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梅の開花も間近 [2012年02月20日(Mon)]

 裏山の植物園に植えてある梅の木で、紅梅が開花間近です。

 但し、万葉歌に詠まれた梅は白梅です。

 白梅の方は、次の写真のようにまだ蕾です。今月下旬ごろには開花するものと思われます。




            お知らせ

 CANPANサイトのリニューアル作業が、明日(2/21)から2/29まで実施されます。このため、この期間中はCANPANブログの更新を行えません。

なお、閲覧は2/29のPM5:00まで可能だそうです。

 3月からまた植物園の写真をアップしていきます。
Posted by katakago at 18:55
シラカシ [2012年02月18日(Sat)]

 雪の日のシラカシ(ぶな科)です。葉の裏が灰白色であるところからその名があります。万葉歌にはつぎの一首が詠まれています(原文は白柯杙と表記)。
【歌】 あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば (I-2315)
【口語訳】 (あしひきの) 山道もどこだかわからない 白橿の 枝もたわむほどに 雪が降っているので
 山中での雪の深さに驚いて詠まれています。
なお、左注には、柿本朝臣人麻呂歌集に出ている、とあります。

 今年は、各地で豪雪のニュースが伝えられていますが、こちらでは枝もたわむほどの雪はめったに見られません(数年前にありました)。
Posted by katakago at 14:50
雪が降りました [2012年02月18日(Sat)]

 裏山の植物園にもうっすらと雪がつもりました。

 雪の中のヤブコウジの写真と万葉歌は今年の1/4に紹介していますが、今日の写真も掲載しておきます(長い間赤い実を付けています)。



 次の写真はカクレミノ(うこぎ科)です。万葉歌には詠まれていませんが、左注(A-90)に、みつながしは(原文は御綱葉と表記)と記されている植物をカクレミノとする説があります(『萬葉集釈注』ほか)。

 巻二冒頭の、磐姫(いわのひめ)皇后が仁徳天皇を思って作られた歌4首に続く、或る本の歌とその左注を以下に記します。
【歌】 君が行き 日長くなりぬ やまたづの 迎へを行かむ 待つには待たじ (A-90)
【口語訳】 あなたの旅は 久しくなった (やまたづの) お迎えに行こう とても待ってはいられない
 この一群の歌の左注には、『日本書紀』仁徳天皇30年条を引いて、「皇后は紀伊国においでになって、熊野の岬に行き、その地のみ綱柏をとってお帰りなった。ところが天皇は、皇后がおいでにならない間に、八田皇女(やたのひめみこ)を妻として宮廷にお入れになった。そして、皇后は、難波の海にお着きになってから、天皇が八田皇女と結婚されたと聞いて非常にお悩みになった云々」とあり、み綱柏が出てきます。
 この「みつながしは」をカクレミノとみる『萬葉集釈注』には、カクレミノは、祭祀の具で、聖地「熊野」の「みつながしは」である点に意味があった。この柏を皇后みずからが採集に行ったのは、宮廷祭祀の統率が皇后に任されていたからである、と述べられています。
Posted by katakago at 12:43
「旅」−歴史と文学 [2012年02月16日(Thu)]

 茨木市生涯学習センターで開催された講演会に参加しました。毎年この時期に、梅花女子大学と茨木市生涯学習センターの共催で講演会が開催されており、市外の者も参加できるのでこれまでも何回か聴講していました。

 
 今日は、「旅」−歴史と文学のシリーズの2回目で、「追体験 円仁が見た9世紀の大唐帝国」と題して、三木雅博先生(梅花女子大学教授)が講演されました。円仁は15歳で比叡山に登り、数年後に最澄に師事します。承和5年(838)45歳の時に遣唐請益僧(しょうやくそう)として唐に渡りました(19回目の遣唐使で、20回目は派遣されなかったのでこれが最後)。

 万葉歌人では、山上憶良が大宝2年(702)に遣唐少録(8回目の遣唐使)として在唐経験があります。また、憶良の好去好来歌も含め遣唐使を送る歌がいくつか載せられています。その関係で遣唐使に関する話には興味がありました。

