を讃えたもの、と解説されています。

 なお、万葉歌で「かぐはし」と詠まれた植物の歌には、他に橘に関する4首があります(I-1967、Q-4111、R-4169、S-4371)。
Posted by katakago at 18:28
ラジオウォーク(奈良公園・高畑の道) [2012年03月20日(Tue)]
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 毎日放送・毎日新聞主催のラジオウォーク(奈良公園・高畑の道)に参加してきました。これまでは毎年2月11日に開催され、昨年は雪の降りしきる中、明日香路を歩きましたが、今回は歩くには気候も良い時期で、多くの参加者があったようです(今年で31回目)。

 コースは午前の部(東大寺・手向山八幡宮・春日野園地を中心に)と午後の部(興福寺・浅茅ケ原・飛火野・新薬師寺・春日大社など)の二つが設定されており、MBSラジオで放送される上野誠先生(奈良大学教授)などの解説を聴きながら自由に散策を愉しみました。写真は午後の部の出発の様子です(中央手前が上野先生)。

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 これまではグループで参加することが多かったのですが、今年は一人で参加したので、コースも自分で予定したところを訪れることにしました。先に、「お水取り」を見学した際に、「奈良の三名椿」の話を聞いていたので、この時期だと花が咲いているものと思われ、三か所のお寺をまわりました。
 まず最初に訪ねたのが、伝香寺(奈良市小川町24)の「散り椿」です。こちらの椿は桜の花びらのように一枚一枚はらはらと散るのが特徴です。この散りぎわの潔さから、「武士椿(もののふつばき)」とも呼ばれているそうです。

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 二か所目は、東大寺開山堂(二月堂の近く)の「のりこぼし」と名付けられた椿がお目当てです。紅色の花びらに糊をこぼしたような白い模様のあることからその名があります。しかし今年はまだ蕾でその特徴のある花びらは見れませんでした。ただ、若草山近くの売店で苗木が売られていたので購入しました。

 三か所目は、白毫寺(奈良市白毫寺町392)の「五色椿」です。樹齢約400年といわれ、紅・白・桃色の三色を基本に、変化に富む斑入りの花が咲くのが特徴です。こちらも残念ながら未だ一部の枝にしか花が見れませんでした。ここでも、近くの店で苗木を見つけ一株買ってしまいました。植物園に移植する予定です。

 今回のウォーキングでは、歌碑もいくつか見ることができました。
次の写真は、手向山八幡宮境内南出口付近にある、湯原王の「鳴く鹿の歌」の碑です。ここは今回はじめて訪れました。
【歌】 秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声の遥けさ (G-1550)
【口語訳】 秋萩の 散り乱れている辺りで 妻を呼び誘って 鳴いている鹿の 声の遠くまで聞こえることよ

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 春日大社の境内には、故犬養孝先生揮毫の『古事記』歌謡(倭建命の望郷の歌30)の碑が昨年末に建立されていました。
【歌】 倭は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し
【口語訳】 大和は国の中でも最も良いところだ。重なりあった青い垣根の山、その中に籠っている大和は、美しい

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 白毫寺の境内にある歌碑は、笠金村の志貴皇子挽歌のうちの短歌です(揮毫は犬養先生)。こちらは今まで何度か訪れたことがあります。
【歌】 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに (A-231)
【口語訳】 高円(たかまど)の 野辺の秋萩は むなしく 咲いては散っていることだろうか 見る人もないままに

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Posted by katakago at 17:22
シキミの花 [2012年03月19日(Mon)]
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 裏山には大きなシキミ(まつぶさ科)が二本生えており、以前から仏花として折々に利用しています。その花が咲き始めました。万葉歌には次の一首のみシキミが詠まれています(原文では、之伎美と表記)。
【歌】 奥山の しきみが花の 名のごとや しくしく君に 恋ひ渡りなむ (S-4476)
【口語訳】 奥山の しきみの花の 名のように しきりにあなたを 思い続けることか
 題詞によれば、天平勝宝八年(756)十一月二十三日、大伴池主の家で人々が集まって飲宴した時に詠まれた歌です。作者はこの宴に参加した大原眞人今城で、恋歌仕立て(ある女性が男性を思う歌い方)で主人池主への思いを詠んでいます。『萬葉集全注』には、「しきみが花」は、シキの音が何度も繰り返す意のシク(頻)の連用形を連想させるところからこの植物名を引いた、とあります。
 平城宮東院庭園跡の出土植物遺体にシキミがみられ、貴族の庭園にも庭木として植えられていた可能性があります。

