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冬期の山仕事 [2011年12月28日(Wed)]

 裏山の植物園内では孟宗竹が何本も枯れていたので、その片づけを行いました。竹専用の鋸で一本づつ切り倒し枝を払う作業です。一度には終わらないので何日かかけて行う予定です。払った枝は垣根の補修に活用しています。



 園内の落葉樹はすっかり葉が落ちてしまいましたが、サネカズラが今も赤い実を付けています(万葉歌は11/27に紹介しています)。


 夏にハスの花を楽しませてくれた蓮池も、今朝は氷が張っていました。


 畑の一角では、カワラナデシコが霜にも負けず最後の花を咲かせていました(初夏に咲いた株の種がこぼれて発芽したものと思われます)。
Posted by katakago at 17:04
クリスマス会(自治会主催) [2011年12月23日(Fri)]

 今月の自治会主催「ふれあい喫茶」は、クリスマス会ということで、多くの子供さんが集まってきました(例年12/23に実施)。
 昨年は自治会役員として子供会の役員さんたちと相談しながら企画・実施しました(みんなでクリスマスソングを歌い、ビンゴゲームも楽しみました)が、今年も現役員を中心に準備されて、子供たちがゲームに興じていました。写真は○×ゲームを行っているところです。

 来月は、三世代交流「新春餅つき大会」が実施されます。自治会を中心に、長寿会・婦人会・子供会・生産組合・消防団の協力のもと、毎年100人以上の方々が参加する恒例の行事になっています。地元住民が相互に知りあう機会になればと思っています。
Posted by katakago at 14:18
ヒマワリの刈り取り [2011年12月21日(Wed)]

 霜で傷んだヒマワリの刈り取りを行いました。

 来春にはこの畑に果樹の苗木を植える予定で、その準備作業として耕運機をかけておきました。


Posted by katakago at 16:50
出版祝賀会(山内英正氏)) [2011年12月19日(Mon)]
 山内英正氏(甲陽学院高等学校教諭)の『万葉 こころの風景』(和泉書院)の出版を記念して、昨日(12/18)、講演会と祝賀会が開催され出席しました。
 山内氏は阪大文学部入学以来、犬養孝先生が亡くなられるまでの三十余年の間、お傍近くで先生のお仕事(文筆活動など)を支えられながら、ご自身の万葉講座での講義や万葉ウォークの講師など幅広く活動されてきました。先生が亡くなられてからも、先生の『万葉集』の普及啓蒙活動や万葉故地保存運動、万葉歌碑情報などを、先生のお傍近くにおられた山内氏ならではのエピソードもまじえ、『産経新聞』(奈良版)の「こころの万葉風景」に連載されてきました。この度これらの記事を単行本にまとめられました。

 今回の催しは、「犬養万葉顕彰会」(会は解散しましたが)を、山内氏と共に長年お世話されてきた岡本三千代さん(万葉うたがたり会主宰、音楽サロンTSUBAICHI代表)の呼びかけで、サロンTSUBAICHI(福島区)で開かれました。大勢の関係者が参集し、講演の後は参加者一人ひとりが御祝いの言葉を述べ、犬養先生との思い出話にも花が咲きました(サロンの壁には犬養先生のお顔が映されていました)。

 写真は、岡本さんからお祝いの目録をお渡ししているところです。。


 御祝いには、先生揮毫のミニ万葉歌碑(写真手前右下テーブルの上)が贈られました。犬養先生揮毫の万葉歌碑は現在141基だそうですが、山内氏は先に『犬養孝揮毫の万葉歌碑探訪』(和泉書院)という本を先生と共著で出版されており、ミニ万葉歌碑はそのような経緯もあって岡本さんが記念の品にと考えられたようです。贈呈に際し参加者有志により歌碑の序幕も行われました。



 この日集まったのは学生時代に犬養先生の講義を聴いた者や、お元気だった頃の講演会などで先生の話に魅せられた方々(犬養万葉のファン)で、高齢者が目立ちました。
 山内氏は高校で教鞭をとられているので(専門は日本近現代史だそうですが)、若い生徒さんの間にも『万葉集』に関心を持つ層が広がって行くような活動も是非行っていただければと思いました。

Posted by katakago at 20:30
現地見学会(磐余池推定地) [2011年12月17日(Sat)]

 昨日(12/16)、朝日新聞朝刊の一面に掲載された記事です。

 古代の人工池「磐余(いわれ)の池」の推定地(橿原市東池尻町)で、池の堤跡と建物跡も出土したとのことで、今日、橿原市教育委員会により現地見学会が開催されました。磐余の池は、『万葉集』の歌にも詠まれており、現地を見に出かけました。

 次の写真は、建物跡の発掘現場の様子です。この建物については、新聞記事では宮殿関係の施設と推定する考えや、池の管理用の建物と考える説が紹介されています。



 次は、人工的に築かれた堤跡の発掘現場です。配布資料によれば、砂質土や粘土をほぼ水平方向に厚さ0.1〜0.3mの単位で深さ3.2m以上にわたり積み重ねられています。写真右側の工事用フェンスの右方向に池が広がっていたようです。