 この時の遣唐使は、二度にわたる失敗を経て三度目に渡航に成功しています。円仁は承和5年から承和14年(847)まで唐に滞在し(この時、円仁は45〜54歳)、旅の一部始終を日記に記録しています。それが『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』で、外国の旅の記録としては、『東方見聞録』よりずっと古く、日記形式で記録も詳細で正確な点が高く評価されています。そこには、1200年も前の日中の民間人の交流や、唐の正史には語られない当時の唐帝国の生の実態が記録されています。。E・O・ライシャワー博士による英訳本と、その研究書『円仁 唐代中国への旅』(日本語訳は講談社学術文庫)が出版されています。

 円仁の旅の概要を以下に記します。
遣唐使とともに唐に入国してから、当初の目的の天台山への巡礼を申請するも許可されませんでした。揚州(遣唐使船の基地が置かれていた)滞在中に、もう一つの仏教の聖地である五台山への旅が可能となり、その巡礼の旅に出かけることになりました。五台山巡礼を果たした後、長安に行き、ここで青龍寺(空海も学んだ)など諸寺院で密教の奥義を学びました。そして帰朝の準備をする頃に、武宋皇帝による「会昌(かいしょう)の廃仏」に遭遇し、外国の僧にも強制還俗の命が出されました。唐の仏教者の協力を得て帰国許可証を手にした円仁は長安を逃れ、新羅の商人たちの協力で山東半島から黄海を渡り、新羅の沿岸を経由して無事に帰国できました。

 講演では、旅の途中のいくつかのエピソードを、『入唐求法巡礼行記』を読みながら話していただきました。

 円仁が旅したルートを示したのが次の地図です。



 山上憶良が唐に渡ったのは42歳の時(702年)で、帰国後、養老元年(721)東宮侍講として首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)の教育係となり、神亀元年(726)筑前守(67歳)に任じられ、『万葉集』にも異色の歌を残しています。

 円仁も45歳で唐に渡り10年間学び、密教についての体系的な学問を手にしました。また膨大な経典類と詩文や史書など(外典)ももたらしました。帰国後、62歳で天台座主に任じられ、71歳で没しています。

 当時の航海は大変な危険を伴うもので、19回行われた遣唐使の中では、途中で難破した船がいくつもありました。まさに命をかけた学問への情熱にはあらためて感動を覚えます。
Posted by katakago at 19:31
スギ [2012年02月15日(Wed)]

 今年も花粉症に悩まされる季節の到来となりました。症状がひどくなる前に抗アレルギー薬の処方を受けています。

 裏山の植物園にもスギが生えており、写真は実生で生育しているものです。スギは、地質時代(古生代)に広く世界に繁茂していたのが、現在はわが国だけに残存している日本特産の植物です。

 万葉歌にも十二首詠まれています(原文は、杉・椙・須疑と表記)。樹相が円錐形で細長く、樹齢が長くうっそうと繁る巨木は、神が依りつく木として古代から尊崇されてきました。
【歌】 味酒を 三輪の祝が 斎ふ杉 手触れし罪か 君に逢ひ難き (丹波大女娘子 C-712)
【口語訳】 (味酒を) 三輪の神人(じにん)が 大事にしている神木の杉に 手を触れた罰でしょうか あなたにお逢いできないのは
 「味酒(うまさけ)」は枕詞で、味酒と神酒(みき)とは同義で、神酒を古くは「みわ」と言ったため同音の三輪にかかります。この三輪は、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)で、その神木は有名です。当時、神木に手を触れると祟りがあるとする言い伝えによって詠まれたとみられています。
 次の写真は、大神神社の杉の大木です(20年前に写したものです)。
       


 スギを詠み込んだ万葉歌で、三輪の神関係が上記を含め五首あり、石上の布留の神(奈良県天理市の石上神宮)関係が三首あります。
 石神関連を二首あげておきます。その一つは、
【歌】 石上 布留の神杉 神びにし 我やさらさら 恋にあひにける (I-1927)
【口語訳 】 石上(いそのかみ)の 布留(ふる)の神杉ではないが 年老いてしまった私が またさらに恋をしてしまったよ
 もう一首は、
【歌】 石上 布留の神杉 神さぶる 恋をも我は 更にするかも (J-2417)
【口語訳】 石上の 布留の神杉のように 年甲斐もない 恋さえわたしは またもやすることよ
 いずれの歌も、上二句「石上 布留の神杉」は、年を経て神々しいので、「神ブ」、「神サブ」を起こす序言葉として用いられています。
 次の写真は、昨春、講座「日本書紀」のグループで山の辺の道を訪ねた折に写した石上神宮の杉の木です。