 なお、大伴池主については、翌天平宝字元年(757)七月の橘奈良麻呂の変に際し、これに加担した人名中にその名があります(『続日本紀』)。

 

Posted by katakago at 17:55
春の花々が [2012年03月17日(Sat)]
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 春の花々が一斉に咲き出しました。写真中央は白梅、右後方はヤブツバキ、左手前はブータン大輪ミツマタです。ミツマタの黄色は鮮やかで遠くからでも目立つようで、また香気を発するので、最近は通りすがりに立ち寄られる方がおられます。なお、普通のミツマタは少し遅れてこれから咲きます。4月中旬にかけて、アシビ、シキミ、モモ、カタクリ、スモモ、ナシ、ヤマブキ、ヤマザクラ、ミツバツツジ、ヤマツツジ、タチツボスミレ、オキナグサ、ヒトリシズカ等が咲き始めます。

 雨の蓮池に、またサギが一羽来ていました(2/11にも掲載)。この場所が気に入っているのか最近よく見かけるようになりました(すぐ側は県道で車が頻繁に通っているのですが)。

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Posted by katakago at 13:57
シイタケ [2012年03月15日(Thu)]
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 昨春、中学同窓のY君からもらったクヌギの原木(菌接種済み)で、立派なシイタケが育っていました。久しぶりに竹藪の中を片づけている時に気づきました。早速、今晩の食材として利用させてもらいます。

 裏山の斜面では、タチツボスミレが一株花を咲かせていました。
お水取りも終わり、ようやく春の訪れが感じられるようになりました。

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Posted by katakago at 17:20
ヨメナの若芽 [2012年03月14日(Wed)]
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 ビオトープ池の堤で、ヨメナ(きく科)の若芽が出ていました。ヨメナの花と万葉歌(A-221)は昨年7/17のブログに掲載しています(ヒガンバナと一緒の写真は9/30)が、ここでは春の若菜摘みの歌を載せておきます。なお、ヨメナは、万葉歌では、うはぎ(原文は宇波疑・菟芽子と表記)として詠まれています。

【歌】 春日野に 煙立つ見ゆ 娘子らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも (I-1879)
【口語訳】 春日野(かすがの)に 煙が立っている 乙女たちが 春野のうはぎを 摘んで煮ているのであろう

 当時、春に娘たちが野で若菜を摘み、その場で煮て一緒に食べる習俗があったようです。『萬葉集全歌講義』には、春に萌え出た若菜の生命力を摂取して健康を祈る風習、とあります。

 若菜摘みのことは、巻十六の竹取翁の歌(3791)の題詞にも、春三月、翁が丘に登って遠望し、若い女たちが羹(あつもの)を煮ているのに行き合わせた、と記されています。
 
Posted by katakago at 17:23
バスツアー(月ヶ瀬梅林とお水取り) [2012年03月12日(Mon)]
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 旅行会社のバスツアーで「月ヶ瀬梅林と東大寺お水取り」があり、これにも申し込んでいました。お水取りは3/2に朝日カルチャーセンター(中之島教室)の現地講座でも参加しましたが(3/4のブログ参照)、今日(3/12)はより大きな「籠たいまつ」が上がるとのことで再び見に行きました(今回のツアーにはお堂内での見学はなし)。

 ツアーの第一目的地の月ヶ瀬は関西では梅の名所として知られていますが、今年は開花が遅れているようでした。写真はようやく咲き始めた白梅です。添乗員によると、梅林全体では開花がまだ三分咲き程度との情報でツアーをキャンセルした方も多かったようです。おかげで車内はゆったり過ごせましたが。

 今日はお水取りの日程の中でも特別な日(籠たいまつが上がり、深夜に境内の若狭井から水が汲みあげられ本尊に供えられる)で、前回(3/2)より多数の参詣者が二月堂下の境内を埋めていました。たいまつが上がる3時間以上も前から、寒風の中配られた夜食を立って食べながら開始を待っていました。例年この日は3万人ぐらい来られるとのことですが、今日は少し少なかったようです。