 『万葉集』には、大津皇子が処刑される時に、磐余の池の堤で涙を流して作られた歌一首として、次の歌が載せられています。
【歌】 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (B-416)
【口語訳】 (百伝ふ) 磐余の池に 鳴いている鴨を 今日だけ見て 死んでゆくのか

 この間の事情について、『日本書紀』には次のような記事が載せられています。天武天皇崩御間もなく大津皇子の謀反が発覚し、逮捕され死を賜ったとあります。更に続けて、皇子は当時24歳で、妃の山辺皇女は髪を振り乱し、素足のまま駆けつけて殉死し、見る者はみなすすり泣いたと記されています。

 この歌の歌碑が近くの御厨司(みずし)観音手前の道路際に建てられています。次の写真は、この歌碑から発掘現場(上方中央部右寄り)を臨んだものです(新聞写真とは反対側から見たものです)。この辺り一帯が池であったと推定されています。

 ところで、この歌碑の碑面が汚されていたのが残念です。拓本を採るのに碑面に直接墨を塗りつけそのままにしてしまったようです(マナーが悪いし、方法も間違っている)。


 なお、大津皇子の人となりについては『日本書紀』には、「立ち居振舞は高く際立っており、言辞は優れて明晰である。成人してからは、分別があって学才に秀で、ことに文筆を好み、詩賦の興隆は、この大津に始まった」と記されています。
 漢詩集の『懐風藻』に、大津皇子の辞世の詩が載せられています。
  【読み下し文】
    金烏(きんう)  西舎(せいしゃ)に臨み
    鼓声(こせい)  短命を催(うなが)す
    泉路(せんろ)  寶主なし
    この夕  誰が家にか向ふ
  【口語訳】
    太陽は西に傾き
    夕べの鐘に短い命が身にしみる
    泉途(よみじ)を行くは一人の旅
    夕暮れはどこへ宿ろうとするのか
 この詩碑が吉備池そばの春日神社の境内に建てられています。



 『万葉集』には、大津皇子の屍を葛城の二上山に移葬した時に、姉の大伯皇女が悲しんで作られた歌が載せられています。
【歌】 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む (A-165)
【口語訳】 この世の 人であるわたしは 明日からは 二上山を 弟として眺めるのか 

 この歌の歌碑が、吉備池の堤に二上山を背にして建てられています。
 
Posted by katakago at 18:15
ユリの球根 [2011年12月14日(Wed)]

 種苗会社の通信販売で申し込んでいたユリの球根が届きました。写真の上段左から、クルマユリ、阿蘇ヒメユリ、オトメユリ、匂いササユリ、ヤマユリで、下段左から、赤カノコユリ、白カノコユリ、サクユリ、八重咲きオニユリ、ササユリです。  
 今日はカルチャーもなく天気もよかったので、早速球根の植え付けを行いました。5月中旬に咲くオトメユリから始まって、8月にかけて順次ユリの花を楽しめます。
 
Posted by katakago at 16:59
霜が降りたヒマワリ畑(12/10) [2011年12月11日(Sun)]

 昨日(12/10)は、このシーズン一番の寒さとなり、師走に入ってからも咲いていたヒマワリ畑にも写真のように霜が降りました。まだ蕾のものもあり持ち直してくれればと思っています。ヒマワリは6年前から毎年畑のいずれかの場所に育てて来ましたが、蒔く時期を遅らせれば晩秋にも咲くことが分かって以来二度栽培しています。これは9月に播種したものです。


 昨日は、母の七回忌法要を自宅にて営みました。

 母は父が亡くなって以来(1996年)、独りで頑張っていましたが、高齢となっての独り暮らしは心配で、定年前(2002年)に関東から実家に引き上げて来ました。こちらに帰ってから残された畑地の管理(農作業)も行うようになり、ヒマワリは景観保全用にと畑の一角に初めて植えてみたものですが、その年(2005年)の12月30日に83歳で亡くなりました。独りで暮らしていた時期は、ご近所の親戚や自治会、生産組合の方々にいろいろお世話になったようです。あらためて感謝申し上げます。

 昨年度は地元の自治会長になり、また民生委員の推薦のプロセスなどを通じて、独り暮らしの高齢者に対するケアーの重要性を認識させられました。民生委員は当初なかなか成り手がなく何人もの方と話をさせていただく中で、地元では2名の方に引き受けていただけました。有り難いことです。
Posted by katakago at 15:20
師走の植物園内の様子 [2011年12月09日(Fri)]

 数年前に苗木を植えたイロハモミジが美しく紅葉しています。万葉歌の原文では、中国の用字にならって「黄葉」が用いられていますが(11/25)。

 次の写真は、春先に束状に薄い黄色の花を咲かせるミツマタ(じんちょうげ科)の蕾です(花が咲くころには、葉は落ちています)。


 ヤブランの花の写真と歌(万葉歌では、やますげ)は8/31に掲載しましたが、次の写真は、ヤブランの実です。


 万葉歌の「やますげ」については、ヤブランの他にジャノヒゲを当てる説もあり、次の写真はそのジャノヒゲの実です。


 ノイバラの花の写真と歌(万葉歌では、うまら)は5/21に掲載していますが、今、写真のような赤い実を付けています。



Posted by katakago at 12:43
ビワの花 [2011年12月07日(Wed)]