Posted by katakago at 13:39
サギが飛来 [2012年02月11日(Sat)]

 畑の一角にビオトープ池を造り植物園の分園にしている場所に、サギ(アオサギか)が一羽飛来しているのを見つけました。餌を求めてやって来たのでしょうか。

 餌といえば、冬の時期次の写真のような光景を目にします。


 カエルが桜の枝に突き刺されています。モズは捕えた獲物を木の枝に突き刺したり、木の枝股に挟む習性があり、これを「モズの早贄(はやにえ)」と呼ぶそうです。後でやってきて食べるため、冬の食料確保のためとも考えられますが、多くはそのまま放置されていますので、何のために行われるのかよく分かっていないようです。

 畑では、ほとんどの草は枯れていますが、その中で早くもオオイヌノフグリ(ごまのはぐさ科)の花が咲いていました。植物園でも春の草花が咲き始めるのが待たれます。

Posted by katakago at 12:43
壱岐の古代史 [2012年02月10日(Fri)]

 二週にわたって、連続講座「古代史ぎっしり壱岐」と題する講演会に参加しました(主催は朝日カルチャーセンター中之島教室)。
 一回目(2/2)は、「魏志倭人伝に記された一支国 − 3世紀の壱岐を探る」(皇学館大学教授 荊木美行先生)で、二回目(2/9)は、「壱岐島の巨石墳と新羅外交」(国立歴史民族博物館教授 広瀬和雄先生)です。このあと更に二回予定されています。


 まず一回目は、3世紀頃の倭国の様子を記した中国側の文字資料(いわゆる「魏志倭人伝」)を読みながら、当時の壱岐(原文では、一大国または一支国)の実態を探ろうとするものです。なお、「魏志倭人伝」は、中国三国時代(220〜280)の正史『三国志』の一つ『魏志』の東夷伝倭人条の略称です。著者は晋の歴史学者の陳寿(233〜297)です。

 倭国に関する記述は全体で約2000文字の短いものですが、冒頭(以下読み下し文)、「倭人は帯方(たいほう)の東南の大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百餘国。漢の時朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所、三十国。」で始まり、狗邪韓国(くやかんこく)、対馬国に続き、一支国について57文字で次のように述べられています。すなわち、「また、南して一海を渡る千餘里、名づけて瀚海(かんかい)と日う。一大国に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里可り。竹木叢林多く、三千許りの家あり。差(やや)田地有り、田を耕すも猶食うに足らず、亦南北に市糴(してき)す。」とあります。弥生時代は低湿地で水田には不向きな場所も多く、食料を求めて南北に交易しなければならなかったようです。原(はる)の辻遺跡やカラカミ遺跡からは朝鮮半島との交易で得たとみられる中国貨幣や・鉄製品・朝鮮半島の土器が多数出土しているそうです(平成22年に壱岐市立一支国博物館がオープン)。原の辻遺跡は、深江田原(ふかえたばる)に広がる大規模環濠集落で、遺跡からは東アジア最古の船着き場跡が発見されています。


 二回目は、壱岐島に多数ある古墳とその横穴式石室の考古学的調査に基づき、6世紀後半から7世紀前半頃の壱岐島と新羅との関係について広瀬先生の説をお聴きしました。
 まず、壱岐島の古墳分布と特徴について、小さな壱岐島に約300基もの古墳が存在(長崎県下の6割強、対馬にはわずかに10数基)すること、その大多数は6世紀後半〜7世紀前半頃のもので(石室の腰石の大きさ、その上の石積みの段数により編年される)、うち6基の大型横穴式石室(前方後円墳2基、大型円墳4基)の集中分布は九州全域でも突出している(大型のものは九州全体でも20〜30程度)とのことです。広瀬先生は、「このような古墳の爆発的増加は、壱岐島の中の在地的要因だけでは理解できない」、という問題意識からその背景を考えてみようとの立場です。
 6基の大型の首長墓と残りの多数の群集墳(中間層の小型古墳)の比較では、大きさや副葬品で格差はあるものの(首長墓の副葬品には新羅土器や、緑秞陶器なども)、その横穴式石室の構造は共通の形式が採用されていることから、首長層と中間層はその社会的階層を超えて共通意識・イデオロギー的一体性を保持していた集団と考えられ、古墳の出現も終焉も同時期であることから、6世紀後半頃、福岡平野の首長層による多数の中間層を率いての壱岐島への移住が行われたとみられています。その背景には、中央政権がこれらの首長らに新羅に対する軍事と外交を軸にした国境政策をあたらせたとの見解です。そして、これらの大規模な古墳造営の様子は新羅からの使者にも見せつける意図もあったのではとみられています。
 なお、この当時の状況について『日本書紀』には、崇峻4年(591)「二万餘の軍を領て、筑紫に出で居る」とあり、推古10年(602)「来目皇子をもて新羅を撃つ将軍となす。軍衆二万五千人を授く」などの記事が載せられています。