 東日本大震災から一年が過ぎましたが、大地震が発生した時この二月堂で修二会が行われていました。それ以来、東大寺としても被災された方への独自の支援活動を行って来ているとのことです。今回の修二会でも亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、被災された方の安寧と被災地の復興を祈願しているとのことでした。たいまつを待つ間、我々も一緒にお祈りさせていただきました。

 前回見学できた場所も、今日は招待者しか入れませんでした。また、順番を待つ多くの方も見れるようにと、たいまつが2本上がる毎に警察官の指示により場所を移動することになり、写真もゆっくり撮れませんでした。

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Posted by katakago at 22:48
カタクリの蕾 [2012年03月11日(Sun)]
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 今朝裏山の植物園を巡回中に、カタクリが2株蕾を付けているのを見つけました。裏山には数ケ所に分散してカタクリの球根を植えています。この場所は例年一番早く咲き始めるところですが、いつもより少し早いようです。数は多くありませんが、これから4月初旬にかけて花が見られるものと思っています。
Posted by katakago at 13:38
ネコヤナギ [2012年03月09日(Fri)]
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 裏山の植物園でネコヤナギ(やなぎ科)が芽吹き始めました。
なお、2/4のブログ(猪名川クリーン作戦)では、猪名川の川原で一月早く芽吹いた写真を掲載しています。

 ネコヤナギは、万葉歌では、かはやなぎ(原文は川楊・河楊と表記)として4首詠まれています。ここでは次の二首を紹介しておきます。
【歌】山の際に 雪は降りつつ しかすがに この川柳は 萌えにけるかも (I-1848)
【口語訳】山あいに 雪は降っている それなのに この川柳は もう芽が出たことよ
巻十の春の雑歌で、柳を詠む8首の一つ。「しかすがに」は、そうは言うものの、の意で、逆説の意味を表す副詞。標高の高い山あいではなお雪が降っているが、平地ではすでに春が訪れている情景が詠まれています。
 この歌のように雪の日に芽吹いた写真を狙っていましたが、うまくタイミングが合いませんでした。

【歌】霰降り 遠江の 吾跡川楊 刈れども またも生ふといふ 吾跡川楊 (F-1293)
【口語訳】(霰降り) 遠江(とおとうみ)の国の 吾跡川(あどがわ)の 川楊よ 刈っても またすぐ生えるという 吾跡川の川楊よ
「霰降り」は、遠江の枕詞。霰の音を「トホ」と聞いたので同音の「遠」にかけたとみられています(『萬葉集釈注』)。ヤナギ類は活着・再生しやすい植物で、この歌でも、刈ってもまた生えるという成長と再生力の強さが讃えられています。『萬葉集釈注』には、刈っても刈っても生えるというのは、「楊」を恋心に譬えて、払っても払ってもわきあがる恋の苦しみを述べたのである、とあります。
Posted by katakago at 09:36
ヤブツバキ [2012年03月08日(Thu)]
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 ヤブツバキ(つばき科)の花が一斉に咲き始めました。裏山の植物園には数本生えていますが、写真は一番大きな木です。

 万葉歌には9首詠まれており、原文では、椿・海石榴・都婆伎等と表記されています。巨勢山のつらつら椿(@-54)、あしひきの山椿(F-1262)、奥山の八つ峰の椿(R-4152)、あしひきの八つ峰の椿(S-4481)のように、山の椿が詠まれています。

 次の歌も春の山に咲く椿が詠まれています。
【歌】三諸は 人の守る山 本辺には あしび花咲き 末辺には 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く子守る山 (L-3222)
【口語訳】三諸は 人が守っている山 本の辺りには あしびの花が咲き 上の辺りには 椿の花が咲いている まことに見事な 山だね 泣く子を守るように人が守っているこの山は
 この歌は、四・七・四・七・四・七・五・三・七の音数律をもち、長歌の末尾が五・三・七で終わるのは古い謡い物に多い形式で、古くから伝承された歌と見られています(『萬葉集全歌講義』)。三諸(みもろ)は、神の降臨して籠る場所で、明日香の甘南備山とする説あるいは三輪山とする説がありますが、歌からは特定できません。花咲く春の山を讃える「山ぼめ歌」とみられています。

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Posted by katakago at 17:56
ウメ [2012年03月07日(Wed)]
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 白梅が咲き始めました。