 果樹園では、この時期ビワの花が咲いています。

 カキは数種類植えていますが、今は「富有」と「次郎」に、あと「禅寺丸」が僅かに実を付けています(順次収穫中)。写真の左手前は「富有」です。右後方には柑橘類を植えています。


 次の写真は授粉樹として植えている「禅寺丸」です。不完全甘柿ですが、完熟したものは甘みが強くおいしく食べられます。


 柑橘類では、早生の温州ミカンは既に収穫を終え(近所に配れるほど成りました)、今はデコポン・甘夏・キンカン等が色づいてきました。
 次の写真は、デコポン(不知火)と


 キンカンです。


 いずれも苗木を植えて間もなく4年になりますが、ここまで育ってきました。
Posted by katakago at 14:31
イモ類の収穫 [2011年12月04日(Sun)]

 写真はヤーコンの花です。地下部のイモには、ビフィズス菌の増殖活性に優れ腸内環境改善に効果のあることが知られているフラクトオリゴ糖が含まれています。この品種(サラダおとめ)は、サラダとして生食もできます。一部掘ってみたところ、写真のような小ぶりのイモが出来ていました。


 他のイモ類も掘り上げましたが、ジャガイモ(アイノアカ)は、夏に比べ収穫はいまいちでした。

 サトイモは、ご近所の農家で栽培されているのに比べると地上部の生育は見劣りしていましたが、少人数の世帯には充分な量が確保できそうです(まだ半分ほど掘り残しがあります)。
Posted by katakago at 14:06
考古学からみた斉明天皇陵 [2011年12月02日(Fri)]

 昨日(12/1)、白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)による「考古学からみた斉明天皇陵」と題する講演会が、朝日カルチャーセンター芦屋教室であり聴講しました。

 昨年、明日香村教育員会による牽牛子塚古墳(明日香村大字越)の調査により、舌状にのびた丘陵上に版築で築かれた対辺約22mの八角墳であることが判明し、更にその約20m南東で新たに棺を納める石室が見つかり(越塚御門古墳と命名)、新聞紙上をを賑わせました。明日香村教育委員会配布資料より、牽牛子塚(けんごしづか)古墳の写真を掲載しておきます。なお、埋葬施設については、以前の調査で、築造当初から二棺埋葬を計画して造られた合葬墓と見られていました。
次の写真は明日香村教育委員会の資料(明日香村の文化財N,2010年9月)より


 舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、天武・持統天皇陵(野口王墓古墳)や文武天皇陵(中尾山古墳)など、当時の王墓は八角墳で、牽牛子塚古墳はこれまでも斉明天皇陵かと推定されていました(宮内庁指定は高取町車木の陵)。

 『日本書紀』天智六年(667)二月条に、「6年2月に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)とを小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬した」とあり、続けて「この日に皇孫大田皇女(みまごおおたのひめみこ)を、陵の前の墓に葬る」とあります(参考までに関連系図を掲載)。



 一連の調査結果により、牽牛子塚古墳が、上記『日本書紀』に記された斉明天皇とその娘間人皇女を葬った合葬墓であり、今回新たに見つかった越塚御門古墳が斉明天皇の孫大田皇女を葬った墓と考えられ、新聞でもそのように報道されていました。

 今回、白石先生は、牽牛子塚古墳の横口式石槨の構造が、上記『日本書紀』記載年代(667)に相当するものか、考古学の立場から検証を加えられました。
 白石先生は、横口式石槨の変遷としてI類からIII類まで分類され、牽牛子塚古墳の石槨は、中尾山古墳(707年に亡くなった文武天皇の陵)等と共に第III類に相当し(7世紀末から8世紀初め)、『日本書紀』の年代(667)にはあわないとされ、牽牛子塚古墳の築造年代は7世紀終わりと考えられました。そこで、この当時の『続日本紀』で、関連する記事を調べられました。文武三年(699)十月条に、越智山陵(おちのみささぎ、斉明天皇陵、大和国高市郡)と山科山陵(やましなのみささぎ、天智天皇陵、山城国宇治郡)とを造営するため、天下の有罪の人々を赦免した記事があり、その後の記事に、役人をそれぞれの山陵に派遣して修造させたとあります。この記事の時に造られたのが、牽牛子塚古墳であると考えるのが、考古学的に見ても年代があうとの見解でした。
 それでは、『日本書紀』に記された(667年)陵はいずれかと言うことになりますが、白石先生のお考えでは、近く(明日香村大字越)にある岩屋山古墳(方形の段の上に八角の墳丘がある)がその可能性があるとの事でした。文武三年の修造の際に、こちらから牽牛子塚古墳に移葬されたとの見方です。

 考古学の分野でも考え方が異なる専門家がおられるようなので、これらの方々を迎えてシンポジウムを企画していただければ有り難いです。


Posted by katakago at 10:15
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