 壱岐には、三年前に出かけたことがありますが、その時は、『万葉集』の遣新羅使人歌に関心があり、そのゆかりの場所を訪ねるのが目的でした。遣新羅使は、天武4年(675)から開始され、『万葉集』には、天平八年(736)に派遣された人々の旅中の歌が合計145首も載せられています(巻15)。このうち壱岐関係では、壱岐の島に着き、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が思いがけなくも悪疫に冒されて死去した時に作った歌一首と短歌二首が載せられています。なおこの頃、痘瘡(天然痘)が次第に蔓延し、天平9年(737)には多数の死者を出しており、これが雪宅満の死因ではないかと考えられています。
【歌】 石田野に 宿りする君 家人の いづらと我を 問はばいかに言はむ (N-3689)
【口語訳】 石田野(いわたの)に 旅寝する君よ ご家族に どうしたのですかと 尋ねられたら何と言おうか

 次の写真は、その折写した一首目の短歌の歌碑です。


 この時の大使は阿倍朝臣継麻呂、副使は大伴宿禰三中で、途中、海難、伝染病(天然痘か)などのさまざまな苦難に遭遇しています。大使は帰途対馬で病没し、副使も発病のため拝朝が二カ月も遅れています。その帰朝報告では、「新羅の国がこれまで通りの礼儀を無視し、わが使節の使命受け入れなかったこと」が奏上されています(『続日本紀』)。
Posted by katakago at 15:02
万葉文化館講座 [2012年02月05日(Sun)]
 奈良県立万葉文化館友の会の講演会があり出かけました。今回は「シリーズ万葉の歌人たち」の最終回(15回目)でした。「大伴家持の越中の歌」と題して、坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)が講演されました。定員70名で満席の盛況でした。理解不足もあるかと思いますが、講演の概要を以下に記しておきます。
 万葉歌所出の地名分布が調べられていますが(犬養孝『万葉の旅』)、近畿圏(奈良県、大阪府、兵庫県、滋賀県、京都府)以外では、富山県が突出しています。その理由として、『万葉集』の編纂に大きく関わったとされる大伴家持が、天平18年(746)に越中守に任ぜられ、5年間そこに暮らし多くの歌を詠んだからと考えられています。家持は、万葉歌4516首中、473首もの歌を残していますが、そのうち越中で詠んだ歌は223首にも及びます。
 当時(8世紀半ば)の地方の出来事に関する情報が極めて少ない中にあって、家持が越中国で詠んだ歌々によって、当時の越中の風土・方言・孤語・風俗などを知ることができる − というのが話の中心でした。都から離れて越中で初めて目にした風土・景物・風俗を歌に詠んで、帰京した折には都人に「みやげ」とする意図があったとみられています。
 たとえば植物では、かたかご(カタクリ)、つまま(タブノキ)、あしつき(ネンジュモ)などは、それぞれ家持が越中で詠んだ歌にのみ(しかも一首のみ)でてきます。地理情報では、大和と同じ名の二上山(ふたがみやま、越中では射水郡)、布勢の水海(射水郡旧江村)、立山(新川郡)などを詠んだ歌があります。また、当時越中で鵜飼いが行われていたことも歌から知ることができます。講演では、それぞれ万葉歌を取り上げて解説していただきました。 越中の国府のあった高岡市には、これまで何度か訪れていますが、あらためて機会を見つけて訪ねてみたいと思っています。毎年10月の初めには、「高岡万葉まつり」が開催されており、それに合わせて計画してみようかと考えています。