 梅は中国から700年前後に渡来してきたようで、『記紀』や『風土記』にもみられず、最も古い例は現存する最古の漢詩集『懐風藻』に載せられている、葛野王(天智天皇の孫)の、「春日翫鶯梅一首」とされています。その中で「・・・白梅は白く咲きほころび 鶯はあでやかに囀っている・・・」(全訳注江口孝夫)と詠まれています。『万葉集』では、第一期・第二期の歌にはなく、第三期の大伴旅人など貴族・官人によって詠まれ、天平期に入ってから多く詠まれています。万葉歌の植物の中では、ハギに次いで多く詠まれています(118首)。この時代の梅は白梅で、梅の香りを詠んだものは、第四期の市原王の一首のみです(S-4500)。また、12首が鶯とともに詠まれています。なお、ウメは、原文では烏梅・梅・宇米等と表記されています。

 天平二年(730)正月十三日’(太陽暦の二月八日)に、大宰府の長官大伴旅人の邸宅で梅花の宴が開かれ、次官以下大宰府が管轄する国々の国司や官人が参加しました。この時梅を詠んだ歌32首が巻五に載せられています。その一群の歌の前には、「・・・・漢詩には落梅の詩篇がある。・・・・さあ、我々も園の梅を題にして短歌を詠もうではありませんか」という旅人の序文があります。
 ここでは主人旅人の歌を載せておきます。
【歌】我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも (D-822)
【口語訳】我が園に 梅の花が散る (ひさかたの) 天から雪が 流れてくるのだろうか
梅花を雪に見立てることは、六朝以来の漢詩に例が多くその影響を受けているものとみられています。


 
Posted by katakago at 16:32
葛城氏とヤマト政権 [2012年03月06日(Tue)]
「5世紀史の謎を探る − 葛城氏とヤマト政権 −」と題して、朝日カルチャーセンター芦屋教室で講演会があり参加しました(3/5)。

 日本書紀の受講者有志で、気候が良くなったら「葛城古道」を歩く計画があり、また、『万葉集』に、葛城襲津彦の名を詠み込んだ歌もあることより、今回の講演は興味がありました。

 その万葉歌は、巻十一の次のような、弓に寄せる恋の歌三首の一つです。
【歌】葛城の 襲津彦真弓 荒木にも 頼めや君が 我が名告りけむ (J-2639)
【口語訳】葛城襲津彦の使う真弓の 強い新しい木のように 私を妻として頼りにしてくださるので わたしの名をお洩らしになったのでしょうか (『万葉集全注』による)
 『新編日本古典文学全集』では、「恋人の名を他人に打ち明けるのは禁忌なのに、それを破った相手の男に、自分をそれほど頼もしく思ってのことか、と詰問するような語調がある」と解説されています。この歌で、強弓の使い手として名があげられている葛城襲津彦は、『古事記』や『日本書紀』によれば、建内宿禰の子で、仁徳天皇の皇后磐姫の父とされています。

 今回の講演会では、文献史学の立場から塚口義信氏(堺女子短期大学名誉学長)が、考古学の立場から白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)が話されました。

 まず塚口氏の講演では、『記紀』による系図では、葛城襲津彦の子は、磐媛のほか葦田宿禰(→黒媛(履中天皇の皇后)、→蟻臣)の系統と、玉田宿禰(→円大臣→韓媛(雄略天皇の皇后))の系統の二つが知られる。玉田宿禰や円(つぶら)大臣の名は地名に由来すると考えられ、御所市玉手(小字の一つを「たまんだ」と称した)と、御所市柏原の「ツブラ」の地名より、このあたりを本拠とした可能性を指摘された。付近には、葛城地方最大の前方後円墳として知られる室宮山古墳や掖上鑵子塚古墳などがある。一方、葦田宿禰系の葛城氏については、上牧町に「葦田」の地名が残り、王寺町に「芦田池」があり、この地域は東西を馬見丘陵と片岡山に挟まれた場所で、葦田宿禰の名は、この地名に基づくと考えられた。同様に、蟻(あり)臣についても、大和高田市に「有井」があり(本来の地名は「有」か)、この地名に由来すると考えられ、この系統の葛城氏は、現在の北葛城郡、香芝市、大和高田市に相当する地域と関係があったと推定された。文献資料からは、少なくとも二つの系統の葛城氏の存在を指摘されました。

 白石氏の講演では、葛城の地域には北から馬見古墳群の北群、中央群、南群、新庄古墳群、室・国見山古墳群などに見られる、4世紀後半から5世紀後半までの古墳群について解説されました。次の図は、当日配布された白石氏の資料の一部です。出土した円筒埴輪により編年されています。

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 葛城地域における大型古墳の編年(白石太一郎氏の資料より)

 この図により、大王墓に準ずる巨大古墳(墳丘長200m級)は、葛城各地の古墳群に分かれて営まれ、造営時期も少しずつずれていることが指摘されました。これらの巨大古墳(一小地域の首長墓とは考えられない)からは、葛城各地の有力首長たちは、地域的政治連合(葛城連合)を形成し、その連合の盟首には、構成する各有力集団の首長たちが持ち回りでその地位に就いていた、との見解です。
 葛城氏がヤマト王権(畿内政権)に影響力を持つようになったのは4世紀後半以降で、当時の東アジア情勢(高句麗の南下、倭国も百済と同盟を結んで朝鮮半島に出兵)と関係しているとの見方です。この時期、大和の勢力(宗教・呪術的性格の強い)に代わって、大阪湾岸の河内・和泉の勢力(以前から王権内部で外交・交易を担当)が王権を掌握することになり、その際葛城氏の勢力が河内政権の最も有力な協力者としての役割を担った、とのお考えでした。

 室宮山古墳からは、朝鮮半島南部の伽耶の船形陶質土器が出土し(近年、台風による倒木があり、その根元から)、葛城氏と朝鮮半島の結びつきが指摘されています。『日本書紀』神功皇后摂政五年の条には、新羅を攻撃した葛城襲津彦は、そこから多くの俘人(とりこ)を連れ帰り、この時の俘人が、桑原・佐糜・高宮・忍海の四つの邑に住んでいる漢人(あやひと)の始祖である、と伝えられています(これらの地名は全て葛城氏の勢力圏の中心部に集中)。
 なお、お二人とも、室宮山古墳の被葬者は葛城襲津彦と考えられるとのことでした。
 

 



Posted by katakago at 10:03
JR東海奈良学文化講座 [2012年03月04日(Sun)]
 JR東海奈良学文化講座に初めて参加しました。この講座は東京と奈良で開催されていますが、今回(3/3)は、奈良(桜井市「あるぼ〜る」ホール)で、「天香具山の東、古代磐余の地をゆく ー 茶臼山古墳から等彌神社、安倍文殊院へ」と題して開催されました。参加者は約300名(関東からも)。

 午前の部は、井上さやか氏(万葉古代学研究所主任研究員)が、「万葉の磐余 ー ”心の系譜”で読み解く」のタイトルで講演されました。昨年末、磐余の池跡の推定地で堤跡が発掘され話題になりましたが、考古学の立場からではなく文学の立場から、まず、『万葉集』に載せられている、大津皇子が処刑される時に、磐余の池の堤で涙を流して作られた歌(*)をとりあげ、磐余の地について解説され、次いで『古事記』、『日本書紀』で「いはれ」の地に宮を置いた天皇の記事にもふれられました(「いはれ」は、記では伊波禮、紀では磐余と表記)。
(*)【歌】百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (B-416)
   【口語訳】(百伝ふ)磐余の池に 泣いている鴨を 今日だけ見て 死んで行くのか
  (この歌の関連ブログは昨年12/17に掲載)

 午後は、齊藤純氏(天理大学文学部教授)の案内で、次のコースを巡りました(約4時間)。
会場→等彌神社→上之宮遺跡→談山神社一の鳥居→上宮寺・春日神社→メスリ山古墳→安倍寺跡→安倍文殊院→石寸(いわれ)山口神社→若櫻神社→桜井駅
 各所での説明は人数が多いためFMラジオで聴きました。写真は、桜井茶臼山古墳(4世紀初頭の大型前方後円墳)で説明を聴いている様子です。