 講演は午後からでしたが、せっかく明日香に行くので午前中は村内を歩いてみようと思って早朝から出かけました。
 飛鳥資料館では、冬期企画展「飛鳥の考古学2011」が開催されており見学しました(今日は入館料が無料でした)。展示物のなかには、一昨年来話題になった牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の出土品もありました。

 村内には万葉歌碑が多数建立されていますが、今日も何箇所か見て回りました。ここに紹介するのは、橘寺西門近くにある、坂本信幸先生揮毫の歌碑です。柿本人麻呂の妻が亡くなった時に泣血哀慟(きゅうけつあいどう)して作った歌(長歌A-210)です。歌の後半には、 ・・・・ 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易(はがひ)の山に 我が恋ふる 妹はいますと ・・・・ と詠まれていますが、副碑には、「大鳥の羽易の山」の解説が図とともに載せられています。この碑の北東前方に、三輪山を頭部に、龍王山・巻向山を両翼のようにして、さながら大鳥が天翔るように見える山の姿をいったものと記されています(羽易は鳥の両翼の重なり合う部分)。



 次の写真はその山の様子です(左から龍王山、三輪山、巻向山)。



 万葉文化館の近くに飛鳥坐(あすかにいます)神社がありますが、今日は「おんだ祭」の神事が行われる日ということで賑わっていました。五穀豊穣と子孫繁栄を祈るため、田遊びと結婚生活をリアルに演じる、西日本三大奇祭として有名だそうですが、講演の時間帯と重なったため今回はその様子を見ることはできませんでした。



 
Posted by katakago at 19:56
猪名川クリーン作戦 [2012年02月04日(Sat)]

 猪名川は、大野山(兵庫県川辺郡猪名川町)に源を発し、兵庫県と大阪府を南流して神崎川に合流しています。

 猪名川流域で活動する各種団体が実行委員会を構成し、毎年この時期に猪名川の清掃活動が実施されており、今日は9回目になります。活動は流域24ヶ所で実施され、筆者は多田神社御社橋付近での清掃に参加しました。



 この場所は、地元のダイハツ工業(株)多田地区が中心となり、周辺自治会・多田漁業協同組合などが実施団体で、子供さんも含め多くの方が参加されました。川原に流れてきたビニールの破片やペットボトル、空き缶などを拾ってまわりました。

 この付近の川原にはネコヤナギが多くみられ、早くも芽吹き始めていました(植物園ではまだですが)。


 

 次の写真は、コンニャク橋付近の猪名川です(撮影は前日)。ここでは「NPO川西再発見」が実施団体として取り組まれました




 ところで猪名川は、万葉歌にも詠まれています(どの付近かは不明ですが)。巻16の次の歌です。
【歌】 かくのみに ありけるものを 猪名川の 奥を深めて 我が思へりける (O-3804)
【口語訳】 こんなにもやつれ果てていたものを。 ああ、私はそれとも知らず、猪名川の水底のように心の底深く若く美しいそなたのことを 思いつづけていたのだった(『萬葉集釈注』より)
 巻16は、「有由縁と雑歌」とあり、最初の30首ほどはこの歌を含め、歌が作られたいわれ、背景の記述を伴った歌物語形式の構成になっています。『伊勢物語』や『大和物語』など中古の歌物語の先駆をなすものとみられています。
 この歌でも、「昔、壮士(をとこ)あり」で始まる長い題詞が付いています。その概要は、「新婚早々の男が、駅使(はゆまつかい)として遠国に派遣され、再び会える日は何時とも知れない。こうして、妻は嘆き悲しんで病に臥す身となった。何年かの後、男は帰還がかない妻の許に帰ったところ、妻はげっそりやつれ果て見違えるばかりであった。その時男は悲しみ極まって涙を流し歌を作った」とあります。
 この歌で、「猪名川の」は、「奥(おき)を深む」の枕詞として用いられていますが、『萬葉集釈注』によれば、「この地名は夫が西方に遣わされたことをにおわすものか」とあります。 
 
 筆者の万葉植物園の命名も、この歌に因んで「猪名川万葉植物園」としています。

 
 なお、この歌の歌碑が伊丹市の桑津橋南方(猪名川左岸堤防上)にあります。写真は16年前の11月に写したものです。 
Posted by katakago at 13:35
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