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 上宮寺は、聖徳太子が斑鳩宮に移る前に居られた上宮(かみつみや/じょうぐう)とする説があるようです(本居宣長ほか)。その後上宮寺は、神仏分離以前は隣接する春日神社の神宮寺であったようです。春日神社の境内には、『万葉集』に載せられている、聖徳太子が竜田山の死人を見て悲しんで作られた歌の歌碑が建てられています。
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【歌】家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ (B-415)
【口語訳】家にいたら 妻の手を枕とするだろうに (草枕) 旅に出て倒れている この旅人は哀れだ
Posted by katakago at 19:40
二月堂修二会(お水取り) [2012年03月04日(Sun)]
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 東大寺二月堂のお水取りは、春を告げる行事として有名です。一度出かけてみたいと思っていましたが、朝日カルチャーセンター中之島教室で、「お水取り」に関する講座(東大寺修二会を学ぶ 声明を聴く)のあることを知り参加しました。二回の講座で一回目(2/27)は、橋本聖圓さん(東大寺長老)から、実際の見学に先立ち、修二会についての解説をしていただき、二回目(3/2)は、奈良国立博物館で「お水取り展」を見学した後東大寺二月堂に出かけ、講師の岸根一正さん(元朝日新聞編集委員)に案内して頂きながら、修二会の行事を見学しました(写真はいずれも3/2に写したものです)。

 東大寺の修二会は毎年3月(旧暦2月)に二月堂で営まれる法要で、別火(前行、2/20〜2月末)、本行(3/1〜3/14)の日程で行われます。行法は、11人の練行衆(籠りの僧)が本尊の十一面観音(二月堂には大観音、小観音の二体の本尊)に、日頃の過ちを懺悔して菩薩の法力を讃え、万民快楽(けらく)、五穀豊穣、天下泰平などを祈って菩薩の功徳を授かる、「十一面観音悔過法」と言われるものです。この修二会は、東大寺の開山良弁(ろうべん)僧正の高弟であった実忠和尚(かしょう)が、天平勝宝四年(752、大仏開眼の年))に始めたもので、戦火の中でも休むことなく続けられ今年で1261回目を迎えました(不退の行法)。

 「おたいまつ」は、初夜の行(最初の夜の行)に登廊する練行衆の道明りで、1日10本が点火されます(12日は籠たいまつが11本)。僧を送った後は、舞台に出て炎の舞が観衆に披露されます。次の写真は、2日に準備されたたいまつです。

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 12日に使用される籠たいまつには、次の写真のように根付きの竹(8m)が使用されます。先端には杉の葉が、内側には檜の葉がフジ蔓で取り付けられます(80kgの重さ)。
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 おたいまつの後、二月堂内陣で行われる行法を局(東西南北4か所)で2枚の格子越しに見学できます。男性はさらに外陣(内陣の外)まで入ることが許されており、格子越しではありますが、局からははっきり見えなかった内陣での行法の様子を間近に見、声明を聴くことができました。堂内の明かりはすべて灯明で、油煙対策用にマスクを着用しました。
 この日は読まれませんでしたが、5日と12日に読みあげられる「東大寺上院修中過去帳」は、大伽藍本願聖武皇帝から始まり、聖母皇太后宮、光明皇后、行基菩薩、本願孝謙天皇、不比等右大臣、諸兄左大臣と東大寺に縁の深い故人の名が読みあげられます。鎌倉期には、源頼朝らの後、謎の女性「青衣女人」の名が続きます(2/27の講座では、一部テープで聞きました)。

 東大寺修二会は「お水取り」の通称で親しまれていますが、「お水取り」の行事は、行中の3/12(13日午前2時前)に、境内の若狭井で行われます。

 写真は、午後8時半頃いったん堂から出て、二月堂の舞台から奈良の夜景を眺めたものです(左の黒い屋根が大仏殿)。

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 なお、本行中に本尊に供える二月堂椿は、白と赤の花弁に黄色い蕊(しべ)を持つ紙製の造花で、2/23別火坊でつくられ、2/27に椿の枝に挿して準備されます。この時使用される赤の紙はベニバナで、黄色の紙はクチナシで染色されたものだそうです(京都の染織家の吉岡幸雄氏が染色)。
Posted by katakago at 13:09
雪の日のタチバナ [2012年03月01日(Thu)]
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 タチバナの花と万葉歌は、昨年5/24のブログに掲載していますが、今回は今年三度目の雪が降った時(2/27)の写真を掲載します。先に掲載した万葉歌は、
【歌】橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木 (聖武天皇 E-1009)
【口語訳】橘は 実まで花まで その葉まで 枝に霜が置いてもいよいよ栄える木であるぞ
 左注には、葛城王・佐為王らが皇族の地位を辞退して、母方の姓橘氏を継ぐことが認証された時、太上天皇(元正)・聖武天皇・光明皇后がお揃いで皇后の宮においでになり、宴会をして、そこで橘を祝う歌をおつくりになった、とあります。

 葛城王らの母は県犬養宿禰三千代で(父は美努王)、後に離婚して藤原不比等の後妻となり(光明子はその間の子)、夫亡き後も後宮で影響力を発揮しました。
 『続日本紀』聖武天皇の天平八年(736)11月11日条には、葛城王らが皇族の地位を辞退し橘姓を継ぐことを願い出た上表文の内容が記されています。その中には次のようなことが書かれています。県犬養宿禰三千代は、和同元年(708)11月、元正天皇からその忠誠を賞され、橘を浮かべた杯を賜り、橘宿禰と称することになりました。その時の勅には、「橘は果物の中でも最高のもので、人々の好むものである。枝は霜雪にもめげず繁茂し、葉は寒暑にあっても凋まない。光沢は珠玉とも競うほどである。金や銀に交じり合っても、それに劣らず美しい。このような橘にちなんで汝の姓として橘宿禰を与えよう」とあります。

 これにより、葛城王は橘宿禰諸兄を名のり、その後大納言を経て、右大臣、左大臣となり、聖武天皇の恭仁京遷都にも関わりました。『万葉集』にも8首の歌を残しています。
Posted by katakago at 17:31
万葉植物園の現地講座 [2012年03月01日(Thu)]
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4月18日に猪名川万葉植物園の現地講座を開くことになりました。主催は、朝日カルチャーセンター芦屋教室で、写真はそのお知らせのチラシです。ホームページの下記のサイトに掲載されています。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=151684&userflg=0

 植物園は2006年に開園して以来、近隣の方々をはじめ、犬養万葉顕彰会・坂出市や福山市の万葉同好会からも来ていただいていますが、カルチャーセンター主催の現地講座はこれが初めてです。春の草花を見ながら万葉の世界を楽しんでいただければと思っています。
Posted by katakago at 16:00
富士山 [2012年03月01日(Thu)]
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 先週末、旅行会社の「富士山一人旅」のツアーに参加しました。万葉歌にも詠まれた富士山の雄姿をあらためて写真に撮るのが目的でしたが、あいにく2日間の旅行中は天候に恵まれませんでした(添乗員によればこのようなこともままあるとのことでしたが)。忍野八海でかろうじて山頂の雲がわずかに切れる瞬間に出会えました(写真はこの時のもの)。

 万葉歌での「ふじ」の表記は、不盡・布自・布士・布仕・布時・不自が用いられています。「ふじ」を詠んだ歌では、次の山部赤人の歌が有名です。
【歌】天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ 行かむ 富士の高嶺は (B-317)
【口語訳】天と地が 別れた時から 神々しくて 高く貴い 駿河の国の 富士の高嶺を 大空はるかに 振り仰いでみると 空を渡る太陽の 姿も隠れ 照る月の 光も見えない 白雲も 進みかね 時ならず 雪は降っている 語り伝え 言い継いでゆこう この富士の高嶺は

 今回の旅行では、赤人が詠んだような富士山の写真が撮れませんでしたので、20年ほど前に羽田から福岡へ向かう機上から撮影した写真を掲載しておきます。  
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 富士山は、山部赤人の歌や、高橋連虫麻呂歌集に出ているもの(B-319〜321)のように都の官人が詠んだ歌のほか、巻14(東歌)には、土地の人が詠んだ歌も載せられています(駿河の国の歌4首)。そのうちの一つは、
【歌】富士の嶺の いや遠長き 山路をも 妹がりとへば けによはず来ぬ (M-3356)
【口語訳】富士の峰の やたらに遠い 山路でも おまえに逢うためなら 造作なく来た
富士の山道が妻の許へ通う道であるという、この地域に住む男の歌です。
この歌の歌碑が、山中湖近くの太陽の広場公園にあります(写真は以前に訪れた時のもの)。 

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Posted by katakago at 09:36
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